No.54 道の駅 2018215

えひめAI

小菅村で源流きらりの製造を始めて、もう10数年以上になる。私がまだ、文京区の家に居た頃愛媛県に住む日大全共闘芸術学部闘争委員長であった愛南町Yとのメールのやり取りで、愛媛県工業試験所の曽我部所長が素晴らしい発見をしている事を聞いた。その時には、この発見されたえひめAIが、うりぼうの餌に混ぜると良いとか,花の育ちに良いとかえひめAIを使った人々の話が中心であったと思う。

そして私が一身上の都合で小菅村に隠遁しなければならなかったときに、最初は何を為すべきかを迷った挙句にその1が小菅村はとりあえずは全体風景に魅せられて、神社、山波、集落などを写真に撮り始めたが、そのテーマ性には難しいものがあった。それでもひょっと思い出したのが、小菅村は源流谷川の集落、そこには橋が架けられて、集落相互のコミュニティが維持されている。一体全体どれだけの橋があるのだろうと興味を持ち出した。興味をもちだすと不思議なもので、次から次への橋が発見されるので、うれしくもあった。

橋の写真「源流いろは橋」と名付けて毎日橋を撮影し、記録に残そうとやはり日大全共闘文理学部出版業のKにデジカメを借りて記録することにした。途中キャンプ場経営のYが親しく近づいてきて「何している」と聞かれ「橋の写真を撮っていていろは橋としたいので」と答えると「小菅村にはそんなに沢山はない」と言われ、これは事実と違うと橋への興味がグーンと増した。そして、雨の日も雪の日も橋の写真を撮り続けた。そのような私の姿を見て、私の小菅村への隠遁を助けてくれた村立大学提唱者Dが日本の右翼の一人が「日本の橋」を書いていると見せてくれた著作を見ると、著作者は猿橋、眼鏡橋など万葉集などに出て来る有名な橋の実話、逸話を集めていた。私は、こうした著作方法に疑問を抱き私の小菅村橋撮影に益々のめり込んだ。

丁度、小菅村に住むには「70歳おばあさんでも乗っているバイクぐらいは乗れないようでは」と染物業Kの挑発を受けて、バイク運転免許証を取ることに決め三回の筆記試験の結果合格したバイクが乗れるようになっていたので、写真撮影はより円滑に実践できた。勿論私の写真は芸術性とか事実性とかを狙ったものではなくて橋が存在する事実を残すためのもので、まるで執り付かれたように橋を探し求め、その数2百を超え、小菅村役場に登録されている30足らずの橋をはるかに上回る成果を上げた。

その中で親しくしてくれた養殖業K(実は染物業Jの旦那)から養殖場でのイワナ、ヤマメの餌が高騰するので困ったものだと話すのを聞いて、実はメールをやりとしていたえひめAIがウリボウの餌に聞いているとのYの話を思い出した。すぐさまYとのメールのやり取りで、愛南町では鯛養殖が日本一、その養殖場でえひめAIが使われて居ると聞いた。養殖の餌代高騰に困っているとすればえひめAIを使ったミミズ養殖が最適だとの情報も得た。早々に写真を撮って居るときに親しく声を掛けてくれたキャンプ場経営Yに相談すると村でもミミズ養殖をしていた長作集落の林業Mを紹介され電話すると、実はミミズ養殖は化粧品用としてやっていたが猪に荒らされるので今は止めたと。

実際に養殖業でミミズを餌とすることで「イメージが悪くなる」という疑問はあったが、養殖業Kさんはそのようなことはないと否定してくれたのだが、小菅村でのえひめAIを使ってのミミズ養殖は挫折した。ところが、それならばえひめAIが匂い消し、グリーストラップとかの油取りなどの効果があるとの情報が舞い込んだ。要するにえいひAIは万能なのだと。そこで、私は、愛南町のYのメールやり取りをえひめAIの効果を纏めてみた。

そして、とにかく現物を見ないことには話は進まないと、えひめAIの製造元に電話でえいめAIを送るように頼み込んだ。その製造元は製品を送ることに躊躇していたようだ。致し方なく愛南町Yにそのむね電話すると直ちに別の内子町製造業から1.5リットルのペットボトルを12本送ってくれた。値段はと聞くと中元代わりとYは言うので何かお礼をしたいのだがと養殖業Kに話すと、ヤマメの甘露煮をお礼にと無料で作ってくれて、愛南町Yに送った。

ところで、12本ものえひめAIの使用方法を模索するのだが、どうやら「おかしな爺がおかしな液体を持ち歩いている」との評判があり、殆ど相手にされなかった。養殖業Kの家すらがえひめAIはオクラ入り。その中で一人の女神ピザ屋Yが現れた。ピザ屋Yは細菌収集家であることが息子の話で判明したのだが、当初私がえひめAIを運び込んだ時にはやはり「おかしな爺おかしな液体」の印象だったようだ。ところが、私の話を奥の部屋で聞いていた息子が「母さんは細菌好き、えひめAIは細菌のことだよ」と声を掛けてくれた。それではとピザ屋Yはがぜん張り切り、ピザ屋のグリーストラップの汚れと匂いに苦しんでいたこともあって、直ちにえひめAIを使ってくれた。

1週間ほどして様子を見に伺うと、彼女曰く「恐ろしくてグリーストラップは見て居ない」というので、早々に私がグリーストラップを見ることにした。私がグリーストラップを開ける、彼女が除く、そして彼女は「きれいになった」と悲鳴を上げる。それは印象的な光景だった。

その話は直ぐに長作のHさんに伝わり、彼女は夫婦で私の話を聞いて畑の生ごみ箱コンポストが猪に荒らされるので早々に試してみると言ってくれた。キャンプ場のKも早々にキャンプ場のグリーストラップに撒いたので見てくれとと誘われ行ってみるとそこにも以前よりもきれいになったと異変が起きていた。

小学校、中学校などあらゆる伝手を頼りにえひめAI宣伝を1ヶ月以上行い、多くが門残払いする中で、最初にピザ屋の女神が現れ、そして少しの光明が見えた。この事情を愛南町Yに話すと、普及の勢いを付けるにはえひめAIの発明家曽我部氏を招へいが一番と提案してくれたので、早々に曽我部氏に連絡したところ二つ返事で了承を得た。

この勢いからすれば数か月もあれば何とかなるだろうと、曽我部氏の招聘を取り付けたのであるが、その時期は村のイベントの最盛期である10月に決定したものの、村の行事のぶつかりが多く、新たなイベントを開催するには至難であることが分かった。曽我部氏は10月初期にはオーストリア講演からの帰りでその報告も出来るのではと喜んで居たのだが、10月は無理と判断し、1ヶ月早めて9月の開催に踏み切った。

考えてみればスケジュールが組まれたものの、えひめAIが到着して1ケ月も経て居ないタイミングで発明家を招請するには宣伝期間、実践期間も短く、集まる人数に限界があり、余りに無謀と言わざるを得ない。でも賽は投げられたのである。1か月後の講演会の集まりに向けて、矢張多くの村人に声を掛けた。まだ、使った人は数人である。どうすどうするの悩み焦りの日々であった。

こういう時の日時の経つのは無常である。焦れども人踊らずである。愛南町Yは曽我部さんを呼ぶには夫婦で招請するのが良いと言われ、宿は小菅の一等旅館広瀬屋を予約し、初日には温泉、1日目は小菅村の秘境雄滝を案内することを決めた。勿論、費用を徴収するというイベントではない。

その日は晴天だった。案内は新住民Yに頼んだ。新住人故にまだ仕事が見つからず自由の身であった。新住人Yの運転も期待をした。最初案内しようとして小菅の湯が休みであったことだ。背に腹代えられず、急遽奥多摩ののめこい湯に案内した。小菅の湯もののめこい湯も秩父山系からの温泉であり、曽我部氏はあの有名な愛媛県道後温泉よりもアルカリ度が高いと喜んでくれた。

そして雄滝へ。雄滝の滝つぼに曽我部子夫婦は私と新住人Yの心配を他所になかなか滝つぼから上がってこない。どれくらい経ったであろうか、ようやく滝つぼから上がってきた曽我部子の一声は「心底心が洗われ、全てを忘却出来た」というものだった。その夜の講演会でも「滝つぼですべてを忘却し、講演内容すら忘却した」というものだった。

夕方の講演会前には3つの珍事が起きた。その1は染物業Jが試しにえひめAIでガラスを磨いてみるとガラスが綺麗になったというものだった。それ迄どんなことをしてもガラスが綺麗にならなかったというものだった。その2は橋立集落の養殖業Kからの連絡で山女魚の死骸の処理でえひめAIを使うと嵩が減り大助かりだったというのである。どうにかえひめAIを沢山仕入したいというものだった。その3はピザ屋Yが生ごみを埋めるときに愛媛AIを使うと、それ迄タヌキやアライグマに掘り返されていた生ごみが無事だったというものだった。

集まった村人は子供を入れて20人に満たなかったが、えひめAIの使用実験者からの報告は生々しく勢いがあった。曽我部さんの話も分かり易く集まった人々を魅了した。宴会も終わり、二次会を開いた飲み屋の席で橋立集落の養魚場に勤めるKは「私(満田)が死んだら死体を山にえひめAI」をかけて埋めれば良いなと、一挙にえひめAIの本質をものにした。曽我部さんが帰られた後の会合でも興奮治まらない中で、えひめAIの普及、えひめAIの製造、えひめAI工場の見学がトントン拍子に決まり、新住人Yをリーダーとする小菅村でのえいめAI製造計画が次々と実践された。

源流きらり

えひめAIは愛媛県で数十億円もの経費を使って実証実験が行われ、その勢いは全国を睨んでいた。ところが、曽我部さんと愛媛県の間に、普及を無料とするか否かで考えに隔たりがあり、結局従来型のえひめAIをえひめAI1とし、新たに普及するものとしてはえひめAI2とする取り決めが行われ、えひめAI2については総ての地域で自由に無料で製造が出来て、且つ地域にあった製品名で良いということだった。勿論、曽我部さんはそれを指導するというものだった。

小菅村でのえひめAIへの盛り上がりの中で、直ちにえひめAIを小菅では源流きらりとし、新たに立ち上げた有限責任パートナーシップ(LLP)小菅きらりで製造販売することになった。代表は当然新住人Yが指名された。えひめAI1とえひめAI2との違いはえひめAIが乳酸菌、酵母菌、納豆菌の餌として糖蜜を使うのに対して、えひめAI2はの方は糖蜜の代わりに三温糖を餌とする違いがあった。確かに糖蜜は安く大量生産が出来るが三温糖は高い。っただ、三温糖を使えば糖蜜独特のにおいは回避できる。また、LLPは新たに企業経営の方式として簡易的な起業を促す方式であり、山梨県で当時LLPを申請した中で2番目と早かった。

LLP小菅きらりの工場はキャンプ場オーナーであるY氏に土地を提供してもらい、その土地にカラオケボックス2台を並べて3棟の事務所を持つ建屋を造作した。カラオケボックスはでっかく一つでも事務所に使えるほだ。このカラオケボックスを利用するアイデアはやはりキャンプ場オーナーであるY氏のアイデア、木材は切り倒された檜を知り合いの山から持ってきた。これらの作業はキャンプ場オーナーであるYを中心に、養殖業K夫妻、金物やDなど数十人に及ぶ多くの村人の協力を得て、数か月で仕上がった。

工場を立ち上げを前にして、愛媛県内子町えひめAIの工場、内子町の道の駅、内子町の生ごみたい肥工場などを曽我部さんの案内で見学した。見学には、日大全共闘の芸術学部OやY,そして日大生産工学部M、それに新住人Y、染物業J、金物屋(実は村立大学提唱者)Dなどが参加し、2台の車を連ねての二泊三日の強行軍だった。勿論、松山城、道後温泉、金毘羅山なども見学ルートに入れた。

LLC小菅きらりの1年目は試験操業、様々の試行錯誤を繰り返しながら製品源流きらりを作り上げ、小菅村を中心とした販売網を造りあがた。当初はイベント会場での出店販売、青梅柚木森林組合での青空市ば、世田谷雑居祭り、渋谷のアースデイ、もちろん小菅村源流祭り、大地の感謝祭などでの販売を行った。イベント販売を通じての個人販売も拡張し最終的には通信販売網を新住人Yが確立した。

源流きらりの効果を巡る議論も多く、最終的には家庭内浄化槽、台所、トイレ、風呂場での利用が定着した。醍醐味は新たな畑改良剤として、山梨県の認可を受けたことである。畑改良剤としてのエピソードが3つある。

その1は畑でのたい肥化である。畑に1m立法の穴を掘り雑草、養魚場汚泥を埋め込源流きらりを散布することで、汚泥の臭さが無くなり、堆肥の匂いがするという実験成功であった。その2は役場が行っている生ごみたい肥「畑の素」製造工程で、源流きらりを使うことでを畑の素の品質が大幅にアップしたことである。その3は青梅での町田鉄工所の生ごみたい肥工場で、それ迄周囲のクレームが渦巻くほどであった工場の匂いが源流きらりを使うことで匂いが消えたことである。

更に青梅信用金庫が主催する美しい多摩川フォーラムでは多摩川流域子供発表会の場で、小菅村の中学生が源流きらりの製造法を堂々と発表した。そして、川崎川辺のフォーラムでは子供たちに源流きらりの製造法を学習させた。そして、青梅環境フェスタ、世田谷雑居祭りでの源流きらり製造学習が行われ、今でも世田谷雑居祭りでの源流きらり製造学習が続けられている。その中心はLLP小菅きらりとほぼ同時に立ち上げたLLC川崎きらりであり、源流きらりの普及・販売を続けている。

愛媛県内子町道の駅

内子町は愛媛県最大都市松山の近くに位置していて、昔は蝋製造の町として栄え、街には回る歌舞伎舞台があるほど裕福な町だった。最近はその栄華な町もすたれ、青年団が蝋の製造工場など昔の遺産を残そうとして頑張っていた。その青年団の中心メンバーがえひめAIの製造実験に参加し成果を見た。村全体でその実験を支え街角にはえひめAIを配布するタンクを置き、各家庭でえひめAIを持ち帰り、使用する体制を整えた。もともとえひめAIは各家庭でのえひめAIの使用が各家庭での下水浄化そして最終的には瀬戸内科医の浄化に繋げるという壮大な考えに基づいて開発されたものだ。

その内子町で、今まで使用していた土壌改良剤EM菌に代わりえひめAIを利用する農家も増えた。何にも増して、内子町道の駅ではえひめAIを使用した農産物のみ出荷を求めるという奇策で、化学肥料、化学薬品使用農産物を回避した。この奇策が当たり、内子町は松山市民の心を取らええ、松山市からの買い物客が増えて道の駅の売り上げが倍増した。

小菅村道の駅

数日前小菅村道の駅の出店者の親睦会が開かれた。3回目の会合であったのだが、私が参加したのは初めてだった。小菅村の生産者が約150人居る中で出店しているのは約50人だそうだ。小菅村の政策をサポートを行う「さとゆめ」というシンクタンクによれば、農産物の出荷が夏場にピークを持ち、それは小菅の湯利用客とのピークと一致しているようだ。

谷間に連なる小菅村の耕地は狭く、その生産量は少なく、どちらかというと自分の家で消化できないものを道の駅に出すという、お裾分け的なものだ。生産者は数少ないでも生産物の味には自信がある。自らが食して旨いと思うものを出品するのだから。私自身は村人でないので発言は控えていたのだが、今後の道の駅の夢を持ちたいとのF理事長の発言があったので、ついつい言葉にしたのがえひめAIと源流きらりの話だった。

もうえひめAIを村に紹介し、源流きらりを製造に至ってから10数年を経ただろうか。両者とも全国普及はしているものの、肝心の小菅村ではその面影が薄い。何故だろうと何時も頭をよぎるのだが、アイデアはない。でも、今回開かれた道の駅の会議は私に絶好のチャンスをくれたようにも思える。、

もともと道の駅とは道路が普及するについて、道路沿いに車客へのサービスを目指したものであるが、車族は全国から集まりその産地の特産物を買っていく。その地域の発展にも役立つという地域にも道路運営者にも利益が齎せるというものである。地域によっては眠っていた特産物が活かされることが多い。

それでは小菅村の特産物とは何だろうと考えねばならないが、耕作面積も狭く森林に囲まれた特産物とは南アだろうと考える。確かに野菜類にはその美味しさには定評がある。清流に育つ山女魚、岩魚、鱒、山葵にも素晴らしいブランドである。昔は、山林を利用した養蚕、蒟蒻、麻など栽培にも関心が移ったようだが、それらは大量生産品とても競争に勝てるものではない。とにかく集約農業でしか小菅村の特産物は余りに作業量が多すぎる。

周囲の美しい景観は観光客に喜ばれ、旅館業も盛んだった時代もあったが、現状自動車の発達の中で逆に日帰り客は多いものの泊り役は減少一歩である。道路の発達は、その途中集落を荒らしていく。その途中集落に余程の魅力がないと、素通り交通として排気ガス、騒音だけが残される。

最近には東京から大月へ抜ける松姫トンネルが開通し、小菅村を通過する自動車族への期待が強くなったのだが、このことが単なる通過交通に終わるのか、それとも小菅村に留まる車族を引き寄せることが出来るのかの正念場である。

その中で、今でも期待されているのは小菅村の人々の培われた共同意識、共同性精神だ。私たち都会者が入村しても快く受け入れる小菅村精神は、閉鎖社会には珍しい。今前は此の閉鎖社会故に留まる都会育ちの憩いの場所でもあった。観光地ではない豊かな人情が売りの社会だった。この小菅村精神が道路交通の発達で維持できるであろうか。そのアイデアが待たれる。

孤立して居れば維持されるはずのものが開かれても維持できる小菅精神とは何だろう。それは村の象徴として立ち上げられた道の駅に大きな期待がかかる。そのストーリーとは小菅精神に裏付けられた物産品の展開である。

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