No.60 木ノ下流往還思想批判  2018515

往還思想

木ノ下流の往還思想を並べてみると

1. 老の人生三毛作の最終章である老/終業期において、「この世の後始末、あの世」への旅支度」を修練することをめざす。この思想を往還思想とよぶ。

2. 往還思想は、自然・社会・国家の中で、自分はどのように「生きて死ぬか?」を主旋律としてつぎの各論( 生命観~命、 人間観~人間の欲望、 人生観~自分の一生、 死生観~死、 自然観~人類、 宗教観~知覚)をテーマとする。

3.往還思想は、次のように考える。 命は、だれからいただいたのか?あの世、両親の・・・・・命の始原。自然宇宙==>天 生きる義務とは?命の自律に従う生理的義務と社会で生きる人間的義務のふたつ。 生きる気力はどこから出てくるか?

4.往還思想は、個人主義の自由と人権を根本的に問いなおす。自然環境を科学技術の理性で征服し、個人の独立・自立を尊重する近代思想は、あくまでも自分、個人を金科玉条の価値とみなす。だが、往還思想からみれば、それは人間中心主義・自己中心主義のゴーマン思想だと思う。

5.往還思想は、超高齢化社会における「老人の生き方」を、あらたな知性と知力の訓練=老人思想=無我自我大我=希望的諦観として提案する。

木ノ下流の往還思想では人もまた生命の誕生と消滅という自然循環における1生命体に過ぎないということとそれは単細胞でも営む「生きようとする衝動」から免れることは出来ないという観点が抜けているのではないかと思う。確かに木ノ下さんがメールで「生命現象は、哲学の対象ではなく、即物的な自然現象であるという確信というか了解です」としたそのものものです。ただ、医療技術が発達し、生命を操れるという幻想が生まれ、人間の意思がそれに幻惑されていることは事実です。だからこの幻惑を取り除くために往還思想があると言うのは理解できるようですが、実は人にとって思想がそれほど堅固であるようには思えない。 堅固であることが極恵まれた人に限られるのではないでしょうか。思想と実践という人にのみ許された悩みは自死、特高精神、宗教観を生むのですが、往還思想もその一つでしかないと思うのですが。

往還思想の底辺にあるもの

往還思想はもともと東洋的仏教を含む宗教感でいう輪廻に依拠していると思うのですが、仏教感と異なるのは西洋的キリストを含む宗教感への抵抗を呼び掛けていることです。仏教感では虫さえ殺さずと生命の生まれ変わりを主張し自死さえ厭わず、西洋的宗教観では人さえ殺してよいと現世の尊厳を主張しています。ただ、仏教感では諦め感を重視しますが西洋感では自死は否定するにも拘わらず神の命令での自死は否定しません。結果的には神、仏いずれの宗教観も生命の自立性からはほど遠く、あくまでも紙、仏(いわば権力的なもの)への従順さが存在します。この宗教観からくる非自立性と自然循環が存在する自立性との違いについて木ノ下さんは述べていないように思います。生命体はたとえ単細胞でも生きようとする衝動を持つ。それは高等動物と言われる人類であっても同じです。その衝動が他の生命を犯すことを許していることも事実で、逆にその衝動を他の生命が支えることが出来るのかと大前提があります。木ノ下さんはその衝動を他の生命体が支えることが出来ないと主張しているようにも思えるのですが、人の歴史ではその衝動を生命体相互が支えてきたようにも思うのです。それは科学技術、医療技術に限ることなく、人の連帯がその衝動を支えてきた。もちろん、単細胞ですら、その衝動は存在するにしても単独では生き続けることは出来ない。往還思想の欠点はこの生きる衝動が生命体固体のものであっても、生きることの衝動は他の生命体によって支えられていることを無視していることかと思うのです。宗教観が間違っているのはこの他人の生命を支え、支えられるという連帯感を無視しているからだと思うのです。言い換えれば生命体を裸にして観念的な神、仏、権力の前で無力化する。その意味で、木ノ下流の往還思想が従来の宗教観との違いを見出すことが出来ない。「ナミアミダブツ」「アーメン」などは高齢者にとっては安らぎをもたすとも言われますがそれは死刑囚が宗教者に説き伏せられるように高齢者を連帯した家族から切り離す口実です。暗黙裡に家族への負担を減らしたいとの意図が見えますが、人が連帯で生かされている側面を無視しているようにも思えます。

往還思想を生かすために

往還思想が死を迎えた個人を奮い立たせるように孤独を強いることは間違いであると思います。まずは最近はやりの終活なるビジネスを発達させてはいけない。旅仕度などは必要ない。生命体にとっては生きていることが他の生命を犯すという最大の犯罪を犯してきたので、自然循環の中で突然の死、長期療養の死、脳死などはあるべき姿(連帯の証)として受け入れるしかない。その2は 生命観~命、 人間観~人間の欲望、 人生観~自分の一生、 死生観~死、 自然観~人類、 宗教観~知覚)についてどれもこれも人が連帯の中で示してきた生き様を表現するものであって、その総括として提出されているのであるけれども、生命、人間、人生、死生、宗教いずれもがすでに連帯の中で示された経験的蓄積であり、その纏めは生から死に至る再構築でしかないが、実は自然循環は非可逆であるのでそれを許していない。その3は生命が単なる細胞の構成体でしかないが細胞そのものも生命体であり、生命への尊厳はこの単細胞に対して求められるか否かである。この単細胞と人体の相違については分かったことはほとんどない。としても人体を崇める思想(権利、義務、尊厳)はどうして起きるのかと言えばやはり、神、仏、権力に操られた観念でしかない。生命体はもともと生きるという衝動に依拠しており、その衝動は不可侵である。その4は医療技術、科学技術もまたいまだに生きる衝動を説明することは不可能である。ましてや利己主義、個人主義などは一部の人間の衝動を加速させる社会メカニズムによって創出されているので一時的なものである。その5では往還思想の適応範囲を高齢者に限るということですが、往還思想は老若男女問わず、生命体という自然循環作用を等しく認識させるためのものであって、高齢者という自然死に近づく年齢に限るべきではない。自然死と言えば、昔は大多数の死が赤ん坊であり、現在でも大多数の死が堕胎であることを認識するならば、自然死とか病死などは極々限られた現象である。

私にとっての往還思想

 

思えば私の周囲は死に包まれている。ほとんどが私よりも年下であり、私の親族の死もあるが彼らもまた自然死というよりは突然死、病死である。それでも親族は高齢で亡くなったほうである。それらを観察する立場にある現在の私は高齢者としていつ死んでもおかしくない年齢に達している。ただ、私は往還思想が指摘する自然循環としての生命、誕生と死亡の生命体であることと、生命体が他の生命体に依存することを認識しており、それこそ懺悔の中にいる。さりとて自死はあり得ないし、突然死、病死であろうと私は私の方法(衝動)で抵抗するであろうと思っている。そして私の死が訪れたとしても、自然環境、社会環境が私を育んだように、残されたものは私を育んだ方法で物体となった私の死を処理してほしいと思っている。私の死に対する混乱も予想できなくもないが、最も円滑な(円満な)方法での処理が出来ればと思うし期待している。ところで木ノ下流の往還思想は高齢者への戒めを説いているところもあるが、私は高齢者としてではなく生命体として可能な限りの生きる衝動を示し続ける故に、高齢者を戒める言葉を持たない。残念ながら、木ノ下流の往還思想の対象となる私ではないのである。確かに生死を彷徨ようことも経験したのであるがその時に生きようとする自分に正直でありたいと思う。それは連帯する周囲に忠実でもあることだし、私を含む生命体の限界でもある。木ノ下流の往還思想での自然死とはどのようなことを意味するのであろうか。私流でいうならば、私が生きる衝動を喪失することであるが、木ノ下流ではこの衝動をどのように理解するのであろうか。明らかに医療技術、科学技術の発達で延命措置が可能であるように言われている。それは本人が処置できることでないので、家族を含む連帯者がその措置を行う。それら連帯者は日ごろ木ノ下さんとの経験的交流を蓄積してきたのであるから、その範囲での措置となる。往還思想がこの措置に対する強制であるとすればやはりゴーマンである。ゴーマンでないとすればそれまでの連帯関係に委任するしかない。想像できるその姿が惨めであろうが、すでにその時には木ノ下さんという生命体は限りなく物質化を辿っているのであり、思考のすべてを喪失している。それでも木ノ下さんを構成する単細胞群はそれぞれに生きる衝動を繰り返しているである。この単細胞のすべての死が木下さんの生きる衝動を喪失させたことになる。それを自然死と言うべきではないだろうか。それ以外に単細胞が生きている間に連帯者がその生命体を物質として処理しようとすればそれは本来は犯罪死ではないのではないか。

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