No.23 往還思想へのコメントその2 2016102

 

「遺言」私の場合

日本語は主語がなかったという。

だから私という言葉を発する私はいささか日本人離れ(西洋かぶれ)しているのかもしれない。

というよりも私は主語をはっきり書くように教え込まれた。

もともと私の文章は主語がないとして批判され続けた。

結果として主語を明確にすると文章が分かりやすくなったと褒められるようになった。

ところで木ノ下氏の宣言書を見るとその後のシステム論の分かり難さと違ってとその主語が中心の分かり安い文書だ。

この違いはなぜ起きたのだろうか。

人生論で私は私の死は運命でそうした時期に面した時には後に残された周囲の人に任せるつもりだ。

「人迷惑」とはこのことを指すと思うのだが死後の処理は遺された者の常識によるのが良いと思う。

遺された者が好きにして良いと思う。

遺された者の日常性が問われるのはこの瞬間である。

準備しようがしまいが死は突然にやってくる。

そんな時のことをあれこれと考えることこそ、時代の流れとは言え「人迷惑」と考える。

死の瞬間は想定外である。

この想定外にどう対応するかは死んだ人よりは遺された者の人間性が問われる。

 

またとない死を考えるチャンスである。

私の生前の意志よりも大切にするべきは遺された者の意思である。

その意思に従うのが大切である。

最近流行りの「遺言」騒動はまさにビジネス社会の産物である。

誰もがビジネス社会に埋没している現状、私がその反対を唱えても詮無いことである。

遺された者がそれに従う必要はない。

一番大切なことは死に至る過程と死後の区分けである。

物質と化した死後の問題は法にのっとるか否かを含めてまさに常識以上のことを求めない。

むしろここが「遺言」で以下が「宣言」とみなすべきか。

むしろ死に至る過程で多様性が個人の選択を混乱させることだ。

私はこの過程で方法の選択を迫るつもりはない。

まさに常識に従い思うがままに処置すればよいのである。

その処置において残された者が一人の時には問題ないが複数の時に迷うことがあるかもしれないが、そこも常識である。

ここでの常識とは最も強い意志を持つものが処理すべきである。

これは死の前後において変わることはない。

とにかく遺された者が混乱しないようにと思うのだが、それとて遺された者が単数であろうが複数であろうが死の偶然性に無条件で迎えることが大切である。

それは誰でもが経験しなければならない死の瞬間の経験だからである。

 

往還思想

「遺言」「宣言」の背景となる往還思想について、文字からすると往還とは往って還るのであるから何処へ往って何処から還るのかいわゆる主体と客体の関係を意識しているものだ。

主体が客体に向かうとは主体の客体への働きかけ、逆に客体から主体へ還ることは主体が客体から受ける影響を述べることである。これは人の生活にとっては日常的なことでそのことを思考するなどということ以前の問題なのである。

「往還」を「あの世」「この世」とする考えもあるがあの世もこの世も所詮は人の描いた観念の世界、実体からは程遠いものと感じる。

生命誕生以来生き物は外界(客体)との接触を余儀なくされ、瞬時たりともその接触から逃避することは出来ないし、その接触は生命体(生き物)に常時影響を与え続ける。その影響は経験という形で記憶に蓄えられるものであるがその蓄積が客体(環境)次第で多様な思考形態を作り出す。

この思考形態において形式化する作業があるとすれば経験の羅列か経験の整理であるが整理については経験に影響されるという輻輳化は避けられず思考形態の複雑さ、多様化は必須である。これが個人レベルで起きていることに限れば問題ないがそれを他人レベルまでの適用を考えるときには事件が起きる。

 

他人が同じ経験の持ち主ならば共鳴はありうるものの、異なる経験にあるときにその適用は強制を生むことになる。

ただ、生命体の世界に限れば同じ環境下で集合することが通常でそれが長期化することでいわゆる強制で無くて共(共生)の世界を築くことになる。あたかも思考形態が一致するような幻想が生じる。

この共同幻想なるものに対して表現する言葉の問題が初期の思考形態を形成するがそれとても多様化・複雑化は避けれない。ただ、生命体が死を迎えるときには死という共通の経験を経過するのでこの瞬間は思考形態が強制で無く共生の形態をとると期待される。往還思想が意味を有するとすれば死の瞬間である。

しかし死の一瞬は極めて狭い領域で起きるので(とにかく観客を呼ぶものではない)、往還思想が成立するとすれば死の瞬間に立ち会う家族とか近親者に限られる。

こんな時に、観客を前提とするシステムなるものが存在しないと思うのだが、往還思想をシステム論で語るという思考がほとんど想像できない。一歩譲って、この少数集団の中での共通課題としてシステムが存在するとすればどのような形態を描くのだろうか。

 

公開処刑、葬式、終末医療を含めて、本来は死には関与してはならない第三者が介在する可能性がある。明らかに現在社会は死の問題を契機とするシステムが形成されていてそこからの共生が人々を強制に駆り立てている。強制とは死への恐怖である。本来は生と死の偶発性が対として語られるものが生と死の計画性、必然性が前提とされて、その幻想が強制を生む。

この幻想は情報空間を通して無制限に広がりを持つ。広がりを持つとは多くの生命体を巻き込んでいくことである。生命体は死を経験するとその一生を終えるので実はその恐怖を知らない。逆に情報を共有させるというシステムの登場によって死は幻想から現実のものとしてなるかのような錯覚を得る。

本来は少数の経験で終わる筈の死の問題が多数で共有されるという情報空間の在り方が問われるべきだが、いわゆる情報と現実の混交がこの当然のことが当然でなくなる。なぜこの混交が起きるのかについてはシステム以前に存在する集落の形成、組織の形成、国家の形成などの歴史を見ることになるが、そのことは膨大な作業である。

 

するとシステムありきの問題になるので、生と死に関わる少数集団でのシステムの在り方については少数集団での生と死の経験の蓄積、いわゆる経験を共有してきた小集団がその言語、その行動において大きな差異がないことを前提として共通の感情を保持すること、それがシステム形成の前提である。

システム形成は結果論である。システムありきでは強制が生まれる。自然に培われた共生が強制に転換するのはこのシステム(体系性)の由縁である。

往還思想はシステム論であってはならない。往還は狭い範囲でのシステム形成をもたらすが、それを強制へと道びくことは情報空間(ネットワーク組織)のなせる業である。

 

往還思想のテーマ

往還思想で生命論、人間論、人生論、死生観、自然観のテーマを論ずることはそれぞれがシステムとは無関係だからである。これらのテーマは全て人の生と死の間、主体と客体との関係言うなれば生命体が行う環境とのやり取りそのものだからである。

まず人間論は人間が自然淘汰の頂点にあることと人間がその他の生命体を操る傲慢さに関係する。往還思想とひどく似た考えに仏教でいう輪廻の考えがある。そこでは人間は他の生物体との生まれ変わりもしくは同族種と考える。虫一つの命さえ、米一粒の命さえ大切に扱い、それが人の種の生まれ変わりだったりもしくは自分がその種に死後なり替わるといった考えである。

この考えでは無暗に他の生命体を殺すことは出来ない。これは私の人間論でもあるのだが、それを徹底することは難しい。昔岡山大の坂本助教授がこの考えを前提にカエル一匹殺せずを前提に全国乞食行脚を行いその途中私が就学していた関東学院元河村研究室で出合ったことがあるのだが、その後を知りたいと思いつつもその後を知らない。

 

人間論は私にとっては不条理に近いものだが、人間を植物性・動物性・人間性の三つの性格を有するとする考えに近いようで実は異なる。人間はDNAにおいて植物、動物と少し異なるがそのほとんどは一致しているし、それは他の生物を摂取することで往還している。私はそれぞれに境界はないと考えている。

人間を心、身、頭で分ける外科学分離についてもこの分離が医療分野で常識にあることはわかるのだが、私は人間をそのように分解することが果たして可能だろうかと思っている。心・身・頭は一体的なものであり、アメーバではないが分離できないことは、例えば移植した心臓によって移植を受けた人間が移植を受けた人間の人格に変化する実例からも否定できる。

人間を心・身・頭で分離することは出来ない。あくまでもそれは現在ビジネスが陥った罠でしかない。ある人が異常をきたした時にはこの分離された医療の専門医、もしくは他人はこの分離された情報を得るに違いない。そして異常をきたした人間は自分を失うのである。

この心・身・頭の統一を果たすことこそが人間そのものであるが、それは瞬時瞬時に主体と客体とのやりと往還を前提とした人間の行いによって達成されるものである。ここで、それだけのことを否定する考えもあるが、否定できる人はどれだけいるだろうか。むしろその否定こそが難しいと言える。

 

生命論は人間もその一つであることから始まるが、生命の誕生が無機から有機へ、有機から生命体へと変遷してきた常識にも関わることだが、人の命は自分では制御できないものである。自殺や殺人、事故死ですら偶然にやってくる。ましてや病死は予測不可能である。

むしろ生命論は自然淘汰における他の生命体を摂取することでしか生命を維持することができないという不条理である。それは光同化作用を行う植物においてすらがバクテリアの助けを借りなければならない。

ところで現在社会に毒されると心・身・頭の分離が論じられる。医療の分野から一挙に国家・国民的論議に走る。生命が国家に保証されたり、義務付けたり、権利として論じられるのは生命が養豚場の豚と見られるようなものである。豚とてその生命は自律的に営まれる。その生命を物同然に扱うこと自身が生命無視の考えに通じる。あらゆる生命は自然淘汰の中での往還によって支えられているのであってその自律性ゆえに社会的道具として扱ってはならない。

 

人生論では生命体、その一つである人間の本来の自立から離れて人間だけのそれも群れを成す人間の都合主義が議論される。心(気力)・身(体力)・頭(知力)で区別された頭の部分での情報の組み立て部分である。既に往還部分から外れて観念の一人歩きが始まる。いわゆる人生とは群れに存在する人間の生きていく要領を提示したものである。本来は往還(生から死)としてそのほとんどが偶発性に支配されているものだが、その偶発性を無視した範囲で人生設計、人間就業、老人意識、安心立命が論じられる。人は明日死すこともあり得るう命題が失われるのである。

幸いに私は80歳の声を聴くまでに長生きしている。この生きている間を総括すれば確かに人生設計、人間就業、老人意識、安心立命に当てはまる何かがある。ところで、私が代表している会社では30歳で3人、40歳で2人、50歳で1人、60歳で2人、70歳で1人、80歳で1人とほぼ年齢満遍なく仲間が亡くなっている。それぞれに人生論があったとは思えないし、外見だが偶発性の連続である。もちろん、会社を離れれば、さらに多様にとんだ人生を終えた人々がいる。それは不条理(無常)そのものである。まさに川の流れ(往還)なのである。

 

死生観についていえば私の所属した多くのグループではTSI以外にも死者が多く私が死神のようにも見られる。一つは私が所属した日本大学原子力研究所、日大全共闘、都立大学科学論研究会、都立大学物理学同期生など。それぞれは20人~100人規模の小集団である。今からそれぞれに一割上の私の年齢前に死を迎えている。若死にである。最近は私自身も死期を迎えた歳なので死を感じることは少ないが、若い時には私が死を感じるときには私の周囲で死者が出るという現象をよく感じたものである。

 

シベリア帰りの母方の叔父が「日本人は何故死者が出ると泣くのだろう」とよく言ったものだ。神社では死は天への思し召し喜びである。でも私も死者の前で泣くことはないが仲間が死ぬということは悲しいものである。それは群れの本性であろうと思う。だから私は死を恐れる気持ちは強く、必死に生きているような気もする。と言っても、死を賭して現場に挑んだ例は多い。例えば1965/6/15国会議事堂、1972//?三里塚など。小菅に来てからバイクに乗ったり、キノコ採りで山に分け入り瞬間瞬間が死に直面することが多い。そう言えば思い出せば田舎にいるときの毎日がそれこそ死に直面する事態が多かった。

 

ところで往還の考えでは死をプロセスとするところがありあたかも死後が存在するかのような錯覚を生む。輪廻と異なるのは生まれ変わりのことだけだが、私にとっては死は良くてバクテリア化、悪くて無機化である。この無に至ることへの恐怖がある。それは年齢とは関係ない一人ぼっちになる恐怖である。それを説得する観念を持たない。終末医療、ホスピタルについてはほとんど拒絶である。私の親族の死はほとんどが即死であることも私には安心感がある。ただ、私は6人兄弟だが、長兄と長姉が病院で死んでいる。私がそうでないことを望むのだが最大の難題である。

 

自然観について言えば私が今住む小菅村は自然そのものである。そこでの生活は自然との共生そのものである。死生観で述べたように何時何処で死んでも可笑しくないし死の境目がないのでホスピタルそのものだ。ホスピタルと言えば終末医療、私はあえて小菅村に住むようになったのでそれは難しい選択、私は5年前小菅村を逃げ出した。そして再度帰ってきたのは小菅村をホスピタルと考えたからではなくて小菅村を梁山泊として考えたからである。ところで往還とは生(この世)から死(あの世)への繰り返しではなく無(物)から無(物)への往還でありその中に一瞬生がそれも無から無へと向かうプロセスがある。明らかに生きることは心身頭の結合にあるように見えて実はそれは分離できない実体であって社会的共生の中で分離させらたに過ぎない。往還が安心立命、則天去私、敬天愛人、自然への帰還に見られる命、私、人は生命体である人間そのものであり、心、天、自然は生命体に対する外部の観念的な表現である。その観念の生成については往還そのものが無(生)から無(死)への往還であるための実は単純システムである。システムが複雑になるのは生命に対する外部(生命体を含む)の多様性であり基本的には無尽蔵なシステムを作りうるし生命体の観念はその一部を咀嚼するに過ぎない。ただ生命体は群れにおいて共生を余儀なくされるので他の生命体による強制が回避できない。この強制が同一種である場合には広がりにおいて強くなるし、異種の場合においては異種への強制(自然淘汰)は回避できない。いずれにしても共生の範囲で安心安全の観念が生まれるので極稀で安心安全を広く確保しようとすれば多様性を排して不条理である閉鎖性(非共生)に近づくしかない。

 

システム論

往還思想とシステム論はどのような関係にあるのだろうか。システム形成にはその目的が欠かせない。その目的が現在社会では利益追求という暗黙の了解がある。システムと言うからには目的には無尽蔵の可能性がある筈だが、この暗黙の了解こそが大問題なのだ。往還思想にはこの暗黙の了解がないだろうか。私のコメントの趣旨である。往還思想には「あの世」「この世」の二元論がある。現在生きている事実を捻じ曲げる。往還思想には心身頭の人間分解が前提である。これは終末医療、現在医療を肯定する。往還思想には「遺言」「宣言」の背景となるとしているがこれは残ったものへの強制を生む。「遺言」「宣言」ビジネスが現在の私有財産制度、貨幣制度を前提としたビジネスを前提としている。 

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