3.3 科学技術的知性を制御できない文系の知性を問いなおす

                                                                       改2015年8月13日 

(1)「感情論ふりかざすデモは疑問」への疑問

 2015810日、朝日新聞の読者投稿記事の「感情論ふりかざすデモは疑問」(東京都24歳、大学院生)に目がいった。その要旨は、つぎのようなものである。

安保法制に反対する高校生が、各地で「とりあえず、まあ廃案」と主張してデモをしている。若い世代が政治問題に意見を述べることは、悪いことではないだろうが、デモの主張の中に、感情論が目立つことが、気がかりである。

安保法案は国の在り方を左右する重大な法案だ。だからこそ理性的かつ冷静な議論が必要である。必要なことは、感情論を振りかざすだけのデモではない。法案に反対する理由を辻道を立てて訴え、冷静な議論が行われるための土壌づくりではないのか。

それを受けて、政治家も感情論に幻惑されることのない熟議を行うべきだ。

なぜ、老生はこの投稿記事に関心をもったか?

その理由は、投稿者が24歳の大学院生であるからである。

◆もし、この大学院生が、理系であったとしたら

科学技術の思考様式を、国家の立法行為という社会システム設計に、無邪気に適用できるとするその知性に対して疑問をもつ。

◆もし、この大学院生が、文系であったとしたら、

理性的かつ冷静な議論によって、国家の立法行為という社会システムを、設計できるとするその無邪気な知性に対して疑問をもつ。

 なぜ、そのような疑問をもつか?

公:国家という特殊な人間社会システムは、カオス(自由)でソフト(協調)でハード(法治)な多元多重な複雑系である。まことにもって単純なしろものではありえない。

だから、数理と物理化学を対象とする科学的合理性が適用できるのは、因果の法則性領域、つまりハードな領域のごく一部にすぎないと思うからである。

どうじに、理性的かつ冷静な議論によって、一定の合意にいたる領域は、妥協して協調できる主題=ソフト領域の一部にすぎないと思うからである。

 

(2)文系の知性を問いなおす

自然環境と物質を制御する科学技術こそが、人類の安全、快適、便利な生活環境を変化させ続けてきた。道具や機械などの人工物の製造制御技術と記号情報通信技術は、近代思想の自然科学と工学の合理的理性の成果である。

だが、ものごとには、かならず陰陽、プラスマイナス、光と影がある。視点や立場や欲望や目的の相対性である。科学技術の蓄積は、自然環境において、衣食住を確保するために手足をうごかす身体能力の極端な劣化をもたらしている。そして都市生活者は、自然を畏怖し、他者と共働して感動を体験する生活環境を失っている。

自然環境の田舎を捨て、都市型生活スタイルを追う現代人は、前節で述べたように「身心」をうごかす直接性の劣化、「頭」をつかう間接性の肥大化という歴史的な特徴をもつ。「身心頭の統合失調」である。頭=分析的理性が過剰に発達した理系アタマでっかち人間群である。

この理系アタマに対比して、政治(権力関係)―経済(損得関係)―文化(美醜関係)を対象とするアタマを、文系の知性とする。

以下では、現代思想をささえる文科系知性への悲観的な感想をのべる。

文科系知性は、

地球規模の自然環境の破壊にどう向き合うか。

核兵器の廃絶にむかう実践的な国際政治体制を設計できるか。

国際紛争を軍事力でなく対話によって解決する社会システムを設計できるか。

金銭価値を至上とする資本主義精神の私利・私欲・貪欲・強欲を抑制できるか。

いびつな選挙制度にもとづく政党政治の形骸化民主主義を進化・深化できるか。

超高齢化社会の社会保障システムをどのように設計できるか。

人の身体を対象とする医者と人の感情を対象とする介護者の知性の違いは?

  ・・・・などなど・・・・

 

3)理系と文系 

◆理系 ハードシステム思考={対象人工物}*縁*(相互作用){社会環境

◆文系 カオソフードシステム思考={対象社会}*縁*{外部社会環境}

 

◆理系思考の問題点 ~局在化した限定合理性

科学技術は、物質を対象とする理系の知性である。数学、物理化学、生物学、医学などの知性である。人間社会とは無関係に存在する物質対象を観察して、分析して、数学と図形で形式的に記述し、因果関係の法則性を解明する。

その知性は、人間にとって役に立つ{対象人工物}の製造と維持管理に応用される。人工物には、かならず人間にとって意味=価値をもつ目的がある。

目的とは、人工物が*縁*(相互作用)を通じて、人間の{社会環境}にもたらす特定の価値機能である。この目的設定は、人工物に内在するわけではなく、外部の社会環境によって与えられる。その人工物は、目的を実現する手段である。

理系の知性は、目的の設定→手段の製造運用→目的の達成評価という思考図式である。この目的*手段の図式は、手段=原因→目的=結果という原因*結果という因果関係の思考図式でもある。

ところで、結果はつねに目的以上の機能をもたらす。ここがポイントである。

人工物がもたらす結果のうち、目的以外の影響効果については、人工物の責任ではない。それは、想定外である。だれかが刺身包丁で殺人を犯しても、包丁を作った職人の責任は問われない。

理系の合理性は、目的を前提にした実現手段にかかわる局在化した限定合理性でしかない。思考対象を絞り込む一種の蛸壺知性である。

 

◆文系思考の問題点 ~文系知性は理系知性を制御できるか?

いっぽう、人間(私)と社会(共)と国家(公)を対象とする知性は、文科系の人文社会科学である。その知性では、{対象内部}*縁*{環境外部}というシステム論的図式が厳密には適用できない。

なぜならば、対象を構成する要素が個々の人間であり、個々の人間は、他者にとっては{環境外部}を構成するからである。システム論でいえば再帰的な自己言及システムである。この思考図式が、カオソフードシステム思考={対象社会}*縁*{外部社会環境}である。

人文社会科学の知性は、人間の幸福=自由、人権、平等(非差別)、秩序、倫理、道義などの価値を探究する。その価値を実現するために政治、経済、文化、学問、宗教などが重層する「社会システム」のあり方を構想する。

21世紀の社会システムは、いまや移動と通信という科学技術文明がもたらしたグローバルな地球社会である。200近い国民国家どうしが、独立、従属、分裂、敵対しながらも、一方では緊密に相互依存せざるをえない世界システムである。

このカオス(混沌混乱)でもあり、ソフト(協調友好)でもあり、ハード(統制秩序)でもある世界システムにおいて、人間の幸福をテーマとする人文社会科学の人類の知性水準は、どのような事態にあるだろうか?

科学技術を適用して人工物を製造する理系知性は、人文社会科学の知性に従属するはずである。はたして文系知性は理系知性を制御できているか?

 

文系の知性は、仮説→実験→評価という理系の方法論を原理的に採用できない

高度な科学技術を駆使して製造された核爆弾、ミサイル、戦闘機や艦船などの軍事力目的の人工物を、どのように使用するかは、価値をベースとする文系の知性の判断領域である。

自国と同盟軍の軍事力の拡大は、想定する敵国への無条件の抑止力になるのか? どういう場合には、抑止力にならないのか? どういう場合には、逆に相手の挑発をまねくことになるのか?

この判断は、人間の感情や好き嫌いや虚栄心や防衛本能レベルから思想、信条、宗教など、人の身心頭のふくざつなはたらきの重層である。この判断は、人類の歴史における友好と戦争の歴史のふくざつな解釈である。

まさに政治(権力関係)―経済(損得関係)―文化(美醜関係)をかんがえる文系の知性は、理系の限定合理性をはるかに凌駕する全体性であるといわねばならぬ。

文系の知性は、数学や物質の法則には還元できない言葉(記号、概念、情報)の意識的操作である。この知性は、直接的な身体の知覚と感情の動きに「現象する」対象を、自己言及的に解釈する理性である。

自己言及とは、対象を探求する行為自体が、対象に影響を及ぼすという意味である。だから、自己言及的な文系の方法では、実験による仮説検証が成立しない。

理系の方法では、自分とは独立して対象を観察し、模型をつくり、なんども実験をくりかえし、再現性の因果関係を探求できる。

文系の知性は、「いま、ここ」の自分にとって個別の直接的な「現象」を、社会的に他者と共有できる言葉=記号、概念におきかえる。私的で直接的な「身」と「心」の感覚→社会的で間接的な「頭」の言葉、という図式がなりたつ。

この意味で「社会システムは、コミュニケーションシステムである」という命題がなりたつ。ネット社会は、過剰なるコミュニケーション基盤を提供している。その社会基盤の実現は、理系知性の成果である。

では、この過剰なるコミュニケーション基盤のうえで為される現実のコミュニケーションの質は、どうであろうか? 政治家の知性と学者の知性のギャップをどう考えるか? 安保法制に賛成する知性と反対する知性の違いとその理由を考える知性は、どのような関係にあるのだろうか?

このような問いに、文系の知性が応答しているとはおもえない。文系知性のあり方が、根本的に問われなければならないと考える。「理性的かつ冷静な議論」と「感情論を振りかざすだけのデモ」とが共存する事態が、カオソフードな社会システムである。

文系の知性が、「理性的かつ冷静な議論だけをふりかざす」感情なき評論に堕するとすれば、その社会思想の根源を問わなければならない。

 

4)科学的合理主義の到達点

2千人近い住民が住む高層マンション団地の設計思想は、ハード思考の典型である。自然科学を応用した物質工学の知性は、身の丈をはるかに超える免震構造の高層コンクリート建造物を、設計・施工・管理できるまでに発達した。

しかし、構造物のハード設計にむかう工学的知性は、カオスを潜在性とするソフトで豊かな人間関係への設計には向かわない。集合住宅における相互扶助・協力関係を醸成するソフト思考が貧困すぎる。ハード思考の限定合理性である。

ここでの人間像は、マンション管理組合が定める規則にしたがう「管理される人間像」と「プライバシーに過敏な人間像」などでしかない。集合住宅で生活する者たちを想定する人間観が、あまりにも単純すぎる。

 

近代思想の自由主義は、人間の理性を自由に開放した。神の座のかわりに理性を置いた。自由な理性は、合理的精神を発達させた。その知的好奇心は、人間(人文科学)や社会(社会科学)よりも地球と宇宙を構成する物質の法則性へ向かった。

自然を征服し、生命の謎にせまり、ミクロとマクロの物質世界の法則性をかぎりなく解明してきた。その法則を応用する工学的好奇心は、無条件に賞賛された。

科学や技術の合理性を徹底的に追求していくことが結局は人間性を拡充し、人類の幸福を実現していくことにつながると確信したからである。

その技術的合理性は、資本主義競争社会の企業経営のマネージメントに適用された。資本主義競争は、科学技術を総動員して自然環境資源を商品化した。多種多様な人工物と記号情報商品を大量に市場に供給し続ける。

人の消化能力をはるかに超える商品群が市場にあふれる時代になった。「もっともっと」のあくなき成長をめざし、便利さ、快適さ、スピードの欲望を追及してきた。戦後日本人は、貧しさを克服し、大量消費の幸福を手に入れた。

戦後の貧しい時代においては「必要が発明の母」であった。豊かさをめざした必要性を国民みんなが共有し合意した。必要を満たすために発明に精をだした。

そして今や、人間関係を間接化する人工物だらけの環境と記号情報環境の現代は、人の身の丈をこえた社会になった。物があふれ、欲しいものがなくなり、飽食の世の中になった。

もはや「必要が発明を導く」のではなくなった。資本主義競争社会を勝ち抜くために、無理やりに発明がなされ、商品が開発され、潜在する欲望を大量の宣伝広告メディアイにより掘り起こし、消費を強制する状況になった。

神も自然も畏怖することなき欲望を追求する人間中心主義の知性の傲慢は、人間を「功利的な経済的欲望者」としか見ない資本主義的人間観をもたらした。

人間中心主義の知性は、その知力により人間を、機械文明の主人公どころか、その奴隷に等しい位置に引きずり下ろしてしまったのではないか。

ヒューマニズムに発した科学的合理主義の営為は、人間を非人間化する逆説の頂点に達したのではないか。

 

5)「とりあえず、まあ廃案」と主張するデモについて

「とりあえず、まあ廃案」デモは、安倍政権の「とりあえず、まあ憲法解釈変更」への対案だとおもう。

「とりあえず、まあ廃案」デモの感情論は、安倍政権の「中国と北朝鮮の軍事力の脅威」という感情論への対案だとおもう。

「教え子を戦場に送るな」という日教組の反戦デモではなく、「戦場はいやだ」という高校生のデモは、教師や学者や政治家たちのいう「理性的かつ冷静な議論」を、ウソっぽいと感じているからではないかとおもう。

フクシマの避難民や沖縄の基地周辺生活者が、「国民の平和と安全なくらしを守る政治家の責任」をさけぶ安倍首相や菅官房長官にたいして、ウソっぽいと感じるのとおなじように。

わたしも、「限定的」とか「必要最小限」などということばにウソっぽさを感じる。

たしかに「安保法案は国の在り方を左右する重大な法案だ。だからこそ理性的かつ冷静な議論が必要である。」

だから憲法の下での安全保障の議論が、政治家の感情論だけではなく、裁判においても、憲法学者などによっても「理性的で冷静な」議論がくりかえされてきたのである。

大多数の憲法学者が、「今回の安保法制は憲法違反である」と冷静に断定する。しかし、自民党と公明党と一部野党は、「いや憲法違反ではない」という。そして、国民への「ていねいな説明」は、幼児的なたとえばなしでごまかす。反対する者も「そのうち忘れる」とうそぶいている。

そういう「言葉のかるがるしい」政治状況に対して、高校生たちが政治テーマではなく生活者感覚として、「とりあえず、まあ廃案」とデモする感情論は、至極まっとうな行動ではないかとわたしはおもう。

生活は、「とりあえず」の連続なのだから。生活は、理性的なアタマだけでなく「身心頭」の欲望の全体性なのだから。

 

◆ところで、安保法制に賛成する生活者は、どういう人たちなのだろうか?

軍艦や戦闘機や武器弾薬などの製造にかかわる軍需産業の関係者たち。自衛隊の幹部たち。自衛隊員の一部と家族。自衛隊と取引する企業関係者たち。自衛隊基地のおかげで経済的な恩恵にあずかる地域商店主たち。軍事評論家や安全保障政策や国際政治の一部の人たち。そして個人よりも国家を中心にかんがえる国家主義思想の政治家とその支持者たち。そのほかに、嫌中や嫌韓などをさけぶ排外主義の民族主義者や戦争が好きな思想の持ち主など。

 

どのような「理性的で冷静な」議論が可能なのだろうか?

このような人たちは、「法律よりも世界情勢の脅威」を優先する。憲法のしばりよりも、日米同盟を強化する必要性に価値をもとめる。こういう人たちも、「とりあえず賛成」という感情論や損得勘定論にもとづくのだろうとおもう。

もちろん賛成者の中には「理性的で冷静な」知性にもとづくという人もいるだろう。

では、主権在民という民主主義にもとづいて、老若男女、人さまざま、多様な差異、有象無象、分かり合えないバカの壁が林立するカオスな世の中、こういう生活空間において、どのような「理性的で冷静な」議論が可能なのだろうか?

この議論は、文系の理性にもとづく。文系とは、政治(権力関係)―経済(損得関係)―文化(美醜関係)を対象とする学問を意味する。

一部の高校生や大学生が、軽いノリで「とりあえず、まあ廃案」とデモに出かける衝動は、学校で教える教師のウソっぽさ、文系の言葉への不信感、常識的な大人への反発、がんじがらめの規則による管理への抵抗感などがあるのではなかろうか。

日々の生活を支える社会基盤の脆弱さと不条理が見え始めた。不信と不安の連鎖がおきる。学者や評論家たちは、あまたの解釈をしてくれる。だが、変革への大きな将来ビジョンがみえない。人々は、出口が見えない閉塞状況にもだえる。

その根本原因を、近代思想の理性が、科学技術的知性に偏向していることに求める。極論すれば社会科学を職業とする学者の怠慢であるとわたしは思う。

社会科学も経済学も自然科学の厳密性をまねて、分析的に精緻な議論を重ねてきた。ますます細分化された専門知に向かう。

物質の法則性に還元される技術的な概念定義に反して、人の生き方の価値を基礎におく政治学、社会学、経済学は、その学問を記述する概念をどこまで精緻にしても、自己言及的に閉じた同義反復になる運命を免れない。学者の属人的な恣意性からのがれることはできない。

社会科学の学者の仕事は、人の頭が欲望する知的好奇心に消費財=知的娯楽性を提供しているだけではないのか。

済んでしまった出来事をかぎりなく詮索して解釈しているだけではないのか。

果たして社会科学の知性と知力は、人の幸せに貢献しえるのか。

現代社会の病理を治癒する処方箋を提示して社会の変革を先導できるのか。

 「とりあえず、まあ廃案」という学生デモは、学業期を生きる若者たちの柔らかな生命力の躍動である。その行動は、感情論などではなく、身心頭のトータルな欲望が発露する健全なる理性的行動である。

 老生は、そこに未来の希望をみる。少壮老の人生三毛作、少/学業期と老/終業期の世代間連帯の夢をみる。

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