No.15 小菅の春耕 2016年4月10日

 

◆私の農作業経験

私の田舎(兵庫県播州地域)では米栽培が主な産業であった。

有名な鹿島守之助の生家のある部落は私の生家がある野田部落の隣部落である。

当時新在家部落は40戸ぐらいで野田部落はその倍の80戸だと記憶する。

要するに部落の大きさからすれば野田部落の方が大きい。

当時の大地主で鹿島守之助の実家永富家には、私の部落でもその水田の小作を営む家があった。

私の生家の隣の家も永富家だが、毎年年貢を納めに隣部落の永富家に年貢を納めに行くのが年中行事である。

私は年貢に納めに行く隣の家のおばあさんとその孫でもある一級年上のS君と一緒に行くのを楽しみしていた。

と言っても私がお供したのは数回程度だろうか。

何せ私が幼稚園にも行かないころの話である。

 

3人は部落の周囲の田んぼを横切り、永富家に行く。

子供の足では結構長い距離である。

永富家には必ずでっかい犬がいる。

大きな屋敷なので、門から玄関までの距離が恐々の徘徊である。

それでも怖いにも関わらず、付いて行ったのはおばあさんが作る水あめ欲しさのためだったのかもしれない。

水田は部落の周りに張り巡らされる。

後になって、関東・東北地方の水田は一軒家の周りに水田が広がるのを見かけたが、播州地域では部落の周りに水田が広がる。

すなわち、一軒一軒が所有する水田の規模が小さい。

元はといえば、新在家の永富家のような大地主が所有していた水田を戦後の農地改革で分配した結果でもあろうが。詳しくは知らない。

 

私の母方の実家は百姓であり、部落では大農家の方であるがその規模は1町足らずだ。

その実家は母の父親の代に同じ部落に住む親から譲り受けたものらしい。

こうした財産分けは継承されたと思われるので、一戸当たりの耕作規模が小さくなることは当然である。

もちろん、新田の開発もあったであろうが、この地域の平地面積は小さくそう大きくは広げられない。

播州平野の西の方の平地は揖保川の東西に広がるもので西側にある揖保川町(半田村、神部村、河内村)は東側の揖保町よりはより少ない平地面積であった。

ただ、文化は山の斜面から発展するものと考えれば揖保川町はそれなりの文化圏である。

特に半田村の山側の頂上には古墳群があることはよく知られる。

 

ここで言いたかったことは私の農作業経験が水田であったことである。

水田と畑ではその農作業形態が大いに異なる。

とにかく私の生まれた地域では畑はごく少ないので、畑仕事はほとんどない。

しかも私の生家では畑仕事はおばあさんの仕事である。

それは産業にならないことであり、自家消費で精一杯だからである。

でも畑には実り多い野菜が育ち食卓は豊富であったように思える。

大工の家系である私の生家は、少しの畑があったに過ぎない。

それに、酒、塩を扱う商店を営んでいたようで、もとはと言えば農家には程遠いようであった。

 

商店経営は祖父母が母に押し付け、父の猛反対にも拘わらずやり遂げた。

ところが私の父親が大工仕事に失敗し、実家が農家である母が祖父母に頼んで農地を購入し、父に農業をやらせようとしたことが契機で、その後祖父母の代も終わり野田部落では大がつく農家に転進したようだ。

と言っても大工の祖父母、父までもが農作業をするわけでもなく、母は6人居る子供たちの手を借りて、少なくない水田での稲作作業を成し遂げた。

私も兄弟たちが独立するに従い、順番に百姓仕事を手伝わされ、現在の小菅の農作業には大いに役立っている。

 

私は19歳で東京に来たので、私が農作業したのは、中高の6年間程度だろうか。

もちろん小学校でも手伝いはするが、年上の兄弟のお手伝いである。

百姓でも1人前になるには並大抵のことではない。

昔だから農繁期には学校が終われば農作業が待っている。

逆に農閑期には学校が終われば遊びに惚ける毎日である。

私が出来たのは株切り、耕作、代き、田植え、除草、稲刈り、稲わら干し、脱穀、運搬ぐらいだろうか。

株切りは刈り取った稲の株を一つ一つ掘り起こす作業。

耕作は株切り後の水田を牛に鍬を曳かせて耕す作業。

代掻きは耕した水田に水を張り牛に大きな熊手を曳かせ耕地を鳴らす作業。

田植えは稲の苗を数本づつ土に手で差し込む作業、除草は手で苗部の周りの草を抜く作業もしくは除草機を走らす作業。

稲刈りは鎌で稲株を切り取る作業。

稲わら干しはやぐらを組んで稲わらを積み上げる作業。

脱穀は脱穀機で稲わらから稲穂を分離する作業。

運搬は田んぼ稲わらや稲穂の倉庫への運搬、倉庫から機械や木材、肥料の田んぼへの運搬作業。

実はこれらの作業は力仕事、これら作業以外に籾まき、籾乾燥、肥料蒔き、薬散布、計量、包装など細々とした作業があるが、私が手伝うレベルではない。

難しい仕事は母や兄たちが行ったようだ。

 

◆私の小菅での農作業の始まり

要するに水田作業は田植えを除くと結構な力仕事、牛馬を操っての操作術、機械を駆使する技能と女性には縁遠い仕事である。

それでも水田で女性が働くことは男まさりと比喩される。

ところが畑作業は機械も牛馬も入らない手作業である。

どちらかというと女子供の仕事と蔑視される。

私の少年時代はまだ自動車の普及しない牛馬中心であった。

戦後、急速に発達した農業の自動化は私の少年時代の経験を置き去りにしたようだ。

そして水田作業にも女性の役割が増すようにもなった。

逆に畑作業は自然と農家の作業から遠ざけられた。

私が実家を離れて時たま田舎へ帰るたびに感じるのは畑の荒れた姿だった。

私の長兄は実家の農業を継ぐのだが、その機械化は凄まじく私の関与するレベルではなくなった。

水田規模も1町耕作から数町への耕作へと転進していたようだ。

こうした田舎を離れた私が小菅での農業を始めたのは偶然のことである。

 

四国愛媛県愛南町の私の知り合いがえひめAIを使ってみないかの誘いを受けてからだ。

えひめAIの効能と言えば、まずは家庭での清掃、そして生ごみ堆肥化、脱臭と目まぐるしく用途は変わったが、何故かえひめAIに並々ならぬ執着が沸いた。

えひめAIを紹介してくれた知り合いにも惚れたが、その発明者元愛媛県工業試験所長曽我部義明氏も惚れこんだ。

それに小菅村でのえひめAIを紹介する時に村人たちはそれへの抵抗を示すのが一端効能が見つかると爆発的な好奇心にもほだされた。

一挙に小菅ブランドえひめAI変じて源流きらり、その工場建設、その普及の勢い、私を虜にした。

その中で私の自慢話は畑でのたい肥作りである。

 

草を重ねてえひめAIを振りかけると立派な堆肥の匂いがする。

これは私が少年時代に経験した牛糞を田んぼの中に積み上げて腐敗させたその匂いである。

源流きらりの歴史はそれはそれは素晴らしい成功物語である。

ここで触れる余裕はない。

そして私の小菅での農作業を本格化させたのは私が山中でバイクで転び3ヶ所骨折の大けがをしそのリハビリに農作業を選んだことである。

当初横須賀中央病院で手術を受け、奥多摩病院でのリハビリでは回復不能とまで宣言された右腕だったが思いついた畑作業が思わぬ成果を上げた。

畑作業と言ってもスコップで荒れた斜面を耕す単純作業。

この作業が思わぬ効果を表し動かぬと宣言された右腕がどんどん動くようになった。

最初の畑には雑穀稗を植えた。

当時小菅では日本雑穀研究会が小菅を拠点しようと熱心に雑穀栽培を説いていた時だ。

私は小菅の湯付近での雑穀研究会の畑から稗の苗を沢山いただき、村人にお手伝いをお願いして畑のある余沢まで運んでもらい、植え付けた。

運搬は私の怪我を思いやって結構な斜面を上り下りをしてくれたのは木の下稔さんだった。

このとき斜面の耕作は興味津々痛さも辛さも気にしなかった。

流石に運搬は幸いのだがほとんどを木の下稔さんが引き受けてくれた。

そして、耕作した斜面で初めての小菅での私の農家栽培は成功するかに見えた。

ところが、稗が実ったころを見計らい雉をはじめとして山鳥がわんさと押し寄せた。

実際に雑穀として収穫したものはなかった。

それでも私は畑作業に大きな自信を得た。

怪我の回復もそうだが、荒れ地を耕作地にした楽しみだ。

山鳥の餌になったとは言え収穫の手ごたえを得た。

堆肥作りも大きな成果を収めていた。

耕作地の近くの畑に居た長老をわざわざ呼び寄せて堆肥の自慢を行ったものだ。

 

◆小菅の畑作業

当初、私は経験上畑作業を軽蔑していた傾向にある。

それがリハビリとは言えスコップと三本鍬の耕作作業は私の農作業魂を呼び覚ましたようだ。

私が耕した斜面は余沢の氏神御嶽神社の裏の孤立した一軒家故土肥正長の家の裏側に広がっているのだが、部落に張り巡らされた電柵の外側、シカ、サル、イノシシの遊び場みたいなものだ。

1年目は雑穀だったので外敵は雉をはじめとする山鳥だった。

雑穀には山鳥が天敵、網を張り巡らすしか方法はない。

もちろんそのような知恵の働くはずもない。

とにかく耕し、苗を植えるのみである。

収穫のことを考えることもなかった。

そうした私に飛び込んできたのは、木下稔家で教わった野生化したミニトマトだった。

この見事な野生化したミニトマトは私の農業魂を擽った。

それに加えて、きぬさや、サトイモ、三つ葉、もちろん雑穀も植えた。

栽培に偏りのあるのは致し方ない、生まれて初めての畑栽培であり、手当たり次第に植えてみた。

何故か、この年にミニトマト、三つ葉、サトイモだけが大きな収穫を得た。

雑穀だけは何者かに若葉の時から荒らされた。

これはシカ害だと後で分かった。

実りかけた穂も途中から折れるという災難である。

これは山鳥であろうか。

それでも収穫したものうれしさから早速、世田谷梅が丘公園での雑居祭りに出店したものだ。

 

雑居祭りでは、源流きらりの販売の出店を余所者ながら許可されたところである。

現在も源流きらりの出店は継承されている。

私の収穫は源流きらりで栽培した野菜だとネーミングが付く。

何故か、この年には雑穀以外は鳥獣被害を受けていない。

ところが、3年目に異変が起きた。

とにかく落ち葉を拾い集めて堆肥を作り、それを畑に撒いた。

三つ葉がうまくいったので、それを畑中にばらまいた。

ミニトマトも大きく広げた。

新たにジャガイモ、ししとうも植えた。

ところが、ある日、大きく葉を出したジャガイモが根こそぎ荒らされた。

余沢部落の知り合いのおばさんがジャガイモが荒らされていると報告してくれた。

すぐさま、畑に出てみると、まるで草取りをしたようにジャガイモの葉っぱが転がっているのだ。

見るも無残にジャガイモは枯れ果てていた。

三つ葉も根こそぎ食い散らかされた。

ミニトマトも何者かが食っているようだ。

さすがにしし唐は元気だが、土に合わないのか大きくは成長しない

三年目にして大きな挫折感を味わった。

そんな時に、源流きらりの導入時から並々ならぬお世話頂いた玉川キャンプ場の当時オーナ横瀬健さんから奥さんの実家の畑を耕さないかと声かけられた。

この奥さんが猿のジャガイモあらしを教えてくれた方だ。

二つ返事で新しい畑での農作業を承諾した。

 

これは小菅にきて4年目のことだ。

もちろん、この場所も斜面であるが電柵の中である。

しかも5年以上は放置されたという土地には雑草が繁茂していた。

私はスコップと三本鍬とで斜面を耕した。

最初に植えたのはジャガイモだった。

ただ一つの不安がよぎる事件があった。

植えるためにジャガイモの箱を畑に置き去りにしていた隙に、猿が一団がジャガイモに屯していたことだ。

余りに気にも留めなかったことだが、その後猿軍団との格闘が始まった。

電柵の中とは言え、猿の行動を制限するものでないことが分かった。

ここでも一年目にはジャガイモの収穫は多かったが段々と猿の威力に押され気味である。

キャベツも植えたが、青虫の勢いが凄まじく口に入るのは極わずかだった。

何故か、この地ではサトイモとネギは育たない。

隣の畑のサトイモとネギは勢いが良いにもかかわらず。

トウモロコシも育ったが猿にやられたのはまさに一瞬だった。

数十匹の猿軍団は容赦してくれない。

時々は鹿、イノシシも来るようだが、大きな被害には至らない。

 

私の畑作業を更に推し進めたエネルギーはこの鳥獣被害である。

最初は私の百姓を動物のえさ場だと比喩した村人にも「趣味だから」と一笑した。

ところが、成長する野菜を見事荒らしまくる鳥獣に競争心が沸いてきた。

彼らとの競争に打ち勝つためのあらゆる試みを行った。

電柵の外でも、電気の通さないで電柵を張るだけでイノシシが来ないことは実証できた。

彼らは繊維触れるだけでまっしぐらに畑を通り抜ける。

鳥よけの網を張り巡らすと、猿は畑に近づかない。

流石にこの網には人間様が扱いに閉口する。

花火や爆竹を村人は放つが効き目のないことは理解済みだ。

石を投げたりパチンコで猿を脅かすことは効き目がある。

ただ、これを毎日続けるわけにはいかない。

犬二匹が畑につないだ。

犬のいないところでは猿は大威張りだ。

犬を長距離で動けるようにした。

猿は今のところ犬のいる畑を回避している。

最終的には猿が好まない野菜を作ることだ。

えごまは的中した。

小菅での本格的な畑作業は始まったばかりである。

すでに趣味では済まないところにいる。

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