No.21 「往還思想」へのコメントその1 2016827

◆老人意識の諸相

私は老人という意識を持ったことはない。

それでも、最近は周囲から老人扱いをされる。

それに身体が老人っぽくなったのではと思う。

鏡や写真で自分の顔を見るとまさに世間でいう老人である。

それにめっきり体力が弱くなったように思う。

老水庵で老人意識をいやというほど聞かされる。

この原稿も老水庵に投稿しているものでこの違和感をどうすればと悩む。

老水庵との違いの根本はこの老人意識である。

 

国と言ってよいのか、政府と言ってよいのか、権力と言ってよいのかその治世のためにいろいろ考案する。

ややこしいので以下権力としてひとくくりとする。

ただ、権力とするには内なる権力と外なる権力が存在するが、とりあえずは外の権力としておく。

その最大の道具がこの意識形成だ。

意識形成は教育が主なものだが、最大の道具はマスメディアである。

マスメディアの最大の道具が世論調査である。

マッチポンプよろしく、世論調査メディア宣伝権力実行世論調査。

このサイクルがネットワーク時代である。

情報の循環が空回りしないのはこの権力による実行形態が意外と強力だからである。

 

ところで老水庵ではこの世論調査を用いての分析が進められている。

世論調査を権力の要請で何度も実施させられた私にとってはつらい思いだ。

要するに世論調査を信用していないである。

というよりも世論調査が権力による仕掛けだと思うのでそれを根拠下議論にはなじめないのである。

 

引用1:細る現役世代:

私は現役しか知らないので、これは権力の企業世界に限られた意識である。

引用2:若者の懐を豊かにせよ:

老人意識のない私にとって懐具合には老若男女は関係ないように思う。

引用3:経済協力開発機構:

これは権力の植民地主義の代名詞であるが地球規模で見れば老弱男女は関係ない。

引用4:100歳まで生きたい:

どうも人の生命維持装置は100歳が限界のようだが期待・希望は権力による医療政策に利用される。

引用5:100歳まで生きたくない:

人の死生観は人類社会が培ってきたものだが権力による乱用は見るに耐えない。

引用6:長寿に否定的な意見:

これこそ権力による死生観の乱用。人の生命は権力のものでない。

引用6:長寿に肯定的な意見:

引用6と同じだが、生命を期待・希望で思考することの犯罪。ましてや義務・権利の範疇の対象となるとは。生きることは人間(生き物)そのもの。

引用7:年齢意識の調査事例:

楢山節考は良く引用されるが権力による間引きの強制。その時代世論調査なる手法はないが集落には食料事情でこうした意識醸成があった。

引用8:認知年齢と歴年齢:

歴が強制された権力の創成に近い。権力の誕生は結構古い。アンチエイジング、エイジングレス、ウイズエイジングそれぞれは権力へのすり寄り方の表明。

引用9:胃瘻:

生命への期待・希望の延長線上にある意識だが医療政策の貧困。

引用10:終末期医療、延命中止、刑事責任判断:

刑事責任が全てを物語るが、生命を権力の維持の道具としたことそのもの。

引用11:虐待の親権制限、法務省が子の保護優先:

ここにも親権、保護責任など権力が家族を使って統治を続けてきた名残が消えない。老人意識に始まり親権で終了する一つのフレーズは生命を操る権力の実情を物語る。

 

最後に木ノ下流の老人財産の使用につての提案になるのだが、財産は権力が形成されるその結果、その権力思考ではどうにでもなる範疇であるが、これを自主的運営になるかの幻想は私には違和感。勿論、その日暮らしの私の意識できる範疇ではない。

 

1.2認知年齢とアンチエイジング:

いささか厄介な概念が登場したものだが、情報もビジネス対象となった今日では驚くに当たらない。

ビジネスとは社会的事業、金儲けに関係するすべて。それは権力に保護されつつその補完が全て。

命が継続するうえで何時からこの種の概念が登場したかは不明。命には宗教観が不可避。地球上の宗教の元は原始宗教ではないが人類が登場以来のこと。環境への対応が知らず知らずこうした概念を作りあげた。

それが権力の利用によって今日に至ったのだが、実はこの権力の誕生が実に難しい。地域権力が自然に育ったことは自明。それが国家権力として育つにはさらに節目がある。

木ノ下流の国家中心とした精神の流れには組みしたくない。ただ認知年齢とアンチエイジングが権力補完としてのビジネスによって日々醸成されていくことは明らかだ。

 

1.3ピンピンころり:

これを希望・期待に置き換えには賛成しかねる。

その人にとって死はどんな事態であろうと生と同じに突然にやってくる。生命は希望・期待ではなく全ての生命体に見られるように生まれて死ぬだけである。

ところが人が意識を持つことであたかも他の生命体とは異なる状態にあるという錯覚が生じる。確かに人には生死に喜怒哀楽意識を醸成する機構が備わっている。この点では他の生命体とて同じである。死をば生を続ける。

人が食物連鎖で人以外の生命を軽んずる傾向はこの原点を忘却させる権力の思考が働くからである。

ピンピンころりも実は権力が醸成している概念である。すでにビジネス用語としてのこの概念はあいさつ言葉である。ピンピンころりであるために食生活など日常生活はどうあるべきかなどなど。

人には与えられた環境の中で生きる作業の結果として生も死もやってくると。生死への経験の違いで人はそれぞれに生死の迎え方を意識する。それを総括したところで私への参考になるわけではく私は私である。

確かに周囲環境は私にあらゆる悩みを押し付け私もその渦の中で困惑する。ただ私の悩みは他の人の参考にならないしその逆も真である。

 

1.4趣味、ボランティア、仕事:

1.11.3までの老人意識からの脱出とは何を意味するのか。その原点が問題なのだ。

権力に醸成された意識を覆すにはその醸成元である権力を覆すしかない。これはよく言われる革命願望である。

私も若い時にこの革命願望に憧れた。もしかしたら今もそうであるかもしれない。

としても現実はその願望に程遠い。働くことを権利義務とする考えは生きることを権利義務とすると同じ。権利義務は権力思想そのもの。

ここでいう権力思想とは民主主義思想人には生まれながらにはそうした思考はなく権力が醸成してきた基本原理。

往還思想に基づく地域コミュニティビジネスと木ノ下さんは言うがビジネスの依って立つ権力思想に相反するわけではない。

特に地域貨幣など最たるものだがよって立つ基盤に依拠するか否かはベクトルの問題。

私のベクトルはよって立たない位置にある。ただ、行っていること、言っていることには大きな違いがないが、心の中で醸成され続ける概念には大きな違いが生ずる。

 

◆往還思想

誰にでも起こりうる死の前兆についてその長さは別にして、生きることしか前提としない生命本能は非常に戸惑いを生じる。

むしろ屍を抱きつつその屍が朽ちるまで、綿々とともに過ごすというのが生命体の本能であると考える。

この生命体本能に対して人の意識だけがあらゆる施しを配慮し権力はそれを利用する。

その1が屍の早期焼却である。焼却は生命体としての最悪の選択だが、権力としては最も望ましい。

その2は屍であるか否かの判定が難しく最大の混乱は脳死であった。

その3は最近では脳死を拡大解釈しての自死もその範疇にある。

その4はさらに拡大解釈して木ノ下流の「生命維持のための不自然な延命措置を拒否する宣言」なるものが登場する。

いずれにしても生命体にとっては迷惑というか戸惑いというか不自然さを感じる。

生命あるものの宿命である。高度とはおこがましいが高度に発達した社会では屍になる自己に対して他者への強制を行う。

生きることへの最大の反逆行為が死であり、生きているものにとってそれは最大のアンチテーゼである。

それに立ち向かう生命体にとって最大の思想変革のタイミングである。

それに私は強制を加えたくない。残されるであろう生命体にその処置を委ねる。それがどのような処置であろうと受け入れることを思考する。

勿論、私が生きる力を発揮し抵抗するときにはご容赦を願うとして。

ただし、生きる契約を結び、死の契約を結んでいないので、死が犯罪として罰せられる場合がある。これは生死に対する権力の悪用に他ならないが民主主義思考しか経験しない現在社会の最大の不条理ではある。

ところで往還思想とは「生命維持のための不自然な延命措置を拒否する宣言」の背景となるというのだが、残された家族にとっては相当困惑する。

もちろん、家族が往還思想に馴染めば困惑するはずもないのだが、このわがままをどう裁くか。裁くのは家族の判断よりも医師の判断だから医師の医療ビジネスに適するか。

どうも権力問題に逆上るしかない。

そして往還思想が医師や家族を納得させることになるのか否かがこの宣言が有効性の判断となる。

 

以上   No.20    No.22