No.61 小菅村100%自然塾 20181015

自然塾

義務教育のない昔には教育といえばお寺での寺子屋とか武士の奉仕による武家塾が若い人たちのためのそれなりの教育の場であった。それでなければ商人、職人などが丁稚奉公として若者を引き受けそれなりの教育を施した。勿論、貴族や武士など名のある家庭ではそれなりの個人教育がなされていた。したがって、こうした教育を受けないほとんどの子供たちは義務教育が施工される以前には文盲同然であったと言える。

逆に現在は小学校・中学校までが義務教育であり誰もが小学校、中学校での義務教育を受ける権利、受けさせる 義務があり、それを怠ると国家によって罰せられる。この一連の制度設計によって日本人は文盲率が限りなくゼロに近い。その善悪は別として、教育による国民資質の水平化が進み、才能について言えば特に秀でた才能が見えなくなったと言える。

勿論、こうした才能の水平化によって特殊才能が消失したのではないかと思うこともあるが、水平化教育の中でも特には異端者と言われる才能の持ち主が現れることもある。この場合には彼を異端者もしくは気の振れたものとして扱われる場合が多い。ただ、水平化教育といってもその中での競争は推奨されるのであって、才能というよりは適応性を競う優劣が争われる。

義務教育化された後には、与えられた教科に対する適応性だけが争われる結果、それが拡大再生産されたことは容易に推測される。要するに義務教育は教育を受けた人材が再度教育の現場に赴くことで教育が拡大再生産されるわけであるが、更に危険なことは教科そのものも拡大再生産される。

教科に対する適応性は教科が国家に対する適応性が前提で編集され、教科の適応有無の優劣は次なる教育者を育てることで拡大再生産される。この拡大再生産がどの程度の期間を経れば修正不能状態になるかについては、日本では明治以来の義務教育の歴史を持つので、現状教育制度における修正不能状況を見れば、ほぼ100年程度の月日が必要であったと推測する。

しかしながら、教育とは義務教育に限らず、胎児が母親の胎内にいる間は4,6時中母親からの教育を受け続けているのであり、体外に出た後もその影響は計り知れない。教育を環境順応と定義すれば、母親の教育環境は無尽蔵である。ここで教育という言葉には誤解を生むので環境適応と記しておく。

もしその後義務教育として環境順応を修正もしくは再生しようとしてもその限界は目に見えており、有効に働くとは思えない。それでも教育順応を強要すれば、順応の能力差が歴然としており、そのことによる義務教育現場におけるトラブルは計り知れない。

このトラブル解消のためにどのようなことがなされているかは知ることは出来ないが、トラブル解消こそ問題ではないかと考える。むしろトラブルの数だけ才能の芽が吹き出ているとみるべきではないか。

このところにトラブルを解消するのではなくトラブルをトラブルとして育てる自然塾の思想が存在する。人が生まれた時以来の才能をどのように発展させるか、育てるのではなく発展させるところに次なる未来が見えてくる。

義務教育の放棄

現状、義務教育から逃れるすべはない。ただ、日本列島を離れればそれなりの義務教育放棄は可能である。イスラム原理主義ではないが、女子の教育が無視されている世界があり、女子教育を訴える声はノーベル賞にも輝いた。逆にこの声を発した女性の能力こそ人間本来の能力を示したものである。

何故、この種の能力が封鎖されているのか、それこそが現在教育の在り方ではないだろうか。勿論、イスラム圏では男子教育が中心であるがその教育は女子の能力を封鎖するように展開されてきた。逆に女性たちはこの男性への反発を強める立場にある。ここには限りなく大きな活力が蓄えられている。

このエネルギーの解放は既存の教育体制を廃棄するしかないが、そのようには事態は推移していないようである。むしろ現在の教育体制の強化に向けられる。要するに人が体制に立ち向かう本来の才能が去勢されていくのである。自然体で残されている才能が教育によって失われていくことが将来にプラスに働くかマイナスに働くかは今後の問題であるとして、教育によって過去、進歩の推進者であったアブノーマル者が居なくなることもしくは体制が付与する教育制度の中にはアブノーマルもしくは体制批判の才能が去勢されていくことは間違いない。

ということで果たして未来社会は社会が進歩するための要素としての人間の反社会的な才能、アブノーマルな才能を発展させることが出来ないのではと思う。明らかに人の進歩は数万年に上る精神上、肉体上の突然変異もしくはアブノーマルな素質の蓄積・継承の結果である。その期間は現在からみれば無尽蔵の年月を必要としている。

楽天的に考えれば数百年の期間教育だけでは人間の才能を消失させることは出来ないので、長期の展望で義務養育、体制教育の弊害は危惧するべきことではないが、ただ、人類の死滅の危機に対する課題としてみれば、現在教育の在り方は問題視すべきであると考える。

要するに社会進歩を保証する人間本来の環境順応ではなく環境批判の才能をどのように維持するかの課題であり、現在体制維持を前提とした義務教育、体制教育は放棄する必要があり、逆にその替りに自然学習こそが喚起されるべきである。自然学習とは胎児の母親からの離脱、子供の地域からの離脱、人間の環境(自然環境、社会環境)への自立へ向けた成長である。

小菅村%自然塾

私が小菅村に住み移る前からは100%自然塾があったのだが、私は当初誘われても何ら興味がなかった。ときたま、バーべキュウとかが開かれるので参加した程度である。そこには老若男女が参加していてこれも不思議に思ったものだった。

その後100%自然塾の活動を少しは知るようになり、秋にはキノコ採り、春には山菜採り、夏には魚とりと多彩な活動が行われることも知った。キノコ採り、山菜取り、魚とりとも私に経験がないわけでないが、高校卒業後から都会育ちの私には比較的疎い存在であった。

ただ、この15年程度遠くから100%自然塾を外から眺めていると、かつての山村に存在していた生きるための山谷との共生が大人から子供へと伝えられていく過程を見て取れる。というよりも、キノコ採り、山菜採り、魚とりは義務教育では得られない経験の、蓄積が積み重なっており、それは強制されてできるものではなくて、自然発生的な地域での学習である様に思えた。

100%自然塾の参加者はそう多くはないし、公に募集されたものでもなく口づてに誘い合っての参集である。それでも赤ん坊から私のような年寄りまでもが参加しキノコ採り、山菜取り、魚とりのイロハから専門知識、簡単な経験から危険な経験までをどことなくいつとなく経験させてくれる。

この種の集団が10年以上も続いていることは、この集団が小菅村という村落共同体にマッチしたことだからではないだろうか。勿論、今後の展開は分からない。既に優秀なメンバーの移動は続いている。新たなメンバーが加わる保証はない。ただ、この集団委は10代から80代に及ぶ広範囲の世代の人々が参加し、それなりのノウハウが継承されつつあるという進行形であることだ。

昨日15,16日と自然塾の研修旅行に参加した研修旅行といっても朝から夜間までの酒飲み大会であるが、それでも合間合間に出される料理、眺める秋景色、ところどころの道の駅、比較するのは小菅村の道の駅、展示されるキノコの種類、出されるそば、結構参考になるようだ。遊びの中での学習は最高の効果を生む。

小菅村と長野県

先月27日、28日と大鹿村を訪問した。標高1000mのところでの稲作が行われているとの驚異の話を聞いてどうしても訪問したくなった。4人連れの仲間連れて訪れたのであるが、事実稲田が並び刈り取った稲わらが干してあったり、まだ刈り取られない田んぼを覗いて脅威に感じた。小菅村では稲は育たない。戦後食糧難で強制的にコメ作りを奨励されたことがあるようだが、畑でさえ水不足に悩む土地柄、現状では稲作は夢物語である。

大鹿村は人口1000名足らずの限界集落である。小菅村も人口800足らずの限界集落である。それでも稲作が出来るとできないでは自給自足を実践する上では大きな差が生じる。同じ規模の集落なので、色々とその違いを論ずることが出来る。

大鹿村は長野の山奥、南アルプスを控えての全くの交通不便の山村であるが、どうも稲作が出来るということもあってか移住者も多く、それぞれが創意工夫の生活を営んでいるらしい。特徴的なのは歌舞伎の里として村人が小学校、中学校を含めてその継承に努力をしている。地域の文化を継承するという軸は村づくりには欠かせない。

小菅村にも神楽の継承はあるものの、学校での教育には至っていない。小菅村での産業としてイワナの養殖、ワサビ、こんにゃくなどがあげられるが継承すべき文化が見えてこないのは何故だろう。小菅村の住人に聞くと大鹿村見学に行った人が多いことが分かった。大鹿村が、限界集落での村づくりに成功したからであろうか。

私が大鹿村を知ったのは全国の限界集落の集まりとして「小さくても美しい村」の会議があったからである。そこでの大鹿村村長が話していた天空の村としての村づくりに興味を持った。私の知り合いとしての関東学院大学の卒業生の移住者は大鹿村での百姓に精を出しているのを聞いて感心し今回の見学につなげたのだが、そこには日大農獣医学部出身の入植者が畜産業を起ち上げたことも分かった。入植者が新たな産業を作り上げることが重要なことだ。

大鹿村での入植者は従来の村人との距離感が少ない様に感じた。小菅村での100%自然塾にもこの種の雰囲気を感じている。小菅村からの大鹿村見学は大鹿村での鹿の飼育が始まるころだったと聞いた。今はそうした状況はなかったが、鹿とか猪の狩猟は盛んらしい。大鹿村道の駅のレストランで鹿肉料理メニューが並び、美味しかったのは印象的だった。小菅村の道の駅レストランにそうした工夫もあっても良いのではと瞬間思う。

長野県は山梨県とは海を持たない孤立した土地柄である。小菅村と長野県の村との違いは小菅村の方が東京都という大都市圏を抱えつつもその有効活用が出来そうで出来ていないことである。逆に長野県は名古屋という大都市圏を抱えつつもそれを当てにする雰囲気はないようだ。交通の便も悪いこともあるが独自の文化を持とうとしているように思う。

今週15日、16日の小菅村100%自然塾研修では長野県戸隠村に見学に行った。戸隠村の観光立村としての状況には小菅村は足元に及ばないと感じつつも、戸隠神社を中心とした村づくりにはいささか参考にするべきものもあると感じた。矢張り戸隠村も稲作が行われているが、そば作りも盛んなようだ。神社崇拝を軸とした村づくりがそば作りと意外な調和を示しているようだ。

長野県における土地柄は自給自足が出来る豊かな自然にも恵まれているので人と自然との共生もそれなりの進化が見られる。小菅村での自給自足は今後の課題であるし、自然と共生もどっちつかずのようである。地域の軸なしでは観光も深化しない。過去には土建業、旅館業が栄えた村として記録されているが、明らかにその軸は壊れている。はてさて小菅村はづした未来像を描くと良いのだろうかと思案する。

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