7.4.2 憲法第11条 基本的人権の定義に関する改正案  20161130

 

◆問題 国民のひとりとして、憲法が保障する基本的人権の定義を問いなおす

憲法第11条 〔基本的人権〕

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 

憲法第11条の問題点

基本的人権の享有と保障を述べる憲法について、わたしはつぎの点を問題とする。

①主語がはっきりしない翻訳調の受動態文である

②そもそも基本的人権の定義がない

基本的人権の「享有」思想と人権獲得の歴史性とは矛盾するのではないか

改正案

この憲法は、基本的人権を抑圧してきた国家体制の歴史を反省し、国家がすべての国民の基本的人権を尊重することを憲法によって保障する。

基本的人権とは、何人も生まれながらにして生命の維持、自由、安全、幸福を追求する個人の生理能力の社会的承認をいう。

 

1)憲法第11条は、分かりやすい日本文とはおもえない。いかにも翻訳調であることは明らかだ。その英文はつぎのとおり。

The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.

この憲法第11条の文章をどうおもう?

 →「すべての基本的人権」は「any of the fundamental human rightsの訳だから基本的人権は、ひとつではなく複数あることが理解できる。基本的人権は集合概念である。

つぎの三つの言明をならべれば、基本的人権の集合が、A:B:はおなじになるけれども、C:は、A:の部分集合であるように限定して解釈できることにもなる。

A:国民が享有する「すべての」基本的人権

B: 憲法が国民に保障する「これらの」基本的人権

C:この憲法が国民に保障する」基本的人権

この憲法が国民に保障する基本的人権という訳は、おかしいのではないか。

 翻訳するのであれば、「この憲法が国民に保障するすべての基本的人権」、「この」の形容先を誤解のないよう明瞭にすべきだろう。枝葉末節なことかもしれないけど。

 

2)基本的人権は、「妨げられない」、「侵すことのできない」、「国民に与へられる」とあるが、「誰が妨げる」のか、「誰が侵す」のか、「誰が与える」のか、これら受動態文の主語は誰なのか、はっきりしない。 基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」だという思想をどう理解する?  

→あなたは「侵すことのできない永久の権利を享有しております」と言われたら、「えっ? 有限の命を生きるこのわたしが? ひゃー! へえー!」という感じになる。

とてもとても観念的というか理念的というか形而上学的というか超自然的というか宗教的というか、73歳の隠居老人にとって、とにかく身近に納得できる言葉ではない。

「侵すことのできない」という文言を目にすれば、「大日本帝国憲法第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」をおもいだす。神聖が、天皇基本的人権に代わったわけだ。

「侵すことのできない永久の存在」は、わたしにとって日常世界の身辺事象ではない。「永久の存在」は、観念や概念などをあやつる人間のアタマの中の表象としてしか存在しないとおもう。それは、哲学者や神学者や宗教家などが信じる絶対主義的思惟の産物であり、ギリシャ・西洋の歴史風土にはっした哲学的思惟の文学的な比喩表現でしかない。

その表象世界では、「侵すことができるのは誰なのか?」などという凡俗な疑問など許されない。その世界は、神学的な絶対不可侵の領域なのだから。

憲法の文章は、庶民感覚からとおく離れており、欧米舶来教を信仰する知識人=政治意識の高い市民=リベラル・エリート層が好む過剰に理性信仰の産物だとかんがえる。 

 

3)「基本的人権の享有を妨げられない」という思想をどう理解する?

→「だれが、わたしの基本的人権の享有を妨げるのか?」という疑問がうかぶ。

「享有する」とは、「資格や能力などを生まれながらもっていること」と辞書にある。

享有とは、生まれながら=生来=生得=生命の自律性=生命体の本性=本能=生理能力=自然の摂理=天賦などを含意する。

自然→生物→動物→人間→個人は、生まれながらにして、生きること自体に内在する本質的な能力=本能=健康で文化的な生活を営む欲求をもつ。生命の維持、自由、安全、幸福を追求」する人間の固有の本能=生理能力は、自然にそなわる普遍的事実である。

この事実を、だれがどのような理由でもって否定できるだろうか?

したがって、人知の超越性を意味する「享有」という言葉から導かれる結論は、「だれが、国民の基本的人権の享有を妨げるのか?」という問題設定を無意味にする。

意味のある設問は、国民の基本的人権を、どのように実現するか?」でなければならない。現実にすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利や教育を受ける」欲求を実現しているわけではないのだから。

 

4)「この憲法が国民に保障する基本的人権は、国民に与へられる」という。「だれが、基本的人権を国民に与えるのか」という問題について、天賦人権説がある。これはどういう思想なのか?    

 →天賦人権説の「天」とは、知覚できる具体的な人間*社会―国家*世界}を超越する天然=自然の比喩である。天賦説にもとづく基本的人権は、自然権思想にもとづく。

自然権とは、人間だれでも生まれながら保持している生命・自由・幸福追求に関する不可譲の生命力を「権利」とする。

欧米諸国のキリスト教世界では、人間*社会―国家*世界}を支配する位置に「神」をおく。西洋に発した天賦人権説は、「神」が人間に賦与する人権神授説と同義である。

アメリカ独立宣言

~すべての人間は、創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ。

フランス人権宣言 第1条(自由・権利の平等)

~人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。

世界人権宣言 第一条   相互承認  

~すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

日本国憲法は、これらの人権思想を基調とする。「享有する」という言葉が、自然権思想にもとづく人権宣言の天賦思想を内包している。

この人権思想は、日本国の伝統的精神にあわない、アメリカ占領軍の「押しつけ憲法」だという人々もいる。

 

5)天賦人権説に対抗する思想として国賦人権説がある。国賦人権説はどういう思想なのか?

→「アメリカ独立宣言」の天賦人権説は、つぎのような論理構造である。

a.創造主=神の存在を肯定する   →宗教、超越信仰

b.創造主が人間に権利を付与する  →国家以前に人権あり

c.政府機関が権利を確実なものにする →国権

(この宣言がいう「人間」とは、「アメリカ人」のことであり、先住民やアフリカから連れてこられた黒人の人権は、対象とされていなかったことに留意しなければならない。)

国賦人権説は、天賦人権説の「人間→国家」を「国家→人間」の関係にひっくりかえす。

 x.国家は、歴史的に存在してきた →個人が生まれる前に国家あり

 y.国家は、国民を政治的共同体の一員として統治する権力をもつ →国権

z.国家は、領土と国民の生命と安全と財産を保護する義務を負う →人権保護

この思想は、「国民*国家」機構が、「個人*社会」を統制するという「国家主義」である。国賦人権説にもとづくと思われる自民党の憲法改正草案は、はっきりと天賦人権説を否定する。

【質問Q13
「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、どのような方針で規定したのですか?
【自民党の答】
 権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。

現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

もともと欧米の人権概念は「神の下の平等」という観念から発達してきました。そういうキリスト教的文化を共有している社会であれば、神の下に我らは平等である、と自然に受け入れられますが、日本はキリスト教圏ではありません。

 

6)「この憲法が国民に保障する基本的人権」というけれども、そもそも「基本的人権」をどう定義するか?

→憲法は、基本的人権の一部を第18条から第40条まで、つぎのように列挙する。しかしこれらの自由や権利だけが「すべての」基本的人権というわけではないだろう。

奴隷的拘束や苦役を受けない権利、思想及び良心・信教・集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密、居住・移転・職業選択・移住・国籍離脱・学問・婚姻の自由、健康で文化的な最低限度の生活を営む・教育を受ける・勤労・勤労者が団体行動する・私有財産・裁判を受ける権利など。

「基本的人権」を定義する規定は、憲法の条文のどこにも見当たらない。

わたしは、「基本的人権とは、何人も生まれながらにして生命の維持、自由、安全、幸福を追求する個人の生理能力の社会的承認である」と定義する。

個人の欲望が、人権=個人の「権利」になるためには、「社会的承認」が必要だとかんがえる。あなたの「権利」が正当ならば、わたしは、あなたの「権利」を承認する「義務」を負う。わたしの「権利」は、あなたの「義務」と対になってはじめて意味をもつ。

この定義から、孤立した個人の自由と権利だけでなく、社会生活における相互扶助の義務=他人の自由と権利を尊重する義務=「共生思想」が生まれてくるとかんがえる。

 

7)「この憲法が国民に基本的人権を保障する」という思想をどう理解する?

保障するとは、憲法を最高法規とする法治制度によって、国家が国民に施策をほどこす権力作用において国民の自由と権利を実現すること。国家権力を行使する公務員が、国民の基本的人権を侵害することを憲法によって禁止し権力をしばる思想。➡立憲主義

その根拠を、憲法はつぎの条文で説明する。

97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この条文は、一揆、抵抗、反抗、闘い、民権運動、革命など人為的な歴史に言及するものである。この歴史をふまえて、個人の基本的人権を尊重する思想は、いまや生存権、社会権、参政権から抵抗権、革命権などまで拡張される。

11条: 国家を前提にしない天賦人権説

97条: 国家権力に抵抗して獲得した歴史的人権説

◆非歴史性の天賦人権説と国家権力に対抗して獲得した人権の歴史性とは、思想的に矛盾するのではないか。この矛盾は、身体性から理性への論理的飛躍の亀裂ではないか。

飛躍とは、個人:身体的な生理能力」→社会生活→国民:「理性的な権利義務」という図式において、個人と国民」の関係性を媒介する社会思想国家思想の欠落である。

基本的人権の保障は、国家という政治的共同体の憲法だけでは不十分である。家族、地縁、職場やNPOなどの経済的および文化的共同体へ言及する国家論が必要だとかんがえる。

以上  7.4.1へ      7.4.3