「源流小菅村農作業通信」 満田正

No.1 小菅村へ 2015/07/03

久しぶりに東條さん、木ノ下さんの両人が小菅村に来てくれた。

東條さんは、我々の共通の友人故三浦幸雄の住んでいたところを偲びたいと、木ノ下さんは前から小菅村に興味を抱き、小菅村をもっと知りたいという欲望にかり出されたということだろうか。

私を含めて素性の違う3人の出会いには多くの物語がある。

と言うものの、ここでの物語りは小菅村について知りたいという木ノ下さんの要望に答えるものである。

そして、その話のキーワードに元三浦幸雄さんが絡んで来る。

 

故三浦幸雄さんと私、そして小菅村

彼との出会いは、年間売り上げ400億円という日本でソフトウェア流通業界では㈱ソフトバンクにに次ぐ業界第二位の㈱ソフトウェアジャパンが業界第三位の㈱カテナに吸収合併されようとして不履行になり倒産を強いられ、それを巡る民事訴訟で、たまたま知り合いのソフトウェアジャパン代表取締役昆野さんからのお願いを受けて、原告団を引き受けた時だった。

当時は、4人原告団は全員が企業の代表であり羽振りは良かった。

ところが、裁判が進行する間に4人ともが代表している会社が倒産するという事態に遭遇し、その日暮らしもおぼつかない状態に陥った。

私に到っては、倒産処理をお願いした故福田弁護士からは、「どうせ誰も頼れなくて自分のところに来たのだろうが、貴方は死んだ会社ゾンビを操って いるに過ぎないので直ちにそれを止め物理的に居なくなりなさい。今日が815日記念すべき日だが期限は今月末まで。後始末は全部自分が引き受ける」と言うものだった。

 

私は、何度か訪れたことのある小菅村に飛んだ。

小菅村には、村に村立大学を創設したいと当時10年前から入植していた故土肥正長さんが居た。

彼は、村立大学を創設するために10人ほどの村の青年団を集め、彼の早稲田大学時代の仲間10人ほどとのコラボレーションを持ち、たまたま私を 誘ったものだ。

余り小菅村とは深い関係に無い私にとって、故福田弁護士の指示を聞いた瞬間に脳裏に閃いた小菅村という村は、世間では東京の秘境と言われる。

でも、私が物理的に消えるというのは一瞬死ねと言うことかと思ったが、故福田弁護士の話をよく聞くと、身を隠せと言うことと気がつき、私は、即座に 故土肥正長さんに連絡し、村の青年団の中心的存在でもある木下稔さんに私の住まいをお願いした。

同時進行系では、原告団であった故三浦幸雄さんの会社が倒産し、彼が路頭に迷う生活をしていることが伝わってきた。彼の言葉では、「アパートの家賃が払えず、大家に顔を合わせ難いので公園のベンチに寝ている」と言うことだった。

私の状態よりは極めて深刻と感じた私は、直ちに彼を小菅村に移住させることを決めた。

木下稔さんの元妻、当時小菅村村会議員でも木下純子議員にお願いし、移住先を決め、故三浦幸雄さんを裸同然の状態で引き入れた。

小菅村には私が引っ越したときにもそうだったが、多くの空き家がある。

ただし、村人の中でも貸家にする考えの人はまず居ないし、老人の独り暮らしはご法度だ。特に、故三浦幸雄さんが借りようと家の家主は、本人は青梅 に住んでいるものの、役場の要請を断ったばかりだと言う。

故三浦幸雄さんが、借家できたのは奇跡であると言われる。

この奇跡を作ったのは、小菅村の奥深き人間関係だ。

私は、奇跡をたどることになるだろう。

 

◆私、そして小菅村

小菅村を知るには、私を知らせることが重要だ。

私は自分でも、変人と思っているので、何ゆえに小菅村はこの変人を受け入れたのか。

まずは、私が頼りにした故土井正長さんの存在を確認したい。

彼は、早稲田大学卒、田舎暮らしを求めて秩父、奥多摩、丹波山、小菅村と捜し歩いた。

辿り着いたのが今、私が住んでいる小菅村字余沢である。

ここは乳母の懐と言い、谷間で陽当たりの少ない小菅村でも最も陽が当たる場所である。

彼は、会社経営を長男に譲り自分は隠居生活としての場所として小菅村を選んだ。

ところが、彼が目論んでいたのが村立大学の創設だ。

私は大学解体を主張して大学を辞めた人間だ。決して村立大学に興味があるわけではなかった。

でも、小菅村で開かれた、村立大学準備会には、3回ほど参加していた。

参加して分かったことは、村立大学の構想が到って杜撰そのものだった。

私は、彼にこれではどうにもならないと言ったことさえある。

そんな時に、私の知らないところで村立大学構想は頓挫してしまっていた。私はそのことを露とも知らずに彼を頼って、小菅村に移住することにした。

と言っても彼がどうすることも出来ない。

彼に代わり、木下稔さんが世話をしてくれた。

その世話の焼き方が実に印象的だった。

順番に空き家を紹介してくれるのだが、「ここは倉庫代わりに使える」「ここは自殺者が出た家」「ここは子供が自衛隊に入隊したので空き家」「ここも空き家だが家主の意向は知らない」「ここは先日まで借りていた人が出て行った」と言う具合に、私が実際に住むことを前提にしていないようであっ た。

私は必死である。

そんな思いが通じたのか、彼の弟満さんの奥方の実家が空き家であることが夜に分かり、その話はとんとん拍子に進んでいった。

2階家で大きいとは聞いたが、見たわけではないのに話はとんとん拍子である。

きっと、木下稔さんは村中の空き家を紹介を私を観察していたのかも知れない。私は引越し先が決まり満足だ。

 

後10日ほど余裕があったと思う。

直ぐにも末には引越しと下調べに再度小菅村を訪れた。

ところが、彼に会った瞬間、「実は弟の奥方の親族会議で独り者の老人に貸すわけには行かないのだと決まったようだ」私は本当に困った。

ところが、夕方になって、空き家の話があると、故土肥さんの家に集まると言う。

待っていると、稔さん、貸主を紹介してくれるという健さん、貸主のすすさん計5人が集まり、貸家談判。

その貸家は字余沢集落の隣集落字金風呂、おばあさんが独り暮らししていたが、八王子へ越したとか。

稔さんの弟満さんの実家の例もあるので、最初は故土肥さん、稔さん、健さんの3人が保証人になることで、私の独り暮らしを緩和したいと言うことだった。

でも話は私が信用されたのか、契約書を交わす際には、保証人は要らない、とにかく実際に私が移住する3月までは家賃は要らないとおまけまでついた。

 

私は故土肥さんとも親しい付き合いではない。

それまでに彼の家に泊まりはしたが、村立大学をめぐっても意見は異なる。木下稔さんに到っては、数回の出会いである。健さん、すすさんに到っては初面識だ。

ただ、共通して言えることは5人とも酒好き、会ったその日からしこたま宴会だった。

以上は、小菅村の人なり、付き合い方なりの根底を見ることが出来る。

私はこの瞬間受け入れられたのだ。

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