No.66 小菅村 2019年3月15日

ここ小菅村に1000平米の畑を耕すようになって5年は経たであろうか。小菅村は山梨県、東京都の奥多摩町とは隣り合わせ、奥多摩湖を河口とする小菅川沿い一帯だ。奥多摩町の中心が奥多摩湖北側に広がる山岳地帯だが、その並びに小菅村、丹波山村がある。丹波山村もやはり山梨県に属しており、小菅村に相似して丹波山川沿い一体に広がる。

奥多摩湖北側山岳地帯は秩父山岳地帯につながる国立公園に指定されているのだが、小菅村、丹波山村も奥多摩連峰に繋がりの中にある。小菅村、丹波山村の山頂は大菩薩であり、それぞれ登山口が控えている。青梅街道は奥多摩湖南側に広がる青梅市から奥多摩町、丹波山村を経て山梨県山梨市に到る重要国道一本道である。

その昔、日本陸軍の訓練基地でもあり、その険しさも有名だったようだが、現在はこの1町2村は大都市東京都の奥座敷として、観光地としても輝きを見せている。やはり1町2村はその周辺に400万人もの人々が生活の軸としている多摩川の源流域を形成しており、小菅川、丹波山川、峰谷川は奥多摩湖を経て、日原川が直接に多摩川に注ぎこんでいる。

そんな多摩川源流域に私が単身飛び込んだのは2005年8月15日のことだった。自己破産を提案してくれた故福田弁護士は、私が8月中に東京文京区御茶ノ水女子大の塀際にある自宅から物理的に居なくなることが重要だと言い放った。初めは何のことだと楯突いた見たものの、所詮死に体の会社をゾンビのように操って来た私にはその提案こそ宝物だ。

不思議と1968年以降大学解体を叫んでいた私の頭に突如現れていたのは小菅村に村立大学を作りたいと呼びかけていた故土肥の顔だった。彼は大学闘争を経て、山岳地帯に大学設立を夢見て秩父山系を物色し小菅村に辿り着いていた。私は数か月前に知り合ったばかりの彼に私の身を預けることに躊躇はしなかった。

当時、小菅村で村立大学を起ち上げようとして村の有志10人と故土肥を支援した早稲田大学の仲間10人との交渉は大きな山場を迎えていた。その最初のイベントである小菅村森林公園キャンプ場で開かれたファイアストームに私は故土肥政長から誘われて村立大学準備会初めて参加したばかりだった。私が小菅村の人々に会ったのは初めてにも拘わらず、矢が更けるにつれて酔いつぶれて解散していく村人やキャンプ場に宿泊する人など、ほとんどは人は居なくなり、私と故土肥、養魚場経営者と早稲田の一人だけが残された。

この数時間キャンプファイアで私は小菅村の素晴らしい田舎を体験した。私の生まれは播州、揖保川、瀬戸内海に注ぐ1級河川、田舎度ではどこにも負けない地方から上京してきたのだが、小菅村の田舎度は大きな衝撃を私に与えた。鮎しか食べない私にとっては、川魚のイワナの刺身には度肝を抜いた。その歯ごたえ、甘味は海魚を上回る美味しさだった。夕闇の迫る中、数匹のカジカを獲ってきて、砂防のために小菅川にカジカが居なくなったことを嘆いた村人の心の闇をしった。同時に地潜りという小さな蛇も捕まえてきて美味しくないと川を剥いて焼いて食べたのだが、流石に私は食べれなかった。

小菅村には村を大切にする多くの人々が居て、それが故土肥の村立大学構想を支えた人々だった。私と言えば大学闘争以来の大学解体思想に憑りつかれたゴリゴリの考えの持ち主であったが、流石に小菅村の人々のもてなしには何故か気持ちの変化を感じずにはいれなかった。その後の15年もの間、小菅村での生活は、私の人生の宝物である。ただ、最初の5年は小菅村、次の5年は青梅市、最近の5年は福島南相馬市と住所は転々としているものの、小菅村での畑の耕作は続けてきた。

私の隠れ里小菅村は今や隠れ里と言うよりは今や東京の奥座敷を担う素晴らしい観光立村だ。秩父山系から注がれるアルカリ度99・9%の小菅の湯、大菩薩峠の麓にひっそりと佇む雄滝、小糸の滝などは知る人ぞ知る小菅の秘宝である。聖徳太子が小菅を訪れて亡くなった皇女の死を悼み建立した古観音跡、その後鎌倉時代に建て替えられたという長作漢音、多摩川に注ぐ玉川の由来を口伝として残した畠山重忠の姫玉姫物語、武田家松姫の逃避行を伝える松姫峠とその逸話に小菅村古代から続くロマンが描かれる。

1000平米とは言え、急斜面を耕しての畑耕作の醍醐味は、畑から繰り広げられる四季緑豊かな山系、山頂から広がる日々色彩豊かな空の色、天下泰平、天神山小菅城跡からの天下取りのロマンさえ思いが走る。逆にこの急斜面での畑作こそ、勤勉な小菅人の根性を示して余りある。青梅から訪れた私の囲碁仲間が畑に立って命綱が必要だと言ったのはオーバーな表現ではない。石ころだらけの畑地を土の栄養分を保存するには欠かせないと笑って話す村人の顔は清々しい。この刺激に満ちた畑地はジャガイモなどの根野菜に適度なストレスを与えて味は抜群である。

その昔、働き者の小菅人は今はスギとヒノキの斜面と化しているものの、小菅川川岸から山の上まで木を伐採し、麻を植えたり、桑の木を植えたり、コンニャク畑、ワサビ田と耕し、今もその畑作の跡が見られる。今私は昔コンニャク畑だったという荒れ地を耕作して良いと村人から提供された斜面での畑作を行っている。10年、20年と放置された畑は藤葛、萱が生い茂り、イノシシ、シカ、サルなど野生動物の絶好の住処兼遊び場所である。

野生動物には申し訳ない気分もあるが、小菅村にも自給自足の気合は必要だ。私は健気にも大量の藤葛、萱と格闘し、毎年200平米程度を開墾しながら、今はようやく1000平米の畑作百姓が身に付いたころである。残念ながら、まだまだ荒れ地が目に付くのだが、小菅村の老人隊と同様に高令の私にはこれ以上の開墾は無理なようだ。

自分で耕した畑地であるから、自分流に手当たり次第にホウレンソウ、小松菜、チンゲン菜、白菜など野菜の種を撒き、ジャガイモ、サトイモ、ヤーコンなどの根菜を植え、エゴマ、トマト、キュウリ、ゴーヤなどにも手を広げる。百姓仕事は年一回の経験しか許されないので、流石に生まれながらのいい加減さにも限りがある。後、どの程度の試行錯誤が可能やら心細い限りである。

このいい加減さを横目に見ながらも、冷やかしたり、コメントしたり、忠告したりと周囲の村人は賑やかだ。私も気にする風にして、相も変わらず試行錯誤は繰り返す能天気な老人ではありますが、日常的なコミュニケーションは最良の老人ボケ防止です。

大多摩

多摩川の源流を形成する、小菅川の小菅村、丹波山川の丹波山村、日原川の奥多摩町、秋川の檜原村を加えて、青梅市を含めると大多摩地域が見えてくる。昔から、大多摩観光のように3村1町1市は一緒に同一行政区にしようとする流れもあったようだが、現在はその面影すらない。

奥多摩湖(小河内ダム)という巨大な水瓶を取り囲むようにして立地する3村1町1市の連携は極々自然のように思えるのだが、何故かこの流れに逆らうようにして、3村1町1市の人々のバラバラ意識の存在を感じるのは私だけの錯覚だろうか。錯覚であろうがなかろうが、多摩川、奥多摩湖は3村1町1市を物理的に連携させているのであり、3村1町1市の人々の意識の連携を自然に思わない方が全くの不自然だ。

とにかく、大多摩地域で生活する人々の意識が、多摩川、奥多摩湖中心の意識から遠ざかっている方が不自然だ。確かに私が2005年に小菅村に足を踏み込む以前には私は小菅村が多摩川の上流源流域に位置することすら知らなかった。私の友人、親族までもが、私が小菅村に住むことを決めた時には、小菅刑務所行きだと勘違いしたほどだ。

私が最初に多摩川を意識したことは建設省(現国土省が主宰する多摩川周辺市町村の水辺の学校を集めた多摩川フォーラムで多摩川が羽村堰までしか対象としていないという事実を知ってからのことだ。その時建設省多摩川土木事務所は多摩川沿いに光ファイバを引いて多摩川博物館を作ろうとしていた時期だった。その中で多摩川最上流に立地する小菅川は多摩川源流の一つ、小菅村抜きに多摩川が存在するとは思わなかったのが率直な私の気分であった。

次に私が多摩川を意識したのは、青梅市と日の出町との間にある多摩川を見下ろす長淵丘陵の山頂に位置する二塚処分場の存在だった。長淵丘陵山頂から日の出側の傾斜に建設された廃棄物処理場、焼却場のあることを聞いた時には私は自分の耳を疑った。私も廃棄物処分場建設に関わった経験はあるものの、山頂に廃棄物処分場を建設するとは、それを計画した住民意識、受け入れた住民意識、私は自分に身震いを感じた。

多摩川源流に位置する小菅村に移住して最初に聞いた言葉が源流故の多摩川周辺住民400万人を支える水源の大切さだった。ごみ処分場の導入禁止、超高度処理下水道など村人が異口同音に伝える言葉である。それなのに多摩川下流域では川を見下ろす山頂に二塚処分場、しかもその処分場が周辺1村2町20市が共同で運営しているというこの非常識、この無謀さ、人々は何を考えているのだろう。飛騨紀子市議会議員の報告によれば、長淵丘陵斜面下にある小学校生徒には喘息罹患の割合が多いという。

その後、青梅に移り住んで更に多摩川、奥多摩湖への求心力の無さに更に驚いた。多摩川の大切さを語る人は居ない。代わりに多摩川を利用する人の多いことには驚いた。鮎の釣り人が多くて遡上中の鮎が居なくなると言う。御嶽渓谷はカヌーを操る人々で賑わう。美しい多摩川フォーラムは多摩川沿線の桜の木を維持し続ける。多摩川の利用率が高いという個とは多摩川へのリスペクトが高まりそうなものだが、その気配はない。

多摩川

多摩川周辺住民400万人が多摩川の大切さ、自らの生活の原点であることをどの程度理解しているのだろうか。多摩川源流に住む人々がひたすら多摩川の水源を守り続けてきたことをどの程度理解しているだろうか。多摩川はかっては荒れる川と言われ、周辺住民はその凶暴さに恐れていた。当然、多摩川は周辺住民にとっては無視できなかった筈である。

その多摩川が現在無視され続けているのは、多摩川の河川整備が進み、もはや周辺住民にとって脅威で無くなったことに関係する。それは今一度見直す必要があるのではないだろうか。その1は水量が大きく減少したことだ。治水対策は山の砂防ダムを含むあらゆるところで山を削り取り、山の貯水能力を減少させた。山に植えられた有用木材であるヒノキ、スギは山の貯水能力を喪失させるどころか山の砂漠化を進めた。

観光地への開発は道路整備、トンネル整備、橋の整備によって貯水能力の低下は免れないが、山の地盤、地下水脈の破壊をもたらした。今や、村人が飲み水として充分な谷川の水を確保することは困難となり、限られた耕作地への水の供給すら困難にしている。秩父山系からの水脈は昭島の湧水池を維持しているというのだがそれは維持できるのだろうか。

重ねて、地球上を襲っている異常気象は日本列島を台風や局所的な集中豪雨、豪雪を襲っている。ただ、多摩川が異常気象から免れているのは偶然である。多摩川が異常気象に見舞われれば、現在の治水対策が万全である保証はない。と言うよりも治水対策を行うにしても、現在の異常気象の規模を予想できる材料がないのである。

東北の震災の規模はある程度予想できるものであった。そのギリギリの予想された情報も現在の為政者にとっては寝耳に水、その対策が蔑ろにされた。その結果東北に壊滅的な被害をもたらし、未だにその復興途上である。果たして復興できるのかと疑うばかりである。ただ、現在の異常気象の規模は予想の範囲を超えている。多摩川上流に来るであろう、予想を超える大雨はかってない多摩川の氾濫を誘発するに違いない。

それは我々が予想できる規模での治水対策で間に合うとは思わない。治水対策以上のものを用意する必要が求められる。その1が多摩川周辺住民の多摩川との共存の実現である。多摩川源流から河口までの周辺住民の共存の考えでもある。異常気象を含めあらゆる情報が多摩川流域全体での共有がその対策を予想させ、その対応を速め、たとえその災害が起きたとしても復興を速めることが出来る。

その第2の問題は、多摩川流域の全体の均衡を整えることである。多摩川流域での地産地消、自給自足が多摩川流域の均衡を整えることになる。川の氾濫は過密化した下流域での人々の犠牲を過大化する恐れがあるが、あらかじめの人口均衡はその犠牲を最小限に抑える。もちろん流域全体での衣食住バランスが期待できる。

海、河口を含む富栄養化に代表される河川汚染は人口が下流集中した結果であるが、第3の問題は多摩川の水に対するレスペクトが共有されなければならない。川の清流は河川、湖沼、海の生物循環を豊かにして、それ自身が自給自足の大きな役割を果たすとともに、水へのレスペクトが生命へのレスペクトであるということである。当然、水へのレスペクトは災害時に最も必要とされる飲み水の確保にも繋がる。

多摩川へのレスペクトは多摩川周辺住民の共通した伝統文化を繋げたに違いない。多摩川周辺に今週された神社仏閣は無尽蔵だ。その多いさはその維持を困難にし、神社仏閣は荒れ放題である。偶に選ばれた神社小見が喚起打ちとしての地位を保って表向きは賑やかである。果たして、何時までそのブームは続くのだろうか。多摩川へのレスペクトは改めて、周辺住民の連帯を生むのではないだろうか・

 

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