No.16 小菅村源流祭り  2016年4月20日

 

◆源流祭り

小菅村の最大イベントは5月4日に開かれる源流祭りである。

この日は村人総出で来村者をもてなす。

来村者が1万人を超えることで、村中が交通渋滞である。

とにかく会場の収容能力が5千人規模だと思うのだが、そこに向かう道路が3本である。

1本は上小野原方面鶴峠経由・大月方面松姫峠経由小菅の湯から、一本は奥多摩湖青梅街道経由からの小菅川川下から、もう一本は塩山・丹波山・今川峠経由。

一応は国道・県道を経由するものの、道幅も狭い。

村人からはこの祭りが果たして村人のためになっているのかと疑問の声も多い。

 

5月連休とは小菅の春最中。

燃えるような若葉は小菅の山々を彩る。

わざわざ祭りを行わなくても人出は多い。

それに700人足らずの人々が1万人のお客を受け入れることは並大抵のことではない。

もちろん役場の職員はそれが仕事であるが、村人にとってはボランティアである。

日ごろボランティア精神の強い小菅人であるが、この日は特にそれが強制される。

特に、女性陣は大変である。

部落ごとの出し物がそのイベントの中心である。

出し物は女性陣が踏ん張る。

蕎麦、大福、ご飯など8ある部落の人々がそれぞれの特徴を生かして客をもてなす。

商工会、漁業組合、源流大学、100%自然塾、百姓の会などもイベントを支える。

会場中央での獅子鍋は人気が出る。

昔はイノシシのまる焼きが人気があったようだが最近は中止になった。

多摩川下流の市町村、青梅、福生、稲城、狛江、川崎などからも応援が来る。

それでも、ごった返した中で来村者は、小菅の人々は何を得ていくのだろうか。

どっと疲れだけが残るのではとも考える。

 

祭りの中心は中央会場での演歌歌手、神楽、太鼓などの村人の出し物。

それほど高額ではないものの、演歌歌手には村人の人気が集まる。

でもそれが終わると人々がどっと去る。

神楽、太鼓などは日ごろの練習の成果だろうか。

でも、大勢の来客者に伝わる見世物でもない。

今までの行事は昼の部だが、夜の部はそれなりの趣がある。

 

松焼きは一番の人気だ。

1月はそれぞれの部落で、小さいが趣のある松焼きが行われるのだが、源流祭りでの松焼きは大きく荘厳である。

大菩薩から修験者が来て水を讃え、火を讃え、多摩川源流の大切さを訴える。

修験者によって火つけられたどでかいとんどは谷間を焦がす。

私も中学生のころ子供会をひきいてとんどを作り、村中で祝ったことがある。

私の田舎でとんどは、4本の巨大な松でやぐらを組み、その中に子供たちが集めた勝北を積み上げ、周囲には村人から調達した稲わらを積み上げる。

ただ、当時は遊びであったが、源流祭りの松焼にはストーリがある。

きっと私たちが作ったとんどにはストーリがあったのであろうが子供にはそのことは伝わらない。

楽しい思い出だけが残る。

源流祭りのとんどは大人の誰かが作り、見たからに人工的である。

消防隊に囲まれて、おどおどしている。

私には違和感があるが、人々は満喫しているようだ。

昼の部に比べ夜の部は人出が少ない。

その中で松焼の後には花火も打ち上げられる。

谷間にこだまする花火は素晴らしい。

広がる花輪、こだます音は凄まじい。

初めて見たときはその凄まじさに山に住む鳥獣がかわいそうだと感じたものだ。

源流祭りが開かれる1週間前から、小菅川をはさんで山から山へと渡したロープに鯉のぼりが数百飾られるのも見事だ。

最初見たときにはこの壮大な風景に感激したものだ。

それにしても、この巨大なイベントに見物客は少ない。

これを目当てにした泊り客が旅館を潤すと思うのだが、どの程度だろうか。

源流祭りは巨大なる消費である。

小菅村を売り出すにはなくてはならないイベントとして暗黙の了解があった。

果たして、小菅の人々がそう思っているとは言えなくなった。

疑問の声も多い。

今後の動向が気になる。

 

何もないけれど良い村

源流祭りに象徴される小菅村の将来像は見えにくい。

一時は3千名近くいた住民が今は700人強。

村の将来に見えるのは限界集落だろうか。

小菅村は、東京の奥座敷、秘境とも言われる。

東京人は小菅村をどう見ているのだろうか。

「何もないけれど良い村」との看板が目に付く。

小菅村の原点でもある。

源流祭りは勢いのある村の姿を引きずったものだ。

それが衰える中で人々の悩みが生まれる。

それが「何もないけれど良い村」の看板を作ったのだろうか。

昔友人を小菅村に誘った。

その友人は「小菅村には何もない」と言って私の招待を断った。

私の子供たちは「小菅村は遠い」として小菅村に来たがらない。

でも、私の知人、友人が小菅村に来ることは多い。

すでに3人もの知人が小菅村に住んだ。

私はこの東京の秘境、奥座敷に興味がある。

人々の興味が湧くこの実情に沿った営みが必要であると考えている。

 

私は「源流橋の歴史」として作文した。

この作文は何時か小菅村の将来を導くものと考えている。

「何もないけれど良い村」だけれども、源流橋に見られるのは伝統的な橋文化である。

橋にはコミュニケーションの原型がある。

人々は隣の人に会うときさえ橋を必要とする。

山間部の生活である。

人々の生活圏の広がりを橋に託す。

小菅村は観光立村を目指すのだろうか。

「何もないけれど良い村」は観光立村を意識しての看板である。

私はこの看板を小菅村の原点と考える。

問われているのはだからどうするのかの問題である。

それでも観光立村を目指すのであろうか。

すでに「環境容量」、「自給自足」の原点は伝えてきた。

観光立村はこの原点と相反することだ。

そして源流祭りは今のところ、観光立村を意識してのことだ。

私が昔経験したとんどは村人のため、というよりも子供たちが避けては通れない祭りだった。

源流祭りがその姿を取り戻すのだろうか。

その条件は何時のことだ。

 

◆小菅村の原点

東京の秘境、奥座敷は東京人の言葉だった。

それは東京人の憧れだった。

東京人が憧れながら差別の言葉でもあった。

小菅の人々はそれに耐えた。

逆に小菅仁は東京への憧れを抱いた。

自らの土地を捨てて。

この流れが小菅村を限界集落へと導いた。

この流れは止まるだろうか。

止めるのも止めないのも小菅人次第だが、その判断は見えない。

その判断が役場に任される限りでは、この流れを止めることはない。

 

住民自らが考える道に目覚めることだ。

限界集落とは何かである。

それは都市にあこがれる住民感情である。

「小さいけれど元気な村」が限界集落としてレッテルされながらプライドを持ち続ける多くの村だった。

小菅村にはその条件が揃っている。

何よりも縄文時代から人々をは育んできた山々がある。

人々をつないできた谷川がある。

谷川は豊富な水を運び込み、村人の命を育んだ。

人々は山の幸、水の幸にまもまれながら山間部での孤高を楽しんだ。

その人々を利用する輩が時代とともに通り過ぎた。

今は東京人が小菅村の人々を利用している。

小菅人が孤高を愛する時代が過ぎようとしている。

その豊富な水と山々は小菅人が守ってきたものだ。

この自然を守る限り、小菅人は生きる楽しみを継続することができる。

逆にこのこととは逆にこの自然を東京人が利用するがままに放置すると小菅人の居場所もやがてなくなる。この自然を維持する規模は小菅人の規模を物語る。

それは小菅人だけで守れないことは当然である。

その規模を探るのが今後を証明する。

以上 2016420日      No.15へ    No.17へ