No.11 有機農業の話 2016130

 

自然農法

秋の山には、栗、柿などの果物や山菜やきのこ類も多くある。

ウサギや鹿、鳥なども豊富である。

自給自足の場合には、山では狩猟生活が主である。

最近、縄文時代に豊かな文化生活が発達していることが伝えられている。

見る限り、栗など効果的な食料が自然なままよりは、集約されていたのであろう。

その発達は耕地の存在である。

耕地が豊かになるには、雑草を排除し、必要な山菜を集約する必要がある。

山菜はきのこや果物と違い自生し難い。

縄文時代が1万年も続いたのであるから、弥生時代からの2千年ほどの現在社会の発達は早いようでも食料については緩慢である。

例えば、小菅村における食生活を見ると、縄文時代から見て改善されている気配は無い。

改善されていると見れば、それは分業による外からの食料調達である。

そのことで小菅村が失ったものも大きいと思われる。

例えば、猪肉、鹿肉など食料調達が失われ、外からの牛肉、豚肉などの調達が日常的である。

もし、猪肉、鹿肉の文化が残れば、その調達のための村人の共同作業が培われる。

狩猟に限らず、自然農法は共同作業を前提とする。

ノウハウの継承が培われる。

ノウハウとは、種の保存から、育成技術、そして、その加工方法全てである。

小菅村にも縄文時代から人が住んでいたと言われる。

その後の文化の継承が途絶えたことは、改めて検証しなければならない。

 

小菅村には、様々な職業が発達している。

その1つは木材に関するものだが、鍛冶屋等も存在するようである。

淡水魚としてのヤマメの養殖も村人の努力である。

村民力はこうした総合的技術(ノウハウ)の集大成であるが、それは自然の中で鍛えられる。

村民力は自然(資源)と合わせて、地域力を作り上げるが、その地位気力が見積もられたことはなさそうだ。

もちろん、畑作等の農地の広がりも重要である。

家畜の飼育も重要であるが、現状その気配は少ない。

あるとき、今は亡き小林忠太郎が小菅村に興味を示した。

彼が言うには山間の多い地域では羊の飼育が最高だと言うのだ。

羊の肉は蛋白源としては最高fである。

しかも羊は山間部の雑草を食い尽くしてくれる。

いつか、山間部での山羊とか豚の飼育が最適であるとのニュースが流れた。

原理は同じである。

 

狼も住んでいた小菅村に、果たして羊の飼育が可能だろうか。

家畜の地域は、こうした山の獣の存在に影響される。

現状は、畑作の農産物を獣から守るので精一杯である。

小菅村が、自然農法を維持し、自給自足を復活するには、こうした獣対策等も必要となる。

その意味でヤマメの養殖は成功している。

鵜とか鴉とか、鳥対策もなされているが。

これとて、現状は輸入餌だが、ミミズとかの餌が開発されて良い。

ミミズの存在は自然農法(有機農法)では欠かせないものだ。

ミミズは猪が好む。猪の存在をどの程度制御出来るのかも、自給自足の決定的な要素である。

自然農法と言っても、こうした蛋白源の確保など総合的な計画が求められる。

最近、有機農法を偽った話が伝わった。

いわゆる、有機肥料に人工の窒素化合物の混入を混入するという詐欺行為である。

それほどに有機農法が期待される時代になっている。

小菅村での条件は最適である。

にもかかわらず、こうした対策を誰が計画するのか、今のところのその兆候は無い。

 

◆有機肥料

有機肥料とは、家畜(牛、豚、鶏など)の糞を集積したものだ。

多くの場合家畜には輸入餌が使用される。

これを使用した場合には有機農法と言えども自然農法とは程遠い。

自然農法の基本は循環型である。

有機肥料は自然が作り出す有機物によるものだ。

人口餌での有機肥料はその原理から外れる。

それに科学物質を混入しなくても人口餌は何が混入しているか分からない。

 

有機物は自然が作り出す。

それは、家畜の糞もその1つである。

ところが、人口餌の場合には、たとえ家畜であっても何を食しているか分からない。

小菅村での家畜の飼育は、餌が豊富にあることから有効である。

NO.09では、エゴマの栽培の意話の中で渡り鳥の話を書いた。

今も、エゴマの収穫時期だ。

渡り鳥がいっせいにエゴマを食べるために集まっている。

今日はエゴマ畑の異常な異臭に気が付いた。

これは渡り鳥の糞である。

彼らは、自然に育つ植物の実を育む。

たまたま、わがエゴマ農園は、渡り鳥の餌場となり、彼らの糞で異臭が蔓延した。

10年前の私がキビなど雑穀を植えたとき、山鳥が集まり、見事食い散らかされた。

このときも同じ異臭であった。

これは自然農法にとっては朗報である。

家畜代わりに渡り鳥が、有機肥料をもたらす。

もちろん、家畜の飼育も原理は変らない。

小菅村での有機農法の基本は落ち葉の投入である。

落ち葉は、山道を塞ぐほどの量である。

私は、村人が落ち葉を畑に投入するのを見て真似て現在落ち葉を畑に投入している。

最初はバイクで運ぶという大変な作業であった。

そのうち、パートナーが出来て軽自動車での運搬である。

それでも村人が軽トラックで運ぶ落ち葉投入量とは桁違いである。

今後の課題である。

 

落ち葉の前には草や落ち葉をえひめAI(源流きらり)を使って腐らす方法を考えた。

それは村人が落ち葉を投入する行為を見る以前の話である。

私は出来上がった、堆肥を長老に自慢したものだ。

この時には、ヤマメの養殖場の下水汚泥を堆肥化する試みも行い成功した。

このときのエピソードではあるが、汚泥に加える草が不足し、ヤマメのオーナーの妻(純子)が大切にしていた、ゴーヤまでも抜いてしまった。

既に花が咲いているゴーヤの一群を雑草として処理してしまった。

これを知った彼女の怒りは頂点に達していた。

「何のための堆肥つくりか」と私はその光景を今も覚えている。

私は、それほどにえひめAIによる堆肥つくりは最大の関心事だった。

ただ、草から落ち葉への移行は、私の作業も心も安定していった。

今も、畑には源流きらりを落ち葉と一緒に畑に撒いている。

有機肥料は自然農法にとって不可欠だが、それは有機物を循環させる基本でもある。

 

一番、問題となるのは、家畜以上に人間の下水汚泥はもっとも重要である。

昔は、人間の汚泥を腐らせて田畑に撒いたものだ。

現状は下水汚泥は、脱水して焼却される。

ところがその10年前に知った話だが、オウム真理教が巣食っていた上九一色村で、彼らを追い出した張本人が、人間の下水汚泥を肥料に変換させていた。

山梨県一帯の衛生組合からの下水汚泥を集め、製造した肥料を山梨県や長野県の農業者に販売している。

私は、木下純子村会議員とともに見学に行き、そのことを確かめた。

この循環は理想的である。

ただし現状、人々は薬を始めあらゆる食物を摂取している。

その結果、製造された肥料がどのような成分を含んでいるかを分析することは難しい。

人の害となる物質が含まれて居ないとは限らない。

このことを含めて、人間が排出する下水汚泥をそのまま肥料化する困難が伴う。

ただ、小菅村の食生活は自然食に近い。

言うなれば、自然の方を前提としての食生活である。

従って、小菅村の下水汚泥が上九一色村に運ばれ肥料にされていることは問題なさそうである。

これは特殊な例である。

こうした有機肥料を巡る循環が実施されるには、人間の食生活の監視、いわゆる食生活の監視が必要となる。

 

◆資源循環

山間部に雨が降り、河川が水を運び、海に出て、海では蒸発水として雲が出来、そのまま山間部に運ばれて、雨として山間部に雨めとして水をもたらす。

この種の循環は誰でもが知っている。

この循環は当然過ぎるのだが、何故かこの当然の理を人々は忘れている。

山間部が荒れれば、河川への流入が無くなる。

これは山間部の保水力が無くなったためだ。

それを補うためのあらゆる方策が加えられるが成功例は少ない。

河川で水が運ばれてもその水は農業用水、工業用水や飲料水として使われて、そのほとんどが途中で無くなる。

その水は一部下水汚泥として川に再放出される。

農業用水、工業用水などは、農薬、化学物質を含む汚染水として川に放出される。

もちろん、最近では工業用水は循環利用が進み100%近くが循環利用、排水が無い状態である。

ただ、全ての農業用水、工業用水が循環利用されているわけではない。

川の水は汚染され、海に注がれる。

海は汚染が進む。

ここでは、、海が汚れることで水の循環が損なわれている。

 

水循環が起こるに平行して物質の循環がある。

山には、水と同時に有機物が蓄えられる。

有機物の腐敗はバクテリア、微生物が育ち、川に流れてプランクトンに食される。

プランクトンは小さな魚類を育み、小さな魚類は、より大きな魚、鳥などに食され、そのまま海の動植物の栄養源となる。

海の動植物は人間を含む、植物連鎖を通して、より高位の動植物に食される。

海は動植物の死骸の宝庫として、塩分を含むあらゆる物質資源が蓄積される。

海での水の蒸発はこれら資源物質を海に凝縮させ続ける。

ここでも、物質循環が損なわれる。

こうした、水循環、物質循環の損傷を補うには、余り有効な手立ては無い。

話は脱線するが、物質循環で極めて忌々しき事態が発生している。

 

小菅村では、山には、廃棄物は捨てないようにしている。

瓦礫でもそうだ。

水源を背負う小菅村の心意気でもある。

ところが、日出町ではその山頂に廃棄物処理施設を作った。

いわゆる二塚処分場である。

都市部で焼却した廃棄物を山頂に埋め立てると言うものだ。

反対運動も華やかなようだったが、広域ごみ処理派が勝利し、この種の異常な処分場が出来上がり、処理場撤去の裁判でも処分場反対派が敗北している。

この流れは、東京都八丈島、福島鮫川村でも建設された。

山から都市への物質循環を都市から山へと返す、一見物質循環を先取りする形で行なわれるこの問題は大きな間違いを犯している。

相手は廃棄物である。

その有害物質は山から都市へと再編集される。

これが放射性廃棄物においても実施された。

この馬鹿げたサイクルが実現されたことには驚くばかりであるが、資源循環を考える際のヒントにはなる。

山の資源は豊富ではない。

山を育てることは重要である。

人が自然の物質循環を維持するための1つの方策である。

以上 2016130

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