No.64 集落の歴史 2018121

小菅村の集落

小菅村には、小菅川河口から、上流に向かって金風呂、大成、余沢、棚沢、淀、田元、池尻、川久保、橋立、途中小菅川と交わる白沢川の上流には白沢、小永田、更に峠を越えて長作、更に小菅川と交わる山沢川の上流には井狩、中組、山沢がある。集落の形成は川に沿ってあることは、人々の生活には水が欠かせないので、水をたたえる川から100m程度の住居が立地すると言ってよい。特には天空の里のように川の無いところでは雨水をためての生活が強いられる。こうしてみてくると小菅村には無数の谷川がsあり、人が生活するのは適した地域である。ただ、川が多くても平地が少なく、人々が集落を形成するには自ずとその規模が制限される。平地の広さを考えると、余沢、小永田、池尻、川久保、小永田、長作など大集落である。大集落と言ってもその規模は5,60世帯が立地するに過ぎない。また、集落によっては大成、棚沢のように数名しか生活していない集落もある。

こうした集落の規模は歴史的には盛衰が考えられて、そこに有能な人材がいると、例えば山を開墾数とか、新たに産業を導入するとか、現在の集落がそうした歴史経験を経ているので、必ずしも自然がもたらした平地の規模がそのまま反映されたものではない。私が生活するヨサワ集落は小菅川の河口にも近く、若干の扇状地もあり、また山肌がそれほどは険しくはなく開墾地としても適したようで、耕地面積はそれなりに広い。それに集落が小菅川近くに存在することで富士講と言った富士山参拝のための通過地でもあったらしく宿屋、お茶屋もあったと聞く。

集落の歴史を遡ることはその集落の現状を知るうえで大事なことであるが、残念ながらそれを伝える象徴的なものがない場合が多い。そのことからすると、玉姫物語、松姫物語、皇女物語などは口伝とは言え貴重な話である。その口伝に沿った、地名、建物、幅径なども貴重なもので出来るだけ大切にしたいものである。玉姫物語における多摩川沿いの地名、松姫物語における松姫峠などの地名、皇女物語における長作漢音は貴重である。都会では地名、建物、風景などが理由もなく喪失していく現状は本当に悲しいものである。

私は小菅村に初めて来た頃から、橋については興味もあり、小菅村集落の成立の貴重な建築物と思い、実存する橋を全て写真に収めておいた。それから10年は経ているが、そのことが意味を持つのはもっと先のことであると思う。

揖保川町半田村の集落

小菅村の集落に興味を持つのは私が育った兵庫県たつの市揖保川町野田集落との比較である。実は私が高校時代まで過ごした揖保川町は半田村、正条村、高知村の三村が出来上がったものであるが、私の育った半田村は近かった。現在、半田村は消失したとはいえ、兵庫県で最大規模での人口増加した後なので、私が育った時代の面影もない。小菅村も一時は数千名もの人口規模を誇ったと言われるが、その後人口減少で今は700名規模になっている。

私が高校時代までを過ごした半田村には揖保川沿いの半田、町屋、野田、新在家の集落を表にその裏側、山沿いに屋久、本條、二塚、片山集落がある。これらの集落にはそれぞれの歴史があるようだが、揖保川に沿っているように、山から川へ進出する形態が想像される。揖保川は一級河川、その川幅は広く扇状地も広い。山から川沿いに下って来た人々が川沿いに開拓農地を切り開いたようだ。私が生まれた野田集落はその裏側の屋久集落から下って来た住民集落である。屋久集落裏山山頂から二塚、片山にかけて弥生式土器を埋設した古墳群がある。その典型例が新在家集落でそこには永富家という大家があって大規模の土地を所有していた。名前からして開拓地であるが、永富家は庄屋としての地域を築き上げた。周囲には農地を耕す小作農家が広がっていた。蛇足ではあるが戦後の農地解放で小作農家に農地は売り渡されたり、兼松羊毛という大規模工場を誘致したり、庄屋としての面影は失っているが、その屋敷は国の文化遺産として保存されている。

ここで注目すべき事柄は揖保川を中心とした播州地方には、播磨風土記という日本では最も古い風土記が残されており、この地域が吉備の国、出雲の国、大和朝廷の三つ巴の戦場であったことである。結果として奈良時代には播州地方まで大和朝廷の勢力が伸びていたことを意味し、その治安維持のために集落間の格差を徹底したと考えられ、村ごとに集落間の格差が存在し、その一番下に特殊集落(部落)を位置付けたようである。したがって、半田村でいえば、8つの集落の中で本條集落が特殊部落として存在し、私たちは小さいころからそことの接触を禁じられていた。同じ小、中学校に通いながらも子供の中でこうした差別意識を植え付けられていた。部落同氏は同じ小学校に通いながらも親からは差別を強いられていて、逆に特殊部落の子共からも日常的な暴力を受ける結果でもあった。

ある精肉店のはなし

1130日のことであるが小菅村で映画会があるというので、パー^トナーに連れられて観劇に村の公民館に行った。映画を見て驚いたことに岸和田市の旧島村という特殊部落の北出精肉店4人兄弟の生活ドキュメントだった。私は特殊部落の問題は特殊部落という出生を隠すべきではないという立場であったが、実際にはその実現は難しいと思っていた。私が育った半田村でも特殊部落の住民が他の部落に転出しその出征を隠す例は多い。日本人は戸籍を義務付けられているので出生を隠すことは難しいが、それでも都会に人が集まり出身地がほとんど見えなくなっているので、出生を知られることは無くなり、いわゆる同化が進んでいていわゆる特殊部落そのものが見えなくなっている。こうした時代背景で敢えて出生を明らかにしつつドキュメント映画が作成されたことに驚きだった。

どちらかというと差別解消のために、言葉狩りを進め、特殊部落の存在すら消してしまった感のある部落解放運動の流れの中で敢えて実名でのドキュメント化の勇気というか並々ならぬ決意について私は心を動かされた。ドキュメントは牛の生育、と殺、精肉、販売をリアルに表現されたものであるが、その中心にいる4人の兄弟、それを支える地域の人々、地域ぐるみの祭りなど、かって私が経験した半田村の現実を見せられた。確かに半田村ではと殺場はないものの、各家で飼われた牛は売られと殺場へと引き渡される。揖保川沿いの街道には牛を詰め込んだトラックが走り、子供ながらにその牛たちがどのようにと殺されるかについて想像したものだ。毎日河原に遊びに連れていく牛が何時か殺処分になることを知りながら、何故かせっせと精を出す自分に疑問すら持つことはなかった。

ただ、牛肉を食するのは年に一度か二度である。と殺される牛のことを想像しながらもそのことが自分のものとして受け止めなかったに違いない。それに自分が買っているここまでウサギについては流石にと殺されたウサギは食えなかった。ところが鶏については例外だった。兄たちがと殺するのを見ながら、あらゆる部位を食うこともあった。時々家族連れで田舎野田集落に帰る。実家では歓迎の意味で鶏を絞め殺す。流石に次女はそれを見て鶏の肉を食えなかった。それは正常である。

小菅村では結婚式にはウサギの肉を食べる習慣がある。私が小菅に来てしばらくしてのことだが、東京学芸大学から小菅村に移住している一人が結婚式を挙げて、その習慣に沿ってウサギの肉が提供されたようだ。

映画「ある精肉店のはなし」でいろいろと考えることが多かった。生命の尊さもある。それが牛という大きな生き物をと殺したからではなく、動物にしろ、植物にしろ、生命が維持されるには生命を食さなければならない。特殊部落の問題も特殊部落であることが特別扱いされることはないにも関わらず。私の心の中には育てられた環境の中でその意識が消えないでいる。

祭りの話

映画「ある精肉店のはなし」では岸和田の祭りが紹介された。祭りは、人類始まって以来の行事である。それは原始人であろうが、文明人であろうが、地球上では未だに祭りは続いている。それは、宗教であろうが、国家行事であろうがその形態は千差万別であろうが変わりはない。

何故、そこまで祭りが続けられるのかについては私の考えの及ぶ範囲ではない。しかしながら、祭りは人類の続く限り続くであろうことは予測できる。そのうえで、人類は世界中に張り巡らされたインターネット、火星にまで行けるようになった人工衛星、そして、地球上では70億人もの人々が戦争に次ぐ戦争で殺し合いを続けている。

この3つの事象について、私は真っ向から立ち向かう必要があると考えている。ある知人はそれが神による人類に託された指令だという。丁度、ユダヤ人が神に選ばれた選民として世界を収める托誓を授けられたというように、人々は全て神から支持を受けているという主調だ。私はこの主張を否定できないでいる。

組織、国家の問題、核、戦争の問題、そして人々を縛り付けている貨幣、資本主義の問題があるでしょう。この問題が忘却できるのは、祭りやカタストロフィのときだけである。祭りはもともと権力側の道具として育成されてきた。カタストロフィは予想できないゆえに、誰もが制御できない。

祭りとカタストロフィの違いはそれが予測出来るか出来ないかの差である。人々は祭りを経験しながら、カタストロフィに備えることが出来る。祭りは人々に与えられたものではあるが、それを利用することが出来る。カタストロフィはそれを利用することは出来ないが、再出発の機会を与える。

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