No.19 自然と環境  2016824

 

環境と生命体

私(1生命体)の周囲は環境という。

勿論、生命体の個と言えども生命という抽象的な表現では環境を定義することは難しい。

生命体内部という言葉は良くないが、内部環境も見逃せない。

生命体の外部内部として環境が定義される。

外部環境は皮膚で覆われた外側であり、外部環境とは内側である。

外部環境とは自然そのものであり、個体は皮膚を通してそれを感じる。

内部環境とは皮膚内の臓器を含む身体環境である。

皮膚という境界は物理的に明白だが、五感~六感にみられる境界の設定は難しい。

少なくとも感覚的にはその境界は曖昧でファジーである。

特に6番目の感覚については未だに明白ではない。

ただ、日常的に感じる感覚は極ごく明々白々である。

しかしながら、時として予期せぬ予感なるものを感じることがある。

それは6番目の感覚と言われるが実際にはその真実は分からない。

そして外部環境と内部環境にはその境界を見つけることが難しい。

勿論、既存の五感と言えどもその境界を明確に識別しているかどうかは確かめる手法を持たない。

内部環境についても、取り出された身体の部位が独立して作動することがあると言われる。

心臓移植した他人の心臓が移植された人に新たな生命を与えるといった問題である。

外部環境としてある心臓が内部環境として動き出す。

こうした事例は多くあるように思える。

 

生命体を内部外部に識別方法は大問題である。

これは人(生命)のDNAに関する継承の問題でもある。

ところで、小菅村のような比較的閉鎖された環境では人間では血族として、動植物でもDNAの継承が綿々とある。

このDNAの引き継ぎ方は地球の生命が引き継がれた問題と同じである。

時として小菅村とは真反対の都会ではこうした生命の継承問題が疎かなにされる。

これは小菅村が共同体とか社会形式として存在するものではなくて小菅村が閉鎖領域にあるからである。

同じく、地球も閉鎖領域である。

生命体も閉鎖領域である。

閉鎖領域ではこの生命の継承問題が問われる。

それは生命体が皮膚によって仕切られた内部外部の問題と同じである。

環境とはこの種の生命体の問題である。

いわゆる生命体の継承問題が環境問題でもあるのだ。

環境とは生命体を抜きにしては論じることができない。

小菅村にはそうした課題が存在する。

 

外部環境

従来、環境を論ずる場合には生命体の周囲にある自然そのものを取り上げてきた。

従って、人間の外部環境は物質の3要素土、火、水が基本である。

この物質の3要素は切り刻まれて、素粒子まで遡る。

逆に物質の3要素を積み上げていけば宇宙創成まで遡る。

ただ、物質の3要素は六感の範囲である。

この六感をどのように分析するか抽象化するかでその方向が見えてくる。

一方で物質を分解することで元素を取り出し素粒子を取り出しその過程で道具を作ったりエネルギーを作ったりすることができる。

ここでいう外部環境は人類が歩んできたそのものだ。

一方で物質の3要素を抽象することで創造(発見)を蓄積することができる。

分析結果としての道具やエネルギーを利用することではあるが、人間の創造は宇宙の隅々を絵にかくことができる。

それは創造の蓄積ではあるが、確実に六感に受け入れるだけの根拠を得る。

今や宇宙は想像(夢)の産物ではなく六感を震わす事象である。

人はこの六感によって生かされている。

ところが人はこの六感を喪失しつつあるのが現状である。

研ぎ澄まされた耳などのかっての六感は夢であるにしても人はその機能を失いつつある。

この現象は不幸である。

 

ようやく身障者も普通の人と変わらないことが認識されつつあるが、むしろ普通の人こそ身障者である。

身障者こそ六感の一つを極端に発達させた人が多い。

美術、音楽に限らずその種の人は多い。

それは勝手本来の人間が育ててきたものだ。

でなければ自然淘汰の中では生き延びれなかった。

今人は自然淘汰の中で生き延びれないのではないか。

代わりにエネルギーや道具を発展させてきたと言われるが、その恩恵は特定の人の利益に制限される。

しかもそれは人の六感を均等に発達させるものではない。

その発達こそ身障者を生み出す根拠でもある。

パソコンをいじって耳や目が悪くなり、ライン作業の中では身体がロボット化す。

それを補うものとしてのスポーツや文芸も一部の人間の専売特許である。

要するに六感を均等に発達させるには自然との交わりでしかない。

その交わりが保持されているのは閉鎖とは言え極一部である。

勿論、自然が本来の自然(万物が平等に生かされている)である。

外部環境としての本来の自然の姿として維持することである。

 

内部環境

境界のファジーさを別にすれば、人間の内部環境のほとんどは五臓(肝臓、心臓、脾臓、腎臓)六腑(胃、大腸、小腸、胆嚢、膀胱、三焦)である。

三焦(上焦、、中焦、下焦)として、その他をひっくるめての総称であるらしい。

ここでは皮膚に含まれた脳を含めた身体の一切合切を含めて内部環境を言う。

内部環境は身体の神聖さからあまり分解が進んでいないことから未だに道の部分が多い。

特に脳や筋肉の機能は厄介である。

人の身体をひっくるめて内部環境とするしかない。

そのことで厄介なのは六感に相当する部分である。

第六感にはもともと境界などは存在しない。

どこで何を感じるかは未知である。

ただ、何かを感じて予感する範囲である。

よく言うように科学的分析によればわかるはずだというのだが、科学の限定性についてあまりに無知である。

ただ、第五感までの範囲では識別不可能なものが第六感には存在する。

そこで実は第六感は本来の自然の中で育成されたものとしておく。

 

一見内部環境は外部環境と隔絶されたように思うが実はそうではない。

内部環境と言えでも五臓六腑のように相互に内部外部に別れ補いあっている。

勿論それぞれに境界もある。

その境界がファジーであることも明らかだ。

生命体にもよるが内部環境それぞれが独自に生きていくことも可能である。

今、人は外部環境を利用して内部環境を補充する手段を持っている。

最終的にはロボット化する内部環境となるであろうがサイボークと言えるものである。

こうした場合には、内部環境は内部環境ではなくなる。

そのとき六感がどうなっていくのかさらに恐ろしいことが起きそうだ。

 

基本的には内部環境は外部環境から取り入れられる食物(栄養素)から成り立っている。

本来の自然の外部環境に依存する場合には内部環境は形は異なるが本来の自然の姿に置き換えられるはずである。

外部環境から取り込む食物はそのように働く。

ところが本来の自然環境が偏っている場合には生命体の内部環境も偏ることになる。

未発達というか変形した生命体はそのためのものだ。

今や人はこの変形した生命体を食物に依存するようになっている。

養殖の発達がそれをもたらした。

すでに自然淘汰で育てられた万物の霊長類の頂点に人が存在するとは言えない。

こうした変形した時代を変形として認識できるのも閉鎖地域の存在である。

小菅村にはその姿がある。

時としてこうした閉鎖した環境を変形しようとする様々な動きがある。

それは過去には失敗の歴史として記録されているが人はそれに懲りない。

 

外部環境と内部環境

人の五体が現状に至ったのは外部環境と内部環境とのバランスである。

にも関わらず、この環境はいろんな意味で壊そうとする試みがなされる。

大きくは整形に見られる皮膚境界の変形である。

それに内部五臓六腑の入れ替えである。

最終的には食物の変形である。

どれもこれも内部環境外部環境のバランスを損なうものである。

このことにより六感が損なわれることは想像するに難しくはない。

六感の欠損は人の本質を見失う。

すでにその現象が起きている。

 

最大の問題が生命体を維持するという機能の損壊である。

生命体は六感を通じて生命体を維持しようとする機能がある。

ところがこの維持機能が損なわれつつあるのだ。

身障者の問題もそうだが何よりも自らを犠牲にして戦争による他人の殺傷である。

本来は自らの生命の維持が一番だから、その犠牲による他人の殺傷はあり得ない。

しかし戦争はそれを強制する。

勿論、他人の殺傷は目に余る事態である。

自らの命を守るのではなくて他人、それも弱い者の命を殺傷する事態が増えている。

本来は強者である他人は自らの命を殺傷するので強者への備えは万全であらねばならない。

しかし、今や自らを殺傷することのない弱者を殺傷することが常識である。

子供の殺傷はどうして起きるのか。

いずれにしても生きるために鍛えられた六感の損傷である。

六感の損傷は外部環境内部環境の不均等から生じる。

六感が本来育ってきた自らの保護という機能が働くなくなっている。

それは育て鍛えていくものだ。

それは外部環境である本来の自然の中で育まれたものだ。

最近腰痛のため私は畑に行く回数も少なく自然との闘いに焦りを感じる。

それは自然の姿だ、自らの限界を感じる機会でもある。

ここで他人の力を借りる発想は生まれない。

自ら挑んできた自然との闘い、その限界を感じることは重要な出来事だ。

私という生命体の限界でもある。 

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