4.3 「私」国民と「公」国家権力者との関係を問いなおす ~システム論的視点

 

これ見よがしに恰好つけたり、化粧したり、はったりかましたり、強がったり、おどしたり、人のうえにたちたがるなどは、人間の潜在性のひとつである。核兵器をもちたがるのは、そのもっともたる実現であろう。

そういう自己顕示者にたいして卑屈になったり、おそれたり、したがったり、すりよったり、ほかに助けをもとめたりするのも、人間の潜在性のひとつである。軍事同盟にむかうのは、その実現であろう。

核兵器や軍事同盟などそんなものバカバカしい、品がない、人間みなチョボチョボ、お互いそんなに偉そうなものじゃなし、ほどほどに生きていけばいいじゃないか、こんな感じも人間の潜在性のひとつである。少/学業期と壮/職業期を卒業した老/終業期は、その感じで老後をすごせる可能性が高くなる。無我→自我→大我への修行。

世の中には、「個人の人権」やら「国家の主権」やらを、やたらと振りまわすやからがいる。主体性、自己の存立、個人の自由を強調する「近代思想、啓蒙思想」の欲望である。

絞首刑になった東条英機は、つぎの遺言を残したそうだ。

「私は戦争を根絶するためには、欲心を人間から取り去らねばならぬと思う。・・・世界の各国々は、いずれも自国の存在だとか、自衛権の確保だとかを主として居る。・・・しかし自衛を主張しながら、ついに自滅に陥ることになろう」(記録者;花山信勝)

 

◆欲心を人間から取り去ることができるだろうか? 則天去私、敬天愛人?

今の世の資本主義社会の国家経営は、経済(損得関係)成長思想が突出し、その功利的な価値観を民主主義という政治(権力関係)思想が強力にあとおしする。そして、文化(美醜関係)思想は、現実から逃避してかぎりなく感覚的世界に仮想化されていく。

しかし老生は、人類の「知性、理性、品性」の潜在性をもっと信頼する。

何十年後のことかわからないが、貪欲資本主義が消滅し、国境が融解し、核兵器も廃絶され、お互いが「多様な差異」をみとめあって、嫌悪こもごもこぜりあいしながらも、有象無象の生きものたちが「分裂共棲」する世界を妄想する。

その世界は、文化(美醜関係)が経済(損得関係)と政治(権力関係)を主導する社会である。

そういう世界にむけて一歩でも加担するには、隠居老人は、何をすればよいか。こういうおおげさではあるが根源的な問題意識をもって、「私」国民と「公」国家権力者との関係を問いなおす。

○日本国憲法 第十五条「公務員」

公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。

 

1)隠居老人は安保法制にどう向きあうか?

2915年、安保法制への賛否両論の言説がにぎやかである。安保法制とは、「武力攻撃事態法」、「重要影響事態法」、「国際平和支援法」、「PKO(国連平和維持活動)協力法」、「自衛隊法」、「米軍等行動円滑化法」などであるようだ。

この法律は、直接的には自衛隊の武力行使にかかわる規定である。自衛隊員や軍需産業の関係者ならば、壮年世代のその職業活動を通じてメリットやリスクなど、直接的でかつおおいに安保法制に向きあうことになろう。

 では、自衛隊や軍需産業との直接的な関係をもたない老生の日常生活において、わたしは、議論がさわがしい安保法制にどう向きあえばよいか?

それを決めるには、「安保法制→自衛隊の活動がひろがる」→「わたしの日常生活にどのような結果が発生するか?」→「さまざまな結果をどのように評価するか?」→「受け入れる結果/受け入れたくない結果/どっちでもよい結果、それぞれにどのように対応するか?」をわたしは判断しなければならない。

その判断は、おおげさにいえば、つぎの社会的な視点の総合である。

政治(権力関係) ;民主主義の視点 →多数決独裁、国家主義、全体主義?

経済(損得関係) ;資本主義の視点 →軍需産業に依存する経済成長?

文化(美醜関係) ;自由主義の視点 →教育統制、国民道徳、民族主義?

 この判断は、ものすごく難儀なことである。知識だけでなく想像力も必要である。想像は、目にはみえない姿の造形であり予測でもある。その想像は、専門家ではない自分の限られた知識にもとづいて、検証などできない大雑把な推論や類推の因果でしかない。

 

たとえば、つぎのような想像というか未来の予想というよりも、あやふやな想念がちらつく。

「安保法制→自衛隊の活動」の結果として、どこまで自衛隊関連予算がふえて社会保障費にしわよせがいくか、軍需産業の景気がよくなるのか、中国や北朝鮮の軍事挑発の抑止力になるのか、東シナ海でこぜりあいが起きるのか、アメリカを標的にした紛争に巻き込まれるのか、日本外交が「米中欧露」の国際関係の蚊帳の外で右往左往することになるのか、自衛隊がますます米軍の肩代わり別動隊に組み込まれるのか、自衛隊員が交戦状態で戦死したとき靖国神社に祀られるのか、自衛隊の志願者が減るので貧困層向けの就職あっせん徴兵制にならざるをえないのか、オリンピックを利用してナショナリズムが高揚するのか、天皇制崇拝がたかまるのか、あるいはアジア諸国や中国の国内混乱と朝鮮半島有事により大量の難民が押し寄せてくるのか、・・・などなど老生の生得的な「純粋理性」、経験的な「実践理性」、道徳的な「判断力」では、まともに判断できない。

判断できなければ、どうするか。

 

「思考停止」するしかない。わが身辺が、平穏無事の平和である限り、「安保法制→自衛隊の活動」などは視野に入らない。日々のくらしの中で、具体的に知覚できるなんらかの「異常事態」という現実に遭遇しないかぎり、「安保法制→自衛隊の活動」→「その結果の判断」を保留するしかない。

だから隠居老人の脱俗遁世気分を気取るのならば、浮世のそんな議論など「自分には関係なし、なるようにしかならない、万物流転」と無視すればよい。老/終業期は「在る為す」の無為にとどまり「為す成る」の作為は、壮/職業期世代にまかせればよい。

だが、未熟老人の老生はそこまでの境地には達していない。

 

2)「私」個人と「公」国家の関係についての問題意識

「私」は、ひとりの個人として生きる。「公」国家との関係においては「国民」という資格の権利と義務をもって生きる。

「公」国家は、日本国民を法律によって「私」個人の生活に枠をはめる「特殊な社会システム」である。わたしは国家をひとつの社会システムとみなす。

 

◆国家システム={国民・諸関係}*縁*国際関係{米中欧露、諸国}/自然

わたしは安保法制の中身への関心というよりも、「法律を制定する議論の仕方」がどうにも気になるのだ。安保法制への賛否両論の言説のあり方に「突っ込んだ対話が少ないなあ」という不快さを感じる。

この感じは、国家システムの中枢である立法プロセスへの違和感である。このばくぜんとした違和感は、つぎのようなテーマを横断する。

  文系の知性(政治、経済、文化) ←理系(数学、科学、工学)との対比 

  国家経営 ←憲法、法律、主権在民の民主主義、資本主義、国際関係

  国家権力 ←三権分立 立法、行政、司法

この問題意識は、国家経営システムに責任をもつ国家権力者の①「知性・理性・品性」に向けられる。

国家権力者とは、政治(権力関係)を職業とする政治家・国会議員・官僚・役人・裁判官などの公務員である。

公務員も日本国民である。だが、国民や企業から徴収した税金によって生計をたる「特殊な国民」といわねばならない。

では、「特殊な国民」である国家権力者たちの「知性・理性・品性」は、どのように訓練されているのだろうか。このテーマは、もっともっと重視されるべきではないか。

 

ここで、「知性・理性・品性」とはつぎのような意味である。

◆知性→人間と社会と自然に関する事実認識、体験 ~その深浅、広狭、遠近

◆理性→知識の相互関係、解釈、推論、因果の判断 ~過去、現在、未来の洞察

◆品性→知性と理性を抑制する道義心、倫理性、世界観 ~無我、自我、大我

「知性・理性・品性」を問題にする理由は、「職業としての国家権力者」たちの言動の「ウソっぽさ、言葉のかるさ、ごまかし、ホンネかくし」への不快感である。

この感情は、文系の知性と理系の知性との対比からでてくる。ノーベル科学賞を受賞する自然科学者、観測装置の製造技術者、データ解析の研究者などの知性・理性のレベルに比べて、国民大衆を相手にする政治家・国会議員のレベルが、「あまりにもかけ離れすぎているなあ」という虚脱感である。

理系の議論の成否は、最終的には数学と自然の法則に合致するかどうかである。理系の知性は、自然にたいして謙虚である。自我を主張しない。持論、自論、仮説を客観的に証明しなければならないからである。

では、文系の議論の成否は、どうなのか。文系の議論では、あまりにも持論、自論に固執し、他者の意見に不寛容すぎるのではないか。謙虚さが足りないのではないか。

この違和感が、政治(立法、行政、司法)を職業とする国家権力者にむかう。この問題意識は、ただちに国家権力者と国民との関係を照射する。

そこで民主主義体制の国家経営システムの視点から、老生は国民的思想運動としてつぎのテーマを提案する。

a.教育制度;国家権力者としての「知性、理性、品性」を育成する仕組み

b.選挙制度;国会議員を選挙する仕組み、公務員の選任罷免制度

c.立法制度;法案上程の仕組み、素案作成の仕組み

d.議会制度;法案を熟議して妥協・合意により成立させる仕組み

 

◆政治に参加できるコミュニケーション基盤

これらの諸制度は、国家経営システムを構成する社会システム群である。

これらの社会システムの設計試案こそが、国民的思想運動つまり憲法改正の国民的な議論でなければならないとおもう。

その設計試案のポイントは、これらの社会システムを情報システム=コミュニケーションシステムとみなして、インターネットと人工知能ソフトウエアなど情報通信技術を徹底的に活用することである。

そのための社会基盤整備が、後述する「議会システム」の改革である。国民が手軽に、日常的に「政治」に参加できるコミュニケーション基盤を整備することなく、現行の制度のままで憲法改正の議論をしても、国民的な議論はほとんど深まらないだろうとおもうからである。

 

3)国民と国家権力者との関係 ~「私」的生活者と「公」的職業者との関係 

 わたしと国会議員や官僚との決定的なちがいは、社会的役割というか社会的ポジションである。わたしの思想や発言は、どこまでも「私」的であり、個人の恣意性であり、自分が自分に責任を負えばよい。

では、国家権力者である国会議員や公務員の思想や発言は、わたしにどのように関係するか。

その人たちも日本国民の「私」的生活者である、という意味ではわたしと同格である。だが国民の税金で生計をたてる「公」的職業者である公務員は、国家システムを媒介にして、「私」生活者である老生を政治的に統制する。

この国民と国家権力者の関係はどういうものか。この問題について憲法をよりどころにしてかんがえる。

国家権力者の選定罷免にかんする憲法の条文はつぎのとうり。

○第十五条 「公務員」

公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。

○第四十三条 国会議員

○第七十九条 最高裁判所の裁判官

○第九十三条 地方公共団体の長と議員

憲法前文は、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するという宣言からはじまる。この意味を解説したつぎの資料がある。

 

日本国憲法前文に関する基礎的資料 平成157 月 衆議院憲法調査会事務局

最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会(平成1573 日の参考資料)

〔2〕「正当に選挙された国会における代表を通じて行動し」とはどういう意味か?

 この文句は、日本国民が正当に選挙した代表者より成る議会を通じてこの憲法を制定するのであるということ、すなわち、この憲法の制定権者が日本国民であることを宣言したものであり、この憲法によって日本国民が国会を通じて行動すること、すなわち、この憲法が直接民主制ではなく間接民主制ないし議会主義を採用するということを意味するものではない。

文字の上からいえば、「行動」することを「決意し…」と読むべきではなく、「行動し」は「この憲法を確定する」にかかる(事務局註:前文の第一段前半の文章構造は、「日本国民は、…行動し、…確保し、…決意し、…宣言し、この憲法を確定する」というのであって、すべて「確定する」に掛かる。)。

すなわち、この文句は冒頭の「日本国民」を形容することばである(「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」したところの「日本国民」が「この憲法を確定」したということを述べているのである)。

わたしは、これを読んで「へえー、そうなのか!」とおもった。それでも老生は、「私」自分と「公」国家の関係、国民と国家権力者の関係、「私」的生活者と「公」的職業者との関係をつぎのようにかんがえる。

 

「私→選挙」→「国会議員→政党→国会→法律」→「政策→予算」→「政府・行政・官僚→執行」→「国民生活」→「私は法律に従う→従わなければ罰をうける」

このプロセスは、直接民主主義に対比して代議制民主主義、多数決民主主義、お任せ民主主義、大衆民主主義、衆愚民主主義などとよばれる。

このプロセスは、つぎのように表現できる。

  国民はさまざまな要求を発する (要求しない人もいる) 
 投書、世論調査、陳情、街頭デモ、政策提言、献金、業界団体、労働組合、利権集団など

  政治家が、それらの要求を政策にまとめる (政策をもたない政治家もいる)
 政党集団、有識者、専門家、政府の諮問会議、シンクタンクなど

  国民が、政策を実現する国会議員を選挙する (投票を棄権する人もいる)
 衆議院と参議院 小選挙区と比例代表 政治家個人と政党へ投票

  国会議員が国会において、政策を実現する法律を制定する (ほとんどは役人がつくる)
 議員案と政府案 衆議院→参議院 各種委員会 討議、妥協、多数決

  政府は、法律を施行するヒト・モノ・カネについて国会の承認をえる (ほとんど与党独裁)

 政府の予算案 行政組織体制 →公務員の職務規定

  政府と行政機関の公務員は、法律を執行して政策を実現する (お役人天国か?)
 公共事業 直営→特殊法人→民間企業→利権集団 →国民

  国民は要求を実現する、または、不都合な結果をこうむる (国民の生活)

  国民は法律に従う →法律違反者は、警察・検事・裁判官・刑務所で拘束される

 

4)「国会」活動を「ソフトウエアシステム構築プロジェクト」とみなす

 うえのプロセスを企業等の経営情報システムの大工程にマッピングすれば以下のようになる。

:目的・要件定義   ←①~③選挙←立候補者の公約、マニフェスト

:設計・実装・テスト ←④立法 ;ソフトウエアシステム構築プロジェクト

:導入・運用・効果  ←⑤~⑥行政 公共事業

:評価・改善     ←⑦国家の状態 不法性の判断;司法

 経営情報システムの運用は、{入力情報}→ 処理 →{出力情報}という図式で作動する。

この図式を国家経営システムに適用させれば、つぎのふたつのシステムが作動するとみなせる。

  ~④ 「国民の要求」→議会システム→「法律、政策、予算」

  ~⑦ 「政策の執行」→行政システム→「国民の要求実現」→国民生活

 

ここで「国民の要求」を入力として「法律、政策、予算」を出力する「議会システム」は、ソフトウエアシステム構築プロジェクトとみなすことができる。

法律を執行する行政機関は、ハードウエアに相当する。法律は、規則の言語表現でありプログラムに相当する。プログラムは、ハードウエアに対置してソフトウエアと呼ばれる。

 このソフトウエアの「設計・実装・テスト」では、つぎのような知性をはたらかせなければならない。これは高度な学習と訓練をようする専門的な知性である。 

  要求を詳細に定義して設計仕様書に変換する

  設計仕様書をもとにして基本設計書、詳細設計書、テスト仕様書を作成する

  詳細設計書をもとにしてプログラムを作成する →プログラムの実装

  テスト仕様書をもとにしてプログラムをテストする →不具合を改修する

ソフトウエアシステム構築プロジェクトでは、システムエンジニアやプログラマなどのプロジェクトの要員体制が重要となる。納期、費用、品質をまもるプロジェクト管理が重要である。多様な立場と視点から成果物のレビュー、ウォークスルー、インスペクション、シミュレーションなどが実施される。

 

「議会システム」プロジェクトは、法律を産出する。「議会システム」プロジェクトの主役は、国会議員と官僚である。

国会議員の選挙は、プロジェクト体制の要員アサインに相当する。官僚のアサインは、現状では一般国民が関係するところではない。

では、「議会システム」プロジェクトの主役である国会議員と官僚たちの「知性・理性・品性」は、どのように訓練され、評価されているのだろうか。

 

5)国家経営システムの特異性

 国家経営システムの図式において、国民はつぎのように私的国民と公的国民という二つに位置する。

私的国民 ←公共価値←(国会議員―政府←官僚―公務員←公的国民

国家経営システムの特異性を考えるために、企業経営システムと対比してみる。

資本主義体制における企業経営システムでは、つぎのように「株主」-「経営者」-「社員」-「顧客」、「取引先」という役割と権限が明確である。

:目的・要件定義   ;社長、役員、経営者 ←株主の要求

:設計・実装・テスト :経営企画、管理職、プロジェクト ←外部専門家

:導入・運用     :社員、権限、職務 ←顧客・取引先、監督官庁など

:評価・改善     :資産評価、損益評価、人事評価など ←社会的信用

◆顧客 ←商品←企業(社長―役員会―管理職―社員―取引先)/社会 ←株主資本家

 

国家経営システムと企業経営システムを対比して浮き彫りになる大きな差異は、「株主資本家」、「経営者」、「社員」、「顧客」と「国民」の対応関係である。

  :目的・要件定義   :国民、業界団体、労働組合、財界、大企業など

:設計・実装・テスト :国会議員、官僚 ← 有識者会議

:導入・運用・効果  :行政機関、役人、公益法人、官公需受託企業

:評価・改善     :国民、業界団体、労働組合、財界、大企業、諸外国

 

企業のばあい、その企業の商品を顧客として購入する社員がいることがあっても、その社員の「目的・要求・評価」などが、企業経営の重大な意思決定要因になることは、ふつうの企業では考えられない。株主の要求および社長の意向が、おおきな比重をしめる。

 ところが民主主義国家のばあい、国民は「国家の顧客」であると同時に「国家の主権者」であり、「国家への要求者」であり、「公共価値の提供者」でもある。

また、「国家」の定義において、外部世界はかならずしも必要ではない。企業は、かならず外部の顧客を必要とする。だが、国家のばあい、完全な鎖国体制もありうる。

企業に対比して浮き彫りになる国家という組織は、とても奇妙な構造だといわねばならない。自作自演の独り相撲システムであるようだ。

自給自足した独立自営の閉鎖システムのイメージである。「自分を支配できる権力者は、自分自身である」という「主権在民」システムは、一種の「自己言及システム」である。国家経営システムは、企業経営システムにくらべて、とてつもなく「とらえどころのない」複雑性をもった特異なシステムであるといわねばならない。

 

6)「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」

 ここでいう「全体」および「一部」とは、どういう意味であろうか。このことを「国民の要求→国家システム(公務員の仕事)→国民の要求の実現」という図式でかんがえる。

 日本国民は、1億人以上もいる。「全体」とは、天皇をのぞく国民すべての意味であろう。天皇は、憲法解釈において日本国民ではない。だから「国民の要求」とは、すべての国民の「ひとりひとりの要求」ということになる。

「全体」とは、地球上の人類全体という意味でもない。(==>憲法前文との関係)

 

◆公務員は、「私」の個人的欲求に奉仕するか?

 12千万人の「私」ひとりひとりの欲求は、さまざまである。「私」の欲求は、少壮老の一生をすごす生命→心身頭の個人の欲望の全体である。

この「私」は、「個人」であると同時に「国民」である。「私」の欲求は、個人的欲求と国民的要求に分解できる。ここからつぎの疑問がうまれる。

  「私」の要求を国民的要求とみなして、公務員が奉仕する
 →なぜか?

  「私」の要求を国民的要求とみなさないので、公務員は奉仕しない 
 →なぜか?

  「私」の欲求は「公」国家と無関係だから、公務員は奉仕しない
 →正常な状態 ==>個人の自由

  「私」の欲求とは無関係に、公務員が勝手に奉仕する
 →奉仕というより抑圧、おせっかい、それはなぜか?

 

◆公務員は、すべての国民のひとりひとりの要求に、どのように奉仕するか?

 法律にもとづいて奉仕する。

国民であるわたしが、自分では「国民的要求だから」とおもって公務員に奉仕を要求しても、その要求に対応する法律がなければ、役所はわたしを門前払いするだろう。

「私」の要求を国民的要求とみなすか/みなさないかは、適用する法律の有無と解釈にもとづく。その解釈と判断は、公務員がおこなう。

 

◆公務員は、法律をどのように適用して国民に奉仕するか?

 公務員は、法律を根拠とする政策→事業計画→予算にもとづいて国民の要求に奉仕する。逆にいえば、国民の要求は、法律、政策、事業計画、予算に集約されなければならない。ひとりひとりの個人の要求は、相手にされない。

 

◆公務員は、「法律、政策、事業計画、予算」をどのように決めるか?

国民は、少壮老の世代、性別、住所、職業、健康状態、経済状態、思想性、趣味活動など、さまざまな基準で分類され集団を形成する。ひとりひとりの要求は、集団の要求に集約される。地域団体、宗教団体、業界団体、労働組合、財界、大企業などが、一部の国民の要求を代弁する。

これらの要求が、議会システムと行政システムに入力され、取捨選択され、「法律、政策、事業計画、予算」に変換される。

したがって、「法律、政策、事業計画、予算」は、特定集団の要求を実現するものである。

○「国民の要求」→「特定集団の要求」議会システム→「法律、政策、予算」
ひとりひとりの個人の要求は、その要求内容の特性にしたがって、集団の要求に集約されなければならない。集団の要求にならないかぎり、公務員は「私」の要求に奉仕しない。

○「特定集団の要求」→「政策の執行」→行政システム→「国民の要求実現」

 「私」の要求や欲求とは関係なく、国民あるいは特定集団の成員であるという理由だけで、「私」は公務員から奉仕を強制されるばあいがある。さまざまな集団どうしでは、お互いに利害が対立するばいがある。一方の要求実現は、他方への迷惑、障害、抑圧になるばいもある。

 この事態が、「公」国家権力による「私」国民の統制にほかならない。

 

◆「公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」

わたしは、「私」国民と「公」国家権力者との関係を問いなおす意味で憲法15条のこの文章をおおいに問題視したい。

 その理由は、公務員が職務を遂行する姿勢が、かんたんに「国家主義思想」→「全体主義思想」→「多数決独裁体制容認」→「議会の大政翼賛会」→「均質な政治・経済・文化の国民統制思想」→「自由の抑圧」に転化するとかんがえるからである。

 2015年、安倍政権の議会運営と官僚・役人の強権与党への順応は、すでにこの兆候をしめしているのではないか。

現行の制度では、国民が、公務員を訓練する仕組みはない。国会議員は、有権者の投票によって評価をうけるけれども、選挙制度におおいに問題がある。

官僚や役人は、国民によって選挙されない。憲法第15条を実施する仕組みがない。

憲法を護れ、立憲主義を護れと叫ぶのなら、もっともっと「議会システム」に焦点をあてなければならない。

国会議員と官僚たちの「知性・理性・品性」を訓練し評価する仕組みを「議会システム」と「行政システム」に組み込まなければならない。

 

7)公務員の人たちに問う

「公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」という憲法第15条の「全体」の意味を説明してください。

自衛隊が、「外敵から国家を防衛する」という意味では、日本列島に住む不特定多数の「国民全体」への奉仕であることは、理解できる。

だが、国内の統治を目的とする行政システムは、みごとな縦割り組織である。公務員ひとりひとりの仕事領域は、きわめて限られた職務分掌として規定されている。

あなたがたの仕事は、「全体」とどのようにかかわるのですか。

そもそもあなた方は、自らを「国家権力者である」と自覚していますか。

ひとりの国民である「私」的な個人の思想信条と「公」的役割をになう「全体への奉仕者」としての思想信条をどのように折り合いをつけていますか。

「全体への奉仕者」は、とてつもない「知性、理性、品性」を必要とするはずだとかんがえますが、あなた方は自らの「知性、理性、品性」をどのように涵養していますか。

◆知性→人間と社会と自然に関する事実認識、体験 ~その深浅、広狭、遠近

◆理性→知識の相互関係、解釈、推論、因果の判断 ~過去、現在、未来の洞察

◆品性→知性と理性を抑制する道義心、倫理性、世界観 ~無我、自我、大我

 

以上 4.2   4.4