No.47 政治と農業 20171030

民主主義の死滅

最近、政治の世界が姦しい。懐かしい民主主義論議が復活しているようだ。そこで、かって大学闘争で直接民主主義を唱えて、成功したかに見える全共闘なるものが、その後どうなったかは誰も問わない。いわゆるポツダム自治会なる間接民主主義に基く学生組織が次々と壊されていった実情を誰も知らない。クラス代表、学年代表、代議員総会、そして自治会長なるものが大学の民主主義の象徴のように見られていた。その学生自治会が見事に解体されて行った事実を知ろうとしない。

勿論、全共闘を名乗りながら学生会組織を維持した大学も多いが、それはもともと日本共産党系のように党派による組織体制がしっかりしていて自治会組織は温存された。従って、全共闘は党派との対立を余儀なくされる場合も多かった。私は日大での副手という変則的な立場に居たので、学生との距離もあり、教授会との距離もありしてどちらかと言うと傍観的な立場で大学と全共闘の闘いを見守るしかなかった。

要するにどちらかと言うと大学という間接民主主義の側に立っていたのであって、教室、学科、学部、全学としたピラミッド型の参加に居た。そのことは学生組織にあっても同じである。この大学という民主主義の殿堂が何故崩壊しかかったのかは民主主義の歴史を紐解く上では大切である。

良くあることではないが、私が学生であったころの1960年日米安全保障条約改定反対闘争では、民主主義のへの疑問すら存在しなかった。そして、この暗黙の了解が、岸信介と言う強引極まりない国会運営を生み、そのことに独裁反対を唱えたいわゆる反安保派は怒涛のように崩壊していったのである。この崩壊を助けたのは岸信介の独裁的行為ではなくて、多数を制していた政治家たちであった。

彼らは多数派の威力で100万にも及ぶ国会包囲デモを打ち砕き日米安保条約を改訂を承認させたのである。その象徴的な気信介の発言は「沈黙している国民こそわが支持者である」と。おまけに反安保の先頭に居て「人間機関車」と言われた社会党党首浅沼稲次郎が山口乙矢と言う19歳の若き青年に暗殺された。

戦後民主主義はここで死滅したのである。にも関わらず、大学には民主主義伝説が継承されていて、岸ではないが国民から選ばれていればなんでも出来るという政治伝統を作り上げた。大学では既に間接民主主義での自治会成立は無きに等しかった。日大のように表向きそうした形式を選びながら、実は御用自治会と称して、大学側の下請け組織としての仕組みが作られていた。

戦後民主主義が崩壊しながら、あたかも民主主的な組織として自治会が維持されてきたのは、日大で大ぴらになったように「御用自治会」が成立していたからである。大学では理事会や教授会の意のままに動いてくれる下請け組織として、もちろん、企業でも労働組合が御用化し、国会でも議員が政府翼賛組織として機能するといった具合である。

こうした御用組合、下請け機能と化したあらゆる民主主義組織には先が見えなくなった。それに反旗を翻したのが日大全共闘始めとする大学での全共闘であった。ただ、全共闘にも矛盾を抱えていた。それは民主主義と言う呪縛から自立していないのである。宗教団体や、政治党派では独裁体制は当然であるのだが、自治会、組合組織である場合にはこの呪縛からは解放されない。

日大では偶然にも授業料が不正に使われるという事態の中で、それまでは諦めかけていた御用自治会への反発が一度に噴き出た。そして代表を選ぶ間接民主主義への反発から直接民主主義への舵を切ったのである。直接民主主義は目標が明確であれば全ての意志がそこに集中される。まさにその時代状況が訪れたのである。

日大での直接民主主義の運営は見事だった。数千人の集会の中で代表や方針が決定されていくのである。その内部で起きていることは知る由もないが、今までの民主主義(実は間接民主主義)への反発が、無条件での集会決議、決定を作り上げた。ところが、現実の政治はそうではなく間接民主主義こそ民主主義の基本である。直接民主主義で動き出した全共闘に対する権力上げての攻撃が始まった。それは政府主導というよりはマスメディア主導である。徹底的に全共闘を追い詰める。もともと組織対応がない全共闘は見事に追い詰められた。追い詰められたのは警察機動隊や、自衛隊による物理的圧力よりもメディアによる情報によるものである。メディアによる全共闘情報包囲網によって、孤立させられた全共闘が物理的に解体させられて行った。

直接民主主義

民主主義死滅にも拘わらず、民主主義が生きながらえているのはそれを仮想的に作り上げているメディアの力である。人々は感性的には民主主が死滅していると感じているにもかかわらず、連日の民主主義幻想をメディアが流すと人々もまたその幻想、呪縛から離れられなくなる。

一人一人の経験から感性は決して忘れ去られるものではないのだが、メディアによって作られた仮想現実はあたかも民主主義が死滅していないと人々をして錯覚させるのである。典型的な例が選挙行動である。人々は何故に投票所に足を運ぶのか。地域の代表が中央に出て自分たちの利害を代表してくれているとの錯覚である。人々に日常性がこれほどまでに蔑ろにされながら期待を込めて投票所に向かう人々の心の中は空虚である。

我々は人々のこの空虚さをどのように表現すれば良いのだろうか。人々がこの人をして信用するというその無意味さをどのように紐解けば良いのだろうか。メディアのことを気にしなければ人々の投票行動は単純至極、日常的にお付き合い願っている人にはお付き合いで返すしかない。

勿論、人々の背後には強力なメディアの圧力がある。その1は投票行動への圧力である。その2は有名人であるという圧力である。広報車がメディアで有名であればそれ以上の圧力はない。この代表をを選ぶという絡繰りを見過ごせば、人々は直接候補者との接点を持っていて、それは投票行動を直接民主主義化のようにも見える。

実は直接民主主義の機能するのは極一瞬である。要するに人々が共通の利害基盤を持った時だけだ。いうなれば日大闘争が立ち上がる一瞬である。その一瞬が過ぎれば、人々は日々の幻想サックに戻らざるるを得ない。

こうした一瞬がどのようにもたらされるかは有名なのはビスマルク・ヒットラー、トロッキー・レーニン・スターリン、そして毛沢東の時代である。日本でいえば、明治維新西郷隆盛・東条英機だろうか。人々は喚起し、ほとんどの人々がリーダーについていく。ここでは間接民主主義という回りくどい方法はないのである。

その原型は地域共同体である。地域共同体では間接民主主議と言う回りくどい手法は必要がない。独裁者であるオサが全てを決める。また、住民もそのオサに従う。

勿論、メディア幻想はこうした地域共同体にも間接民主主義を導入するようになり、小菅村でも選挙制度には無抵抗である。それは日常的な共同性が壊れる一瞬であるが、メディアが流し続ける情報荒らしの中で直接民主議もほとんど消えつつある。

そもそも、民主主義の原理原則が問題なのである。その上に成り立つ国家が問題なのである。人々が自立しえていることを前提とした民主主義幻想が事態を狂わしている。歴史から学ぶとすれば独裁者は民主主的に選ばれた結果独裁者になった。

民主主義に対するを独裁主義とする構図は共産主義の成立以来とっくに歴史から葬り去られてきた。現在、その体裁はメディアによって繕われているが、多くの人々を代表できる人物は存在しえないのである。代表=権力は一人の偏った利害において成立するものである。

資本主義・自由主義・共産主義・社会主義論議

民主主義は政治・権力を議論する場合に論じられてきたが、経済を論じる場合には資本主義。自由主義・共産主義・社会主義のカテゴリーで語られる場合が多い。政治は人々の利害に関わり、経済は資本の利害にかかわる。ただ、資本は利害と言っても人格ではないので、資本家の利害とでも述べておいた方が良いだろう。たとえ、百姓であっても資本家であると考えれば、それは政治の利害と一致するようにも見える。それ故に経済民主主義なる造語も生まれる。

資本を中心に据えた場合に非人格である筈の資本が独り歩きする。人々はこの資本に操られるようになる。それは資本=貨幣が人々を支配しているからである。人々はお金で操られるとはよく言ったもので皮オビトは今や資本の奴隷でもある。

特定人種が他の人種を金銭のごとく扱うという資本と非資本(労働)の関係をマルクスを始めとする経済を論じる人々が多い。飛躍して言えば資本家と労働者の関係へとシフトされる。既に民主主義が死滅した中で、同時にこの資本家と労働者の関係も死滅している筈だが、何故か未だにこの議論は終わっていないようである。

いわゆるお金の奴隷と化した人々がどうしてお金から自立できるかという課題である。確かに現状では月々に数万円の金がないと息も出来ないのだが。そういえば貨幣が存在しない頃人々は決してお金の虜にはなっていなかった議論もある。共同体では本来はお金は必要でない筈である。

お金を巡る経済論争はメディアが民主主義幻想と同じく作り出す第2の犯罪貨幣幻想である。日本で耳にする国家予算は100兆円規模であるが、それが国借金、貯金となるとその10倍となる。それに近い形でのGNPとかが発表されている。これらはメディアが流す情報の一部であるが、実際に市中で動いている貨幣はその1割にも満たない。

動いている貨幣のほとんどが政府が繰り出す財政で賄われているので、しかもその貨幣が実際の市中を賑わしているに過ぎない。いわゆる資本主義・自由主義・共産主義・社会主義論争はこの一割の動きで無く有象無象の10倍の動きを追っている。

資本予測を踏まえた、資本主義・自由主義・共産主義・社会主義論議が現実の貨幣実態を追跡できるはずもないが、逆に資本主義・自由主義・共産主義・社会主義論争を垂れ流すメディアによって人々はあたかも貨幣の動きがそのようであるとの錯覚を持つ。

このギャップは民主主義幻想にみられる、貨幣幻想が人々を貨幣の虜となるように突き動かしている。要するに大根一本100円の世界が、一夜で数億の貨幣が動くとされる金融状況と相容れないことは明らかである。この二つを結び付けようとする方が無理であるがメディアは金融状況を垂れ流すことであたかも人々に資本家としての幻想を与える。

政治と農業

政治は民主主義幻想、農業は貨幣幻想の中で、農村部における疲弊は加速している。行きつくところには地方(農村部)における徹底した農奴化である。中央部が農村部を支配する。かっては一向一揆に見られる地方の反乱はおびただしかったが、今回はどうだろうか。

私の田舎播州でもその歴史がある。同じく小菅村でもその抵抗の歴史が語られる。しかしながら、播州でも小菅村でも政治、経済における隷属化は著しいものがある。農村部の解体、限界集落化が進めば進むほど民主主義幻想での支配が強まる。

その根拠は明らかに自然農業、共同体の解体に連なる。かっては農村の反乱を鎮圧すには軍隊の出動だった。軍隊は貨幣で雇われた農村出身者である。その軍隊が農村を責めるという奴隷社会そのものが演じられてきた。

その歴史は今も変わりはない。農村から都市へと炙りだされた人々が「お金で頬っぺたを叩く」ように農村部の解体を推進しているのである。現状、この仕組みを阻止する方策はない。観光地化を夢見て人々が山、海、田畑を破壊し結果として、それに代わる収入源としては観光地化を選ぶものの、その時には破壊された自然の魅力は存在していない。

「国破れて山河あり」はどうやら、現在の状況を推測しているようなセリフである。民主主義が幻想であることを人々が気づくまではこの推測は継承される。特に情報格差を受ける農村における民主主義幻想からの脱却が期待されるのである。

憲法と国家

メディアの最大の武器は世論調査と専門家と称する大学など評論家である。もちろんこのことがメディアを支えるためには、メディアを維持するための膨大な資金が企業、官僚組織から垂れ流される仕組みがある。企業、官僚組織がくしゃみすればメディアがそのこと忖度する。

もともとメディアは国家の存在の上に成り立っているので国家の危機に直面するときにはその全ての客観性、第三者性を失う。客観性、第3者性を維持するために平時における日常的な客観性、第三者性を垂れ流す必要があり、その役割は大学など評論家が担う。

世論捜査はこの大学や評論家によって客観性、第三者性が担保される。しかし世論捜査ほどその客観性、第三者性を逸脱するものはない。その手法など見れば分かることである。この世論捜査が、民主主義基盤である選挙を左右する。

世論捜査が危惧されるのは憲法改正論議である。憲法改正を世論に問うと言う仕組みこそメディアの最大の役割でもあるが、メディアの檜舞台でもある。憲法は国の存在を確保し、その文言は国に国民が従うように指示する。国とは官僚組織が日常的に営む権力そのものである。

民主主義がこの国家の根拠、国家権力の根拠を作り出す。権力を選ぶという根拠である。一端選ばれた権力は官僚組織を自由に使うことが出来る。あたかも官僚組織と政治権力との関係は対立するように演じられているが、それはマッチポンプである。

どちらにも火を点けることは出来るのであって、結果的には国家と言う制度が成り立っている。ここでこの火事から取り残されている人々は蚊帳の外である。人々は国家運営には一切関与できる仕組みはない。それにも拘わらず、国民が国家に関与しているという幻想は、メディアによる民主主義幻想が垂れ流されているためである。

民主主義が国家に関与できるとする幻想を振りまく限り、人々は国家幻想すら産み続ける。国家幻想が威力を発揮するのはファッシズムである。ファッシズムが民主主義幻想の上に国家幻想を利用した仕組みを利用するからである。この幻想はやはりメディアの力を借りるしかない。

ファッシズムが最も展開しやすいのは憲法論議である。憲法論議は、官僚組織と政治権力との関係をあたかも人々と権力との関係を一元化する。本来は人々と憲法との関係はほとんど無関係であるにもかかわらず、憲法論議が展開されるとあたかも憲法が人々に関係しているかのような錯覚を呼び起こす。

ファッシズムは憲法を通して国家と人々を一挙に結合させる。少なくともファッシズムは国家権力を人々が直接関与する幻想を必要とする。一端、人々が憲法を通して国家との関係を感じた時に人々の方向を決定する最大のチャンスである。ここでメディアの役割はこの関係を単純に表現することである。

今まで複雑に表現されてきた憲法が一挙に単純な言葉で表現される。気が遠くなるような法体系の基礎を為す憲法が人々をして憲法との関係を単純化する機会が訪れるのである。ここでメディアの存在が大きな役割を為す。政治権力、国家権力側に一挙に引き返すことが可能となる。

五か条のご誓文とか17丈憲法とか権力者が国家を利用とする瞬間に憲法が論議され成立する。現在のの日本国憲法がアメリカの意志にせよ日本国家を世界平和に貢献させようとする意志の元に提案された。現在の憲法改正論議が現在の政治権力・国家権力が日本国家をどのように利用したいかは明らかである。

そのための憲法論議がある。

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