No.44 梅雨が過ぎて 2017815

 

長雨

今年の梅雨は空梅雨だった。

雨が降らないので、ホウレンソウ、ピーマン、ナスなど見事に目が出る前に畑か消えた。

ホウレンソウはたしかに目を吹いた跡がある。

しかし期待は無常に散った。

冬に雨が降らないと、雑草など強いsyk物が大手を振るう。

彼らは根を深く張り少々雨が降らなくても元気である。

一方野菜類は根は細く貯える水も少ない。

遅く雨が降らないと見る見るうちに枯れていく。

雑草の中でその衰退は醜い。

跡形もないのだ。

それでもオクラ、ミニトマト、キュウリ、インゲン、トウモロコシ、ナスなど根を張る野菜は強い。

雑草を対峙する必要はあるが彼らも同とに頑張るので救われる。

ただ、すかさずkれらを狙う猿が来る。

最初狙われるのはトウモロコシ。次にキュウリ。

流石にオクラは齧っておいしくないようだ。

キュウリは小菅村全体に豊作なので捨てるほどある。

猿が集団で来なければ腹は立たない。

ミニトマトはまだ早そうだ。

トウモロコシは若いうちに齧るので次か次へと齧っていく。

全滅かと思ったが、網を張って少しは守れた。

長雨だと野菜も上が少なく猿も焦って各地の野菜を漁る。

どうやら最近は我が家のようだ。

齧りかけのキュウリが増える。

齧られると病気が移るかと心配で食べれない。

これは共生とは言えない。

ナスは猿の好物だが、まだまだ小さい。

ミニトマトに隠れているのでまだ被害はない。

それでも油断大敵、いつ網をかけるかが問題だ。

網は透明に近く人間がひっかけ易い。

出来ればかけたくないのだが、悩みが多い。

 

いずれにしても空梅雨の後に長雨だ。

丁度えごまの植え替えがそろそろ終わりに近づいた。

ラッキーと言えばラッキーだ。

上かの後はえごまの根が張り易く、元気になる。

空梅雨の時に受け変えたものは一本一本、水をやりながらの植え替えだが、枯れることも多い。

その苦労は長雨で解消している。

雑草の繁茂も激しいがえごまの植え替え時に雑草は抜くので畑らしくなる。

ジャガイモ掘りは空梅雨で助かった。

その後のえごま上かが長い雨に恵まれている。

今年の畑仕事はラッキーというべきか。

それにネギの植え替えもタイミングが良い。

ネギも晴れ続きでは枯れやすいが流石にこの長雨で助かった。

 

熱暑

長雨の間にも時々晴れると熱暑だ。

湿気が多いので厚さは見に答える。

とにかく1時間でも作業するならば身体中が汗びっしょりだ。

汗が滝のように流れるとはよく言ったものだ。

ぽとぽとと歩hを汗が伝わる。

洗濯嫌いの私でも流石に外に出るたびに着替えねばならない。

昔子供頃力が出なくなると水は控えさせられた。

1日中水を飲まなくても平気だった。

それが小菅村に来て熱中症になり死ぬ思いをした。

なるべく水を飲むようにするようになった。

それでも他人に比べれば水の量は少ない。

それに加えて子供のころからの便秘症が酷くなった。

最近は薬コーラックで便秘解消だ。

これも水を飲む量が少ないからだと人は言う。

最近はそのためにも無理やりに水を飲む。

本来便秘症にはビールが良いというものだ。

ところがビールは高くつくし、脂肪環を発生しやすいという。

ビールは持病である尿管結石に良いと来ている。

利尿剤の変わりである。

でも最近は死亡か、、脳梗塞を気にするようになった。

汗びっしょりを経験すると色々と持病を思いながら、昔にない希望感が湧く。

歳のせいだろうか、体のことは気になるこの頃である。

そして熱暑はようやく終わりになるようだ。

 

台風

9月に入り残暑を感じる前に秋の気配が感じる。

台風シーズンと言いながらもまだその気配はない。

既に沢山の台風が発生したのだが、まだ本格的に小菅にやってきていない。

台風が来ると大きくなったえごまがなぎ倒されるのではないかと心配だ。

えごまは何故か折れやすい。

米農家では稲穂の花が咲く前の台風には怯えたものだ。

稲穂が実った後でも台風は稲を倒し挙句の果てに稲の実が芽を葺きだす。

一面に植えたえごまの風景は子供の時の田んぼを思い出す。

稲ほどの実りはないが、一面のえごま畑は田んぼの風景そのものだ。

もうすぐ花が咲き、ミツバチが舞う頃となる。

そんな時期に台風がやってくる。

自然の摂理とは言え、被害を耐えねばならない。

被害が無ければ儲けというものだ。

台風の被害は有害動物鳥類よりは被害は大きい。

それでも台風だとその被害を諦める。

不思議なものだ。

台風は大雨を齎す。

雨は畑に必須であり、恵みの雨だ。

台風が来ないと雨が降らないのも困る。

風がなく雨だけだと助かる。

大雨で無くても助かる。

人は勝手なものだ。

自然との共生が基本だが、自然の振舞に右往左往する。

日本列島の四季は日本人の心を育てる。

強さも弱さも、粗さも繊細さも日本人固有のものだ。

四季の中で秋台風、冬雪、春花、夏雨と述べたら笑われるだろうか。

実りの秋、枯草の冬、芽を吹く春、緑燃える夏と言えば笑われるだろうか。

 

小菅村の春夏秋冬

小菅村に来て15年になるようだ。

途中の5年間は青梅に移る住んだが小菅の畑仕事は続けた。

あの小さなスクーターで通ったのだから生きているのが不思議だった。

後の5年間も原発事故、放射能測定のために南相馬に籍を置いた。

それでも小菅村は避難地だとしてほとんどが小菅暮らしである。

最近の私は昔を思い返すタイミングが多い。

懺悔録を書き始めたが、相当に混乱した人生が繰り返された。

相当に迷惑をかけた人々の顔が多い。

それらに比して、私が褒められることはほとんどない。

自分で自分を褒めるしかない。

 

小菅の春夏秋冬は人生の春夏秋冬と比較すると良いように思える。

余りに世間一般と、昔経験した播州のそれとは違うのからだ。

私が最初に経験したのは小菅の冬だ。

私の人生での冬の時代が始まったころだ。

夢の中で母親が良く誘いに来たものだ。

その冬は始まって15年になる。

冬は長くまだまだ春は見えない。

そのはずである、人生の冬を経験中だからである。

私の幼少期は自由奔放な春だった。

何もかもが萌えるような草木の芽で覆われていた。

自然の中で戯れる私は自由奔放な人生だ。

河も山も、田んぼさえ私の遊び場だった。

やがて、東京に出て暑い夏を迎えた。

煮えたぎるような人生が待っていた。

その多くは権力との闘いであったが、燃え尽きたようだ。

国会包囲で、羽田包囲で、大学包囲で怖いもの知らずだった。

起業家として100万人構想を打ち出した。

丁度国会包囲の10万人だった。

その夢が終わり、侘しい秋を迎えたにも拘わらず生活のための苦難が始まっていた。

100万人の1万分の1の規模の会社の維持に懸命だった。

枯れる木々を必死に活かそうとした。

UBA、MSCO、ITAなど業界団体をいくつも参加したのだが企業は益々苦境に追いやった。

そして万端尽きて小菅村に逃げ込んだ。

小菅村は起死回生の偲ぶ人生にも見えた。

新たな芽が見えるようでその芽を期待するようで、それでも確実に人生の終焉のようで。

 

以上   No.43    No.45