No.18  自然との闘い 2016/7/8

 

土、水、火

昔、物質の3要素として土、水、火だと教わった気がする。

小菅村での百姓を行うと土、水、火(太陽)の恐怖は日常のことだ。

恐怖というよりも必要不可欠な要素だ。

この10年くらい、小菅村での百姓生活はこのことをますます確信させられている。

土については、作物が育つ畑での土の威力である。

土には、作物成長の栄養素を保持すると同じに水、温度(太陽熱)の保存力が目立つ。

作物は土に守られて水を得、熱を得る。

水、熱の過不足を調整してくれる。

水が多い時には流し去るし、少ない時には保存する。

作物はそのお陰で成長できる。

作物自身にも水を貯える能力はある土はそれを高める。

同じように熱の過不足を調整もしてくれる。

太陽熱がきびしい時期にはそれを遮断する。

太陽熱が少ない時には保温する。

いわゆる土は作物に欠かせない水、熱の調整を行う。

勿論、土は埃、石、岩などに形を変える。

それぞれが生物が成長するには必要不可欠のものだ。

これを水、火についても同様の表現ができる。

 

水は地球上の2/3生命体の2/3が水である。

水によって土はその場に保存されるし、熱も保存される。

最適な硬度、温度が維持されているのは水の存在ゆえだ。

作物の構成から見ても水は不可欠だ。

火は特に太陽に象徴されるのだが、地球、生物が一定の温度を保てるのは太陽のおかげである。

むしろ、土、水、火はその均衡状態があって生物(作物)を維持しているとみて良い。

昔からこの3要素について、人々が命より大切してきたことが推察される。

特に百姓はその大切さを伝承してきた。

例えば、土は野菜について土を家に持ち帰ることすら反対されたという。

持ち帰るまえに畑で野菜から土を落としてから持ち帰れというものだ。

 

水は谷川から100m以内が生活圏と言われる。

湧水を含め、畑作には谷川の水が不可欠だ。

そして日当たりの良さは作物にとって致命的で、南斜面は畑、北斜面は住処とすることは当然だった。

日陰、日向など地名としても残っている。

こうした物質の3要素は、生活感覚を表現したものだ。

勿論、現状では物質の3要素としてこれを表現すると笑いものになる。

土、水、火とも分子レベルでの化学反応の結果であることは当然である。

さりとて、基本的な要件を表すのには十分である。

今では分子レベルと原子レベルから見れば要素とは言い難い。

原子レベルとて素粒子レベルから見ると要素とは言い難い。

素粒子レベルとて物質の要塞というのは疑問がある。

ならば、物質の要素とは何か。

そのことが百姓が知るべき事柄なのだと。

それは人が生活する感覚、時間、空間の中にすべてが組み込まれている。

時空間とはすべての始まりであり、要素でもある。

 

時空間

人は死ぬ。

その意識は無から有、そして有から無に向かうものだ。

有は物質、無は意識そのものだ。

私もそろそろ無の世界に向かうものなのだが、この無から有、有から無に向かうプロセスが私の生活そのものである。

私が営む事象と異なり、私の意識は次々と消滅を繰り返す。

それが脳の中に瞬時に維持されていようが所詮は無に帰するものだ。

ところが私が営む事象は形を成す。

それが他人によって感じられれば他人の意識をもたらすに相違ないが所詮は私の知るところではない。

 

意識の問題は事象と違い次から次へと変遷するものなので、これを事象に置き換えることはほぼ不可能に近い。

稀に事象として表現されるかも知れないが所詮は無の世界である。

この変遷こそ時空間そのものだ。

事象は時空間を刻むように表示される。

意識は時空間そのものだ。

例えばその刻みは無限小、無限大と自由に表示される。

人の生死、意識の始まりと終わりでもあるのだが、無限小、無限大を意味する。

この時空間の中、時空間そのものに意識は存在する。

時空間の刻みとして存在する物質の存在は事象そのものである。

物質は意識を創成・消滅させるように見られるが、それは事象としての刻みを表現しているのみである。

物質は意識に変わることは出来ない。

 

ただ、この問題にパラドックスが存在する。

物質の創成・消滅の問題である。

物質が時空間での刻みとしている問題と、物質が時空間そのものとなる問題である。

事象(物質)が意識を創成・消滅に関わる問題と、意識が物質の創成・消滅に関わる問題である。

生命体(物質の集合体)の事象は生命体の意識によって生まれる。

意識ないところに生命体の営みはない。

無(意識)が有(生命体)を生み出すというパラドックスである。

 

百姓は日常的に生命体を観察しながら、このパラオックスに向き合っている。

あたかも自ら育てる作物が自らの意識と同じ地平にあることを感じている。

輪廻、循環の考え方が存在するのはこのためだ。

これは時空間が物質を生み出すという考えに近づく。

最近には物質が消滅するときに莫大なエネルギーを放出し、逆に莫大なエネルギーが物質を創成すると言われる。

この莫大なエネルギの存在は時空間の揺らぎとしてしかありえない。

時空間は本来は無に由来するにも拘わらず、物質を存在させる。

 

自然との闘い

小菅での百姓は自然との闘いそのものだ。

それは土、水、火のコントロールでもあるし、弱肉強食、生命体でのサバイバルでもあるのだ。

それぞれは私の繰り出す事象でもあるのだが、地球上に存在する生命体の営みでもある。

実はこの営みが最終段階にきているのかまだまだ先があるのかが見通せない。

私の意識の範疇でもあるはずのものが実はその意識が混乱している。

意識の混乱と事象とは異なる次元の問題であるのだが、意識は秩序を求める。

時空間が整然と無限小、無限大として横たわるように意識もまた整然とすることを求める。

意識が最も整然とするのは死の瞬間である。

いわゆる無の世界である。

 

意識を創成している人体としての人間は死を持って無になるのではない。

それは有機的なものから無機的なものに移行するだけである。

無機質は物質であり有を意味する。

最も人間の生命が維持されるためには、現在の人体の焼却(完全無機化)は良くない。

出来れば土葬、魚葬、鳥葬など他の生命体に食われるのが良い。

そのことで生命体の遺伝子の一部として残される

勿論、遺伝子と意識との関係はまだ解決されていない。

それ故に私の意識がどのように継承されるかは不明である。

ただ焼却はこの可能性を全て無くする。

 

弱肉強食はその意味で自然の摂理である。

百姓はこの節理の実行者である。

土、水、火のコントロールできる一番近い位置にいる。

科学がこの最も自然の摂理に近いところにいる百姓を遠ざけていることは浅はかである。

むしろ科学はこの浅はかさゆえに死滅しているのかもしれない。

生命体の謎は無から有を作り出すところが全てである。

物質が時空間から作り出されるように。

意識が生命体を作り出すプロセスも同じある。

ただ、生命体全てに意識があるか否かは自明ではない。

生命体が意識を持つことはほぼ自明である。

ただ無である筈の意識が最初に存在することは時空間の存在と同じに解明されない。

いずれにしても生命体に宿された意識に要請されているのは環境(自然)との闘いである。

百姓ほどこれを意識させられる。

生命体にとって環境はすべてある。

意識はその中で醸成される。

現在社会はこの環境を破壊し、生命体に対してほとんど環境を提供していない。

従って、生命体は偏った環境の中で営みを行う。

純粋培養、ロボット化など時代の流れである。

 

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