No.2 小菅村風景 2015年7月20日
◆小菅村の自然
小菅村には、偶然と言うか必然と言うか、私の出現は色々の意味をもたらした。
とにかく、右も左も分からずに東京の秘境と言われる小菅村に住み着くようになったのだ。
言葉としては、無我夢中で小菅村に逃げ隠れたのである。
とにかく荷物を運び込んだのが2005年の8月末、住むようになったのは2005/4月のことだった。
何かと後始末があり、元社員が住む故藤條純一郎君の家に間借りすることとした。
隠れ家と表したほうが良い。彼そして彼の父親との付き合いそして二人とも今は故人、その恩を忘れることは無い。
住み着いたところは、字金風呂、平屋の一軒家。
それまでおばあさんが住んでいたので、古いが小奇麗だ。
平屋は小菅川を眼下に見る、断崖絶壁に30坪ほどの畑を挟んで南向きに立っていた。
西の窓からは、正面に山が聳え立つ。眼下の小菅川の音は最初は気になる。
春だから、まだ庭の畑には何も植わっていなかったが、やがて大家のすすさんが来て耕し始めた。
最初は引越しの余波で何も見えない風景だったが、落ち着くとそれが気になる。
もともと私の実家は兵庫県播州揖保川のどん百姓だ。
このことを故土肥正長さんに言うと、「家を貸しときながら可笑しい」と。
後で分かったことだが、すすさんは私が百姓はしないと思っていたようだ。
私は始めての経験、これも小菅の風習の1つだと思った。
その後に分かったことだが、貸家に仏壇があるとか家具が並んでいるとか、当然のように営まれるのが小菅の風習だ。
小菅は、受け入れられれば誰もが家族、受け入れられた側も郷に入れば郷に従えと言うことだ。
字金風呂は、小菅村の最南端の集落、500mも南下れば東京都奥多摩町である。
と言っても延々と続く谷間、その境目を意識することは難しい。
私が住み着く前にこの村を訪れたのは、奥多摩駅からのバスと西国分寺駅からの故土肥さんの車が主な交通手段。
故土肥さんの車では、夜遅いのと朝早いのと、その途中の景色はほとんど見ることが無いが、JR青梅から奥多摩駅への約40分の車窓、奥多摩駅から約50分のバス車窓からの風景はひたすらに谷間を駆け上ると言ったら良い。
小菅村はそれほど山奥にある東京の奥座敷に相応しい村である。
ところが、この立ち位置を東京人は何人が理解しているだろうか。
その10数年を経た今でも会う人事に私が「小菅村に住んでいる」と言うと、東京裁判で有名な小菅拘置所を思い出す人が多い。
◆東京の奥座敷、小菅村
奥座敷とは聞こえは良いが客人が来ない限り滅多に入らない部屋のことだ。
でも、客人が来ればそれなりのたたずまいが必要だ。
まずは、仏壇代わりに山々が聳え立つ。
小菅村に入ってくるには、奥多摩湖から谷間に沿っての道は別として、聳え立つ山に向かって右から、丹波山村から来る今川峠、大月市から来る松姫峠、上野原市から来る鶴峠、いずれも標高700前後の峠を越えてこなければならない。
いわば、天然の要塞なのだ。
郷土史家によると、甲斐の国武田家からすれば、絶好の出城である。
それだからではないが、小菅の人は京都人として誇りにする風潮がある。
武田は京都から松姫ではないが大奥の公家衆を受け入れた。
その一部が小菅村に流れてきたのかも知れない。
私の興味は、むしろ、小菅村に縄文人が居たという話である。
私の住む余沢から二つ目の集落に字小永田という集落がある。
その山奥に、縄文土器が出るそうだ。
山からその中央を流れる白沢川に続くだだっ広い斜面は、いかにも豊かな土壌を思わせる。
神楽も盛んである。
字小永田は鶴峠と松姫峠の間に挟まる。
奥座敷に相応しいと言えば、小菅村の最北端に大菩薩峠に向かう山道があり、その周囲の絶景だ。
村役場の案内にも出てくるが、白糸の滝、雄滝など多くの滝群は奥座敷に相応しい、仏壇の備えである。
私も客人が来れば、まずここを案内する。
それに、ここは小菅川の源でもある。
小菅川の源と言えば、多摩川の源である。
小菅川は多摩川の上流小河内ダム(奥多摩湖)に注ぎ、東京都の水源の一翼をなす。
東京都は水源保護のために小菅村の森林の3割を保安林として管理している。
以上は奥座敷としての小菅村の自然を描いて見せた。
ただ、更に重要なのは小菅村の南端に注ぐ玉川の存在である。
玉川は東京都の三頭山を源流として小菅川の支流でもある。
多摩川はその昔玉川でもあったのだと村人の一人は言う。
そう言えば、多摩川の上流青梅市長渕に始祖玉川神社がある。
ただ、立つ位置が小菅村の最南端、奥座敷として描くには無理がある。
でも、その昔を思い起こせば、人がほとんど住んでいない時代、玉川も奥深い山々から流れてくる水を受け止めていた。
◆小菅村の農地
私が農作業すると言うので、この通信が成り立つ。
ところが、小菅村は山間の村である。
既に小菅川、白沢川、玉川と三本の川の位置を記した。
それに鶴川を加えれば、ほぼ大きな川を述べたことになる。
ただ、鶴川は鶴峠の南側を流れ、小菅村の飛地字長作に位置する。
それに鶴川が注いでいるのは、神奈川県相模湖である。
いずれにしても、山に囲まれ、谷間の川で生活する小菅人はそれだけで豊かである。
海までは遠く、昔は海を知らずに一生を終わった人も多いと思う。
大きな川には、無数の谷川、沢が流れ込む。
これら谷川、沢こそ小菅村の命である、
何処にも100m以内に水源がある。
理想的な住処の条件である。
そこで山を切り開き山野菜を育てる。
一見、山しかない小菅村が豊かな畑を持つのは、いわゆる川に運ばれた土砂(中洲)でなくて、山を切り開いた斜面の畑である。
小菅村の農業とは、山を切り開いた農地によるものだ。
山の斜面に沿って、森林を切り開いていった先人の面影は容易に頭に浮かぶ。
確かに、山間部の主要労働は山仕事である。
しかし、小菅の山の斜面は到る所に農地が広がる。
そのほとんどが斜面である、
よく言われる段々畑風の農地ではない。
ゆったりした斜面を這うがごとき農地である。
私が農作業するのはこの斜面畑である。
と言っても、現在は高齢化の時代、斜面を村人は少ない。
ほとんどの斜面は自然林に帰っている。
それを畑に戻すには大変なことだ。
5年も放置すれば、相当の萱が生い茂る。
10年もすれば、木々も育つ。
ぞっとするような耕地作業である。
老齢化の進む時代、誰が耕すというのだ。