No.7 小菅村とコンミューン 2015年10月15日
◆コミュニティ
小菅村という行政区は国家の下請け機関として機能している。
いわゆる小菅村コミュニティである。
このように定義すれば、人々が国家に支配される構図がよく見えてくる。
戦前は、このコミュニティが独裁者の手に委ねられ、独裁国家として有効に機能した。
小菅村からは独裁者の下請けとして多くの住民が戦争に繰り出された。
小菅人は山間民族、兵士としてはこの上なく強い。
長老の話によれば、満州、タイ、フィリッピンを経て帰還したという。
もちろんシベリア帰りも多い。
この状況が戦後変ったとも歴史家は言う。
戦後70年新生日本と言うのだ。
ところが、コミュニティの観点から見れば、小菅人の生活は良くなったようだが、村全体は衰えているようにも思える。
とにかく、人口減少が激しい。
高齢者率も高い。
小菅の中での自給自足などは夢に近い。
残った人は少ないが、それぞれが出稼ぎでその糧を得る。
そうでなければ、都会に去っていくのだ。
つい昔は、小菅村から出て行くことは出世物語だった。
小菅の住民が東京都水道局長だった話は有名だ。
そのこともあるが、源流である保水林は東京都によって大切にされている。
ところが、今は出稼ぎ時代である。
東北寒村ではないが、出稼ぎしないと生活は成り立たない。
役場の権限も高く、昔流に言えば役場は上の人だ。
もちろん、役場は山梨県、国の命令下にある。
こうした、社会のあり方を社会システムとしても表示できる。
社会システムはコミュニティの構造を表示したものだ。
そこには、村人が居て、国を管理する官僚が居て、官僚の上に立つ権力機構が存在する。
権力とは民主主義の結果、民主主義とは人々の意思の反映させる仕組みである。
この原点にある人々が問題である。
システムとしては要素が大切である。
システムとしての要素は部品である。
部品は意思を持たない。
精々、多様性という選択肢を複数持つことが期待される。
ところが、住民である人とは、部品であることを前提として社会システムが組み立てられる。
こうしたシステム上の矛盾は明らかである。
もちろん、個人と社会システムの間を連結さえようとする試みは多い。
個人の精神と社会の機能とを相互作用させることだ。
民主主義的ルールに基づく投票行為が必ずしも個人の意志を反映するものではないこと。
権力側の強制と住民側の抵抗と、それが必ずしも投票行為に現れないと言うのは、住民が潜在意識を持っているためだ。
この二重性はまだ解決されない。
むしろ、解決されないまま、社会システムが運用される。
従って、権力側の強制はこれを前提に機能するので、そのためのあらゆる手段が配置される。
官僚組織、マスメディア、企業組織、地域組織(自治組織)、いずれも強制力を持ったものだ。
住民個人がこれに抵抗することは論外である。
◆小菅村とコンミューン。
東京の秘境、小菅村がその昔共産党による山村工作隊でも近づけないほど山奥であると言われる。
日本赤軍が、軍事演習を行ったのは、小菅村からも歩いていける大菩薩峠近辺である。
こうした秘境に自給自足の集落を存立させようとすれば、コンミューンを思い出すのは自然だろう。
ただし、コンミューンとは共有財産を前提とした集落である。
いわゆる財産を前提とした集落形成である。
集落内部で財産が共有されたとしても、財産が意味するところは貨幣に用いた交換関係、交易の結果である。
交易関係が物々交換なら良いとする意見もあるが、交換関係は価値の導入が前提であり、小菅村だけが時代を超越して存立させることは出来ない。
明らかに自給自足は非交換関係である。
交換関係が存立する以上、自給自足は非効率的である。
効率性の問題は価値の由来に繋がる。
コンミューンがこうした交換関係から独立しているとは思えない。
その1つの試みとして共産主義社会では集団農場を模索したが失敗に終わった。
日本でも自給自足を目指した山岸会なども見られるが、財産放棄、財産共有など決して財や交換関係と無関係ではない。
コンミューンは原理的には存立し得ない。
結論は、現状は貨幣社会であり、それを無視するあらゆる試みも失敗する。
過渡期として一般の交換関係を無視した地域貨幣の提案がある。
その地域に限っての通過の流通は見かけ上その地域から全体通過の流通から独立する。
しかし、その地域を一般に出回っている貨幣価値からは独立できないことも明らかである。
過渡期だからと言って、独立したように見えても、やがては一般通過との価値を共有することになる。
コンミューンがコミュニティで無い根拠は無い。
コミュニティを前提とした社会仕組みの中で、コンミューンと言う独立を見ることは、中国、ロシアが自由社会に仲間入りしていくようなものだ。
共産主義そのものが誤った原理から始っていることも問題である。
国という財産を前提としたコミュニティがどうしてこの財産概念から脱却できるのか。
その間違いの根本はマルクス主義にもある。
労働を商品化させた人の活動を労働時間という単位に切り分けたことだ。
人の活動はアナログであり、デジカルされたものではない。
それを時間区切りすること事態が矛盾をはらんでいる。
現在社会が、労働商品として、組み立てられているのもそのためだ。
ということで、現在社会の中で、夢を組み立てる事態が、その精神が現在社会に感化されていることとは相容れない。
むしろ、現在社会の経験を何処まで掘り下げるかが問題である。
その結果としても何も生まれないことはあるだろう。
ただ、この潜在認識が、将来のカタストロフィー(価値観の総入れ替え)の時に役立つであろうと言うことだ。
◆人類の進化
小菅村の人々のように、非常にゆっくりとした継続集落は日本にも多い。
急激な変化を求めていない。
でも、時代に合わせた小菅村には進歩がある。
善悪を別にすれば、時代の流れに沿って小菅村は発達して来た。
ただ、小菅村固有の文化が壊されていないだけである。
小菅村の文化とはあくなき自給自足である。
今、その危機は訪れている。
その原因を突き止めることは重要である。
日本文化は自給自足であった。
それでも日本文化は地球上で他の地域に劣らぬ文化を発達させてきた。
西洋文化、東洋文化(中国中心)を取り入れながらも、日本独自の文化を作り上げている。
その見直しが地球上でも起きている。
問題は文化の根本が自給自足であることに関係する。
自然の脅威の中で、生きてきた人類の歴史は、あくまでもその地域での生きる仕組みを見出すことだった。
見出した地域とそうで無い地域差が歴然としてきた。
自給自足文化はあくまでもその地域を継続させてきた。
そうでない以上、その地域は滅びる。
よく言われる例だが、数学の発達は西欧に追うところが多いが、根本は自然と闘う農業にあり、農業文化を作り上げた地域には数学の発達があり、日本もその1地域である。
この数学の延長線上にコンピュータやロケットの飛び出す原理があるのだが、この基本が崩れようとしている。
いわゆる、コンピュータもロケットもコミュニティの道具と化している。
地球を生き残るための道具ではない。
人類の生き残りは太陽の爆発が予想される50万年後と言われる。
それに向けてのコンピュータやロケットは地域の自給自足を総括する作業と平行で無ければならない。
残念ながら、この種の総括は行なわれないで、商品化されたコンピュータやロケットだけがもてはやされる。
その前に地域は自給自足社会として万全で無いと駄目なのだ。