No.46 生命継承 2017930

えごまの命

「えごま物語」でえごまの世代交代を書いたが、えごまの生命力は私の畑力でもある。とにかく秋に畑に散らばった種が春には芽を出し、その芽が夏に成長したところで畑に整列させて植え替える。えごまの苗はやがて背丈ほどに伸びて蕾を持ち、やがて初秋に花を咲かせ、その周囲を蜜蜂等が飛び交う。冬には花は実になり、弾くように地面に落ちる。これはえごまの一生だが、面々とその生命が継承されているようでもある。

勿論、畑に整列させるのは人間の勝手、そうでなくてもえごまは貪欲に生命を継承するに相違ない。その生命力に刺激を受けながら、私の畑力があるようだ。人間が生命を継承しているのはほぼこのえごまの生命力とほとんど一致している。

えごまの世代交代は生命循環そのものだが、えごまそれぞれの個体についてはさまざまである。無数の種が畑に落ちるが種の中には芽を出さないものも多い。全ての種が芽を出すわけではない。これは自然淘汰というのだろう。弱いものは切り捨てられるのが自然の摂理だ。

芽を出した後でも全部が全部育つわけではない周囲に雑草が育てば、その勢いに負ける芽も多い。地中の栄養分を吸い上げる力をその芽が持っているかどうかの差である。雑草の中にもえごまの生命力に優るもの優れないものも様々である。生命力のある者だけが生き残れる。更にその生命力は花を咲かせる力にも影響する。えごまの1本1本には沢山の花が咲く。それぞれに蜜蜂が飛び交い勾配を促進する。勿論、花咲く量も多いもの少ないもの様々である。

沢山の花を咲かせればそれだけ子孫が多く残せることになる。より強い実を残せばその実は更なる強い子孫を残すことになる。花の咲くころにもその蜜は蜂を呼び花粉を運ばせ勾配を促す。えごまの花咲くころ畑中に蜂が唸る。畑中にえごまの匂いが充ちている。

きっと蜂にも好き嫌いがあるに違いない。えごまの花も蜂に選ばれるもの選ばれないもの、蜂とえごまのコラボレーションだ。えごまと雑草とのコラボレーションは存在する。えごまと雑草では選択意思はないけれども競争が存在する。

私はえごまの苗を整地した畑に整列させ、雑草を抜き、実を畑に落ちる前に取り出す。えごまの実を良いものとそうでないものを選り分ける。更にその後のえごまの生命の継承を支え、その代償としてその実を食する。

ミニトマトの命

私がそもそも小菅村で百姓の真似事を始めたのは知り合いの畑でミニトマトがかぼちゃの弦のように張めぐされ、そしてその弦にあふれるばかりの実を見たときの興奮から、私もこのミニトマトの生命力に肖りたいと思ったからである。と言っても私の耕す畑はない。これも別の知り合いの庭先を借りて、このミニトマトの苗を貰って植えた。私が青めのミニトマトを手にしていると直ぐ熟酢から熟してから摘む方が良いと注意された。

ところが、簡単で成長するであろうミニトマトが植えた別の知り合いの畑ではほとんど成長しなかった。最初の知り合いの家では、ミニトマトは放置しても自然に芽を出し弦を張り、無尽蔵と思うほどに実をつける。ところが別の知り合いの家では苗さえ育たないのである。

年が変わり、今度は畑の庭でなく、知人の裏山を耕して育てることにした。相変わらず年明け手の苗も最初にミニトマトを見た家で育った苗である。ミニトマトは食べきれないほどの実をつけてその多くを熟して地面に落ちそれが次の年には芽を出す。この循環を経験するにはある程度肥沃な土地が必要である。こんにゃく畑であった土地が放置されて荒れ地と化し、スコップで耕しながら整地した。整地したと言っても畑は急斜面、苗を運ぶのさえ大変な重労働だ。

流石にこの畑ではミニトマトが育ち、食べきれないほどの実がなった。嬉しさの余り人に上げたのだが、小菅の住人はミニトマトの成長ぶりを知ってか余り嬉しがることはない。青梅にも持っていくのだが、最初は喜ばれない。

何故だろうかと疑問い思いつつ、それでもミニトマトの成長を期待した。ところが何と言っても畑は山中、獣の遊び場、ミニトマトだけではないが、けだものの鋪場のように作る野菜が全滅である。ミニトマトさえ例外ではない。

荒らされて呆然とする私を見てか別の村人が電柵で防御された放置された畑での百姓をを勧めてくれた。最初の放置されてから数年なので荒れ地と言ってもそれほどではない。えごまが育つようにミニトマトも貰ってきた苗で育つようになった。余りにとれるものだから、持てないほどのミニトマトを青梅の集会の場に運んだら、何とほとんどが沢山のミニトマトが誰もが持って帰ってくれた。最初の反応とは大違いである。

ミニトマトを馬鹿にする人も居れば、重宝する人も居る。それに小菅のミニトマト、小さいが匂いも歯ごたえも甘みもしっかりしている逸品である。酒のつまみにも良いし、おやつにも良い。世田谷の雑居祭り、小菅の道の駅に出品すると評判が良い。

始めた頃の苦境とは裏腹にミニトマトはえごまと同じように実を地面に落とし、その実が春には芽を出し、成長したものを植え替えてやれば、夏には花を咲かせながら、実をつける。食べきれないほどのミニトマトを重宝する人も多い。きっと小菅村でも多くの住民が昔は作っていたのだが、えごまと同じに段々と諦めて行ったようだ。

余りにも自然性の作物を人々は美味しさをも美しさも感じなくなったのであろう。私がミニトマトの生命力、繁殖力に感動したのとは全く違うようだ。商品野菜というか改造に改造を重ねた野菜が店頭に並び、私が栽培するミニトマトは店頭に並んでも見劣りがする。人々は自然の味を忘れてしまったに相違ない。本尾一握りの自然愛好家にはミニトマトの味が好まれるらしい。

ネギの生命力

村人が袋に一杯入れたネギの種を植えないかと持ってきてくれた。小菅村のネギは店頭に並ぶような根が白くて長いネギではないが香は味も抜群である。私の住んでいた播州ではネギとはあの白くて長いネギのことではなく、根は短いが葉っぱを中心に食するネギのことである。葉ネギ(分けネギ)、根ネギ都でも区別した方が良いようだ。

借りている畑の隣の畑は貸主の畑でもある。そこには成長したネギの繁茂した一角があり、貸主のおばあさんが「何年もほっといてもこんなに育つよ」と話しかけていた。その時、私はと言えば借りている果てに点々と散らばって育っているネギの苗を細々と集めて育てようとした。

何故、ネギの苗が散在するのだろうと思いながらも隣の畑のようなネギの育つのを期待しながら成長を待った。ところがその成長は期待外れであった。何とはなしにネギの栽培を諦めていた矢先に、知り合いの村人からネギの種を貰った。

余りに多いので出来る限り、厚めに畑に貰ったネギを撒いた。ところが、直ぐに種は芽を葺き、余りに厚く植えたものだらそれぞれは腐るほどに成長した。慌てて、成長した苗を畑一面に植え代えると種をくれた村人がそんなにネギばかりだと他の作物が植えられないではないかと笑われた。

「そんなに植えてどうするの」とから笑われもしたが、ある村人は「私が喜んで貰って上げる」と冗談紛れに言った。種をくれた知り合いは「束にすれば売れるよ」と慰めもした。私は借りている畑の大家さんの言葉が身に浸みついている。

彼女はネギの生命力を自慢していた。種を植えて分かったことはほとんどの種が急速に芽を出すということだった。その上に植え替えたネギの成長も見事だ。広くはない畑だが、ネギだらけの様相を呈する。流石にその勢いに圧倒される。

小菅のネギの評判が良い。その匂いは部屋の中では部屋がネギ臭くなるほどだ。未知の駅に泥ネギを出したが評判が悪く皮を向くのだが、タマネギではないが目が浸みる。束にして並べた姿も堂々としている。

ネギの生命力は初めての経験である。播州の田舎で小さいころ、ネギの葉っぱを祖母が積む姿を目にした。どうして葉っぱを摘んでも育ち続けるのだろうと不思議に思うこともあった。関東では白ネギ、大きく太くした白い根だけが目立つ。幼いころ経験したネギとの違いも驚いた。その上にネギは一本一本一代限りである。東京に来て根を張り、どんどん株を増やすネギを見るのも初めてだが、葉っぱが食べるネギも上京してからは始めた。

小菅に来ると関西のネギが味わえる。葉っぱが十分に美味しいのだ。東京に来てネギの葉っぱを好む私は冷やかされたものだ。それでも田舎では葉っぱネギはすき焼き等鍋物には欠かせない。最近は讃岐うどんが評判となり、その評判は沢山盛られたネギにもある。葉っぱ十分の讃岐うどん屋のネギには流石に目がない私だった。

小菅ではこの葉っぱ十分のネギを私が育てる。しかも代々継承されてきたネギだ。その生命力を楽しめる。

雑草の生命力

雑草の生命力にはほとほと参る。抜いても抜いてもその芽が吹きす。撒いても居ない種から、それこそ無尽蔵に芽が出てくる。本来ならばこの生命力に肖りたいとは立つ僕の精神であるが、私にはとてもとてもその気分にはならない。毎日が雑草との格闘なのだ。有害動物についてもその生命力は尊敬すべきなのだが百の根性なのかどうも有害動物には戦いを自然に挑んでいるようだ。

野菜の場合には一本一本生命の尊さを念仏を唱えながら、どのようにひ弱でも助ける精神がある。それに引き換え雑草を無造作に引き抜く。雑草が役に立たないからだろうが私も現金なものである。家畜とはペットだと可愛がる人々も山等野生の獣類だと嫌う。こうした自分勝手な行為が自然の共生を忘却することであるだろう。

この間、畑仕事が一段落して、余裕をもって雑草取りを始めている、想像以上に雑草がえごまの間に繁茂して花を咲かしている。既には花が咲き実を付けるころである。その前に草を抜いておかないと、無尽蔵の雑草が繁茂す根拠となる。去年は雑草を抜くのをさぼったわけではないが、手間がそこまでとど来なかった。その分雑草の実を取り除く手間暇が大変だった。今年は余裕がある。手間暇も軽減されるものと期待する。

雑草の生命力で抜群なのはスギナ、カヤ、フジツル、タンポポ、ドロボウ草などである。その他にも厄介なものもあるが名前も知らない。彼らの特徴は根が深いし、実が多くなる。それに実が軽く拡散しやすい。ドロボウ草の実などは服にくっつき何処までも運ばせる。タンポポの種は風に吹かれてどこまで飛んでいく。

いずれにしても抜いても抜いても次々と芽が出てくる。種類が違うが次々と芽を吹き出す。耕作野菜と違うところは耕作野菜は種類が限られているが、彼らはまさにあらゆる種類が入れ替わり立ち代わり出没する。

確かに雑草を全滅させる薬剤、特殊雑草だけを除去する薬剤もあるが、私の考えとしては興味はない。それは犯罪であるとさえ考える。この考えは多くの村人とは異なるけれども、慣れない百姓に乗り出した以上、私としての倫理的姿勢でもある。

生命循環と生命継承

仏教ではないが、生命は輪廻の世界である。自然淘汰、弱肉強食と厳しい世界ではあるが、その細胞は面々と受け継がれている。たとえ死しても、食われてもその遺伝子は他の声明に移植されて、その遺伝子が継承されている。遺伝子と言えばまだまだマクロな世界だが、まだ解明はされないが遺伝情報は何らかの形で残っているに相違ない。

生命の誕生はこうした遺伝情報の入れ替わりである。草木であろうが、動物であろうが遺伝情報は継承される。私は遺体の焼却には全て無にする、無機化すると反対であるが、霊魂の世界ではないが最近は焼却であっても生命情報は残るのではとの期待もある。勿論、これは生命継承の問題であっていわゆる幽霊や霊魂、あの世の世界を認めているわけではない。

弱肉強食は生命循環の摂理である。望んで他社に食われることもある。ただ、食うためだけの養殖には反対せざるを得ない。近代農業がこうした手法に傾斜していくことは生命の継承にはなっているがどうも自然バランスを崩すのではとも考える。ただ、自然バランスの崩れといても生命継承が崩れるわけではない。

ただ、生命継承があるからとして自然のバランスの崩れを崩してよいわけではない。他人を殺さないとは人が自分流に作り上げた倫理観である。この倫理観は死が悲しいことと、自分が死を恐れることと一致している。この考えは同じ生命あるものに共通したものである。敢えて死を選ぶ人もその死を喜ぶわけではない。

死を悲しむという摂理は生命現象にある摂理でもある。悲しむというのは人間だけに与えられた特権ではない。きっと動植物全てに与えられた摂理である。それが動植物全てに生命の継承を維持しようとする摂理が働いている。

生命継承と生命循環とは相反する関係のように思える。生命循環は死を前提としたものである。生命継承は生を前提としたものである。生と死の対立は私の中での課題でもあるのだが、自然がもたらす不条理である。

 

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