No.52 村立大学  2018115

大学解体

大学の不正と腐敗、それは大学が近代化するための必然であった。要するに大学が古い体質から新たな体質へと脱皮するには莫大な資金が必要である。そこで、日大古田会頭が編み出したのは学生からの資金調達だった。としても私学の三流大学が資金を得る方法は簡単なことではない。最初に取り組んだのは大学のマンモス化である。当時戦後復興でベビーブームが始まり、そのベビーが大学生になるタイミングが大学マンモス化の機会でもあった。確かにこの読みは当たり、60年代後半は大挙大学志望者が増えた。古田会頭は土地を買いあさり、日本中に大学設立敷地用地を確保した。

 続いて古田会頭が用意したのは当時科学、技術革新が始まっており、日本にも湯川秀樹を初めとしたノーベル賞が授与される機運が高まった。それ故に理工学部創設に当たっては東大、京大等からの有名教授を招聘し、理工学部を充実させた。特に理工学部物理学教室には湯川秀樹門下の教授を始めとした有名教授が招聘された。更には理工学部物理教室には原子力研究所を設置し、物理教室教員は原子力件所と物理教室とを兼務した。原子力研究所は当時年間1億円程度の予算を与えられ、研究所と教室とを兼務することで教育すべき学生数が少数に限られた。例えば建築学科では学年数百名だが物理学科は数10名に制限された。それでも日本大学全体で見れば文系学部と理工学部とを比較した場合には教員数、施設数、学生数共に理工学部がはるかに優遇されていた。

こうした優遇策は受験戦争が起きた時には理工学部へ受験難易度が上昇し、自ずと日本大学が三流大学で無いことを世間にアッピールすこととなった。当然、日本大学への受験生が倍増した。

続いて古田会頭が手掛けたことは日本大学出身の国会議員を中心に日本会を組織し、そこにも佐藤栄作など首相経験者を入会させ、年間盆暮れに数十万円の寄付を施したことである。彼らは着実に日本大学のために行動し、当時私学助成金を日本大学が独り占めとしたと言われるまでになった。

当然、大学受験は全国の高校からの応募であり、付属高校設立もしくは私学高校との連携による受験予備軍を作っておくことも当然であった。付属高校、関連高校の創出は、既に有名私立大学では当たり前のことであったが、大学マンモス化に合わせての準備は的を得ていた。

こうした強引な大学運営には教職員の確保もしくは手懐けが必須で、教職員はアメとムチによる強力な統制が行われ、特に職員には体育部系上がり、自治体系上りが優遇的に採用され、体育会、自治会が職員との繋がりは強かった。こうした体育系職員、学生は武闘派が多く、教職員、学生へのムチ政策の要となった。逆に武闘派に対する優遇策はそのままアメでもあったのだ。

こうした大学のマンモス化、近代化の流れは順風満風のようにも見えたのが60年代の日大であったわけである。ただ、こうした政策には裏がある。その1は優遇を受けない教職員、学生の存在である。その2は余りにも急成長のためにおこるインフラ整備の遅れである。そして無理を承知の裏金作りが一般人には受け入れられない局面を迎える。

それは一部教職員に理工学部不正会計のリークから始まり、理工学部会計責任者が自殺に追い込まれる自体が発覚した。その後不正は全学的なものと発覚するに至り、大学の在り様が問い直された。もちろん、改革を迫ったのはマンモス化に最も歪を受けた学生立ちだった。ただ、マンモス化、近代化は日大だけの問題だけではなく、私学は勿論のこと国公立大学でもその歪は広がっていた。

要するにマンモス化、近代化が歪を生んだとしてもその流れを変えることが出来ない。従来の古い体質の大学では大学運営が成り立たないことを誰もが理解していた。迫られていたのは古い体質の大学を維持し座して待つのか。逆に歪はあるにしてもマンモス化、近代化を押し進めるかである。国・政府は当然に日大方式を選択し、推進することを宣言した。歪から生まれた大学闘争は圧倒的な国家権力警察権力の暴力の前に挫折を余儀なくされた。

この瞬間、大学闘争に関わったものが迫られたのは大学の解体化、新星大学への乗り換えかであった。

村立大学

小菅村に村立大学を作りたいと小菅村に家を構えたのは土肥正長という早稲田大学出身、やはり大学闘争では中心的役割を担ったのはと思う。私は大学闘争30年を経て21世紀の教育を考えるという大学闘争経験者によるシンポジュームが開かれたときに、実は日大闘争を闘った学生に誘われてしぶしぶシンポジュームに参加した。もちろん、全体としてのテーマに興味のない私はそこに自分の位置を見いだせないで困っていたが、グループディスカッションでは強制的にどこかのグループに属さざるを得ないことを知り、最も寂しそうなグループである土肥グループを選んだ。

グループディスカッションは10名前後のグループに分かれ、そこでの議論を全体に発表するというものであるが、3名しか集まらなかった土肥グループに顔を出した。そこでは大学闘争を闘ったものが大学を作るというので、違和感を持ったが、土肥は熱心だった。

波乱に満ちたシンポジュームだったが、シンポジュームが終わって数か月後に土肥からの連絡で小菅村で村立大学シンポジュームを村人一緒に考えるというので遊びに来いということだった。別に断る理由もないので承諾し、小菅村森林公園で開かれたシンポジュームというよりは焚火を囲んで親睦会だった。そこには土肥の仲間が10人、村人が10人、しかも若い仲間が多かった。

私はこのファイアーストームで小菅村の色々のことを勉強させてもらった。それは大学を作るというよりは大学の名を借りての小菅村に復興だった。それに調べて行くと村立大学は村づくりのために雑居大学などいろいろな地域で試行錯誤されている事実も知った。私が大学解体で、村立大学に反対する理由とてなかった。ところがこのシンポジュームが縁で土肥グループとの繋がりが深まり、その意義、その展開などを考えるようになった。

結果として土肥の努力にも拘らず、村立大学は自然消滅となった。その理由は小菅村にはまだ大学を作るという土壌はなく、土肥が用意しようとしたスタッフも不十分だった。特にスタッフの中心メンバーの死は村立大学の展開を不可能した。

大学を作るには、資金、スタッフ、村の受け入れ態勢と多くの課題があり、それらをクリアするほどには煮詰まっていなかったようだ。

源流大学

村立大学の挫折と入れ替わりに東京農業大学の宮林教授を中心とした源流大学構想が持ち上がった。農業大学では小菅村と組んでの大々的なシンポジュームを開くとともに、それまでに小菅村での活動を続けている東京学芸大学、法政大学、早稲田大学、千葉大学などの連携を模索した。村立大学構想とは良質共に上回る展開を見せた。

既に大学ではマンモス化、近代化が完成しており、次なる課題は大学の企業家、ビジネス化だった。これは国公立、私立を問わず要請されており、大学がビジネス競争に生き残るためには新たな課題を見つける必要がった。既に小菅村でも地域振興の流れをくまざるを得ず、農業大学が提案する小菅村振興、源流大学構想は願ったりかなったりである。

源流域の問題では多摩川の源流域に属する小菅村の森林保存、清流維持は東京都の水源確保としても必須であるので、東京都水道局からは毎年数億円規模の助成を受けて居る。また、森林保存のための山林整備は本田自動車、日本たばこなど企業資金の導入による植林活動が進んでいる。

更には山間部での雑穀栽培は古くは村村立の条件でもあったのだが、学芸大学木俣教授などは小菅村を含む山間部での雑穀栽培を推進してきた。この長期にわたる山間部雑穀研究は小菅村の自然の豊かさにも言及し、小菅村が自然ミュージュアムとなる提言さえしていた。

既に源流の大切さの啓もうを兼ねて村には源流研究所が設立されていて、全国的には源流サミット、多摩川流域での啓もう活動が展開されてきた。私がサンカシタファイアーストームで、役場の役人が源流の宣伝のために多摩川沿いの市町村を訪ね歩いたことを聞き感動したものだ。

土肥が提唱してきた村立大学もこうした流れの一つに過ぎないとすれば源流大学の設立には欠かせないプロセスの一つであった。

そして源流大学

最近源流大学の学生が村民アンケートの為私の家にやってきた。村の農業の実態を知りたいことが趣旨だった。私はそうしたアンケートを受けたことがないので戸惑いはあったが、興味はあった。

彼らの最初の質問は私が作付けしている畑のことだった。私は荒れ地であった畑1000平米が畑として息が得ったことを離したが、彼女らの興味はそこには無かったようだ。畑に咲くけする種類について興味を持っていた。ただ、私は手当たり次第に種を買って植えていることを離したのであるが、そこにも興味を示さなかったようだ。

要するに小菅村に2年前から開始された道の駅に出荷する野菜、その値段、その売り上げ状況を知りたかったようだ。私は折角の道の駅の創設にも拘わらず村人が野菜などを出品しない実体を取り上げ、私が役に立てばと出品していると話した。専業農家でもない私のようなものが未知の駅に出品することの勇気を伝えたかった。ただ、そうした同調者も村には居るようだった。

私は自然循環に興味を持って小菅村で循環お効く野菜の発掘に努めていると話した。荏胡麻、ネギ、ミニトマト、大根等がようやく循環種になりつつあることを話した。彼らは小菅在来種に興味を抱いているようだったが、私の経験はそこまで及んでいない。私は在来種の栽培に努力していることは事実だが、ジャガイモの在来種フジシュやトウモロコシについては失敗した。種の保存などが旨く行っていないのだ。それに比べて、ネギ、ミニトマト、大根は見事に自然栽培に成功している。有機栽培とすれば色々認証資格は難しい。自然栽培とすれば情況が理解できるだろうと思った。

自然栽培は殆ど無農薬、無化学肥料である。小菅の気候、土壌などが適している野菜、穀物を育てることだ。そこには循環野菜、在来種の育成も欠かせない。此の難しさは言葉では尽くせないのだが、学生たちは理解したであろうか。

学生たちは色々聞いてくれたので予定時間をはるかにオーバーしてヒアリングを終えた。聞かれている私も整理しながらの回答なので、さぞかし難しかろうと思ったが頑張って纏めると言って帰った。最後には実際に畑(A、B、C、D)の全部を見せた。

源流大学が何のために作られたのかを知る立場にはないが、学生たちが毎年50人ほどが単位稼ぎにやってくる。源流での農業体験、林業体験、そして山間部での農業、林業、漁業の実態を知り、経験することは若い世代にとっては重要なことであると思う。それは大学の将来を占うものでもある。

大学解体を提唱していた私から見れば、大学の存在そのものが空しいと思うのだが、若い女子学生が来て教えてくれたことは若者が大学と枠ではなく、自由意思で小菅村の自然を学び、人々と交流することは重要なことだ。ただ、残念ながらそのように誘導した積りだったが、彼女らの興味は書かれたアンケートマニュアルであったようだ。

以上   No.51     No.53