No.6 小菅村での農作業 2015/09/21
◆農業と小菅村
昔、戦前のことだが日本は農業立国だった。
日本人は米を食べることが生活の全てである。
ただ、農業と言っても、米文化は縄文時代から弥生文化へ移るつい最近のこと。
縄文人は何万年もの間米無しに生活してきた。
小菅人が米無しに生きてきた時代も随分と長いものと推測する。
もともと、農業、林業、漁業などと分ける生活体験があるわけではなく、この種の表示はコミュニティ成立以来のことだ。
私が自給自足と言う場合の生活内容は自由自在である。
生きるための食生活が保証されればよい。
第2次大戦時の日本においては、米を食べることすら困難な時代があった。
また、米を主食とする地球上でもそう多くはない。
戦後、アメリカがアメリカの小麦輸出を優先するためにパン食を中心の食生活を押し付けていった話もある。
要するに自給自足は地域にその内容は異なることが当然である。
もし、その地域の食生活に馴染まなければ、その地域を去るしかない。
封建時代でないのだから、人々は自由に居住場所を変えることが出来る。
現在、田舎と都会の分離はそうした結果に基づく歴史であったことを物語る。
そして限界集落もまた、その一例である。
そのことを配慮すれば、歴史が現在社会を作り上げたことの必然性について再度評価する必要がある。
今や、情報社会、宇宙時代、そして分業化の時代である。
分業化を押し進めなければ、人類は1日たりとも永らえないだろうとの憶測も成り立つ。ところが、自給自足それはクローズド社会だが、矛盾する話である。
分業と自給自足とは相反する考えだ。
ところで、この基本的矛盾を解決する道はあるのだろうか。
1つは、地球は宇宙で孤立しているので、そのものが自給自足である。
いわゆる、分業などはちっぽけな話である。
ところが、その弊害もあちこちに見える。
差別、階級(階層)、戦争、滅亡などが従来描かれた社会である。
このことをさておいて、分業問題を放置するわけには行かない。
農業は自給自足の基本である。
その根拠には、その土地に備わった自然との共生が前提である。
地球も自然そのものであり、人類は地球との共生を図ってきた。
果たしてそうだろうか。
戦争による地球破壊は限りなく大きい。
全体としては自然破壊が限りなく進んでいるように思える。
自給自足はそのことを否定する。
確かに自然、地球の環境容量は大きい。
少々の自然破壊が進んでも、人類は持ちこたえている。
ただ、その最後がどうなるかだけが問題となる。
小菅村では、山林開発、砂防ダムが小菅川の魚類が死に絶えたという時代があった。
身近に見れば、自然は死に絶えるのである。
小菅村の人口も少なくなり、自然破壊が控えられ、自然は蘇った。
これを自然浄化作用であるとも言う。
地球の浄化作用すなわち環境容量が無限にあるとも言える。
私はそうでないと主張する。
そのための農業の見直しである。
◆農業の効率性
農業に効率性が要求されて久しい。
大規模農業はその例である。
効率性論議においては分業そのものの1つの例である。
いわゆる、効率性を上げるのは部品化が求められる。
マニファクチャーの成立、大規模工業の成立なべて分業化・部品化の成功例として取り上げられる。
もちろん、最近には工業でも必ずしも部品化が効率性を伴わない例が多く見られる。
その中では人間の総合力の問い直しが行われている。
人間を部品とすることへの反省である。
更には、部品化した人間労働のあり方を問うことへの反省である。
そして問われているのは、人間そのもののあり方なのだ。
同じ問題を人間と自然との有り方に戻すと、自然を部品とする考えそのものへの反省である。
自然は生き物である。
それを勝手に破壊してよいわけではない。
そこで、農業が自然を破壊するように見えて、実は農業がもっとも自然を大切に扱うと言う歴史を紐解かねばならない。
効率性を求めての大規模農業が隆盛の今、農業の自然との強制が問い直される。
小菅村では平地は少ないが、自然を活かした農業が営まれてきた。
効率は伴わないが耐えることのない農作物が作られている。
良い例は土、種、作物の循環である。
それに、村人が思考する作物の維持である。
収穫量は少ないが、綿々と野菜、穀物が小菅主として維持されてきた。
狭い土地ではあるが、家族が食するには十分な収穫が得られる。
この循環を小菅村に住むことにより私は学んだ。
◆自然循環
仏教感ではないが、輪廻の世界は自然循環そのものだ。
日本人が、神の国として継承されてきたのも自然循環と見てよい。
火、水、土、気は基本要素であるが、それが生き物(生物)をもたらす。
生物は、その要素の全てを取り込むことによって一瞬の生命を得る。
生命は一瞬であっても個的には永らえることは無く、あくまで種として継続である。
生命体は有限の期間生きる。
種の継続はやがて、無に帰することもあろうが、その時に認知するすべもない。
人間は種の継続の中で、継続を保証されるに過ぎない。
今、この種の継続が危ぶまれている。
絶滅種の存在である。
絶滅種とは無関係に見えるが、人間がそのひとつになる可能性も当然考えられる。
いわゆる人間としての種の継続が無くなったときの現状では認知しようもない。
絶滅種という自然循環での1欠損をどのように見るかは重要である。
小菅村の自然は豊かで、山中には数千種もの生物が生息していると言う。
人間とてその1つである。
この多種多様な生命体を維持することは小菅村の将来を占う。
最近、数年前の話だが、小菅村にトレイルランが持ち込まれた。
私も相談を受けたときに、絶滅の存在が危ういとトレイルランに反対した。
隣村桧原村では、そのことを含めて、トレイルランの誘致に反対したようだ。
実際には、現在もトレイルランは小菅村上げてのイベントとなり盛大である。
最初200人にも満たない参加メンバーが1000名に近いとも言われている。
その帰する結果は早急には見えないが、やがて結果は出るだろう。
同じ種の話で、小菅村では、砂防ダム、林道開発の工事が流行った。
土木工事は小菅村の建設業者を潤した。
結果として、砂防ダム、林道開発が難しい隣村の丹波山村を流れる丹波川は魚の種が多い活力がある、小菅村を流れる小菅川は魚の種が少ない死の川と言われたときがある。
現在は、小菅川も砂防ダム、林道開発も減少し、活力のある川に蘇った。
小菅村の100年後を占う作業は小菅人が決めることだ。
決めると言うよりもその将来は決まっていて、我々はそれを予想するに過ぎない。
小菅村が自然の豊かさ、自然循環に近い状況を保っていることは、その生態系の分布である。
頂点に、熊が居て、鹿、猿、猪、いたち、テン、狸、豊かな落葉樹の木立には、ミミズ、トカゲ、蛇などが育ち、バクテリアを繁茂させる腐葉土が広がる。
このローカルな生態系の営み、小菅村の自然循環は豊かな地球の姿でもある。
以上 2015年9月22日