No.25 往還思想へのコメントその3   20161025

 

倫理道徳

私は倫理・道徳を考えたことがほとんどない。もしかすると倫理・道徳を考えることが間違いと感じる気分があるのかもしれない。とにかく倫理・道徳を避けてきた人生である。その私が初めて道徳・倫理を考えることができるだろうか。

ただ、道徳については正邪、善悪の判断をする場合には「人の道(徳」)と言ったりするので、自然に生活の中では道徳を意識しているのかもしれない。この場合にはそうした言葉をどうして覚えたのかを考えると親や仲間の言葉をそのまま真似たのかもしれない。でもこうした言葉を発した瞬間、自分を責める大の自分がいることが分かる。

 

最近自分が年金をもらっていることで自分を軽蔑する風潮がある。若い時には年金生活を考えることはなかったが、会社を経営するころ社員からついつい年金の必要を迫られて結果として65歳で年金を受け取ることになった。それでも友人に年金が貰えなくなるよと脅されて3月末ぎりぎりで手続き年金事務所を訪問した。

今考えればそのことで自分の生活が成り立ってしまったことに違和感があるもののどっぷりとその生活に浸っている。考えると経営しているときの年金のための積立の厳しさを思い出すときには貰って当然との意識もあるが年金を貰えない人、少ない人のことを考えるとこの違和感はずーと付きまとうようだ。

この問題を道徳律として考える事にも違和感があるが税金、国家、企業の成り立ちを考えるときにはこのシステムこそ私を悩ませる最大の対象なのである。

私はシステム(組織)破壊を言い続けているのだが、年金はまさにシステムの申し子なのだ。このシステムが戦争や人の殺戮、略奪によって成立していることは明らかなのだが、このシステムを支えているのが税金・年金とも言える。

 

このシステムに抗する限り税金・年金を停止せざるを得ないのだがそこにどっぷりとつかっている私にはそれを行う勇気がない。小菅村での自給自足とてこのシステムありきである。このジレンマの中で私の行為はほとんど無為無策である。これは道徳・倫理に反するとも揶揄されているようだ。このジレンマから脱する道はあるのだろうか。

これは税金・年金を排しても国との対立は増すばかりで解決するものではない。道徳・倫理の問題ではこの自己矛盾を解決しないと立ち向かえない。それに更なる困難は税金・年金を排する行為そのものに国への関与を否定できないことだ。

私が日本列島に生まれたために、私が束縛された鎖から一歩も逃れられない運命に逆らうことの不条理さ、小菅村が桃源郷ではなくて梁山泊である理由なのかもしれない。

 

義務教育での倫理道徳

広辞苑では倫理道徳が今世の中でどう使われているかを説明するが、その世の中はどの程度の広さなのだろうか。権力は将来権力を支えるための倫理道徳を義務教育を通して教え込もうとする。この権力とはどの程度維持されるのだろうか。中国の老荘思想から一歩も進まない倫理道徳、だから本質ということもあるが、今問われているのは自分と他人の命を粗末にしないことでは無いのか。

粗末にするかしないかでも疑問がいっぱいある。粗末は贅沢ではないことだが、命を粗末にすることと贅沢にすることとどこが違うのか。粗末とは無駄を省くともいうが、無駄のない命なんてあるのだろうか。命は無駄を前提とした存在だ。無駄は贅沢とも言うが、何を基準として贅沢というのか。

命の最低の要素は衣食住であるけれど、衣食住にはその度合いの幅が広い。衣は木の葉から絹まで、食は雑草から神戸牛まで、そして住は洞窟から御殿まで。

この度合いを決めるのが義務教育を仕切る頭目である権力なのである。

 

ところで、義務教育では命を粗末にしないという事柄があまりに乏しい。過程では、衣食住は日常性である。そのやり取りは刹那刹那のことで子供たるものはそこで教え込まれる。ところが義務教育現場では衣食住からは解放されている。解放されない子供たちも存在するが、義務教育は衣食住からの解放が前提である。

衣食住から解放された人たるものが語るべきことこそ倫理道徳であるとも言える。いうなれば命から解放されるという特権、それは地球上で考えれば衣食住に恵まれた日本人が持っている特権であるのかもしれない。倫理道徳はもともと特権階級が育ててきたもの、衣食住に追われる人々には無縁であった。

老齢を迎えたころには衣食住足りてそこに至ったのであるから倫理道徳を語る立場にあるかもしれないが、義務教育を受ける世代には倫理道徳そのもの語る基盤すらない。そういう世代は命そのものが問われているからだ。命を省いては倫理道徳もない。

 

再度義務教育での倫理道徳とは何を意味するのであろうかと考える。小中学生では自分、他人、集団、社会、自然などとの関係について考えると言う。まさに小中学生世代が家庭、地域で歩んできた道程が課題となっているのであるが、その道程で何を経験してきたかが問われる。その試行錯誤の経験の中に倫理道徳の全てが包摂されているものなのだが、果たして教育現場ではその現場は保障されているのだろうか。

家庭、地域で経験したことが強制的に集められた集団の中ではどう反映されるのか。小中学生集団教育現場にはその環境は用意されているのだろうか。特に問題とされるのが教科書・試験教育である。それらは上から与えられるのであってこの世代が作り上げるものではない。作り上げるという試行錯誤した経験が存在しないのである。

もしかしたら、衣食住から解放されない地球上のあらゆる地域ではこの世代には倫理道徳が最も育まれているのではと考える。義務教育での倫理道徳はこうした線上に立つ、命の交換を行うこの世代の経験から学ぶことが全てであるかもしれない。女性教育でノーベル賞をもらった若き女性闘士が存在したが、実はその女性闘士を利用した一連の権力者こそ倫理道徳を蔑ろにするものである。

若き女性闘士は命を懸けた教育を訴え続けているが、命を懸けた子供の存在が倫理道徳の何かを問うているのであって、その瞬間を抜きにして倫理教育はおろか教育、女性教育の問題するら成立しない。もしも小中学生に倫理道徳として命の大切さを課題とするならば、戦場での子供たちの命の在り方を問うべきである。

結論は倫理道徳は小中学生の生命の在り方に集中すべきである。

 

青年期での倫理道徳

青年期についていえば、地球上では軍人であり人を殺戮するための実践の場に存在する人々である。日本ではまだ、20万人と言われる自衛隊にはこの種の若き存在は極少ない。その数が急速に増すと予想されるが今のところは高校生で居られる。

小中学生ではないが高校生にあっても倫理道徳が存在するという違和感がある。そもそも地球上では命のやり取りが行われており、少なくとも若き世代で命の貴さを教えられたはずの若者が命を削る場所に追いやられている現実をどうするのか。もしかしたら、命を粗末にしないという組み立てがこの青年期を迎える若者たちにはカタストロフィをもたらしているのかもしれない。

そこで高校生には人間、現代社会、日本人という課題が設けられているようだが、これらの課題が命を粗末にしないという倫理道徳に関係するとは想像できない。なぜ生命体で無くて人間なんだろうか。なぜ生命体の集合で無くて現代社会なのか、そして人類で無くて日本人なのか。

 

どんな偉い人の話を持ってきても、現在の戦争の闇を回避する策は見つからずむしろ偉い人の存在がこの闇夜を継続させているのではないかとさえ感じる。なぜならば、闇夜を継承するのは権力者であり、これら偉い人々も実は権力者によって選ばれているに過ぎない。ノーベル賞のよう に。

倫理道徳が問われるのは命のやり取りが行われる戦場である。ほとんどの若者が戦場では命の貴さを問われているにも関わらず、その声は届かないか届けられない。倫理道徳が問われるとすれば「聞けわだつみの声」かと思うのだが、高校生倫理道徳では見向きもされない。もともとが教育の現場に倫理道徳が存在するという不合理から始まった事柄だが。

人間、現代社会、日本人問題はいずれも地球上に存在する戦争と過去に経験した戦争に関係する。人間は何故戦争を続けるのであろうか。現代社会は今なお戦争を継続するのか。そして日本人は世界中の戦争を支援し続けるのであろうか。

この問題は生命体は自然淘汰、弱肉強食はあるもののなぜここまで維持できたのであろうか。生命体は集団として地球上に生き延びていけるのだろうか。そして人類はこの地球上の生命体にたして何かするべきことがあるのだろうか。

こうして見たときに答えは簡単なようだ。

 

倫理道徳で考えるべき命の問題とは、地球上の生命体そのものである。

私も生命体の一つである。

あらゆる生命体によって構成され、かつあらゆる生命体によって維持された生命体の一つである。ただ、生命体の一つでありながら、他の生命体に対して何をなすべきかを思案する機会が少ない。

私が所属する人類は何をなしてきたのか。

余りに他の生命体を蔑ろにしてきたのではあるまいか。

そして、わが命を削り取るように他の人々を殺傷してきたのではあるまいか。

 

倫理学、応用倫理学、実践哲学

私が学、学問なるものに疑問を抱いて久しい。

大学解体、学問解体はその契機であったが、往還思想で触れられるとそのことに触れざるを得ない。往還とは生死のやり取りである。ただ、私的には往還とは一方通行であり、継承のみが課題である。この一方通行で前に向いて、それは死に向かって進むことになるが、死も生も意識せずに進むことのみが課されている。

私的には学、学問で予想するべきことはほとんどない。ほとんどないと言えば常に過去に遡ること、よく言えば過去の経験の集大成である。時たま、生命には予想だにしない災禍、カタストロフィが負いかぶさる。生命はその予想だにしないカタストロフィからすべてを学び取る。カタストロフィは新たな地平を切り開く。正と死もまたカタストロフィである。

 

この発見は人類に進歩という見返りを齎した。最も典型的なものがラジュームの発見とその延長線上にある核のエネルギー発見だ。そのことで生命体が侵されるという経験にも拘わらず、その集大成は未だに未完成である。核の問題は学、学問が如何様であることの証明にも繋がるが、学、学問では到達できない地平でもある。

生命体にもたらしている知恵は経験の賜物であるが、学、学問がその集大成に預かれないことは核問題で証明された。すなわち学、学問の一人歩きが許されているからだ。それを制御できるのも生命体の経験そのものであるが、今その機能が生命体から抜け落ちようとしている。生命体が生命体で無くなるというその一瞬である。

 

生命体の物質化、それは死を意味するが、一方でそれは生命体のロボトミー化でもある。生命体が往還として経験を積むには核エネルギはまだまだ初期であるのかもしれない。学、学問にゆだねられた経験の集大成が如何様であったとも言える。発見された経験は生命体の全ての心に共鳴を与える。この機能欠損こそロボトミーである。

共鳴こそ生命体の集団である。生命体が生命体で無くなるのはこの共鳴の欠損、すなわち物質化、ロボトミ化である。それは学、学問が独り歩きした経緯にも基づくが、学、学問を一人歩きさせた社会機構にもよる。ただ、社会機構そのものと学、学問とは表裏一体であるので、この欠損を発見し修正することは次なるカタストロフィに依存するしかない。

学、学問とは色々である。倫理、道徳、哲学範疇に位置付けることは身に余る行為である。

 

以上     No.24へ       No.26へ