No.32 宇宙論 2017215

 

小菅の夜空

ある日日本航空の元システム管理者と雑談しているときに心に残る二つの話があった。その一つは小菅の夜空はパノラマだということ、二つ目は街頭のない小菅の夜道はアメリカでの道路と同じだということ。

小菅村は谷間に沿って集落が点在するので集落からの夜空は季節ごとに区切られる。視野の狭い夜空に澄んだ空気がより星空を輝かさせる。彼はきっとこの情景を想像したに違いない。  

私も夜道を歩くことが多いが、街灯が少ないので真っ暗で遠くの獣の声だけが響くことが良くある。しかし、アメリカでは街灯がある方がおかしいので道路では自動車が光を運ぶというものだ。私は以後小菅の夜道を歩くのが楽しくなった。ただ、村人は私の歩く姿を見て幽霊のようだと言う人もいる。そういう人に限って自動車に乗っけて目的地まで送ってくれることが多いが、普通は通り過ぎる車が多い。夜道で車が通り過ぎると言うことは危険が迫ることだ。特に後ろから車はヘッドライトで光を当てられても警戒音を鳴らされても怖いし、前からくる車にしてもヘッドライトが近づく怖さは半端ではない。

ただ、夜道を一人で空を見上げ周囲を気配りしながら歩くのは素晴らしいことだ。私が青梅に居た時の写真家の友人が何時も大菩薩峠に行って星空を写真に取るようだ。小菅の夜空と違うのはパノラマと違い全天空であるが、春夏秋冬欠かせず写真を撮るそうだ。

小菅村でも夜に星空を見る会があった。小菅村の真ん中にある三つ子山に夜中に登り観察するというのだ。私は参加したことはないが知り合いが参加する。やはり三つ子山、大菩薩峠に見る星空の美しさを人々は期待するのであろうが、私はむしろパノラマ風の夜空を好む。

夜空では月の出も素晴らしい。夕方東の山から出てくる月は馬鹿でかい。そして夕方山に沈む月もまた大きい。いずれも満月に近い月を見る喜びであるが、新月には夜空は星空、満月時には星空が輝きを失う。

 

隕石

最近大学の物理の同窓会があり、その後で友人が隕石衝突の話を書いてきた。最近は地球に衝突しそうな隕石は多いそうだが、それぞれは数m以内と小さく地球に衝突する前に地球を取り巻く空気に触れて燃え尽き地球に届くことはない。それでも1憶年に1回は数kmの大きな隕石が来て恐竜絶滅の事態が起きたとも言われる。

今生きている人々にとって無関係に見える話であるが、人間や生物のことを考えるとまんざらでもない。いわゆる1万年とか1億年単位でのものの考え方が現在社会では問われているのではないかと思う。

人の人生100年、私などは後何年生きているのかも分からないが、今行っている放射能測定、今論じている原爆・原発などは100年単位の出来事だ。

本当は私にとってはどうでもよいような現象をその時にも私が生きているかのように論じている。どうしてだろうと振り返るのだが止める積りもない。

私が生きるということは私が論じてきたこと行ってきたことを続けることだと確信している。たとえ隕石で生物が滅びようが生き残ろうが、その場に私が居ようと居まいと私の生命は伝え続けられると確信している。それはDNAとしてでもなく書き残された軌跡としてでもなく、生き続ける限り戦い続けるであろう生命の在り方として存在する。

 

ブラックマターとブラックエネルギー

テレビで村井某教授が宇宙の成り立ちを論ずるのに表題のようなことを語っていた。もともと重力と反重力は語られたことで重力は互いを引き付け合い反重力はお互いを反発しあう。

いわゆる反重力(ブラックエネルギー)は物質を互いに反発させるので物質(ブラックマター)が存在しなくなる。宇宙が膨張し続けるという最近の観測はこのブラックエネルギーの証明であり、逆にブラックマターが存在できるのはこのブラックエネルギーとブラックマターがたまたまバランスがとれブラックホールを作ることが出来た

。ブラックホールは全ての物質を吸収しやがてその圧力で爆発し超新星となる。超新星はやがて冷えて太陽などを散らばし太陽はその周囲に惑星を抱える。天体観測で超新星が宇宙の外側に向けて加速していることが観察されたことで宇宙の膨張を説明するにはブラックエネルギーを導入する必要に迫られた。

我々銀河系宇宙はたまたまブラックマターとして存在しているものの宇宙天体の多くはブラックエネルギーの元で膨張をし続けている。銀河系宇宙のようにブラックマターの存在する宇宙では平均的な分散よりもより不均衡な分散が行われより重力の強い方向への集中を行うので、銀河系、太陽系、惑星群などが形成される。ここでいうブラックマター、ブラックエネルギーはダークマター、ダークエネルギーの間違い。

 

都会と田舎(小菅村)

日本列島を見下ろすと、都市と集落群がいわゆる宇宙形成と似たようなものだ。都市(太陽)と集落(惑星)のあり方は長い年月をかけて、集落が都市に吸収される有様が銀河系での太陽と惑星の在り方のように見える。

やがて、都市に集落が吸収されてしまうような勢いであるが、実際には集落は無数に存在しその運動は永遠に続くようにも見える。どの程度のスパンで見るかの問題であるが、太陽の誕生は138億年前、地球上の生命の誕生も5060億年前、人類のようなも哺乳類の誕生は10.5億年前、そして地球上に集落形成、集落と都市の成立が始まり、都市への人口集中が今なお継続している。

小菅村など限界集落が何時まで都会への人口供給を続けることが出来るかは最後の1人まで続く。都会から小菅村への移住などでその速度は遅くなることもあるがその流れが最後の1人まで失われることはない。まるで宇宙上でダークマターが無くなるまでのように。

 

宇宙旅行

都市と集落の間の移動は宇宙旅行のようなものだ。現状のところ、月とか火星など人が住めそうな星に人は移動を考えているが、実は自然豊かな集落から荒廃した都会に移住するようなものだ。

それでも都会には全然魅力が無いわけではなく、そこでの生活は魅力いっぱいである。仮想感情、人工食料、バーチャルリアリティが人々を満足させる。私が播州田舎から東京へ、小菅村から東京へといった往来は地球と宇宙天体との往来に似るところがあって、最初は荒涼とした星であってもやがてはそこに憧れる人々が溢れ、人工物からなる住宅空間が広がる。

やがて地球と星との間には都市と農村のような往来関係が成立する。宇宙での天体から見下ろす他の天体や地球などは素晴らしい景観だ。その経験をするためには少々の不自由は致し方なく、最先端の科学・技術の総動員が欠かせない。最効率のエネルギー、食糧工場、短絡的な人間関係など全く未知の世界だ。

最初は何もない星であってもやがては魅力ある住宅空間に代っていく。時たまノスタルジアを感じる人や地球の食料を必要とする人やなどが地球に戻ることがある。現在の都市の成立、無味乾燥な住宅空間、バーチャルな感覚だけを楽しむ人々を考えれば、星での都市社会は十分期待できる。

 

小菅村と宇宙

宇宙から見れば地球はゴミのようなもの。小菅村も地球からみればゴミのようなもの。人は生命体からゴミのようなもの。頭を巡るのはその儚さだ。

ただ、私が人として生きている現実はたとえその命が尽きようとしていても限りなく無限の可能性を持っている。死に至る過程は無限なのだ。

この過程を表現に変える作業を今盛んに行っている自分なのだが、畑作業とこの記述作業の反復は生の無限さを感じる。

生死の境にあることはこの自己記述作業に見られる生きている証であるのかもしれない。明らかに無限の可能性を秘めて歩んできた青春がある。そこでは宇宙や素粒子を論じることで自分に儚さを感じたことはないが今宇宙や素粒子を論ずることに一抹の儚さを感じる。

何故ならばその本質に迫るための手段がないからだ。素粒子や宇宙論でなくても政治や経済を論じたことがあり、それがあたかも地球上での変換に役立つと信じたタイミングもあったが、今その可能性を見ることが出来ない。何を為すべきかを論ずるときにも実証性こそその全てを論じたのであるが果たして論ずる先に実証性を見つけることが出来ない。それは年齢を経て死を感じるためであろうか。果たして実践性が実証性を伴わない時の防御を全然意識して来なかった自分が居た。

今、何を論じようとその防御という概念が存在する。生と死との間にある無限大の壁、そこにぶつかるに必要な防御を意識した時の今が実践性と実証性を確かめるタイミングなのかも知れない。

 

 

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