7.3 天皇の地位の憲法改正案~「日本国民統合」から「世界諸国民協和」の象徴へ

 

天皇の地位にかんする憲法改正を提案する

現行 第1条

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

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改正案 第1条

天皇は、憲法に定める国事行為をおこなう日本国の象徴であり、日本国民が希求する世界諸国民協和の象徴である。

 

◆国民が憲法改正に意見を述べる仕組みを提案する

主権在民の主体者意識をもっと高めるために、国民の政治参加をうながす制度を設置する。それを「国民会議」と「憲法会議」とする。

「国民会議」; 国民だけでなく世界の人々から日本国憲法への意見を受けつける。

「憲法会議」; 広く収集した各種意見を整理して、衆参憲法審査会に提出する。

参照==>6.5 憲法審査会に憲法改正草案を提出する国民運動をおこせないか! 

 

1)天皇の地位にかんする憲法改正のポイントは?

→つぎの三つ。

①「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」という記述を省くこと。

②「日本国の象徴」の意味を明確にすること。

③「日本国民統合」の代わりに「世界諸国民協和」の象徴とすること。

 

2)天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」という記述をどう理解する?

→そもそも「日本国憲法」それ自体が、「主権の存する日本国民の総意に基づく」はずである。「天皇の地位」について、国民投票などにより、「日本国民の総意(the will of the people)」が確認されたわけではない。「天皇の地位」規定だけを、あえて「主権の存する日本国民の総意に基づく」と明示することには、冗長であるという違和感をもつ。

日本国民の総意に基づき」、憲法改正すれば、天皇を神格化することも、天皇を絶対君主とすることも、天皇家を廃絶することも、「世界諸国民協和」の象徴とすることも、そのほかのどんな地位にしろ、天皇の地位は変更できるはずである。

だから、この記述を省いても、なにも不都合なことにはならないとおもう。

 

3)では「天皇の地位」を、なぜ「日本国民の総意に基づく」とあえて明示したのだろうか?

→新憲法を制定する当時の状況と関係するだろう。

戦勝連合国は、ポツダム宣言をベースに大日本帝国軍隊の武装解除と戦争指導者の責任を追及した。

天皇と帝国議会と日本政府は、敗戦降伏により仕方なく武装解除は受け入れたが、天皇制維持=国体護持にはこだわった。

戦後の日本占領統治の方針において、GHQ最高司令官マッカーサーと昭和天皇と帝国議会は、天皇を「主権者」の地位から降格し、「国民統合の象徴」とすることにより、天皇制を存続させることを合意し、それが日本国民の総意である」とみなした。

天皇制維持は、敗戦直後の混乱した国内状況と米ソ冷戦がはじまっていた国際情勢へのGHQマッカーサーの高度な政治判断によるのだ。

大多数の日本人の気持ちは、敗戦後の精神的虚脱状態と物質的混乱状況にあって、軍国主義を領導した帝国軍隊指導層への批判や怨念はあっても、天皇の戦争責任を追及して弾劾する「国民の総意」は、形成されなかった。

明治以降の日本人民の大多数は、「一君万民」、「万世一系」という皇国史観にもとづく教育勅語により、徹底的に皇民化教育をほどこされ、建国神話に洗脳された。わたしの両親もそうである。骨身にしみついたその精神性は、敗戦によって払しょくされたわけではなかった。

だから、軍国主義国家の主権者としての神格天皇は否定するが、人間天皇の象徴性は温存する、このことを憲法が強調するために、日本国民の総意に基づく」と、あえて明示したのだとわたしはおもう。

 

4)天皇が「日本国の象徴」であることを、どう理解する?

→日本国を象徴する記号には、国旗/日の丸や国歌/君が代がある。富士山だって桜花だって四季の風物も、日本を象徴する記章=シンボルになりえる。

しかし、それだけでは象徴としての威信を発揮するわけではなく、精神的にもの足りない。「日本国の象徴」の意味が、あいまいである。

そこで、わたしはつぎのようにかんがえる。

国家が国内外にむけて発する枢要な「国事行為」は、俗世の政治権力を超越し、畏敬にあたいするありがたい威厳をもつ者の下でおこなう、荘重なる雰囲気の儀式がふさわしい。

その「国事行為」の厳かさをいやましに飾るために、伝統的な権威を体現するシンボルとして、日本にかぎらず世界においても、もっとも古い家柄と最高の称号をもつ天皇にもとめる。

このことが、天皇を「日本国の象徴」とした日本国憲法制定者の趣旨だと理解する。「日本国の象徴」の意義を、このように「国事行為」との関係で明確にしたほうがいい、とおもうので憲法改正を提案する。

 

5)天皇が「日本国民統合の象徴」であることを、どう理解する?

→「日本国民統合」の意味解釈はやっかいである。つぎの三つの解釈をかんがえる。

A:日本国籍をもつ個人を、日本国民という一体化意識に統合するための象徴
天皇が主語となって、象徴天皇が敬愛と信頼にもとづき、個人を国民に統合するという解釈

B:日本国籍をもつ個人が国民に統合された集団全体を代表する象徴

 天皇は国民を統合する機能はもたず、天皇を日本国民という統合集団の象徴とする解釈。

C:天皇陛下は国民統合の中心であり、国民がその存在に精神的な敬意をもつ象徴

一君万民、万世一系、天皇のご存在により日本社会が保たれると解釈。

 A:国民を統合する能動的な天皇と解釈するのが、わたしの立場である。

 B:が、歴代政府や憲法学者たちの通説のようであり、つぎの国会答弁記録がある。

「国民統合の象徴というのは、統合されている国民を表しているということであって、天皇が積極的に国民を統合するということを意味しているものではないというように理解されております」。

C:は、国家主義、民族主義、保守主義、皇国史観など「右翼」を自称する学者や評論家たちの立場だろう。

 

6)「日本国の象徴」と「国民統合の象徴」というふたつの象徴の区別を、をどう理解する?

→憲法制定者が、天皇の地位を「日本国」と「日本国民統合」を区別して、二重の象徴構造にした理由を、つぎのようにかんがえる。

a.「日本国の象徴」とは、明治憲法の「国体護持」思想を継承する意思表示である。

b.「日本国民統合の象徴」とは、新憲法の「主権在民」思想を表明する意思表示である。

c.「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」は、うえのa.とb.の折衷である。

いうまでもなく、a.が昭和天皇および日本国政府の立場であり、b.が占領軍GHQ最高司令官マッカーサ―の立場である。

この両者による合作が、c.の両論並記にほかならないとかんがえる。

 

7)通説では「日本国民統合の象徴」を「統合されている国民」の象徴というが、「だれが、個人を、国民に統合する」のだろうか?

→主権在民、近代国民国家における「統合される国民、国民統合;national integration」いうコトバに対して、「だれが、国民を統合するか」と問うのは、無意味だとおもう。

主権在民ならざる天皇主権国家ならば、「天皇が国民を統合する」という表現には意味があるだろう。

だが、主権在民の国民国家においては、「国民が国民を統合し、国民が国民に統合される」という意味のない答えになるしかない。あえていえば、「憲法に基づく国家権力(立法権・行政権・司法権)が国民を統合する」というしかないだろう。

憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」とする。

わたしのこだわりは、「個人が日本国民に統合される」ということの意味、つまり「個人と国民」の関係性、ひとりの「個人」と集団の一員である「国民」との関係性、「私」的個人生活と「公」的国民生活の関係性、「社会」と「国家」の交差関係などへの納得である。

わたしは、自分が「日本国民に統合される」という受け身的な意識をもたない。わたしは、自分の意思で積極的に日本国民になったわけでもない。

なぜなら両親とも日本国民であり、日本国内で生まれたという理由で、自分の意志に関係なく、日本国籍をあたえられ、生まれた時から日本国民であったのだから。

自分が日本人であるという意識や愛国心は、外国で生活すれば自然とうまれる。しかし、日本国民であるという自覚は、パスポートをみせる機会がある限定的な場合だけである。

わたしは、天皇が「日本国民統合の象徴である」ことを、ことさらに意識した経験はない。憲法に、そう書いてあるという程度の知識でしかない。天皇は、日本国民統合の「象徴である」または「象徴でない」→わたしにとっては、どっちでもよい。

この立場は、皇国史観を信奉し天皇陛下を国民統合の主体者としたくて、つぎのように語る者たちの立場と決定的に対立するだろう。

~日本という国は天皇中心の国であります。

~天皇陛下は国民統合の中心であり、お一人の天皇が終身その位にいらっしゃることにより、日本社会が保たれる。天皇のご存在の継続に、国民は精神的なありがたさを感じる。

日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く。

 

8)国民主権との関係において「日本国民統合」の意味を、どう理解する?

→「日本国民統合」という概念を理解するには、国家の成員たるべく個人に国籍を付与し、戸籍を一元的に管理し、思想信条が自由で多様な個人を、法の下で平等な国民とみなして、個人を均質な国民に統合する強制的な「国家権力」を想定しなければならない。

「国家権力」が、①法律にもとづき国籍をもつ資格者集団=国民集合を統治する、②国籍をもたない個人を非国民として排除する、国籍をもつ個人どうしが相互におなじ国民であるという共同体的な同朋団結意識を涵養する。

この3点が、「日本国民統合」という能動的で操作的な機能概念だとかんがえる。

「統合する」という操作過程の結果として、「統合された国民」という状態が産出される。「統合された国民」は、国家に税金を納め、憲法と法律によって統治され、「権利と義務」および「社会人常識」にもとづいて、社会秩序と公共の福祉を維持する。

戦後の日本国憲法では、国民を統合する国家権力を、国民主権とする。

「国民が国民を統合する」という自治的な国家権力を構成するプロセスが、民主主義という多数決原理であり、「一人一票」普通選挙の投票制度である。主権在民・民主主義政体における「国民統合」は、少数者が多数者に従うことによって保証される。

戦前の大日本帝国憲法における国家権力は、日本人はもとより植民地の朝鮮人や台湾人までも、「天皇の赤子」となるように皇民化教育を徹底的にほどこし、日本人意識の統合化を涵養したのであった。

たとえば1923年、日本統治下の台湾にうまれた国民党元総裁は、京都大学を卒業し陸軍に志願した。兄は海軍に志願。「当時我々兄弟は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った。兄は戦死し、靖国神社に祀られる。靖国神社に祀られている台湾人の英霊は2万8000柱。このことを多くの日本人が知らないのは残念」と語る。

このように専制的に「個人を国民に統合した」国家権力が、敗戦によって解体された。

では、戦後日本の権力者は、「日本国民統合」の原理を、どこに求めたか?

日本国憲法を制定した権力者は、連合国軍総司令部GHQの最高司令官マッカーサーと昭和天皇と帝国議会である。

この三者は、戦後の「日本国民統合」の原理を、自由、民主主義、国民主権、基本的人権、平和主義などを理念とする日本国憲法においた。

ところが、それらの理念は、日本国民にとっては内発的なものではなかった。アメリカからの贈与もしくは押しつけであった。治安維持法によって、徹底的に思想弾圧されてきた日本国民にとって、主権在民・民主主義による「日本国民統合」などは、未経験の事態なのだから。

そこで、敗戦後の混乱状況を生きる国民の社会秩序を維持するために、天皇の権威的な地位を活用することに合意し、天皇を「日本国民統合の象徴」としたのだ。

天皇を「日本国民統合の象徴」とすることは、アメリカ流の「主権在民」と日本流の「国体護持」との苦渋の折衷案である。

だからこそ、政府と学者たちは、国民を統合する「主語」を明示しないまま、つぎの解釈をムリヤリ通説として流布させざるをえなかったのだ。

~「国民統合の象徴というのは、統合されている国民を表しているということであって、天皇が積極的に国民を統合するということを意味しているものではないというように理解されております」。

今や戦後70年すぎた。20168月、平成天皇が国民にむかって、「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。」というメッセージを発した。

 

9)おおくの国民が皇室を敬愛し象徴天皇制を支持する状況を、どう理解する?

 →明治憲法における天皇の「犯すべからず神聖」なる地位が、新憲法では「人間天皇」の行為である①国事行為、②公的行為、③私的行為に分割された。

国事行為は、内閣が助言と承認する式典儀式などの日本国の象徴」的行為

②公的行為は、一般参賀や各種大会出席などの「日本国民統合の象徴」的行為。

私的行為は、天皇家の伝統行事、宮中祭祀、祭儀などと日常生活。

この①と②の行為に象徴性を付与する根源が、私的行為だとわたしはおもう。

おおくの日本国民は、天皇家を格別の家柄とみなし、宮中伝統行事の司祭者である天皇に特別な地位を仰ぎ、天皇の存在を尊崇せざるべからざる権威とし、長い歴史をもつ天皇家に神秘的で尊厳的な価値を認める。

国民の総意として、象徴性を正当化する天皇の価値は、古代からつづく秘儀とみなされる宮中祭祀であり、③私的行為である天皇家の伝統行事こそが、国事行為および②公的行為に象徴性を付与する。

ところが、明治憲法においては、天皇家の③私的行為こそが、天皇を神格化する記紀神話にもとづく皇国史観を高揚する重大なる国家行事だったのだ。

そのように神格化された天皇制に今でもノスタルジーをもつ者は、天皇家の伝統行事を③私的行為レベルにおとしめた戦後憲法を怨嗟し、つぎのよう哀願する。

~両陛下は、可能なかぎり、皇室奥深くにおられることを第一として、国民の前にお出ましになられないで、<閉ざされた皇室>としてましましていただきたい。

 

10)これから時代、象徴天皇制の安定的な維持を、どう構想するか?

→わたしは、コミンテルン系の天皇制廃止論者ではないので、象徴天皇制の存続を支持する。だが、天孫降臨を信じる皇国史観の天皇教信者ではない。日本民族を純潔な単一民族とみなす国粋主義者でもない。

皇国史観の支持者や民族主義者たちは、記紀神話と伝説に基づいて、日本列島社会の歴史の開闢を、「高天原から稲穂をたずさえて降臨した天孫」とする。

わたしは、1万年つづく縄文時代を、現代にいたる日本列島住民の歴史の源流とみなす。

採集・狩猟・漁労をベースとして高度な精神文化を築きあげた縄文時代の原住民たちが、稲作農耕技術と製鉄技術と文字をもった朝鮮半島と中国大陸からの渡来人と交流・闘争・支配・従属・協調・混血しながら、連綿として現代につづく日本人の祖先である、とかんがえる。

日本列島に定着した日本民族は、アジア人種の混血民族=「多様性の権化」なのだ。

 

わたしは、天孫降臨や万世一系などを史実とは信じない。しかし、縄文時代にはじまる日本列島社会の歴史において、天皇家が、飛鳥・奈良時代に成立した日本建国このかた、日本国の権威的な地位にあり続けてきたこと、それと無縁ではない日本人の深層にやどる精神文化に、象徴天皇制を支持する「格別の意義」をみとめる者である、とかんがえる。

日本人の精神性は、採集・狩猟・漁労の生活と一体となった縄文人の八百万の神々、アニミズム=自然崇拝、古代神道を基層として、列島外から流入してきた道教(老荘)+仏教+儒教・朱子学+西欧思想などの異質な原理を包摂し、消化し、内在化し、豊穣なる差異の多様性を包容する潜在能力である。ここに日本精神の「格別の意義」をみとめる。

この日本人の精神性が、天皇家の伝統行事である新嘗祭に、八百万の神々の自然崇拝をかさねあわせて、日本国民が象徴天皇制を受け入れることにつがるとわたしはかんがえる。

 

それは、一元的な原理を主張する一神教の西洋思想の対極にある。「とらえどころのない差異の多様性の包容力、ええ加減さ、まあまあ」で共存する多神教こそが、日本列島住民の精神基層であり、世界にむけて発信できる「格別の意義」=寛容精神じゃないかとかんがえる。

この日本人の精神性を天皇の象徴性に託して、日本国民統合」ではなく、グローバル社会における「世界諸国民協和」とすること、つまり象徴天皇制を安定的に維持するこの構想がわたしの提案である。

その趣旨は、人類世界の平和主義をうたう現行憲法前文および9条との関連において、象徴天皇制を世界に発信することである。

世界にむかって、「日本は、平和憲法をもつ特殊な国家、奇異な国家、非常識な国家、アメリカの原爆投下責任を追及しない高貴な道義国家」であることを宣言する。

この道義宣言は、皇国史観ならざる「日中韓諸民族の抗争的共生」の歴史を虚心坦懐に重視する歴史認識にもとづく。

 

なぜ日本国民統合」ではなく、「世界諸国民協和」なのか?

その心情と論理を、「個人―(社会*国家)―地球」という枠組みで探求する。

 

続く  7.2へ      7.4