No.12 Kさんの話 2016220

 

◆Kさんの思い

Kさんこと木ノ下勝郎氏が小菅村を訪れたのは10年も前のことだろうか。

この時に故三浦幸雄氏も健在だったし、私も小菅村に移り住んでいた。

東京から10名近くの仲間が、研究会と称して集まった。

今は開業していないが、船木民宿での合宿だった。

私はと言えば、源流きらりの実験と称して村人の健さんから借りた6坪程度の畑でえひめAI2(源流いらり)の効果を見るためのほうれん草の育成実験を行なっていた。

集まったメンバーには、源流きらりの散布配分を変えた5種類程度のほうれん草を育て、それをメンバーに持ち帰ってもらい、その味をレポートにして教えてもらった。

そのときほとんどのメンバーから素晴らしいコメントを頂いたがKさんもその一人だった。

結果は、源流きらりを散布したほうれん草の味に軍配が上がった。

 

その後、Kさんが奥さんを伴ってやってきたが、私の感知することでもない。

そして三浦幸雄が亡くなって、いの一番に式場のある青梅市の小作駅に来てくれた。

私は小作にKさん夫婦を迎えに行ったが、私も葬式準備のごたごた、駅蕎麦をご馳走になった。

Kさんには亡くなった三浦幸雄を棺に入れるところに立ち会ってもらった。

小菅村に移住を勧め何かと不自由させた故三浦幸雄の話は尽きない。

Kさんと故三浦幸雄とは最初で最後の出会いだったと思うのだが、Kさんにとっては余程印象深かったと思われるのか、何かと故三浦幸雄の話が出る。

そして、研究会をもう一度小菅でやりたいとKさんから電話があり、快く引き受けた。

同じ話がTさんこと東條巌さんからも電話があり、これも快く引き受けた。

ところがKさんからは人が来ないので独りで行くと電話があった。

Tさんも来るよと言うと確かお互いに連絡が取れているようでいないようで。

結局、二人だけが我が家を訪れ、一夜を過ごした。

翌朝Tさんは用事があるとして帰り、Kさんはもう1日泊まりたいと。

 

その結果が、この一連の小菅村農作業通信の始まりだ。

Kさんは老水庵in梁山泊のブログを書いていたので、そこに私の農作業日誌を書かないかという提案だ。

最近、私はふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクトの方針を巡る悩みがある。

筆が進まない。

関係ないとは嘘だが、突然飛び込んできた話を受けた。

それなりに筆が進んでいるのが現状である。

Kさんと言えば、老水庵で相変わらず、難しい論陣を張っている。

昔、私たちが山形県米沢市で山形大の上林教授の主催する産学官共同プロジェクトに参加していたときに上林教授が提唱する公共私モデルを引きずってもいるようだ。

もちろん、Kさんによれば「老人には若者を育てる義務がある」と。

その1つに小菅村でも若者の共同作業場が出来れば良いと。

まずは、手始めにKさんが農作業を開始する。

この話が出る前に一度、Kさんが農作業を手伝いたいと小菅村に来たことがある。

丁度初夏、その日はかんかん日照りの猛暑。

Kさんはちょっとエゴマの草むしりを行い、突然居なくなった。

心配で電話すると、熱中症で宿に戻ったと言う。

その前の晩、二人はその宿(小菅村森林公園キャンプ場)で酒を飲み、碁を打ちぐでんぐでんだった。

それにしても、聞けば情け無い話である。

私が、再度小菅村に移り住んだころの話である。

 

◆KさんとIT

KさんはITではカリスマだ。

彼の著作が2万円台に値上がりしている。

私が、50年前に書いた本は、2千円台だとは大いに異なる。

この本の縁で私は東條巌さんことTさんから彼を紹介受けた。

にも関わらず、私は彼と仕事をしたことはない。

でも、彼の著作を読んでその手法で㈱大同毛織の子会社である㈱パピーの販売システムを製作したことがある。

確か、データオリエンテッドに似た手法だ。

でも、それを受けた㈱トータルシステム研究所側のチームワークが旨く行かず、このシステムは納期遅れ、大変な赤字で終わった。

顧客側は「実験された」と怒られ、その上せっかく完成させたシステムも稼動数年で新しいシステムに置き換えられる始末である。

弁解的に言えば、新たな手法の採用もそうだが、汎用機からUnixへの変更、データベースもオラクルのアルファーバージョンを用いるなどちょっと新規開発が多すぎた。

こうした経緯を除けばKさんとはどちらかというとすれ違いである。

それでも対極にいる彼とは相性がよい。

意見は違うのだが、何故かお互いに論争を避けている。

彼の提唱した「ソフトウェア小村」は丁度私が東京を離れて米沢に住もうかと考えてきたときだ。

その時も私は行政システムの売込みで米沢に通っていたが、Kさんは「ソフトウェア小村」を実現するために白鷹町に通った。

結果的に私は失敗に彼は成功を収めた。

そのときに、彼は第2の著作を構想していたようだ。

人間力と言い、システム開発に仕様書理解が欠かせないこと、現場とシステムを橋渡しするシステムエンジニアの養成が不可欠と主張していた。

既に、私は中小地方自治体向け行政システムの販売に力を注いでおり、システム開発についての興味は薄れていた。従って、彼との断絶が長期に渡った。

 

◆Kさんと小菅村

Kさんの主張である「ソフト小村」は白鷹町で途中挫折し、その後Kさん実家のある鹿児島でも同様の試みを行なったと聞く。

やはり、小菅村での思いと同じに若者への期待である。

小菅村に「源流大学」という東京農業大学が中心となって、学生たちが多く滞在している。

農大生が卒業後小菅村に居住する例も多い。

「源流大学」は、その設立手法は異なるものの、故土肥正長が小菅村で村立大学を作りたいと構想を練っていたことに非常に近い。

私も呼びかけられた一人だが、それが途中挫折し、その後農大の宮原教授を中心に創設された。

表向き学生の來村も多く非常に活気がある。

月に一度は村人に呼びかけた「源流大学講座」も開かれている。

ただ、村人の参加は非常に少ない。

 

こんな話をKさんに伝えるのだが、その考えは「源流大学」「村立大学」とは異なるようだ。

私は彼の構想を租借できないが、彼の構想は膨らんでいるようである。

その1は、とにかく私の百姓の真似事に期待しており、青年にもそれをやらせたい。

その2は、空き部屋を借りてそこでの彼の老人思想を伝授したい。

どちらかというと、寺子屋風の宿泊システムを用意し、都会の若者を小菅に呼び寄せたいようである。

今のところ、小菅村字金風呂に小さな部屋を仮住まいとしているのだが、その構想のためには余りに小さ過ぎるし、必要な施設もない。

ただ、彼の構想実現は長期戦である。

そのスケールについて、急いでいるのかそうでないのかは推し量れない。

小菅村は12月も半ば凍土化が進んでいる。

彼が耕し始めた小さな土地も直ぐに凍土になる。

凍土になると、鍬もトンガも太刀打ちできない。

彼には畑耕作よりも構想を練るほうが好きなようだ。

もちろん耕筰を経験した後は、若者にそれを継がせたいと。

結構な長期戦の良いようでもある。

そのためにKさんは小菅の湯が好きだ。

湯に入りながらの構想を練るのが楽しいようだ。

私には、その成果を時々見せてくれる。

でも難しいので、なかなかコメントできない。

 

Kさんの妄想の原点

初めて気が付いたことだが、Kさんの妄想の原点がKさんの住んでいる横浜のマンションの生活であることを理解した。

「私」と「公」の関係、私(自由主義)と公(組合主義)は国(官僚主義)の敷いたレールの上での出来事(コップの中での嵐)。

コップ(国家)は嵐(私と公の葛藤)を想定内に治めることが出来る。

嵐は想定内であるかどうかを知らずに振舞うが、コップが割れるときにのみ、私は公との葛藤を止めて私としての存在を革新する。

やめるというよりは、その関係性が破壊される。

もちろん、公にあっても私と私の葛藤は存在しているが、それは公がコップの役割を果たす。結合としての、自治体(個人)と管理組合(コップ)においても、嵐がコップの外に出るか否か、が問われる。

直接民主主義は嵐が外に出る瞬間に機能する(実は嵐はコップを越えるか壊すかの選択を迫る)。地区連絡会(管理組合と横浜市)は、コップが維持され、嵐が外に出れないことを前提に成り立つ。

間接民主主義はこの状態。

「共」と「公」の関係は精々小さなコップと大きなコップとの関係、擬似個(嵐)である共(管理組合)の公(横浜市)も国家に対しては擬似個(嵐)として共(横浜市)である。

 

 

以上  No.11   No.13