5.2 憲法改正草案をだれが作成するか?  2016326

 

 わたしは、憲法や政治にかかわる公務員(議員、官僚、役人)ではなく、学者でもなく、研究者でもなく、市民運動や政治団体の会員でもなく、特定の政党支持者でもなく、70歳すぎたノンポリ老人である。

そいう自分が、ひとりの日本国民として、「憲法改正草案をだれが、どのように作成するのか?」などと自らに問う。

その理由は、隠居身分の無為等閑のひまつぶしとして、あらためて「主権在民」、「民主主義」、「憲法」などという「国家」統治の政治思想を、問いなおしたいからである。

これは、「自分―人間―社会―国家―自然」を了解する「思想・哲学」の問題である。

わたしの問題意識は、政治思想における「私」と「公」、自由と平等、人権と公共の秩序、国民と国家の関係性を、「要素」と「集合」、「部分」と「全体」、「対象*縁*環境」、「機能―構造―作動」、「目的→手段→効果」などのシステム論的図式で了解することである。

その了解とは、「私―共―公」三階建社会ビジョンをささえる「共生思想」の探求である。

共生思想とは、同質協調ではなく、多様な差異が分裂しながら共存する社会システム思想である。

◆私;自由・個人主義・人権の譲歩―→共;社会集団←―公;統制・国家主義・権力の分譲 

こんな大げさな問題意識をかまえて、憲法改正草案をだれが、どのように作成するのか?」を考える。「籠り身の心頭の藪に浮世の図」をえがく「お絵かき」道楽でしかないけれど。

 

1)憲法制定の歴史 ~明治維新・大日本帝国憲法と戦後・日本国憲法

 1877年、明治10年、西南戦役が西郷隆盛の死で終結。明治新政府の官軍の勝利。日本の内戦の歴史がおわる。幕藩体制崩壊のあとにつづく破壊→創造。殖産興業・富国強兵をめざす国民国家のスタート、内治*外交を司る近代国家経営システムの運用開始。

薩長の藩閥専制への抵抗として、自由民権論と国会開設運動が勃興。多数の私擬憲法(民間人が作成した憲法私案)がつくられた。「五日市憲法」など現在60以上が存在するそうだ。

1887、明治20年、保安条例の発布、即日施行、私擬憲法の検討及び作成を禁止。これにより、私擬憲法が政府で議論されることはなく、大日本帝国憲法に直接反映されることはなかった。

1889年、明治22年、日本帝国憲法・皇室典範発布、天皇を頂点とする「君―臣―民」の立憲君主体制。大正デモクラシー、左翼社会主義思想と右翼民族主義思想の萌芽、そして政党政治の興亡。

1925年、大正14年、普通選挙法公布、だきあわせで治安維持法公布。政党政治への不信がたかまる。社会主義思想弾圧、議会勢力が後退。全体主義が台頭、軍部勢力が拡大、国家総動員体制の確立へ。満州事変、大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争)、戦局悪化、敗戦降伏へ。

1945年、昭和20年、終戦の詔書。翌年、日本国憲法公布。天皇制国体壊滅のあとにつづく破壊→創造。自由、人権、平和、経済成長をめざし、主権在民の内治*外交の国家経営システムの運用開始。

そして戦後70年の2016年にいたる。

以上の明治憲法=大日本帝国憲法と戦後憲法=日本国憲法それぞれの制定プロセスの詳細は、学術研究論文や専門書から解説本や新聞記事にいたるまで、膨大な資料がある。

 

2)憲法改正の手順

戦後憲法は、アメリカ占領軍から「押しつけられた」ものだ、独立国家として「自主憲法がほしい」、だから「憲法改正なのだ!」という意見の国民がいる。

それに対抗して、「憲法守れ」と叫ぶ護憲一辺倒の国民もいる。憲法改正に反対する「9条の会」がある。

憲法9条と自衛隊と安保条約の「矛盾三点セット」の解消を主張する憲法改正派もいる。

自民党は、2012年に憲法改正草案を発表した。

2013年、有志の思想集団が、「新日本国憲法ゲンロン草案」を発表した。

2016年、安倍首相は「任期中に憲法改正を実現したい」と言明した。

安倍首相は、青年議員の時代、憲法改正をめざす同志と「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げ、「心を込めた保守による<革命>を提唱したい」などと書いた。

 憲法改正は、自民党の党是である。自民党は、2016年の参議院議員選挙の公約に憲法改正をかかげる。自民党は、政権政党として自らが築いてきた戦後70年の日本国の基本構造を根本から<革命>したいのだ。

それに呼応する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」がある。自民党の憲法改正運動をあとおしするために、国家主義思想集団の日本を守る国民会議」などを統合して、「日本会議」が結成された。

その集会で「こんな憲法、破り捨てようじゃありませんか!」と叫ぶ。

 

◆憲法を「破り捨てる」には、どうしたらいいのか?

「こんな憲法」は、憲法改正の手順をつぎのように定める。

「憲法第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」

 

では、国会が発議し、国民に承認を求める憲法改正案は、だれがどこで作るのか?

インターネットで検索したら、それは、「憲法審査会」という機関のようだ。

憲法審査会は、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する衆議院と参議院の機関。憲法審査会は、50人の委員で組織する。委員は、各会派の所属議員数の比率により、これを各会派に割り当て選任する。

憲法審査会の「憲法のひろば」では、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うに当たり、その参考に資するため、広く国民のみなさまのご意見をメール・ファックス・封書・葉書により受け付けております。」

 

3)憲法改正手続きへの根本的な疑問と提案と理由

そもそも「憲法」および「立憲制」とは? 

「法」とは、人々の社会生活を維持し統制するために、強制力をもつ社会規範。

「規範」とは、行動や判断の基準・手本。

「憲法」とは、国家の基本的事項を定め、他の法律や命令で変更することのできない、国家最高の法規範

民主主義の「立憲制」とは、国民の自由と基本的人権と権利を保障することを目的として、憲法を制定し、立法・行政・司法の権力を分立し、法律を定めることによって、国家の統治者である公務員が、国家権力を専制的・恣意的に行使することを制限し、法にもとづいて政治を行う仕組みである。

 

◆根本的疑問

現役の国会議員が、国家最高の法規範である憲法の改正原案を作っていいのか?

現実の国会議員がもつ知性・理性・品性のレベルで、国家最高の規範を明文化できるのか?

 

◆根本的提案

「憲法会議」を三権(立法・行政・司法)の上位機関として設置して、憲法改正原案を作る。

現行の憲法審査会、内閣法制局、最高裁判所の違憲審査機能を「憲法会議」に統合する。日本は、鎖国国家ではない。グローバル社会の一員である。だから、「憲法会議」の議員は、日本国民だけではなく、ひろく海外からも「人類の叡智」を公募して、国民投票で選ぶ。

 

◆提案理由

国家権力をしばり、国民生活を統制する「国家最高の法規範」である憲法を定める権能主体は、「国家最高の叡智」集団でなければならない。

 だが、現実の国会議員の諸党派が、「国家最高の叡智」集団とは、わたしにはおもえない。憲法を定める叡智は、①{国内統治}*②国際外交*③{世界}/自然という多元的な領域を対象とする「知性―理性―品性」の人類知の総体でなければならないと考えるからである。

知性→自然、生物、人間、社会、歴史に関する事実認識、知識

理性→知識の相互関係、帰納と演繹、法則性、推論、因果の判断、洞察

品性→知性と理性を抑制する道義心、倫理、価値観

    

4)「国家最高の叡智」集団になにを要求するか?

わたしは主権在民のひとりの国民として、国民投票でえらばれた「国家最高の叡智」集団に、どのような憲法改正草案を要求するか?

この問題意識は、「法規範」という法治政道と「品性」つまり倫理、価値観、道義心、人道←天道などとの関係への了解である。具体的には、日本国憲法の前文について、「法規範」と「品性」の関係を考える。

憲法前文は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という決意表明でおわる。

この崇高な理想と目的とは、つぎのような文言が意味する内容である。

恒久の平和、人間相互の関係を支配する崇高な理想、平和を愛する諸国民の公正と信義、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存し、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立つ。

 

いっぽう、これらの日本国憲法の「崇高な理想」に反対する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」や日本会議は、日本軍隊の「軍事力増強」、戒厳令発令の「緊急事態条項」、個人よりも家族を重視する「家族保護条項」などを憲法改正の眼目とする。

 人権・個人尊重のサヨク護憲派と国家・統制尊重のウヨク改憲派の対立は、政治思想、社会思想、価値観、道義心、イデオロギー、人間像、理想社会像などにもとづく国民の政治意識の分裂であり、権力闘争であり、多数派工作であり、人心掌握であり、国民的扇動である。

民主主義は、大衆迎合・目のまえ大事・朝三暮四の衆愚政治と表裏一体である。

 このような現実を踏まえれば、憲法は「普遍的な価値」「絶対的な真理」「崇高な理想」などを標榜して、特定の立場や理想を定めるべきではないとわたしは考える。

 

自然/天道生命自分→生物(動物(人間(社会人(日本国民(公務員)))))

わたしの社会生活は、「政治―経済―文化」活動における人間関係の総体である。憲法や法律など国民を強制する法規範は、わたしの生活規範の一部でしかない。法規範は、わたしに特定の思想、信条、価値観、道義心、良心、死生観などを強制できない。

現在および未来の国民は、それぞれ多様な差異をもつ身心頭の欲望を生きる個人の集団なのだから、憲法という最高の法規範は、多様な差異を対立し分裂しながらも、お互いに共存できる合意形成の手順こそを定めるべきだとわたしは考える。

民主主義とは、特定の価値概念ではなく、国民の多様な価値観の相対性をみとめて、国民の要求を「調整する手続き」「権力闘争の非暴力的な調整手順」なのだから。

そういう立場から、わたしは日本国憲法の改正草案を期待する。

この期待は、「私」個人の人権主義と「公」国家の権力主義の対立を中庸する「共生思想」の探求と一体である。

共生思想とは、均一な協調同化ではなく、多様な差異が分裂しながら共存できる社会システム思想である。

共存とは、求心と遠心、自治と統制、分散と集中などの中庸である。

共生思想は、生物に君臨するゴーマンな人間中心主義を相対化し、植物や動物との共生も重視する。

共生思想は、人間を理念化しすぎる「あたまでっかち」の理性中心主義を相対化し、身体性や気持ちなどの感性・感情的な判断も重視する。

わたしは、共生思想を包摂する憲法改正原案を期待する。

政治思想のイデオロギー対立を民主的に調整する憲法改正原案の成文化には、「知性―理性―品性」の人類の叡智を必要とする。

その叡智は、心=「品性」を基底として、これまでの「知性」と「理性」の常識と蘊蓄を問いなおさなければならない。

その問いなおしは、自由・人権・民主主義・資本主義を「普遍的価値」とみなす欧米思想への代替案を射程にいれなければならない。

その代替案の源流は、一神教を排する八百万の神々=お天道様を畏怖する日本人の心情・感性だとわたしはおもう。

これは、「人間―自分―社会―国家―自然」の全体性を見通す「思想・哲学」の問題である。 

以上  No.5.1   No.5.3