No.43 有害駆除 2017731

 

電柵ネット

私が小菅に移住したころには有害動物から作物を守る電柵が張り巡らされていた。

電柵には太陽発電で供給される電気が通電されてい触れると大きなショックを受ける。

当時私は現在住んでいる字余沢集落ではなくて字金風呂集落だった。

金風呂は谷間でも土地が狭く作物はほとんど作らない。

電柵は作る場所すら少ない。

逆に余沢は谷間ではあるが土地が広く多摩川を挟んで両岸に土地が広がる。

余沢では多摩川を挟んで北側を日向、南側を日陰を呼んでいる。

余沢は陽が長い時間当たり、日陰は火があたる時間が少ない。

その差は冬に特に大きく、日陰では一日に1時間も陽があたらない。

それは丁度南側に向山という山が横たわり、その山の上に太陽が来ないと陽が当たらないということだ。

勿論日向側でも多摩川に近づくに従い陽当たりが悪く日当たりをほとんど望めない。

私の住まいは冬だと一日4時間の陽当たりだが、国道を挟んで北側の家では陽当たりが10時間以上となる。

逆に私の家から川に下っていくと陽当たりは1時間である。

単純な話だが、南側の山が無ければこういう事態は起きない。

時々村人が山の上の木を切ればもう少し陽当たりが良くなるのは当然である。

昔から作物を作るにはこの日当たりのよい北側の山の斜面を利用する。

自分たちの住まいは南側か谷間の川沿いにである。

従って、玉川の北側の赦免委沿って耕地が広がる。

昔はこの斜面が耕作地として重宝されたようだが、現在はここにも住宅が並ぶ。

最近の流行で作物を作るよりは人の住む環境が大切なのだ。

勿論、今でも広い耕作地が広がっている。

この広い耕地を猿、猪、鹿等有害獣から畑を守るために電柵が設営された。

山と畑の境界に電柵を張り巡らす。

 

電柵は策というよりはネットだ。

ネットを編んだ電線には青と白の色がついていて、青には電気が通ている。

電線に触るときには城を注意深く触る。

私はおっちょこちょいで対青を触りそのショックは脅威である。

ただ畑地は国道沿いどうしての国道を封鎖売るわけにはいかないので鹿などは国道贈位から入ってくる。

また、猿は高跳びが上手近くに高い木などネットをを超える木があるとそれを使ってネットに入り込む。

猪などはネットの隙間を使って穴を掘ってネット内に入る。

勿論、電気ショックは強いので一度失敗すると大変な騒ぎになるので彼らもそれを経験して学習する。

猪などは電線を見るだけで入ってこなくなる。

それでも私の経験では鹿が電柵に引っ掛かり気絶した。

誰かを呼んで捕獲しようとする間に死かは息を取り戻し、ネット破って逃げてしまった。

それでも最近、電気を通していない電柵に死かが引っ掛かり、知り合いがこん棒で叩き殺したようだ。

その肉をご馳走になった。

猿は頭がよく、電柵があってもその隙間をついてくる。

この2年ほどは電柵周囲の草刈りを行う人材が不足し、電柵の機能が果たしていない。

私の場合には電柵が会うときから猿の被害に泣かされていたが、最初は霞網ではないが。畑の周囲を透明の網を張り巡らし、長が居、獣害を防いでいた。ただこの透明の網、目が悪い私自身が巻かれやすく、被害を受ける。

そして2年目からは耐えに犬を住まわせて、被害を防いでいる。

要するに電柵は機能していないが鳥獣被害は咲いて現に食い止めている。

 

電柵塀

電柵ネットの運営は大変である。

とにかくその周辺の草、特に藤などの絡みつきを防ぐのが大変である。

雑草はこまめに刈り取っていればほぼ抑制できるのであるが油断すると直ぐに繁茂する。

繁茂するとその成長が激しい。

要するに根を張りだすので段々と成長の度合いが早まる。

畑の場合には根を掘り出すのでそれほどでもないのだが、畑地で無い場合には根を掘り出すことはしないのでどんどん根を張る。

最近j除草剤が発達し簡単に値を腐らせる。

雑草種類ごとに対応する除草剤も出来ているようだ。

村人の間でも耕地で無いところは除草剤を撒くのが常識である。

私はと言えば頑なに除草剤を含む農薬はほとんど使わない。

最近は山に繋いだワン公にマダニが出て致し方なくアースを撒いた。

ワン公にも背中に殺虫剤を付けた。

マダニの恐怖はテレビで伝わる。

蚋、蚊のばあいには我慢を重ねてきたが流石にマダニは手をこまねいている。

薬は効くようで聞かないようで、難しいがどちらかというと神にも頼む思いだ。

とにかく自然との闘いで、出来るだけアナログ、手仕事で対応することを選んでいる。

そしてその環境容量が一人・耕地1000平方メートル。

そのような事情の中で村役場が県助成金として有害駆除のための3億近くの予算が組まれているという。

電柵ネットではその対応が難しいので諦めたと思ったのだが、予算があれば状況は別だ。

村人は活気づいて電柵塀の建設に動いた。

無料ならば回避することもないというものだ。

確かに猿、鹿、猪等の有害獣とお戦いは挨拶代わりである。

その挨拶代わりの有害対策で有効な手段は我が家のワン公浦井かもしれない。

それぞれに口は出るが有効な対策を持っていない。

我が家の畑は2匹のワン公が守っているのだが一路離れると猿、鹿、猪が闊歩する。

一挙に電柵塀の話は進んだ。

電柵塀は2m級の塀をめぐらしその上段に電線を張り猿の侵入を防ぐ。

高さ2mの鉄塀なのでしか、鹿、猪は防げる。

当然近くに高い建物、気がないことが前提である。

猿は少々の塀でも飛び越えるが電線があればそれを防げる。

やはり電気は太陽光発電によるものだ。

村でも少しづつこの電柵塀は進んでいて、時々見かける。

頑丈な鉄塀なのでまるで牢獄を作っているようなものだ。

頑丈なのでところどころ出入り口が設けてある。

出入り口は高くつくので最小限にとどめるようだ。

ただ電柵ネットのようにその周囲の草刈り等は必要である。

実際には私の耕作地周囲は私が行うしかない。

予算規模は分からないが念に数十万位もならない百姓仕事、果たして大丈夫かなとは率直な疑問である。

この電柵塀の予算も大変であるがそのメンテナンスはもっと大変。

多くの村人が談笑している。

電柵塀と電柵ネットをわざわざ識別しているのは、電柵ネットはネットの中に電気を通し、獣を防ぐものだが、電柵塀は2mほどの金網の上に電気を通す。

猿がその金網を飛び越えないために金網は電気をっとさず金網の頂上に電線を張り巡らし電気を通す仕組みだ。

金網はイノシシ、鹿などが侵入しないように頑丈なものである。勿論大井口にはゲートを設けまさに基地の様相である。

 

有害駆除

もともと獣たちが自生していた山野を人間が荒らすことになった。

最初は獣や鳥たちの食べ残しで足りていたものがそれでは足りずに山野を切り開き必要な作物、獣までも家畜にして食料とするようになった。

こうして山野を人間が切り開いたお陰で獣や鳥が食べていた食料が不足し、その生息地域も狭められた。

獣や鳥たちは当然人間が作り上げたものを襲う。

もしくはそれまでの生息環境が狭くなった分だけ仲間を減らす。

その中で絶滅危惧種ではないが種の保存さえ困難なものが出てきた。

本来多様性を前提としてきた地球が人間だけが生き伸びるように仕組まれた結論でもあるのだが、果たしてそれで良いのだろうかという考えが浮かぶ。

 

人間中心主義と多様性とは矛盾するようだ。

絶滅危惧種の保存を訴える考えもあるが、そもそも多様性とは何かが問われなければならない。

それは人間が自然との共生が可能かどうかである。

自然淘汰の考え方からすれば、人間は生存するためにあらゆる可能性を探ってよいと思われる。

自然淘汰は人間本来の姿なので人類の種の保存は生存競争の延長線上にあるようだ。

ところが、現在のように人類がしたい放題のことを行うに当たり、この人間本来の死全共酢に何らかの制限が必要であるのではとも思われる。

実際には恐竜時代が終わったように何らかのカタストロフィが自然淘汰を防ぐ用途なったようだ。

今回問われているのはこのカタストロフィである。

それが人類が滅びる可能性を示唆する。

それは予測できないがやはり突如やってくるのではとももう。

 

勿論、我々が人生を語る程度の短いスケールではないけれども。

そうしたカタストロフィの起きる以前の問題として自然との共生、多様性の考え方がある。

それでは多様性は予測可能性、実現可能性の問題であるだろうか。

私が有害駆除に付いて悩むところはこの点である。

人類の本質性としての自然淘汰と自然との共生は相反するものであるが、実はこの二つが会い備わっているものが人類ではないだろうかと思う。

すなわち、弱肉強食でありながら共喰いだけは避けてきた人間である。

今までは共喰いに勢いがあった。

その勢いは続ているようだが、それを回避する手段も大きくなったようだ。

それは絶滅保護の問題でも種の改造でなく、種の保存である。

小菅村にくる以前から、小菅村に来てからもそうであるが、村人の共存生活、在来種の保護、外来種の拒否等が村人の中に備わっている。

村人は隣近所を重んじ、情報交換を最優先する。

勿論、野菜等食べ物のお裾分けを優先する。

確かに貨幣文化で毒された側面は大きいが村人に横たわる共存文化は数千円帯で培われた者である。

そしてそこには在来種への期待感も根強い。

昔から栽培してきた種の保存である。

食文化の中で昔の味を重んずる風潮である。

逆に外来種を回避する。

勿論これら培われた文化が衰退の傾向にあることは明白である。

この衰退に歯止めをかける工夫がなされているとは温ぽないが、村人の中に備わった本性みたいなものと受けとめる。

この本性こそ培われら多様性文化である。

逆に弱肉強食の文化も貨幣の進出で拡大している。

この真反対の文化を存在する中で、私もまた有害駆除では悩む。

果たして有害動物、植物の排除は良いものか。

 

自然災害は人が自然との共生を忘れたところで起きている。

自然の性格を寧入りに調査すれば、災害が起きる場所は指定し避けることが出来る。

同じく動植物の性格を正確に知ることが出来ればその被害は防げる。

防ぐということは敵対関係を作ることではなくそれを回避する方法を知ることである。

弱肉強食は敵対関係を煽るが、多様性は共存共栄を探る。

私は電柵ネットのない状態で百姓を維持してきた。

電柵塀はそれに代わるものとは思えないが、村人との共存はそれを受け入れざるを得ない。

電柵塀も10数年もすれば効果が無くなることは分かっている。

その時には次なる閑雅方が示される筈である。

そこに発生する問題は自然との共生か対立である。

 

 

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