No.48 雑草  20171115

生命力・継承力

雑草の生命力を考えるときに、その強さは根深さ、実の旺盛さ・豊富さ、加えて環境適応性が上げられる。

根深さについては、地上表面を這うもの、地中深く潜るもの、そしてその複雑さが目立つ。表面を這うものは苔の種類が目立つが、畑の雑草の数種ある。極めて成長が激しいので、小さくても放置すれば知らぬ間に広く地上を這っている。花も蓄えている。ただ、畑のものは一つの株から広がるので比較的駆除しやすい。ただ、藤のようにしっかりと根を生やしながら広がるものもあって、結構面倒なものもある。名前は分からぬものが多いが、知人が鴉草とか貧乏草とか話していた。地中を深く潜るものについては小さい時には引き抜くことも可能であるが、放置すればスコップを使わないと引き抜けない場合が多い。アザミなどがそうだが、やはり名称が分からぬものが多い。それでも結構苦労しているので見ればその素性を知っている。アザミ、タンポポなどの場合は野菜でいうゴボウ、ニンジン、大根のように真っすぐに地中深く潜り込む。

地中の深いところで這っていくものとしてスギナがある。スギナにはツクシが育ち頼もしいが、スギナは厄介だ。まずはどこまでも深く潜り込む。深く潜る前に駆除すれば良いのだが、その苦労は大変なものだ。最近20~30cmぐらいの溝を掘り雑草を放り込むことにしているが、この時2030cm程度のところに根を張っている倍が多い。深く掘ることはスギナの根を絶やすことでもある。スギナと同じ振舞で竹がある。竹は竹のことが出て諜報である。竹は雑草とは言い難いが畑が竹やぶに近いので竹の根が張り出してくることがある。畑に竹が忍び寄ると畑は終わりだと言われているが、やはり竹の進出を防ぐには20~30cmぐらいの溝を掘る必要があるようだ。同じく雑草ではないが桑の木などは相当に畑を喰い荒らす。畑中に根を張り巡らす。小菅では昔カイコを育てていたので桑の木は多い。桑の木は丹念に枝を切り払えばやがて枯れる。スギナについても同様のことが言える。要するにスギナにしても芽を摘んでいけばやがて栄養分が来ないので絶えると村人が教えてくれた。根が複雑に絡むものに萱がある。あらゆる雑草や木を包み込みながら、大きくなっていく。萱は藁ぶき屋根では昔重宝であったが、最近茅葺屋根もほとんど無くなり、東北にしか質の良い萱はないらしい。それでも丁寧に育てれば質の良い萱が出来るというのだが、今は畑のギャングのような存在だ。

実を貯えるものとしても種類は多い。タンポポ、アザミなどは種に花びらを持たせどこにでも飛んでいき、飛んでいった先で更に子孫を増やす。ただ、アザミ、タンポポなどは1根1花で目立つし除去もしやすいが、無尽蔵に花を咲かせ実を散らすものがある。名称は知らないが、数cm~50cmまで花を咲かせ実を落とすものがある。もちろん、えごまほどではないが、馬鹿でかく1本で無数の花・実をつけるものがある。大きいと比較的根も浅く抜きやすいのだが、大小様々な場合もあって駆除が難しい。とにかく無数の種が散らばっている。種によっては、去年のものが今年生えるというものでもなさそう。稲ではないが、100年を越えて芽を出すものもあるのだから。貧乏草とか鴉草とか、うんざりするような雑草には閉口する。衣服にくっつくのでそれを剥がすのもひと手間である。

環境に合わせてあらゆる雑草が生える。豊かな土にはそれらしくもの、貧組な土にはそれらしきもの、何処からともなく雑草が忍び寄る。こればかりは芽が出て成長しないことには判断がつかない。もしかしたら貴重な品種でもあるかもしれないのだが、私の知恵の及ぶ範囲ではない。時々村人が昔あったのだがと言いながら雑草を探すのも見かける。私の知恵はそこまでに辿り着かない。

いずれにしても生命力としては雑草に適うものはない。石川啄木ではないが「踏まれても踏まれても」のようである。その継承力にも恐れ入る。あらゆる方法で子孫を残そうとする。あたかも子孫に語り掛けるように根を張り実を残し環境を選ぶ。群落もあれば、岩場で忽然と育つものもある。要するに火山で全ての生命を失った島が、やがてそこに緑豊かな山野が広がるというのも雑草ならではの生命力だ。

意志・意識

生命あるものに意識はあるだろうというのが私の考えだ。特に雑草を見ていると相互にコミュニケーションが取れているでは思う。蟻や蜂などはそれぞれにコミュニケーションが成立している。その伝達方法が匂か形状かは別として、相当の距離があってもその意志は伝達されtリる。渡り鳥についてもコミュニケーションが成立している。

ところで雑草にはコミュニケーションがあるのだろうか。良く、野菜の苗や種を撒くときには2,3本づつ並べよと言われる。そうすると相互に競争してどちらかが強く育つというものだ。雑草の中で育つ野菜は見事駆逐される。時々えごまのように雑草と共存できる種類のものあるが雑草の中ではほとんど野菜が全滅である。

雑草との競争で負けるのは雑草の方がその環境に馴染むからである。百姓が一生懸命に野菜の環境を作り上げ野菜だけが育つようにするのだが、どのように頑張っても雑草は生えてくる。時々除草剤と称して雑草だけを取り除く薬剤があると聞くが、あくまでも特定の雑草を狙うのであって、雑草全部を死滅させるわけではない。

こうした人の努力は続いて何時のだが、果たして雑草だけを削除してよいものか。良く言うように動物は無菌状態では生命力は弱い。故に菌はある程度は必要とするものだ。もともとミトコンドリアではないが生命体はこうした菌(バクテリア)の集合体である。

要するに雑草には大きな意味でコミュニティが形成されているのではないか。重力ではないがその波長は極めて長く人間の知る範囲ではないかもしれない。雑草のコミュニティのスパンを知ることも今後は必要であるだろう。

動物との共生は色々言われているが雑草との共生はまだはっきりしていない。生存競争では最も底辺に居る植物、その中でも雑草の役割は大きい。自然との共生を唱えるには動物との共生もあるが植物との共生もある。そのためには植物の意思・意識を知っておく必要がある。

意志・・意識とはコミュニティのある者には備わっているものだ。むしろコミュニティと言うよりは生命あるものに意志・意識は存在すると考えあた方が良い。植物、時に雑草が群落を形成するのはそうした結果と考えるのが自然である。

雑草が持っているコミュニティ、そしてその実態を知ることは百姓ではない農業が極めて危険な道を歩んでいるときにどうしても知っておかねばならない。遺伝子改造のみならず、優占種のみを選択してきた農業に行き詰まりがあるようにも思える。生命の維持は例えば人間に都合の良いように維持できるものなのだろうか。例えば、西洋ミツバチはホルモン剤で絶滅に近いと言われる。最初はあらゆる環境に強いと言われた和生ミツバチも影響を受けて居るらしい。

ホルモン剤は人間が都合の良いように雑草を除去する薬剤である。その影響がミツバチに現れたとなると、これは一つの危険信号であるとみなされる。人はミトコンドリアではないが、生命あるものの集合体である。その集合体が調和し人を形成する。その一つが均衡を失うと人そのもの存在がおかしくなう。

雑草はそうした弱肉強食の中で生き延びてきた品種である。彼らはそうした自然均衡の見本みたないなものだ。この見本から学ぶべきところは多い。彼らが投げかけるコミュニティについて、その中で営まれている意志・意識の交換は生命継承に知恵でもある。

百姓と農業

百姓は雑草に育てられる。単純には草取りだが、その種類の多いさには自然と知恵が出る。種類ごとに根も茎も、花も実もそれぞれに違うので草取りと言っても一筋縄ではいかない。手でむしれるものもあれば、スコップが必要なものもある。もちろん薬を使う人まるだろうが私は反対だ。耕運機を使う人もあるが、喉から手が出るほどに欲しいのだが、色々と考えることも多い。

私の百姓はほとんどがスコップと三本鍬である。従って耕す面積は頑張っても1反少々である。東北や、北海道数町耕す農家と比べると余りに貧層だ。でも私は私の流儀で百姓を続けている。それは私が百姓を行うことで色々と鍛えられていることだ。もちろん、肉体労働であるので肉体の向上もあるが、環境に対する何よりも対応力の向上である。

雑草が対応してきた自然環境はほとんど我々が経験しない世界である。どちらかと言うと生命誕生以来の経験である。その経験から作られた雑草の知恵は計り知れない。きっと雑草の個々が経験しているよりも雑草の総体的な経験である。人類も多くの経験を経て現在に至っている。ユダヤ人虐殺や、奴隷虐殺の歴史も繰り返されてはいるが、その個々の経験を取り上げても全体像をつかむことは出来ないであろう。

我々に必要な経験は雑草が経験してきたように人類総体である。総体的な経験とはどのようなものであるのか。人は日本史とか世界史とか、はたまた博物誌などを描いてきたが、実はそれはほとんど局所の歴史でしかない。いうなれば、言葉をものにした、特定人物の感想文である。

雑草が示している総体的な経験とは雑草が生き抜いてきたその証である。雑草とともに生きてきた百姓もまたその総体的な歴史を背負っている。それは良く言う知識人の空言ではない筈である。ただ、百姓はそれを文章・言葉で語ることはほとんどない。彼らは米や野菜を育て、その結果として歴史を語っている。

百姓を農業と勘違いすう人は多い。農業は知識人が描いたお金儲けの手段に過ぎないし、それも自然の一部を観察しているに過ぎない。その生産物が極めて歪曲されたものであることは言うまでもない。それを食する人々がこの歪曲の影響を何時か受けないとする保証はない。

どのように自然との均衡を維持できるかは、どのように生命力そしてコミュニケーションを知るかであるが、最も経験のある雑草から情報を得る力は今ない。ただ、百姓仕事はその経験を学びつつ日常性を持つ。

 

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