4.「日本は平和憲法をもつ特殊な国家である」宣言を世界に向かって発信する

 

◆戦後体制を脱して新生日本国へ向かうおおいなる展望 ~隠居老人のまじめな妄想

安保法制の必要性をとなえる論者は、いちように「国際情勢の激変」を指摘する。その「激変」とは、中国の大国化である。(世界第2位の経済力、アメリカの4分の1の軍事力、南シナ海の領土領海の拡大など)。

安倍政権の安保法案に賛成する論者のほとんどは、戦後体制を堅持し、日米関係を拡大深化することにより、「中国が日本の国益を阻害することを抑止」できるという。

わたしは、この対応策は、米国崇拝による「抑止力」信仰という政治的観念論、「安全神話」だとおもう。

その理由は、「抑止力」政策は、かならず相手国からの「挑発行為」を受け、自国の「軍事費拡大」を強いるからであり、「抑止力」が突破されたら戦争にならざるをえないからである。

戦争は、軍隊の小さな謀略や小競り合いからでもはじめることができる。だが戦争の終結にいたる過程は、軍人の知恵だけではおさまらない。

  戦争の抑止力は、政治(権力関係)―経済(損得関係)―文化(美醜関係)を横断する「人生論」と「国家論」の総合的知性から絞りださなければならない。


4.1 「安保法制」への対案と憲法改正にむけた思想運動の期待

 ~自衛隊を国際機関としての「集団的自衛」地球警察隊へ編成する

 

20159月、学生たちが安保法案(国家安全保障関連法案=1個の新法と10個の法改正案=安保法制)の「廃案」を主張して、国会議事堂周辺のデモ集団を形成している。

隠居老人のわたしは、未来をになう少/学業期の学生たちが、これまでの学生運動とは異なるスタイルでその声をあげている事態を、よろこばしいことだと眺めている。

(==>代議制民主主義へのカウンター・デモクラシー)

政治的な話題に数十年沈黙してきたノンポリ学生たちを街頭デモに駆り立てたのは、安倍首相のおかげだ。香港の「雨傘革命」、台湾の「ひまわり学生運動」、日本の「SEALDs」、若者による新たな日中関係の国際連帯=戦争抑止運動の萌芽として期待する。

安保法制をめぐる状況は、戦後70年を区切り、{新生日本国}*縁・融解*{世界諸国/地球警察隊}/{自然:天}にむかう希望の契機となるとおもう。

ここで、「融解」とは、国家主権の一部を国際機関に外注し、国境周辺空間を共有地にする概念である。

この概念は、これまでの「国民国家論」の限界をこえるイメージである。日本人であるわたしは、「半分日本国民+半分地球人」でありたいというイメージである。

この「国境の融解」概念は、安倍政権が執着する安保法制の「国民国家論」に賛成しない立場の表明である。どうじに安保法制に反対する野党体質党派の「国家論不在」に同調しない立場の表明でもある。   

 

1)憲法改正に向けて国民的な思想闘争を期待する

安倍政権の安保法制は、あきらかに戦後70年の区切りになるとおもう。これから違憲訴訟が続出するかもしれない。憲法改正の議論がまきおこるだろう。

その議論の根底には、「私」国民と「公」国家の関係性=国家権力のあり方=国家論がなければならない。「新生日本国」にむかう思想闘争を深化させなければならないとおもう。

明確な「国家統治論」と「国際関係論」を正面からテーマ化して、澎湃とした国民的な思想運動のうねりを期待する。

その思想とは、文系の知性である①政治(権力関係)、②経済(損得関係)、③文化(美醜関係)の総合的な判断体系である。

総合的な判断体系は、人類の内面に潜在する知性・理性・品性の修練と向上の到達点でなければならない。既得権益に安住し、安易に思考停止することなく、徹底的に考えぬき、熟議しなければならない。蛸壺にとじこもる専門家・有識者まかせであってはならない。

少壮老それぞれの人生を生きる世代の知性(知識)・理性(判断力)・品性(道義心)の修練でなければならない。そういう文系知性を教育する国家的な取り組みこそが、主権在民たる国民の社会参加という思想運動にほかならない。

国際関係、国家安全保障、戦争抑止、国際平和支援、積極的な平和主義などは、単なる軍事力の強化=集団的自衛同盟=戦争抑止力などに閉じた狭い議論ではない。「国民の生命と安全を守る」のは、自衛隊の軍事能力の強化だけではないのだ。

「公」国家の安全保障と「私」個人の生活活動とを明確に分離して、「国家」と「国民」の関係性を明確に定義しなければならない。国民といっても、その一生は少/学業期、壮/職業期、老/終業期というそれぞれの世代を生きるのであり、人生論と国家論を組み合わせた議論でなければならない。

安保法制が前提とする国際環境は、中ソ冷戦構造秩序→盟主アメリカ主導の秩序→EU,中国、ロシア、イスラム国など盟主なき秩序への変化である。

21世紀の日本の国家像は、アメリカ依存を脱して「平和憲法」をかかげ、独立自尊の国家宣言でなければならない。(==>日本主導の「集団的自衛」地球警察隊の創出)

21世紀の国家像は、「八紘一宇」などという家族イメージを延長した情緒的な「公私混同」の国民国家論を脱しなければならない。(==>安倍談話、靖国参拝について)

21世紀の国家像は、とどまることなく進歩するIT(情報通信技術)を駆使した選挙制度や戸籍管理や人工知能や生殖医療などを前提にした英知の結集でなければならない。

そこから、国境を融解させて平和を追求する21世紀の世界像があきらかになるだろう。このような壮大な問題設定は、老/修業期をすごす隠居老人の妄想・妄言である。

 

◆安保法制」への対案

「自衛隊を、国際機関としての「集団的自衛」地球警察隊に移管する」

*この提案を世界諸国の大学生と老人世代に発信する。

*この提案者を学業期世代の「SEALDs」とする

*老人世代が「SEALDs」に奨学資金、人脈および知恵などを提供する

*少/学業期世代と老/終業期世代が、下記の思想運動推進の母体を形成する

 

憲法改正にむけた思想運動のテーマ

1.政治家を育成する仕組み
*個々の政治家の知性、理性、品性のレベルを上げる仕組み

2.国会議員を選挙する仕組み
*行政単位を基礎区画とする「小選挙区比例代表並立制度」の弊害
*政党交付金制度、立候補者政党公認制度、党議拘束などの弊害
*多数決独裁翼賛体制に容易に転化する根本的な弊害 

3.法案上程の仕組み
*選挙で選ばれていない有識者専門家会議で法案の骨子が決まる弊害
*国会で議論するまえに政府与党案が最終決定されるという弊害

4.法案を熟議して加除修正しながら妥協・合意により成立させる仕組み
*立法府における与野党議員による議論のあり方の弊害
*衆議院と参議院の二院制度の弊害

5.国家安全保障関連法案の見直し

国際情勢→法整備の必要性→法案の妥当性→法案の合憲性→法案の道義性

 

2)安倍政権の「安保法制」についての理解

 安保法制に賛成する論者たちの意見は、以下のような論理(知性と理性)だと理解する。

:外国が日本領土の一部を占領している現状

北方領土は、ロシアに占領されている。竹島は、韓国に占領されている。北朝鮮は、日本人を拉致している。尖閣諸島には、日本人も上陸できない。そして、強制収容された沖縄の土地の一部は、アメリカ軍が駐留する治外法権地域である。

自民党政権は、この現状を改善する努力に成功していない。

:日本の安全保障が危機にあるという主張

人口12億人の中国が、世界の経済大国となった。さらに海洋進出をくわだて、軍事予算を15兆円に拡張させている。中国の公船が、尖閣諸島周辺の領海侵犯を繰り返している。北朝鮮は、核爆弾をはこぶミサイルを開発している。国際的なテロ集団が台頭している。

これらの国際環境は、日本の存立に致命的な危機をもたらす。

:自衛隊だけでは日本の安全を守れないという主張

人口1.2億人の日本の自衛隊予算は、5兆円である。人口比でいえば、すでに高度な軍備能力を有する軍事大国である。それでも:の占領状態を受容している。このままでは、さらなる:の危機に対応できない。

自衛隊だけでは日本の安全を守れないのだ。

:集団的自衛権の行使が必要だという主張

国際環境の変化は、これまでの一国平和主義をゆるさない。日米同盟を強化しなければならない。一方的に米軍に助けてもらうだけの同盟関係はありえない。

よって、日本の自衛隊も米軍を助ける集団的共同作戦に参加できる安保法制を整備する必要がある。

 

3)安倍政権の「安保法制」への基本的な違和感

安保法制に賛成する論者の思考に、人間の英知を結集する知性・理性・品性の到達点を感じることができない。南シナ海や尖閣諸島周辺での中国軍との武力紛争を抑止するのに、「中国につけいる隙を与えない日米共同対処能力」を誇示するだけでよいのか。暴力に対して暴力をもって対抗するだけでは、暴力団の知恵と変わらない。

安保法制に賛成する議論は、「安全保障」を職業にする自衛隊関係者や政治家や国際政治学者たちの既得権益をまもる平板な論理もしくは排外的で武力崇拝の狂信的な高揚でしかないようにおもう。

わたしは、それらの議論に政治、経済、文化にわたって、徹底的に多元的に諸条件を考えぬいた「苦渋にみちた」総合的判断を感じないのである。

A;「安全保障関連法案、平和安全法制」という言葉への違和感 

・軍事力による戦争抑止策は、政治活動によるひとつの機能にすぎない

   ・戦争抑止策は、経済および文化の交流活動こそが本命でなければならない

   ・「軍事力強化」と「平和安全」という言葉の意味には、大きな距離がある

・安倍政権の安保法制の説明は、まことに一面的で平板であるとおもう

 B;国際環境の変化とアメリカ追随への違和感

   ・中国、ロシア、イスラム国などが、アメリカ主導の秩序をおびやかす

・アメリカは、「世界の警察、世界の正義判定者」を自認する特殊な国家である

・アメリカを嫌って、敵とみなす諸国もある

・これからの日本は、アメリカとの同盟関係強化だけでよろしいのか?

 C;「国民の生命と安全をまもる」という言葉の連発への違和感

   国家の安全保障と国民の生活活動には、おおきな距離があるのに、

   ・「国民の生命と安全をまもる」といえば、すべての政策が許される

   ・「国家存立の危機に対応する」といえば、どのような憲法解釈も許される

   ・「目的→手段、原因→結果」にかかわる不確実性への謙虚さがなさすぎる

   ・国民を「衆愚、愚民」とみなす国家権力者のおごりを感じる

 

4)アメリカ依存から脱して誰が日本を守るのか? ~安保法制への対案

①自衛隊の任務を、国内向けと海外向けに仕分けする。

②外敵に対抗する国家防衛機能は、「集団的自衛」地球警察隊に全面外注する。

③軍事力で日本を守り、世界の秩序を武力で守りたい者は、地球警察隊に就職する。

卑弥呼の時代の倭国大乱よりこのかた、日本の歴史は内戦、動乱、国盗り合戦のたえまなき連続であった。それが、明治10年の西南戦争をもって、日本内戦の歴史は終わった。

国内の秩序と統治の担保は、国家の暴力装置に一元化された。国民の安全は、警察庁、消防庁、海上保安庁、自衛隊がになうことになった。私怨による私的な報復、仇討は許されない。それは、「私」をこえる「公」の権力にゆだねなければならない。

国民は、武器の携行はゆるされない。国民は、刀狩によって武装解除されているのである。

わたしは、保身自衛のための武器はもてない。人間関係において丸腰である。わたしに被害をもたらす「悪人、犯罪人」に、わたしは武力・暴力で対抗できない。

国民は、自分の人権を守るために、自衛のための「私」的人権を、国家の「公」的国権に委譲しているのである。

 ここで「私」から「公」へ妄想は、飛躍する。

日本国憲法は、「国権の発動たる戦争を放棄する」。その代わりに自衛のための国権の一部を「平和を愛する諸国民の公正と信義」に委譲する。

その委譲先として、多国籍国連軍、国連の平和維持部隊には期待できない。

常任理事国が拒否権をもつ現在の国際連合機関では、中ソ←X→欧米の対立を解消できないからである。

だから日本国民は、アメリカ追随から脱却して、率先してその委譲先を創出しなければならない。

そのあらたな国際組織が、平和を愛する諸国の防衛機能を一括して請負う「集団的自衛」地球警察隊にほかならない。

 

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