7.4.5 憲法第14条改正案 自由・平等の人権思想から自制・共生の民権思想へ    

2017225

◆問題 自由と平等の関係

2016年の世界で最も裕福な8人の資産の合計(約486千億円)が、下層階級の約36億人の資産合計と同じという報告がある。とんでもない資産格差ではあるが、8人の個人能力合計=36億人の個人能力合計という等式ではなかろう。個人の能力差にこれほどの格差があるとはおもえない。

この報告は、個人主義→自由主義→民主主義→法治国家→グローバル資本主義の現代思想と社会制度がもたらす格差状況を象徴すると理解すべきだろう。

現実社会の格差は、個人レベルの身心頭の欲望や能力の差異というよりも、個人主義→自由主義→民主主義と私有財産を蓄積する資本主義と子孫へ財産相続を合法化する国家制度こそが、とてつもない格差をもたらす根本原因だとわたしはおもう。

政治―民主主義、経済―資本主義、文化―自由主義を人類の普遍的価値とみなす現代思想は、「法の下の平等」を唱えながら必然的に社会的格差をひろげている。

 

大多数の日本人が平等にまずしかった敗戦直後の貧困状態から70年すぎて、いまや日本でも貧富の所得格差が拡大し続けている。正規社員と非正規社員の区別がある。6人の子どもの中のひとりが相対的貧困だという。 

親の財産が、子どもに相続される。親の社会的地位や経済的条件が、子どもの養育環境と教育学習機会におおきな差別をもたらす。教育格差と経済格差は、人生の幸福格差と密接に関係する。幸福格差が、世代間を合法的に世襲する不平等の現実がある。

少子高齢化社会において、子どもの養育・教育支援よりも老人の医療・介護支援に手厚く偏在する社会保障制度の世代間格差がある。

健常者を中心にして構築されてきた社会的諸条件や人間の意識は、障害者や要支援者にとって「共に生きる」ことを差別する障壁となっている。

出生差別や女性差別から障害者差別などまで、蔑視と嫌悪と憎悪の感情をむきだしにして、排斥的言動をあからさまに表出する人間にも、下劣な人格者や法的責任能力なき犯罪加害者でも、個人の自由と基本的人権が保障される。

日本国憲法は、第14条「すべて国民は、法の下で平等であって、・・・・差別されない」とするけれども、政治―民主主義、経済―資本主義、文化―自由主義を人類の普遍的価値とみなすその現代思想こそを問題にすべきではないか。

戦後70年すぎて豊かな社会になったいま、未来の日本社会像と世界像構築にむけて、あらためて憲法の平等思想を問いなおす。

 

■現行憲法 第14条 〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない一代に限りの効力。

 

◎改正私案 第14条 権利を主張する機会の提供

天皇をのぞくすべての国民の基本的人権は、平等である。

国民は、立法その他の国政において、自らの権利を、直接および間接に主張する機会が与えられる。   

 

■憲法第14条を改正する理由 

戦後70年すぎて、国民の自由と基本的人権の平等思想は、大多数の日本人に定着したとかんがえる。だが、個人主義にもとづく「法の下の平等」要求だけでは、国家主義の国権強化をもたらす。国権の強化は、個人の自由を抑圧する管理社会=全体主義国家となる。

社会的不平等の是正には、人権・個人主義と国権・国家主義をバランスする民権・共生思想の「相互扶助」も必要である。共生思想を「立法その他の国政」に組み入れるように憲法を改正すべきである。

個人主義=私権尊重、共生思想=民権尊重、国家主義=国権尊重のそれぞれを支持する国民が、自らの思想を主張して、差異の多様性を承認しながら共生できるために、選挙制度だけではない民主主義の統治機構を設置すべきである。 

 

1)第14条をどのように理解するか?

11条「基本的人権」、第12条「自由及び権利」、第13条「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」につづいて、第14条は差別と特権を否定して「平等」を規定する。

すべての国民の生命、自由及び基本的人権、幸福追求に対する権利は、「法の下に平等」であり、差別や特権を禁止する、という意味だと常識的に理解できる。

戦後の日本国憲法は、差別と特権をみとめる明治憲法を否定して制定された。明治憲法の下の大日本帝国時代には、江戸時代から存続してきた公家や殿様など「社会的身分又は門地による」特権身分階級の華族がいて、天皇制のもとで国民の人権も民権も国権に一体化され、「自由と平等」なき全体主義国家であったからである。

戦後70年、日本人は世界に冠たる個人主義―自由主義―資本主義の恩恵を享受してきた。その恩恵に浴せない貧困者や障害者や老人世代は、国民主権―民主主義―国家主義にもとづく社会福祉制度で救済される。

戦後の日本は、つぎの個人主義と国家主義が、ほどよくバランスしていたといえる。

◆個人主義→自由競争→資本主義→強者・勝者の支配→経済成長→文明国家

◆国家主義→法の下に平等→民主主義→弱者・敗者の救済→格差是正→福祉国家

だが、いまや経済成長が鈍化し、富の再分配のバランスがくずれて社会的格差の世襲がひろがる様相である。社会的不平等がもらす弱者救済を、国家権力による社会福祉制度の拡充にもとめる風潮が、ますますつよまる。

毎年赤字をたれながしつづける国家財政は、借金1千兆円を次世代に先送りする。高齢化社会の社会保障制度は破たん寸前である。

国家に救済をもとめる個人主義の権利主張の過剰が、国家主義の統制過剰に回収される時代を迎えようとしている。

国家権力による平等政策の強化は、全体主義国家に転じることを歴史はおしえる。憲法第14条の「法の下に平等」思想を問いなおすべき時代になったとわたしはおもう。

 

2)憲法学者や法律専門家たちは、「平等」をどのように説明するか? その説明のどこが問題か?

憲法学者は、平等の同一性と自由の多様性とを共立させるやっかいな哲学的次元の問題をかかえながら、第14条の平等規定を形式的平等/実質的平等、絶対的平等/相対的平等、機会の平等/結果の平等などに分けて説明する。人種、信条、性別、社会的身分又は門地」による差別禁止規定について、限定列挙/例示列挙の学説を述べる。

 議員一人あたりの有権者数が都道府県の選挙区間で異なることは、法の下の平等に反するのではないか、と議論する弁護士たちがいる。

だが選挙権の行使を放棄する有棄権者もおおい現実において、ふつうの国民にとって、この「一票の重み平等」議論がどれほどの意味をもつのかわたしは理解できない。

そもそも合法的な相続財産の多寡は、子どもの教育環境に大きな差別をもたらす。立法その他の国政に参加する選挙権と被選挙権には、年齢による差別がある。賢明な中高生であっても未成年ゆえに参政権はなく、寝たきり痴呆老人には参政権がある。

この現実において、憲法学者や弁護士たちの「平等」学説論議は、素人のわたしにとって一面的すぎて納得できない。

その理由は、すべての国民の「何が」、法の下に平等であるのか明示しないからである。

すべての国民のXXは、法の下に平等である」という規定のXXは、何を指すのか。

 そのXXは、生理的欲求、人生の満足度、責任能力、政治参加、趣味の選好などではなかろう。そのXXは、第11条から13条までの文脈からみて、基本的人権のはずである。

 だから「天皇をのぞくすべての国民の基本的人権は、平等である。」と明示するように憲法改正を提案する。

基本的人権の平等ならば、形式的/実質的、絶対的/相対的、機会/結果などの概念操作などは無意味となるからである。

 

3)憲法学者たちは、「法の下に平等」をどのように説明するか? その説明のどこが問題か?

憲法が保障する基本的人権が、自然法にもとづくものだとすれば、第14条の「法」とは、憲法および法律と判例などの人為的な実定法だと解釈できる。

13条に「基本的人権は、立法その他の国政の上で、最大限に尊重」とあるので、「立法その他の国政」をつかさどる国家権力が、自然法と実定法を媒介する機構・制度だと理解してもよかろう。

「立法その他の国政」は、国境を前提にしない生物的および社会的個人を、国籍によって国民と外国人に区別して、法治国家の法の下において国民的個人を統治する。

国民的個人が、政治的共同体の一員として「立法その他の国政」にかかわる立憲主義のプロセスは、つぎのように図式化できる。

◆国民主権→①代表者を選挙→②立法府で法律を制定→行政府と司法が法律を適用

この図式において、憲法学者たちは、第14条「法の下に平等」を②で制定される「法内容の平等」と法を執行する「法適用の平等」のふたつに分ける。

 憲法は、法律を制定する立法府に、②「法内容の平等」を命じ(立法者拘束)、行政府と司法機関に、立法府が決めた法律を執行する「法適用の平等」を命じる(行政者拘束)というわけだ。

素人のわたしは、それだけでは不十分だとおもう。そもそも「誰が、何のために、どのような手順で立法する」のかという領域=「立法前野」の平等も問題とすべきだとかんがえる。

 

4)なぜ「立法前野」を問題とするのか?

日本国憲法の自由、基本的人権、平等は、西欧思想のキリスト教信仰・神の愛・人道主義を根本にもち、東洋思想の惻隠の情・慈悲・仁義などの道義心と密接に関係するとわたしはおもう。

「立法前野」なる概念は、自然法(自然権、天命、律法)と人為法(憲法、制定法)と倫理道徳(道義心、伝統、良心)との三者関係の問題意識からでてくる。

この問題意識は、個人とは、①生物的個人、②社会的個人、国民的個人が重層しながら、少年期→壮年期→老年期の人生街道を生きる生命体である、という人間像にもとづく。

◆生物的個人→(基本的人権)→社会的個人(倫理道徳)→国家→国民的個人(憲法)

 

憲法前文は、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」という文言からはじまる。憲法第12条は、基本的人権を「不断の努力によって保持する」ことを国民にもとめる。国民が社会生活において、生命、自由及び幸福を追求するためには「不断の努力」が必要であると規定する。

その努力とは、生物的・社会的個人から国民的個人という「立法その他の国政」にかかわる政治的存在者に、個人の立場を移動させる意識的行動である。その行動は、経済や文化の生活領域から政治的次元への意識的飛躍である。

国境を意識しない私的・社会的生活と領土内に閉じた国民的生活を媒介して接続する行動領域が、主権在民の民主主義教育であり、政治意識であり、政治参加であり、政治制度である。

ところが、現実に国民が「立法」にかかわる手順は、憲法前文にある「代表者を国会におくる選挙制度」でしかない。国民が立法に参加できるのは、選挙権と被選挙権の行使だけである。

そして現実の統治機構は、大日本帝国時代からつづく官僚主導の行政国家である。有識者や御用学者や専門家会議が、行政国家の下請け機関となる。

大多数の国民は、お任せ民主主義者の位置に甘んじるしかない。選挙の投票権を放棄する有権者もおおい。

12条「国民の不断の努力」を、第13条「立法その他の国政の上で尊重」にむすびつける国家機構が、あまりに貧弱なのではないか。

 

社会生活の現実では、おおくの国民が「立法その他の国政」にかかわる感想や意見や批判や提言など、さまざまな場所や媒体で発信している。

学者の論文発表、時事解説、新聞の社説、評論家のオピニオン、ネットの発信、街頭デモなどからマスコミの政治劇場化、映画や小説や仮想空間での物語構想妄想、研究会や勉強会などでの議論と表現活動などまで、国民の意見は爆発的に氾濫している。

事実にもとづく理性的な議論だけではない。事実などおかまいなしの悪意をもった感情的な発言まで。それらも国民の声であり雑多な異見である。玉石混交、差異の多様な表現の自由社会である。

問題とすべきは、それらの発言や政治的行動が、「立法その他の国政」と直接的に関係する制度の不在である。

国民の声が、直接的な国家機構にとどくチャネルが存在しない。パブリックコメント制度や公聴会などは、せいぜい官僚主導・行政国家の実態を隠蔽する機能程度しかもたないとわたしはおもう。民主主義の理念と制度のあいだには、おおきなギャップがある。

そのギャップをもっともっと法治国家の制度設計の問題として設定すべきではないか。

憲法学者が指摘する「法内容の平等」と「法適用の平等」を議論する前提として、選挙制度以外の民主主義制度の議論がもっと必要ではないか。

コミュニケーションコストを劇的にやすくした情報通信技術とビッグデータ解析や人工知能技術を、もっともっと「立法その他の国政」参加と運営に応用すべきではないか。

人文社会科学者たちの概念操作にあけくれる知的道楽が、現実から離れすぎているのではないか。人類の英知は、科学技術知性と人文社会科学知性と道義倫理知性とのぬきさしなら統合失調の時代に来てしまったのではないか。その知的状況が、反エリート・反知性の風潮をもたらす混沌たる世相の根本原因ではないか。

差異の多様な意見や主張を「立法その他の国政」に関係づける国家の統治機構が必要だとわたしはかんがえる。

◆立法前野とは、「国民が自らの権利を自由に主張し、国民相互の差異の多様性を公開する国家機構である」と定義する。

「法の下に平等」の前提である「立法前野」を重視して、憲法14条の改正をつぎのように提案する。

天皇をのぞくすべての国民の基本的人権は、平等である。国民は、立法その他の国政において、自らの権利を、直接および間接に主張する機会が与えられる。

(参照→拙稿 「憲法改正国民会議」を提案する理由、六権分立)

 

5)憲法の基本的人権思想の問題点と憲法改正の理由を要約する。

新憲法と日米同盟の下で戦後の日本は、政治―民主主義、経済―資本主義、文化―自由主義を人類の普遍的価値とみなし、個人主義と国家主義をほどよくバランスさせながら高度経済成長をなしとげて、豊かな社会になった。

◆個人主義→自由競争→資本主義→強者・勝者の支配→経済成長→文明国家

◆国家主義→法の下に平等→民主主義→弱者・敗者の救済→格差是正→福祉国家

 だが、豊かな社会の少年期に子育て不安、壮年期に雇用不安、老年期に老後不安が拡大し、未来への希望が迷路に入りつつある。社会的差別や格差もひろがる一方である。

 人権尊重と法の下の平等の個人主義は、国家にたいして弱者救済の社会保障の拡大をもとめる。国家権力による個人尊重の強化は、国家主義をつよめるパラドックスに陥りつつある。国家に救済をもとめる個人主義の権利主張の過剰が、国家主義の統制過剰に回収される時代を迎えようとしている。

 

憲法の人権思想は、:自然法→→:生物的個人の尊重→→:憲法にもとづく国民的個人の保護という構図である。この憲法は、社会的個人の集団自治的:相互扶助の道義心とその修練に言及しない。

日本国憲法の根本的な問題点は、社会{個人集合}と国家{国民集合}を一体化させることによる社会思想と国家思想の脆弱性である。

国家主義にむかう時代認識をふまえて、わたしは社会{個人集合}と国家{国民集合}の関係性を明確にするために憲法改正を提案する

その提案は、個人主義→共生思想←国家主義という図式が意味する自由・平等の人権思想から自制・共生の民権思想への思想革命である。

個人の自由には、社会規範の「自制」倫理を対置する。人権には、地縁自治共同体の「民権」を対置する。民主主義には、相互扶助の「共生思想」を対置する。

共生思想は、科学技術知性と人文社会科学知性の根幹に道義倫理知性を位置づけて、「差異の多様性を相互承認」する相互扶助を、自治共同体の生活実践とする。

 

◆憲法改正を提案する理由の要約

10条 個人と国家の関係問題 

  個人は、無国籍者として社会生活をおくることが、なぜゆるされないのか?
社会{個人集合}と国家{国民集合}関係の定義を明確にすべきである。

11条 基本的人権の根拠問題
絶対的な神を根拠とする西欧の人権思想は、日本人の精神風土に定着するか?

憲法は、基本的人権を定義しないので、明確に規定すべきである。

12条 公共の福祉問題

  個人の幸福追求と法治国家の統制秩序は、どのように共立するか?

  個人主義と国家主義の両端を平衡する共生思想を明確にすべきである。

13条 個人尊重問題

  人間は、個人として尊重されるだけで生きていけるか?

人間は、社会的関係性として尊重されるべきである。

14条 法の下に平等問題

  法の下の平等は、現実社会の不平等をどのように是正できるか?

  選挙制度以外に国民の意見を国政に反映させる統治機構を設置すべきである。

   

 

以上  7.4.4    7.4.6