No.39 測度  207530

 

尺貫法(面積・広さ、長さ・距離、体積・容量、質量・重さ)

日本にはメートル法と尺貫法が共存している。

百姓で耕地を耕しているとこの尺貫法から逃れられない。

 

面積

私などは農家育ちで、耕作面積を坪、畝、反、町で覚える。

坪は畳2丈である。

30坪は1畝、10畝は1反、10反は1町である。

田んぼに出て、1反はどの程度か、1畝はどの程度かは経験的に覚えている。

生まれ故郷では1町の田んぼを持ては大百姓、数反で水呑み百姓。

1反当たりの米収穫は昔では6~7俵、1年に1回しか収穫できない米は数人の家族が生きていくため二は数反の耕作が必要である。

建物は畳が単位となり、畳何畳分と言う。

ここでは一畳は縦6尺横3尺として、長さの単位が導入される。

 

長さ

私は大工の家系で生まれたので、長さを測るには寸、尺である。

釘の大きさを示すのに現在でも一寸釘、二寸釘、5寸釘と言わないと伝わらない。

小菅で脱臭剤である源流きらり工場を作った時の会話はこの1尺、2尺、そして1寸2寸である。

畳の面積を測るときの縦横の長さを測る際の1尺は10寸。

釘の長さを測る際の1寸は10分。

更に1分は10厘、1厘は1毛まで区分される。

日本の家屋はこうした長さで古くから大工が伝統的に引き継いできた。

この大工が維持してきた伝統を変えるのは難しい。

遠出をする場合には1里塚があるように道のりは里で測る。

1里は36町、1町は60間、1間は6尺である。

私は田舎に居た時、歩く距離はせいぜい1里である。

それ以外の距離を感じたことはない。

 

体積・容量

米を測るのは1俵、2俵である。

米俵は藁で作られる。

米俵は稲わらで作られ稲わらで編まれた縄できつく縛られる。

酒は1升、2升、大酒飲みは1升酒と言ったものだ。

昔の武士は何石どりとかでその権勢を測る。

1石は10俵、1石どり武士でも数人が養える格好だ。

昔一人当たりの米消費量が2俵半と言われるからだ。

ただ、それを支える百姓の力を表す表示はない。

百姓は人ではないからだ。

ただ年貢は米の取れ高で集められる。

何人の百姓が関わるかは問われない。

確かに人頭税が問題になった時代がある。

これだと一人がいくら収穫できるかが問題となり実際には人の権利が認められたことになる。

逆に収奪が進んだと認識されている。

これは現在の民主主義の礎である。

1俵は10斗、1斗は10升、1升は10合、1号は10勺である。

酒を測るには1斗樽、2斗樽と言う世に樽で蓄えられている。

樽は酒を貯蔵するには最適な単位、測り易いし運び易い。

ただ、米に合わせて4斗樽もある。

勿論運び易い測り易いが特徴だ。

樽は通常は檜作りである。

香りが素晴らしい。

樽に対して升桝がある。

桝は1升桝、5合桝、1合桝と色々だが桝酒は美味しい。

特に樽から注がれる桝酒は特に旨い。

昔からの酒の貯蔵法である。

醤油なども未だに樽詰めが多い。

小菅村でも源流祭りでは樽酒が振舞われる。

樽酒は祝い事では欠かせない。

 

質量・重さ、

昔パンを買うときには1斤、2斤として買ったものだ。

ただ、その単位が分からずにパンを多めに買うことが多かった。

実際には半斤が適宜な量だ。

要するに1本は1斤であることを知らなかったわけだ。

ただ、1斤、2斤は砂糖を買うときに使用していた。

日本では作って居なかったパンを1斤、2斤と測っていたのかは知らない。

1斤は160匁、100匁。160匁、180匁などいろいろ違った言い方があるらしい。

むしろ、1貫、2貫とした表現をよく使う。

100貫デブとはよく言ったものだ。

ただ、100貫デブがどの程度の大きさを表すかは知らない。

とにかく図体の大きいのを100貫デブと言ったものだ。

1貫は1000匁、1匁は10分、1分は10厘、

昔魚売りが海辺から魚を売りに来て買うときには1匁、2匁の単位だったともう。

実際にお金を扱っていないのでその量はさだかではない。

どうやら1匁、2匁単位は魚を測るには手ごろであったらしい。

幼少時代には父親がレンコンを作り母親がそれを近所に分けていた。

その単位は匁だったと思う。

幼少の頃私の家は店を構えていたので塩、砂糖の販売もしていた。

塩、砂糖なども匁退位を使ったようだ。

 

 

メートル法(面積・広さ、長さ、体積・容量、質量・重さ)

戦後は教育の場でメートル法が導入されたので、戦後教育を受けた私はメートル法に馴染んでいる。

ただ、幼少期の記憶とか大人の世界は尺貫法だったので、私の測度はどっちつかずだ。

 

面積・広さ

常識的には耕地面積でアール、ヘクタールが使われているのだが、私の頭は整理されていない。

山火事ではヘクタールが使われるが、その規模が想像できるわけではない。

東京ドーム何個分という場合の東京ドーム建物面積は4.7ヘクタール。

私の大失敗は私が耕す耕地面積。

小菅村役場の人が測ると1000平方メートル、にもかかわらず私の頭の中では目分量2反半の数字が消えない。

実は1300坪をそのまま平方メートルとして換算していた。

要するに山の斜面は平地よりもずっと広く見える。

思い違いも甚だしいく恥ずかしいことだが、この二年間の現実。

要するに山の斜面での広さの感覚は当てにならないことだった。

20年前には文京区の邸宅60坪強を借金のかたに取られてしまった。

この時も建物面積180平方メールが理解するのに苦労した。

100平方メートルは1アール、1000平方メートルは10アール1300坪である。

1000アールは1ヘクタール。

面積はもともと距離の二乗である。

縦・横の虚位を乗jじたものであるので、表示方法が二種類ある。

いわゆる平方メートルとアールの表示。

 

長さ・距離

昔高校時代、10マイルマラソンが恒例だった。

1マイルは1600m、10マイルは16千mの距離だ。

自転車通学が許可されるのは2km以上、私の家は高校まで2km足らずなので不許可の範囲である。

もちろん、こうした感覚が身に付いていたわけではなく、通学は厳しいと感じていた。

ただ、小・中・高で行われる運動会は全てメートルである。

100m、200m、400mと頭に叩き込まれる。

数学でもメートルしか使わないのでそれなりに頭が整理されている。

1メートルは100センチメートル、1センチメートルは10ミリメートル、そして1ミリメートルは100ミクロン、1ミクロンは1000ナノ。

距離の方でも星までの距離は光の速さの倍増で表される。

もともと1メートルが地球の北極点とし正午専線との距離の1000分の1である。

この単位を絶対量と決めているのでもとに戻せばいかがわしいものだ。

勿論、このいかがわしさを疑問に思うことはなかった。

ただ、強制的に決められたメートル法、いつか絶対量に置きなおされることがあるだろう。

光の速さは秒速30万km絶対量なので、それに基づく換算があってしかるべきだ。

勿論、この光の速さが絶対量だという保証はない。

 

体積・容量

最近はペットボトルとか、缶とかが流行っているので、その容量を1リットル、1ミリリットルなどで表示することが慣れてきた。

1ペットボトル1.8リットル、1缶コーヒーは180ミリリットル。

ここでも面積と同じに東京ドーム何個分と言うことになる。

教育現場ではビーカーなどでリットル、ミリリットルで教わる。

水道水などは使用料としてリットルが表示される。

ただダムなどの貯水量は数万リューベである。

1リューベとは風呂桶でほぼ半ばい分。

面積と同じに体積は距離の三乗である。

縦・横・高さを乗じたものである。

従って、その表示もリューベ、立法メートルの2種類がある。

昔から私はこの表示方法を混乱していた。

いわゆる立方メートルとメートル立法の違いである。

立法メートルは三乗したもの、縦・横・高さを乗じたもの、メートル立法は三乗しないままのもの、縦・横。高さを乗じない以前のもの。

この違いを識別するのに苦労したのを覚えているが、この混乱は避けようがないのだろうか。面積とて同じである。

要するに測度表示が定かになっていないのである。

 

質量・重さ

水の重さは水の体積と同じだと覚える。

いわゆる1リットルの水は1kgである。

1kgは1000g、1gは1000mgである。

貯水量1万トンは1万リューベの水が蓄えられていることになる。

ただ、水以外だとその重さはまちまちである。

ただ、我々は体重計、重量計、天秤棒などを用いていて意外と自然に重さに接する。

地球の重力による地球中心への引っ張り力が均一だと考える。

私が小さいころの秤はいわゆる天秤棒である。

バネばかりを知ったのはずっと私が大人になってからの話である。

米に始まり魚、穀物、野菜に至るまで天秤棒は貴重な役割を果たした。

 

測度の混乱

尺貫法が日本の伝統的な速度であったことは事実だ。

それをメートル法に変えることで、その利点はどこにあったのだろうか。

世界共通の速度を持つことで、日本の生産物が世界に出回ることが出来る。

明らかに日本の文化ではなくその他の生産物が世界に出回ることを助けた。

それは正しいことだろうか。

同じようなことが為替相場、円、ドル、ポンドなどでも言えることだ。

国の文化を支えるものは尺貫法に支えられてきた文化である。

文化の問題は言葉の問題でも言える。

日本語が英語に取って代わられて日本文化が斜陽化する。

英語という単純言語を大事にする風潮が強かった。

ただ、世界は多様性へとシフトが始まった。

多様性の基本は言語の多様性である。

数万以上伝えられたコミュニケーション文化、それは多様性そのものだ。

生物の多様性、絶滅危機種の温存のための努力は先ずは言語の多様性の保障である。

私は昔に多様性の問題について朝日新聞へ論文寄稿したが排除された。

コンピューター技術の基本はこの言語の多様性を生かすための道具である。

いわゆる、測度から始まり、言語、文化の多様性を生かすことが生命の尊厳である。

世界を統一化しようとする悪しき思考が文化で無く経済を潤しているが、人や生物の貧困は拡大している。

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