No.003 コミュニティとしての小菅村 20150805

◆小菅人とは

小菅村を風景として招くのは難しい。何故ならば、私は小菅人でもあるからだ。

人々は小菅村を風景として見て取る。余所者であった私もその時があったようだ。と生前の故土肥さんはよく言ったものだ。

「小菅の人から10年すまないと1人前で無いと」

ところが、彼は、2年前20年目にこの世を去った。
彼は小菅人の資格を得たであろうか。彼は生前自分の小菅村に墓を作り、いわゆる骨を埋める覚悟であった。墓地を買ったと自慢げに話していた。
 彼は、交通安全協会の役員になり、非常に嬉しそうだった。「制服がよく似合う」と茶化したものだ。100パーセント自然塾という小菅村の自然通が集う会の会長にもなった。
 それでも彼は東京都府中にある「カナヘン」と言う会社の社長を辞めることは無かった。「借金さえなくなれば息子に会社を譲り、小菅で隠居暮らしする」が口癖だった。その日を待たずに彼はこの世を去った。
 一周忌の場所で彼が村の寄り合いを欠かすことは無かったと村人が話していた。果たして彼は小菅人の資格を得たのであろうか。

家は、字余沢の御岳神社の裏側、集落から50mほど離れたところである。この宅地間の距離は村では普通である。
 私の実家のある、兵庫県たつの市揖保川町野田で、小さい時(もう70年前になるだろうか)に神社からも集落からも離れて建っていた家について、子供たちは余所者扱いをしたことを思い出した。
 私の実感は正しいかどうか判別しがたいが、休みの日しか立ち寄らない故土肥さんが、村人と会話することはほとんど無かったのではないかと感じた。村人として10年過ごすという意味は何か私の頭の中に今も存在する。
 縄文人時代から住んでいる先人としての小菅人と果たして同じ資格を得ることが出来るのか。
 確かに私は小菅村に私の実家のある野田部落(70100軒)の風景に似たものを感じている。でも、私の実家の集落は弥生土器の出る山の下にある。それを継承する村人の心を知って育った。小菅人とて違いは無い。
 私が小菅人としての資格は得ることは難しい。それでは故土肥さんが言っていた「村人になるには10年必要だ」というセリフは何だったのか。
 きっと、それは「対等に話ができる」「腹を割って話が出来る」というものようだ。
ということは、私は小菅人としての資格を得るなどと難しいことは考えないことだ。すなわち、村人と会話が出来るようになるには10年は必要だということだ。
 私もそうだが、現代人は大きな間違いを犯してきた。会話が出来ることと資格を得ることとを同一視してきたことだ。
 民主主義といえば、選挙の資格、組織人としての資格、あたかもそこで人格が認められたという錯覚を感じている。 確かに小菅村の人々もこの民主主義の資格とやらに錯覚を感じている。だから、表向きは余所者も同等に話が出来ると思っている。
 ところが、それは錯覚である。
人々は互いに重たい荷物を背負っている。その荷物を少しでも軽くしてくれるのは極少数の人々だ。小菅村という村には、この少数の集まりが重なったものだ。随分と長い時間を経て。

◆コミュニティとは
 私には、コミュニティという言葉を随分と使ってきた時がある。その言葉の理解は今では間違っていた。それが前節での感想である。
 コミュニティとは、日本社会が権力主義の中で地域を行政単位で区切ってきたが、例えば、私が住む小菅村では、山梨県北都留郡小菅村字余沢、この字余沢とは別名集落である。
 集落は人々が比較的接近して住んでいる。いわゆる人々が日常的に接触できる範囲である。この集落が、大小さまざまであることは当然である。
 ただし、その集落では、人々のコミュニケーションは必須である。更に、生活圏としての自給自足の確保が必須である。
 生活圏としては、最低限水、山もしくは平地が100m以内に存在することが必須とされる。こうして千年以上継承された集落が、日本の集落の基礎である。小菅村もその1つである。
 現在はこの集落が限界集落として注目を浴びているが、果たして、それは本当だろうか。

私は小菅村の村会議員に連れられて長野で開かれた「小さくても美しい村」の全国大会に参加したことがある。ここでは、小菅村のような集落を持つ村々が集まっていた。限界集落が決して「限界」でないことを示していた。
 むしろ、限界集落という表現そのものが間違いであると話されていた。
そして、結果として、行政単位である集落がコミュニティとして論じられているが、それは行政が仕掛けている集落の再編であり、いわゆる集落を表現するための言葉が不足していると思われる。
 もちろん、集落は集落でよいのではないか。
 では、行政が再編してきたコミュニティはどうなるのか。
日本的国家では、このコミュニティを中心とした国家運営が行われている。集落もその1つとして認知されているが、現実は村単位、自治会単位(行政区)である。
まさに、この自治体こそが国家の基本となる。
 自治体の機能はまちまちであるが、言葉として、民主主義の代名詞として言われる。すなわち、戦後の近代化とはこの自治会の創設、継承として行われている。
コミュニティとは自治会であり、住民と国家を結ぶ単位でもある。

◆隣保制度
 隣保(隣組)制度は、私にとって暗いイメージである。
ところが、小菅村では隣保制度が活かされている。行政の連絡事項はこの隣保を通じて行われている。村人にとっては行政との連携では欠かせないものだ。
 私の暗いイメージとは、私の幼少のころの戦争体験である。戦争体験といえども、私が直接隣保制度に関わったものではない。それは、日本が戦争を維持する際に、この隣保制度が利用されたと言うこと聞いたためである。
 一番、印象的なのは徴兵制である。
私の長兄は志願兵として戦争に行くことを決意させられた。生活物資の調達はこの単位であったように思える。一番嫌だったのはイナゴ味噌汁の共同配給だ。
農家である私の家では米の供出が義務付けられている。米だけでなく、あらゆる強制的物資調達はこの単位のようだ。
 でも、隣保制度はがっちりした連帯組織である。神社、お寺の世話もこうした単位が中心である。近所付き合いは強い。排除されることは無いが、日頃の付き合い努力は大変なものだ。
 きっと、こうした連携で、赤狩り、思想狩りもあったのであろう。今でも、その可能性はありえる。民主主義、近代主義が進んできた日本では考えられないことだが、実はこれが日本の底辺なのだと思っている。

ところで、小菅村は、今は稼ぎの夏。
夏、この数ヶ月で1年分の稼ぎを行うと村人の心も躍るのですが、いわゆる観光事業、従来の小菅村が破壊されていく姿です。この事業に乗っかる若者も多いですが、私は余所見。
 従来の小菅村を取り戻せるか、小菅村の将来像ですが、意外とこの隣保制度の存在が活きてくるかもしれません。観光事業は小菅村近代化の象徴で、隣保制度は小菅村の過去の象徴。

以上      No.2へ   No.4へ