7.4.6 憲法第15条の公民員に関する憲法改正案   201746

 

■現行憲法 第十五条

 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

◎改正私案 第15条 国家権力と公務員

  国家は、国民の権利と義務を遂行するために、国家権力を組織する。

  国家権力は、国民会議、憲法会議、国会、行政、司法、地球警察の六権分立とする。

  国家権力を行使できる資格と能力を有する者を公務員とする。公務員たる要件は、法律でこれを定める。

 

■憲法第15条を改正する理由

①「公務員を選定し、及びこれを罷免する」という規定は、現実とかけ離れすぎている。

②「公務員が全体の奉仕者である」という規定は、社会常識に反する。

公務員の選挙を成年者による普通選挙とする」規定は、主権在民を保障しない。

為政者である「公務員」の地位と資格を、国家権力機構との関係において定義すべきである。

そのためには、戦後憲法が宣言する主権在民の諸制度を、あらためて根本から問い直さなければならない。

経済成長の停滞が続く状況の中で、戦後民主主義を支えてきた諸制度が、あきらかに機能不全に陥りつつある。戦後70年がすぎ、国内および国外の社会―経済―政治の有り様が劇的に変化している。

その状況変化に呼応して、保守思想家や国家主義者たちは、戦後憲法を「個人主義に偏重しすぎている」と主張して憲法改正を唱える。

 

自民党の憲法改正草案は、明治維新から敗戦までの大日本帝国時代の強権国家に郷愁をおぼえ、教育勅語の君臣秩序の儒教道徳を信奉し、「国家が国民を管理統制する」ことを当然とみなす政治思想を基本とする。

それに対して、個人主義思想を信奉するリベラルやサヨクは、単に「憲法改正反対!」と憲法擁護を唱えるだけである。国家権力に抵抗して護憲を叫んで街頭デモを繰り広げる人権尊重主義だけでは、自民党の国権尊重主義に対抗できるとは思えない。

あらためて個人生活と国家権力の関係性を根本的に問い直すべきである。その検討は、必然的に憲法改正に向かう。

憲法改正のためには、「私・個人―共・社会―公・国家―天・自然」という枠組みをもって、グローバル社会における国民国家論の再構築と国内政治システムの機能と構造の革命的な再設計を必要とする。そのための具体的な検討課題を次のように設定する。

 

憲法改正にむけた検討課題

a.教育制度;一般国民と公務員の意識と能力を育成する政治義務教育

b.選挙制度;代表者を選ぶ選挙から複数の政策案に投票する制度へ

国民の要求→「国民会議」→有識者による政策立案→「憲法会議」→政策案

c.立法制度;政策案を法制化する立法議会→専門分野代表者で構成する上院

d.議会制度;政策を実行するための予算配分→利権代表者で構成する下院

e.国防制度;国防自衛機能を地球警察機構にアウトソーシング

 

1)私(個人生活)と公(国家権力)の現状と憲法問題

個人は、それぞれの社会生活で何かの問題に出会ったとき、主権者として国家にたいして多様な要求と意見と評価と献策をもつ。

それらの玉石混交の多様な国民の声を、国家権力者である公務員にとどけるチャネルが、選挙と請願と陳情だけの現状の政治システムは、あまりにもお粗末すぎる。

国民の意見→民意収集→整理→政策立案→制度設計→法案作成→予算措置という一連の政治システムの設計にもっともっと人類の知恵を結集すべきではないか。

現実の政治システムは、次のように図式化できる。

 

  個人生活(身心頭){社会生活(文化・経済){国民生活(政治権利義務)}} 

                        ↓

 国民の意見、要望   :地域、法人、政党、業界組織、利権集団など

 政治への意見・要望 賛成・反対・提案、献金、請願、陳情、圧力など 

 ◆選挙       ↓ ◆請願・陳情  

 政治家・政党・議員  →  与党・政府 

  

◆国会 

政策・法案・予算案 ← 行政・官僚 ←有識者・専門家

    ↓

  ◆行政  公務員  国家権力       ◆司法 

   行政府 →法の執行→ 個人・法人  ← 裁判所 

 

 日本国憲法の根本的な欠陥は、主権在民および民主主義の制度設計において、社会{個人の集合}と国家{国民の集合}を分離せず混然一体化していることだとわたしは考える。

 だから逆に、生活世界と政治空間の距離が離れすぎて、政治=国民と公務員との関係性が、特別な意識をもった人間たちの活動領域に閉じ込められてしまうことになる。

その問題については、すでに下記の文章においてメモを残した。

4.3 「私」国民と「公」国家権力者との関係を問いなおす 

 4.4 身辺の事例から「私」国民と「公」国家の関係をかんがえる  

事例: 公有地の通り抜け通路開設の要求

4.5 「私」と「公」の関係をかんがえるもう一つの身辺事例 

事例:横浜市港湾局が管理する海水面岸壁の利用状況

4.6 「私」と「公」の関係をかんがえる ~さらにもうひとつの身辺事例 

事例; 国税庁がマンション管理組合に「みなし法人」事業税を課す根拠?

4.7 「私」と「公」をバランスする「共」の「実践―思想―哲学」

 

2)一般国民と公務員の関係性 ~主権在民の制度設計

 20173月、新聞とテレビと一部週刊誌が熱心にとりあげる話題は、大阪市にある学校法人・森友学園の小学校設立にかかわる諸問題である。

 教育勅語をあがめる人たちや国家主義者や保守思想の持ち主や政権与党を支持する視聴者にとっては、苦々しいニュースであろう。

野次馬的な無党派層にとっては、話題があっちこっちに飛びまくり、虚言・讒言・強弁・詭弁・奇計がとびかって、オモシロおかしな政治劇場ドラマのようだ。

たしかに戦後の日本社会は、だれでも自由に政権批判の政治的発言ができる。ネットには、あらゆる表現があふれている。

森友学園問題を報道するテレビ番組では、さまざまな評論家や学者やコメンテイターたちが、さまざまな論点について、政権与党への批判意見から提灯持ち意見まで、多種多様な解説や政局予想を発言している。

その森友学園問題は、隠居老人であるわたしの個人生活と社会生活には何の関係もないが、一般国民と公務員=権力者との関係領域である「政治」にまつわる国民生活の意識では、テレビをながめながら「これが主権在民の民主主義というものか!?」という暗然たる気分になる。

政治に関する発言はだれでも自由にできるけれども、その発言が国民の意見として政治担当者=公務員に反映する政治システムが、あまりにも貧弱ではないのかと思うのだ。

 

憲法は、主権在民=「国民が国家の主権者である」というけれど、何ともウソっぽい。主権の実質的な保持者は公務員ではないかという根本的な疑問をわたしはもつ。

森友学園問題は、立法府権力の脆弱→行政府権力の増強という行政国家=官僚国家の実態を露呈しているように見える。

森友学園政治ドラマを報じるマスコミ劇場の裏側では、国家絶対主義にもとづく行政国家のさらなる強化をめざすテロ等防止罪=共謀罪の法制化が、ひそかにすすむ状況にある。

領土内に限定された社会生活の安定秩序を第一義とする行政国家は、必然的にすべての国民を統制する全体主義国家に向かう。「行きすぎた個人主義を批判する」という国家主義者の声が、ウヨク月刊誌におどる世相である。

だが今やコミュニケーション技術や人工知能技術が発達したグローバル社会である。

領土に閉じた日本人社会を統制する国家の政治システム、つまり一般国民と公務員の制度的関係をあらためて問い直すべき歴史的な時代=国民国家主権を相対化する時代ではないか。

民主主義と主権在民を実質化する近未来の国家論構築と政治システムの設計に、もっともっと人類の知恵を結集すべきではないか。

 

政治とは

①統治者・為政者が民にほどこす施策。まつりごと。

②国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。

③広義には、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合すること。

 

3)第15条のどこが問題か?

 憲法第11条から第14条までの文脈からみれば、第15条の「公務員」とは、第13条のいう「立法その他の国政」の従事者=国家権力の執行者=立法・行政・司法・地方自治の権限を有する支配者=国家公務員と地方公務員を意味すると理解できる。

憲法学者は、この規定を、国民主権=公務員の地位が最終的には国民の意思によるという「主権在民」宣言であると説明する。

ところが現実に国民が普通選挙で選べるのは、国会議員、地方公共団体の首長と議員だけであり、罷免することができるのも憲法上は最高裁判所裁判官にすぎない。「公務員を選定し、及びこれを罷免する」という規定は、現実とかけ離れすぎている。

主権者である一般国民が、国家権力行使者に向かって発する意見・要望、賛成・反対・提案、献金、請願、陳情、圧力などの民主主義制度があまりにも貧弱である。

選挙で選ばれない公務員を、「国民全体の奉仕者」と定義することも現実的とは思えない。

現実の公務員の仕事は、ほんとうに国民への奉仕活動といえるのか。国民の税金をみずからの職務の賃金対価とする公務員を、国民への奉仕者と定義していいのだろうか。

奉仕とは、「国家・社会・目上の者などに利害をかんがえずにつくすこと」と辞書にある。わたしは、国または地方公共団体に就職している公務員を、「国民全体に奉仕する者」と定義することに違和感をもつ。

個人は、人間(生物的個人)―日本人(社会的個人)―日本国民(国民的個人)の複合体である。わたしの生物的および社会的生活において、公務員との関係は、きわめて限定された場面である。

その場面とは、法治国家における権利と義務の法律関係である。わたしは自分の社会生活において「公務員に奉仕してもらっている」という感じをもたない。

公務員は「国民への奉仕者」というよりも、立法その他の国政の職務者=立法・行政・司法の担当者=国民を法律によって統治する権力者だと考える。

主権在民思想は、「私」人権尊重の個人主義と「公」国権重視の国家主義との根源的な「私―公」対立関係を内包する自己言及の再帰的思想だから、単純に理解できる思想ではない。

憲法が、第15条で「主権在民」を宣言するのであるならば、「私」個人生活と「公」公務員権限の関係性をもっと明確に定義すべきである。

 

4)森友学園問題への感想その1 ~権力は腐る

20167月の参議院選挙の投票率は、約55%で有権者の半数近くが棄権した。自民党の得票率は約20%だが、議席占有率は約50%に近い。有権者の2割の支持で国家権力を支配する政権与党になるという現実である。

この現実は、次のような諸関係において日本国憲法の理念と大きなギャップがある。

・国民の政治意識レベルに応じた政治システムへの参加能力と資格

・主権在民―民主主義―普通選挙制度―国民の代表者による国会の立法機能

・議院内閣制―国家権力―公務員による行政機能

わたしは憲法と現実のギャップの根本原因を、憲法が社会{個人の集合}と国家{国民の集合}を一体化させて、公務員を「国民への奉仕者」などと規定し、社会生活と政治権力との関係性を規定しないことに求める。

 

森友学園問題は、憲法の主権在民という理念が形骸化している現実の政治ステムの具体的な事例である。

小選挙区制度の恩恵をうける政権与党と政府官邸・省庁・官僚が一体化して、首相の意向を忖度しながら、議院内閣制のもとで国家権力を行使する者たちの言動は、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する」というイギリスの政治格言をおもい出させる。

「法に基づいて適正に処理している」と繰り返すだけの官房長官やキャリア官僚の思考と言葉は、行政文書を廃棄して事実を隠蔽するための「臭いものにフタ」のようだ。

立身出世をめざす高級官僚たちの国会答弁は、虚ろで空ろな自己保身の言語操作でしかなく、普通の人の社会常識を逆なでする腐臭・悪臭をまき散らしているように見える。野党の抗議などは、ガス抜きが終われば多数決であっさりと無化される。

まさに立法府権力の脆弱→行政府権力の増強という「行政国家」=公務員権力が国民社会を統制する全体主義国家の様相を呈している。

 

5)森友学園問題への感想その2 ~異例オンパレードの政治ドラマ

国交省が管理していた国有地を、財務省が、学校法人に異例の値引きをして売却し、その売買代金を異例の分割払いとし、その契約情報を異例の非公表とし、その契約行為の経緯を記録した文書を異例に廃棄処分にし、首相を侮辱したという異例の理由で民間人を国会の場に証人喚問したことから、首相夫人の異例の言動などまで異例オンパレードをマスコミは報道する。

この異例さは、森友学園への特別な優遇措置・便宜提供ではないか。そうだとすれば、憲法第15条が定める「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」という「法の下の公平」原則に違反しているのではないか、と一般国民は感じる。

その異例づくめの背景には、①森友学園が日本民族精神を園児に注入する特異な教育をしている、②安倍首相が森友学園の教育方針に共感している、③首相夫人が設立予定小学校の名誉校長に就任した、④財務省の役人たちが首相の意向を推し量り、森友学園の小学校設立を積極的に支援している、という「忖度行政」がある。

首相は、「自分や妻が国有地売却に関与していたら、首相も国会議員もやめる」と国会で答弁した。

会社でも役所でも組織においては、部下が上司を「忖度して」仕事をすすめるのは当たり前の一般常識であるが、安倍首相は「私人である総理大臣夫人の意向を役人が忖度することなどありえない」と断言する。政権与党国会議員は、ひたすら問題を鎮静化するためだけの発言をする。

国会で答弁する首相―政府閣僚―大臣―省庁官僚(長官・局長・役人)―地方自治体・役人という系列に生きる公務員の思考や言語は、テレビを眺めている多くの庶民の感情にとって、人間―民間―世間で通じる常識や言葉とは次元がちがう別世界のように感じられ、おかしいなあ、虚実いりみだれ、誰かがウソをついているようだと思わせる。

これらのことが政治ドラマよろしくマスコミ報道を過熱させている理由ではないかとわたしは思う。

そして、隠居老人のわたしにとって、政治の世界は虚言に満ちて疎ましい映像世界となる。

 

以上  7.4.5   7.4.7へ