No.46 続き ~「藪の中」のコミュニケーション   20141015日 

 

「昭和天皇実録」が開示された。昭和天皇(1901年~1989年)の88年の生涯と「戦争と平和」の激動時代の膨大な記録。24年の歳月をかけて編集した全61冊、12千ページもあるそうだ。もちろん、わたしは読んでいない。新聞紙でその記事を読んだだけ。

膨大な記録とはいっても、無数の事実の一部でしかない。その時代のある時、いたるところでおきた出来事の一部でしかない。名字をもたない家系にうまれた「裕仁」という人物の「少壮老」人生街道の一代記である。

ところで天皇家には姓、名字がない。国民ではないからである。戸籍や現住所などの住民登録を役所に届けていない。それは何を意味するのだろうか。・・・・とりあえずこの疑問はパス。いずれ「システム論/全体と部分」の考察で思い出そう。

ともかくその人は、明治憲法を最高法規とする大日本帝国の元首であった。その人の言動の「事実」にかかわる関係者たちは、政治家や軍人などの当事者から身縁者、近辺者、その他日本人、外国人まで四方八方に拡散する。「昭和天皇実録」という「明らかにされた一部」の「事実」記録をネタにして、有象無象のそれぞれの「現実」、「史実」、「真相」が語られるであろう。誰にでも自由勝手な表現がゆるされる民主主義国家なのだから、そこでの言説空間は、「藪の中」のコミュニケーションとなる。「藪の中」とは、「真相をめぐる解釈は何でもアリ」というほどの意味である。

 

●歴史認識への刺激

戦後70年ちかくを経た2014年のいまでも、日本国は、中国、韓国との外交不和、領土紛争などの国家間課題を精算できない状況にある。そして国際紛争対応のための集団的自衛権の政治テーマも登場している。このような中での「昭和天皇実録」の開示は、昭和天皇とその時代をめぐる言説空間を、おおいに刺激するのであろうか。

刺激とは、歴史認識への啓蒙である。認識とは、1)事実知識と2)判断評価である。その先に未来の3)歴史予測がある。過去の歴史認識も未来の歴史予測も、人さまざまである。それらの言説は、「藪の中」のコミュニケーションとならざるをえない。

歴史認識としての昭和時代は、大正デモクラシーが終わって始まった。それからひたすら朝鮮、満州、蒙古、中国、東亜をこえて波濤はるか南太平洋にいたるまで、我が大日本帝国は戦地を膨張させた。非日常のそこには、兵隊さんたちばかりではなく、従軍画家や記者や慰問団だけでもなく、売買春婦たちまでもいた。

その時代、だれが、どこで、いつ、なにを、なぜ、どうしたのか。何が為されたのか。何が為されなかったのか。人間、家、共同体、民族、企業、国家、人類社会、世界をどう理解すればいいのか。

歴史予測としてのこれからは、「戦後」が終わり再び次の戦争を準備する戦間期にむかうのだろうか。核爆弾の数発で地球上の人間みんなが吹っ飛ぶのだから、「もう戦争など起こりっこない」のだろうか。膨大な軍事力・核武装・威嚇能力の誇示こそが、戦争の抑止力になるのだろうか。

日本は、北方領土のロシア、竹島の韓国、尖閣諸島の中国、拉致問題の北朝鮮と未解決問題をかかえている。この領土紛争は、つぎの戦争に発展するのだろうか。戦争のおかげで大儲けしたい連中や軍需産業の投資家、経営者、政商たちは、政治家たちとどのような付きあい方をしているのだろうか。彼らの倫理観や思想性、哲学は、歴史的にはいかなるものなのだろうか。国民に生死の選択を強制する国境や国益などという政治的宣伝を、老後をすごす自分はどう理解したらいいのか。21世紀における国民国家のあり方を深く再検討し、国境と国家主権を相対化する生活者レベルの知性は、夢物語なのだろうか。

 

●国家論への期待

国家論といえば、アンチ民主主義をかかげる「イスラム国」は「国境なき国家」の先駆形態になるのであろうか。イギリスには「スコットランド国」独立運動がある。ウクライナとロシアが綱引きしている。それらの運動の思想性に興味がある。民族統一国家ではなく、民族自治による連邦国家のイメージを展望するからである。

同じイメージをかさねて、大和国からの「琉球独立論」にも心情的には加担したい。いっぽう、韓国と北朝鮮の民族統一国家の実現には、どのような展望が描けるのだろうか。また、中国共産党思想と香港の民主派思想の対決は、どう決着するのだろうか。中国における香港の「一国二制度」のゆくえにも関心がある。わたしは、「一国複数制度」を理想国家としたいからである。

中国思想のひとつに儒学がある。それは、正心・誠意・修身/斉家/治国/平天下をとなえる。わたしの「私共公/天」のフレームに重なる。ここには、「治国」としての国家論がある。統治者は、天命をうけた聖人君主である。江戸時代の幕藩体制の基盤も朱子学であった。

その対極に「無為」を基層におく老荘のアナーキー統治論もある。それは、「天道」を観想する。老子80章で「小国寡民」の理想国家像が語り継がれてきた。わたしは、そのイメージに共鳴する。

では、中国共産党は、西欧流の自由・人権・民主主義の近代思想をどのように乗りこえる思想性を鍛えているのであろうか。その思想基盤は、共産主義なのか、やはりマルクス主義なのか、それともあらたな民主主義なのか、民主主義に替わるなにものなのか。

「昭和天皇実録」をきっかけにして、学者や評論家や知識人や文化人と称されるその筋の知的職業者たちの仕事がふえるだろう。ふえたらいいね。

日本国家の対米従属/現状維持派、対米対等/自主独立派、アジア回帰民族派、世界平和主義派などなど右・中・左それぞれの思想は、多様に分布する。日本の「右傾化」へも賛否両論がある。「戦争と平和」にかかわる国家論、歴史認識、ナショナリズム/グローバリズム/ローカリズム、私共公/天、民主主義などをテーマとした「藪の中」のコミュニケーションがにぎやかになればいいなと思う。

老生は、「国境なき国家」、「ローカル共同体のグローバル連邦」とか「私共公三階建社会」、「一国複数制度」などを妄想する。それは社会システム設計論の帰結である。その妄想・偏見からみれば、我が国の総理大臣である安倍さんの国家観が、いちばんダサイというか時代錯誤というか恥ずかしいような気がする。安倍政権打倒をめざしてつぎの政権をになう野党には、これからの超技術社会において、ロボットと共生する新人類がむかうグローバルな国家論を明示してほしい。願望をこめて、そう期待したい。

 

●「藪の中のコミュニケーション」の問題意識  

さて、前々回No.44「藪の中のコミュニケーション」は、「明治天皇すり替え説」への言及からはじまった。そこで「コミュニケ-ションのあり方」の難しさの根拠を、「天網恢恢疎にして漏らさず」、されど人のコミュニケーションは「藪の中」という「事実の潜在性―可能性―実現性」というメカニズムの視点から確認したのであった。そして、つぎのテーマを「また別の日に気がむいたとき」に残して終わった。

○「知る」という欲望 ~納得したい了解欲、好奇心

知的職業 ~知らせたい表現欲、研究と学問、自然科学と社会科学

今回No.46で前回の残しものを簡単にかたづけることにしよう。老/終業期は、後に残さず、先送りせず、この世の人生に始末をつけなければならないのだから。

テーマは、「明治天皇すり替え説」や「昭和天皇実録」など天皇家の話題ではなく、「知る」「知らせる」の社会的関係性である。

「知る」とは、見る、聞く、体験を基底にした「読む」、「考える」、「判断する」という知性のはたらきである。身心頭の欲求でいえば、「頭」の欲望動機を意味する。ここでの「知る」とは、「考える」、「納得する」、「わかる」、「了解する」ことに比重がある。「なにを、なぜ、どのように考えるか」が、「知る」ことのテーマになる。

「知らせる」とは、ここでは知的職業者たちのはたらきである。学者、知識人、出版人、評論家、マスコミ、論壇、ジャーナリズムなどの表現、発言を意味する。「なにを、なぜ、だれに、どのように伝えるか」が、「知らせる」ことのテーマになる。ここでの「知らせる」とは、とくに人文科学と社会科学の「学問の専門家」、「学者」、「大学の先生」のテーマに比重がある。

その理由は、人文科学と社会科学に関する「知性」のあり方に、根本的な疑問をもつからである。西欧哲学をベースにした西欧思想、倫理観、合理精神への違和感である。それに替わる知の大衆化時代に即した「生活者の知性」を重視したい気持ちが強いのである。生活現場の多様性に準拠した知性の思想性への希求である。細分化された縦割り、蛸壺、役割、閉じこもりから解放される「生きる全体性」の復興をねがう。お任せ民主主義の果ての衆愚政治や全体主義国家に陥らない知性のイメージである。この問題意識が、コミュニケーションのテーマに接続する。  

誰でも自由勝手な表現がゆるされる民主主義国家だから、知性と感性が入り乱れ、虚実深浅ごった煮の言説空間が形成される。学校、学会、象牙の塔、アカデミー、スコラだけが、知性を独占販売できる時代は終わった。ミニコミ、マスコミだけでなく、ソーシャルネットにおいて、コミュニケーション機会の提供者と消費者は、双方向に入れ替わる。素人と専門家が入り乱れる超情報化社会のこの事態を、これまで「藪の中のコミュニケーション」と称してきた。

では、その「藪の中のコミュニケーション」において、「知る」と「知らせる」の社会的関係性は、いかにして成立するか。我が身心頭の欲求は、その社会的関係性=コミュニケーションシステム=社会システムにどのように組み込まれるか。

わたしの問題意識は、その社会システムを「私共公/天」の枠組みに対応させる。

天は、「天網恢恢疎にして漏らさず」の全体性、無限性を意味する。全体には、名前はない。名づける人がいないからである。全体は、無限だから理性的には観察できない。果てがないのだから対象化できない。観想するしかない心象世界である。その心象世界の快/不快、気持ち善い/気持ち悪いが、倫理の源泉である。宗教世界も天網の一部でしかない。

天は、その定義上、全体性=無限性だからシステム論は適用できない。システム論は、全体の中の一部分を対象化する思考哲学であるからである。

システム:=内と外 == 対象+境界+外部環境

私システム:=生活システム 対象は、自分(身体自己、生活自己、了解自己)

共システム:=共生システム 対象は、集団(血縁、地縁、友愛、利害共有など)

公システム:=国家システム 対象は、国土(国民、立法、行政、司法、外交)

老後をすごす自分にとって、自分と国家の関係性、自分と国民との関係性、国民と国家の関係性、天皇と国家の関係性などをどう「了解」すればよいか。

身体自己、生活自己、了解自己という三つの自分が、どのように折り合えば、老後を生きる則天去私、敬天愛人、希望的諦観の境地つまり隠棲の安心立命にいたるか。そもそもこのような問題意識は「藪の中のコミュニケーション」とどのようにつながるのか。

問題意識そのものが、「藪の中」であるようだ。たしかに老生の妄想は、「藪の中」である。

 

●「藪の中」とは   

もともとは、芥川龍之介の小説の題名である。そこから「真相は藪の中」という表現がうまれた。同一の事象でも立場や役割などちがう視点から観察すれば、同一の解釈はむずかしいというほどの意味である。裁判や学問など厳密に論理実証的なコミュニケーションでも合意形成は、単純でも簡単でもない。ましてや、「とりあえず目の前のこと」にかまけながら生きる普通の生活者どうしのコミュニケーションは、厳密さからはほど遠い。

「藪」とは、見通しのよい野原ではなく、柵にかこまれた牧草地でもなく、整然と区画された田畑や庭園でもなく、さまざまな生き物たちと人が住み分ける里山ブッシュである。うかつにつつけば蛇もでる。白骨も眠っているかもしれない。デング熱騒動の元凶であるやぶ蚊もおれば、秋の夜に鳴く虫たちもいる。あちこちに巣があり、縄張りニッチがある。藪の中は、昆虫などを基底にして人間社会にいたる生態系―魑魅魍魎の自然界のイメージである。

昆虫学者はいう。昆虫は、神の手で開発され、地球上で最も繁栄している種である。ある意味で人間よりも賢い。どんな生物より地球や植物たちとの共生の仕方を知っている。尊敬を払うべき先住民。彼らにまなぶべきことは、あまりに多い。」

そのイメージは、体内の2千個ちかい神経細胞たちが相互に刺激しあいながら、我が身心頭の欲望を駆り立てる膨大なネットワーク網の妄想に重なる。細胞たちが体内で共存・共生する世界である。そこには死へのプログラムとしての癌細胞までも含まれる。

人体生命の世界が、60兆個の細胞の膨大なネットワーク網であるというこのイメージは、地球上の70億人の人間たちが相互に関係しあいながら共存・共生する「藪の中」に転化する。その藪は、諸個人それぞれが身縁者、近辺者、関係者たちとコミュニケーションをおこなうダイナミックな坩堝、あやうい安定性の非平衡状態である。

老生にとって「藪の中」とは、この世を「不条理な自然の大海にうかぶ人為的な限定合理性」とみなす思想イメージのひとつの隠喩である。

「不条理な自然」とは、たしかにおこがましい表現である。人間中心主義のゴーマンな意識である。不条理とは、人間の「人知」で合理的に解釈できない事象にほかならない。人間にとっての不条理は、「天網」に含まれるその一部にすぎない。

天網とは、人間、動物、植物、地球上の物質、宇宙の動き、相互関係に関する「自律性」、「自ずから然り:自然」、「お天道様」への一種の畏敬、帰依、信仰である。対象化できない全体への非知覚的な意識である。言葉や論理が介在しない直感的で感性的な「心」の妄想の心象である。

「限定合理性」とは、人知である。人知とは、それぞれの「人」の身縁、近辺、周辺、世界についての人為的な「知」の総体である。全体の中の一部を対象化する知覚的、理性的な「頭」の記憶や知識や判断である。数理・論理、物理、生理・心理など言葉や論理を介在させた認識である。

「藪の中」とは、自然と人為が関係しあう70億人の地球社会である。

「藪の中」とは、真善美と偽悪醜が織りなす無限の潜在性、可能性、実現性が重層する世界である。

「藪の中」とは、「天網恢恢疎にして漏らさず」の「天網」をこえることのない人間たちの「人為」・「人知」が、カオス、ソフト、ハードに交ざりあう複雑系である。

 

●「藪の中」をどう生きるか

 ふたつの思想に分かれる。

1)藪をとっぱらって整地し、公園にし、耕作地にし、規約を作って管理しょう。

2)藪の中で、差異の多様な生き方を棲み分けよう。

「行き詰まり、悶々とした、閉塞状況にある日本社会」という表現をよく目にする。高度に文明化し、規律にしばられた現代社会の閉塞感である。この閉塞感は、明治維新以降の西欧文物・近代思想を奉じてきたうえの1)の精神の帰結ではないのか。

昆虫は、「ある意味で人間よりも賢い。どんな生物より地球や植物たちとの共生の仕方を知っている。尊敬を払うべき先住民。彼らにまなぶべきことは、あまりに多い。」という昆虫学者の発言を、あらため人文科学と社会科学に関する「知性」のあり方に対比する。

人類の知性は、重厚な軍事力・核武装・威嚇力を戦争の抑止力とみなすしかない程度の「合理的能力」なのだろうか。地球の表面を領土で区切り、国内を行政区画にすきまなく分割して統治する地政学の知性や理論など、バカバカしいと考えるべきなのではないか。

超情報化社会の「藪の中」を多様な有象無象が共生できる社会システム設計(実践、倫理、思想、哲学)への妄想は、ひろがる一方である。

とりあえず「藪の中」の妄想はこれで中段する。妄想にはおわりがないからである。馬鹿は死ななきゃ治らない。

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