No.17 小菅村3姫悲話 2016/6/27

 

要塞小菅村

小菅村の地形を見るとそれは要塞そのものだ。

小菅村に外地から入ろうとすれば、その1多摩川の渓谷に沿って上流を目指す、その2鶴姫峠を越える、その3は待つ姫峠を越える。

実は多摩川は大河なので昔は多摩川を渡ることなどは出来なかったので、秩父連山、大菩薩峠、松姫峠、鶴峠、三頭山を経る壮大な峠道が小菅村を囲っている。

実際には盆地にたとえるべき地形であるが、大河多摩川に注ぐ小菅川、小菅村のど真ん中にある三つ子山などから、とてもとても盆地を言うには平地面積は少な過ぎる。

それでも小菅村が要塞足らしめる理由は、多摩川・小菅川にそそぎ込む支流の豊富さと、その扇状地ともいうべき狭いながらも平地の豊富さだろうか。

 

支流ごとに点々と村落が分散して存在する。

他所からの逃亡者としては確かな隠れ家となる。

いったん小菅村に落ち着くとそこで生涯を終えるという安堵さがある。

いつか桃源郷の話をあったが自然のホスピタルでもある。

この要塞小菅村ゆえに小菅村を目指す逃亡者が(落人)が沢山居たに相違ない。

その象徴的な話が表題の3姫悲話である。

 

残念ながら、この悲話が系統的に語られたことがない。

その中でも異彩を放っているのが多摩川の源流を根拠づける横瀬健著玉川昔物語である。

玉川キャンプ場のオーナーでもある横瀬健氏はこの昔物語を祖母から子供の時に聞かされたというまさに伝承の世界である。

何時か、その他2人姫松姫、皇女悲話に接したいと思うのだが現状はお手上げ。

 

玉川昔物語

小菅村で最私が非常にお世話になっている横瀬健さんが書いた玉川昔物語がある。

挿絵も文も健さんによるものだ。

きっと、戦国時代、秩父将北畠氏が滅びるとき小菅村に逃げ延びてきたのが横瀬家の先祖だったのでその物語はその話にも似ているところがある。

話の筋は次のようだ。

 

「戦に敗れて武州と甲州の境を姥と10人ほどの家来を従えて鎌倉を目指している玉姫一行が居た。

小菅に来た時に姥が動けなくなり、村人の世話になった。

寒い冬なので春まで留まった。

追われている身であるので鎧兜を残して旅立ったが険しい道が続く。

玉姫一行には若者が居て玉姫と仲が良かった。

ある日一行が大きい熊に襲われたがその若者が熊を切った。

熊を焼いて食べたが、その煙が追手の知るところとなり、追手のとの間で戦になった。

この戦でほとんどの家来が亡くなり玉姫と若者が池に追い詰められた。

若者は多姫とともに家に飛び込んだ。

追手が池に近づくと玉姫は大蛇、若者は狼に変身して追手をかみ殺した。

あるときに大雨が降り池が壊れて大蛇が流されてしまった。

大蛇が流されるときにその目玉が他のように美しかった。

村人はこの川を玉姫の名前を取って玉川と称し、きれいでおいしい水は将軍家にも献上した。

その後、大蛇を探す狼の声が聞こえるようになった。

夕方になると狼の鳴き声が山々にこだました。」

この物語が、現在私が住んでいる小菅村余沢集落の地名を伝える。

玉川は多摩川にそそぐ支流であるが玉川が多摩川の源流である根拠にもなっている。

玉姫と若者が飛び込んだ池は池の平としてある。

池の平近くには狼岩もある。

ここを源流として玉川が流れる。

 

余沢集落の氏神の背景は姥のふところという非常に小菅村でも一番暖かいところだ。

姥のふところの大木を切って橋を作ったところが古橋場、その近くを高橋平と呼ぶ。

玉川に玉姫が迷い込んだ谷として小玉川、足を洗った谷をアシ沢、若者が熊を切った谷を熊切沢、太郎衛門が切られた場所を太郎衛門、残していった鎧兜を収めたと言われる剣が岩いう地名が玉川沿いにある。

腰元のナッチが切られた場所はナッチ沢という地名である。

若者(大青)が狼になり泣き続ける山をオーセイ山という

これらは健さんの著作に書かれたものであるが玉川キャンプ場はこの物語を体現するように小菅川にそそぐ玉川最下流のキャンプ場である。

 

信玄息女松姫悲話

松姫峠は武田勝頼滅亡の時、松姫一行がここを通り、武州恩方(八王子)に逃避したと伝えられることから命名された。

松姫は武田信玄の第六女で、1561年生まれ、六歳の時織田信長の嫡子信忠と婚約したが武田家と織田家の朋友関係が破綻し破断。

武田信玄病死後は人形扱いされる戦国女性の哀しい運命に無言の抵抗を示して生涯結婚しなかった。

 

武田滅亡後は徳川家康に保護され八王子の信松院の庵主として武田一門、織田一族らの冥福を祈って晩年を静かに過ごした。

この逃避行は勝頼の娘(三歳)、小山田信繁の娘、仁科盛信の娘を含む20余人であったが、その通った道筋は定かではない。

大菩薩峠を越え、上野原町の北端西原に5日間滞在したことから、小菅村・丹波山村を素通りしたことになる。

当時、小菅村、丹波山村は勝頼に背いた小山田信茂の勢力下にあり松姫一行は小菅村、丹波山村には立ち寄れなかった。

現在でもこの峠道を踏破するには相当の難儀であるが、幼児三人を連れての逃避行が相当に大変だったことが予想される。

ただ、小菅人にとって松姫峠は小菅村のシンボルのように扱われており、峠近くには松鶴のブナという大木(銘木)がある。

もしかしたら、この逃避行の空白部分には小菅村での休息があったのではとのロマンが成り立たないかと。

 

人皇第六代考安天皇息女悲話

長作は小菅村本村から県道上野原線に沿って鶴峠を越えたところいわゆる小菅村本村から見れば飛び地である。

思うに小菅村、丹波山村が山梨県から見れば飛び地に位置することと同じに異様な感じがする。

この長作にある観音堂は人皇第六代考安天皇息女がこの地で亡くなったことで、聖徳太子がそのことを悼み如意輪観世音菩薩の像を刻み神楽入りに安置したという。

その後堂宇は大同二年(鎌倉時代)に建立され、さらに現在の位置に移されたと言われる。

このはじめの堂宇のあったところは長作の神楽入沢の上流に位置し古観音として昔は村人が小学生の頃お参りしていたようだ。

山梨県文化財保護委員会がこの遺跡を発掘し堂宇のあったことを確認している。

人皇第六代考安天皇息女がこの地に訪れるについては更に詳しい話がある。

 

昔秦の始皇帝が東の国の蓬莱山に不老長寿の薬草があると聞き、それを採取して来るようにと臣下の徐福に命じた。

徐福は秦国で有数の博学者で医学にも通じ、特に薬草については造詣が深かった。

皇帝から不老長寿の仙薬採取を命じられた徐福は、多くの従者とともに秦国から東海に向けて出航し、数日を経て日本の地に到着した。

日本に到着した徐福は始皇帝の使者として宮中に参内した。

日本の天皇も徐福に接しその多才に感じ特別の待遇を与えていた。

このころ日本での薬草の産地としては大和(奈良県)と富士山麓と大菩薩連山といわれ、当時この大菩薩は神部山と称していた。

徐福は薬草採取に神部山に出発しようと準備していた際、たまたま宮中で皇女に私事が起こり、皇女はその難を避けるため考慮中であったので、徐福の神部山への薬草採取に同行することになった。

徐福は皇女に随行し他の従者とともに神部山に向かっていたが、途中長作まで来られた時、皇女は急に産気づかれ、それが非常に難産であって遂にそのため崩ぜられた。

その後の徐福や従者についての消息は不明であるが、従者は皇女の後を弔い、この地に留まったとのことである。

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