No.24 小菅村の秋  2016109

 

耕作限界

日本列島での春夏秋冬は古今東西日本人の自慢話である。小菅村では春、秋が短く夏が長い。この夏の間に植物のほとんどが賑わいそして冬を迎えて去っていく。この短い期間での雑草の生命力は大したものだ。

私が植える大根とかホウレンソウとかは育つには時間がかかるが雑草ときたら、後から芽を葺きだし一挙に追い抜く。したがって丁寧にこの雑草どもを退治しないとせっかく植えた苗が育たない。育たないよりは自然淘汰よろしく消されてしまう。それに雑草の凄さは種にある。どんなに背丈が小さくとも一挙に花を咲かせる。油断するとその種が畑中に撒き散らされる。耕しても耕しても雑草が茂るのはこのためだ。

この雑草との競争は百姓の宿命だが、百姓は丁寧にこの雑草を退治することが日課となる。自然と一人の人間が雑草を退治するには限界がある。それが耕作限界だ。私が荒れ地を耕し野菜を育てる限界がそれで決まる。この広さは二反(600坪、2000㎡)程度のような気がする。どうもそれ以上だと体力が伴わない。現在のように腰痛を経験するとその耕作面積は一挙に縮小する。あらかじめ除草剤をまく手もあるがご法度である。

昔、田舎では専業農家10反とし、兼業農家二反が相場だった。これが関東、東北、北海道と進むにつれてその規模は大きいくなった。土地、気候のための収穫量に応じた広さの限界である。南の方では二毛作が可能だが北農ではそうもいかない。耕作面積は一挙に広げざるを得ない。

当然、収穫量のバランスを得るためには北の方では機械化農業が余儀なくされる。南の方では集約農業が続けられる。日本列島は南北に長い。南と北では百姓は様変わりである。その考え方も異なる。文化は南の方から北の方へと進んだ。琉球文化、京都文化、江戸文化、そして今後は北海道が中心になる筈である。

その昔縄文時代には日本海が湖だったころ、北海道、青森・秋田そして満州は湖畔だったという。相互広域が賑やかでともに栄えた。東北王朝が栄えたのもその頃だ。農耕文化が栄える以前、狩猟文化の時代には森林が全てである。東北王朝はこの森林委助けられたようだ。森林には万物を育てる容量がある。いわゆる自給自足の元である。小菅村での自給自足が保証されるのもこの森林があるがためである。

ところが最近は森林が荒れ果て小菅村も到底自給自足の生活は成り立たなくなっている。それでも人口が減り麻やコンニャクなど商品耕作が無くなり自然が回復するようになり小菅村にも自然が回復する兆しがある。観光地化、道路整備など儚い抵抗はあるものの小菅の大地は着実に回復しつつある。

 

荏胡麻の収穫

今は畑中が荏胡麻だらけである。花が咲いたと思ったら実がなる。実がなると重くなって荏胡麻の枝は支えきれなくてどんどん倒れていく。何とかこの現象を食い止めたいと知恵を絞るのだが今のところ知恵はない。

稲作の場合にも同じことが起きる。台風のシーズンは大変である。倒れた稲を起こす作業もあるがその作業は厳しい。でもそれを怠るとやがて実が土を得て芽を葺く。秋の台風シーズンは農家にとっては最大の悩みである。そのために早作を行ったり、茎を強くする品種改良が行われたり。それはほぼ成功したようだ。

勿論、荏胡麻にも品種改良は必要であるかもしれない。今でも枝や根っこのの強さは半端ではないが、それ以上に実が重そうだ。早作も1つの方法として実践しているが効果はない。村の長老は土地が肥沃過ぎたため倒れて駄目だと話していたが肥沃で無いと実がならない。植えるときには苗の間隔が狭過ぎるとの批判もあったがまだ改良の余地はあるようだ。

短い秋の間に荏胡麻の収穫は大変な作業である。とにかく木のように固くなった枝から荏胡麻の実を剝がす作業は大変である。稲のようにはいかない。実が弾きやすいのである。村の人は色々教授はしてくれるのだが、それぞれに一長一短がある。小菅での機械化作業が難しい。確かにある地域では機械化がされているようだが、山間部での農業の限界でもある。

いずれにしても短期間での収穫が待っている。しかも実の弾き具合を考えるとそのタイミングは微妙である。しかも短期間である。荏胡麻の収穫の後には次なるジャガイモの作付けまでには時間がるもののそれは雪積る冬眠の時期だ。冬野菜の作付けのタイミングも微妙である。下手をすれば雪に埋もれて何も育たない。

荏胡麻の取入れが後1ヶ月早ければ、ということは実が弾く時期が早まればと思うのだが、稲のように早稲の栽培も期待したいところだ。いずれにしても自然での百姓栽培には人間の都合とは一致しないことが多い。本来は自然に人間が合わせることが大事なのだが、そこまでには精神修養が出来ていない。どうしても焦りが生まれる。

 

小菅の秋

小菅の秋は短い。すぐ雪が降りそうだ。最近は特に秋の時期が短いような気もする。小菅の秋のモミジは絶景である。そのための観光客も多い。ところがそれが短い瞬間である。あっという間にモミジを背負って山が冬支度に入る。今はまだ山のモミジは見えない。モミジは霜とともに来るのだがそのタイミングは畑の野菜達にとっても大変である。

葉っぱが枯れるのでそれ以上の成長は期待できない。今年は大根を広く植えた。大根が大きくなるには霜前までの成長が必要だ。失敗すればそのまま春まで待って花を咲かせて根を太らせない。そんなことで大根の種が沢山とれた。それを全部畑に植えたので畑は賑やかだ。今年も作付けが遅かったので同じことが起きるかどうかは気候次第だ。今年はどうなるだろおうかと心配やら期待やら。

同じくネギもいっぱいの花が咲き実がなった。その種を植え付けその種が芽を吹き始めたが、ネギは寒さには強い。荏胡麻に代わって畑を賑わうのだが食べるには量が多過ぎる。村人が道の駅に出せばと言ってくれるのだが、勇気がいる話だ。去年、一昨年と長野の友人に頼んで玉ねぎの苗を買って植えうまくいった。その以前には種を買って栽培していたのであるがうまくいったことはなかった。今年が花が咲き実がなったので苗を買わずに種での作付けを試みたがうまくいくだろうか。これも期待と不安が半々である。

私の畑ではニンジンの種がうまく育つことを知っている。ただそ作付けのタイミングを間違うと根が育たない。昨年はそのためニンジンも花が咲き根っこが太らず、実がなったのを植えてみた。これも期待と不安が半々だ。後、ホウレンソウ、レタスと種を買ってきて植えた。ホウレンソウは地元の種が良いと言われるのだが、うまく種が採れていない。ホウレンソウも私の畑では成功菜っ葉である。

私にとっては収穫の秋だが色々失敗と成功がある。その分析も必要だが、まだまだ、どのような野菜が育つのか試行錯誤が必要だ。というよりも分析を試みたところでそれを修正するほどの余裕はない。あらゆる野菜の作付けを試みながら、何が適しているかを知ることの方がより興味深いしやりがいもある。村人には趣味で百姓をやっていると常日頃伝えている。逃げの口述でもあるが伝統ある小菅の村人達をさておいて私が百姓専従などと言えるはずもない。

小菅の秋はせわしない。短い期間だが、色々と畑の野菜が入れ替わる。

この短い秋をうまく乗り切れることが小菅の百姓の真骨頂であるかもしれないとぼんやりと考えるようになった。

 

縄文人

何度か小菅村の縄文人について書いた。小永田集落の山奥には縄文人の集落があり縄文土器が発見されたと聞く。その先祖が小永田集落に下りきたまでは言えないが縄文人の由来は1万年~数万年前の単位である。

ところでここでは東北王朝の話を書いているが、10月10日夜中のNHKテレビの解説で福島における縄文遺跡の分析の話があった。その趣旨は遺伝子解析でミトコンドリアDNAから核DNAへの解析が進み前者が2万文字程度の解析が後者では3億文字もの解析が可能となり、そのため日本人のルーツが現在のルーツとは異なるというのだ。いわゆる日本列島には渡来人と言われる弥生人とは異なる人種がすでに住んでいたというものだ。

このことは弥生人いわゆる渡来人が縄文人を追い出し日本列島を占拠した話と伝えられているものと一致する。DNAで言えば12%程度の縄文人のDNAが現在の日本人に伝わっているというものだ。縄文人はどちらかというと山岳民族だ。山林が豊かな衣食住をもたらし縄文人は結構豊かな文化的な生活を営んだと言われる。小菅村が多摩川の源流に位置し山林の豊かさを兼ね備えていることは今でも明らかだ。小菅村に聖徳太子の影響があるのは長作観音像の裏山に如来観音像があることは小菅村に渡来人が進出してきたことを物語る。これは友人故三浦幸雄が言い残したことだ。

今また多摩川源流での自給自足、文化の源に根拠を得ることは山の幸に恵まれた小菅ならではのロマンを描くことになる。

 

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