7.4.1 憲法第十条「国民の要件」の憲法改正について  20161116

 

◆問題 「国民の要件たる」国籍を考える大きな視点

→「政治*国家民主主義」と「経済*世界資本主義」との関係性

 2016年の状況→国民投票でEU離脱を選んだイギリス国民、大統領選挙でトランプ氏を選んだアメリカ国民、アラブ諸国から国外脱出する移民難民流民。

これらの状況は、「個人*家族→ 市民社会→ 国民国家→ 地球世界」という包摂構造が、破綻しつつある歴史現象だとわたしはおもう。

破綻とは、市民社会と国民国家の関係性の思想と現実の不一致である。

現代思想は、「国民国家が、市民社会を統制する」という国家論である。

現代社会は、「市民社会が、国境に閉じた国民国家をこえる」現実である。

この世界状況は、「政治*主権国家」の民主主義と「経済*グローバル社会」の資本主義を普遍的な価値とする現代思想の原理的な見直しを必要とするとかんがえる。

民主主義は、国家を前提として個人の自由を制約する。

資本主義は、国家を前提にせず個人の自由を尊重する。

「国家の統制」民主主義と「個人の自由」資本主義とは、両極の対立関係にある。

この問題意識をもって、憲法第十条「国民の要件」について、憲法改正の必要性をかんがえる。

 

□憲法第十条     

日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

□国籍法 

第二条(出生による国籍の取得)  第三条(認知された子の国籍の取得)

第四条(帰化)  第十一条(国籍の喪失)

第十四条(国籍の選択)

 外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなった時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない。

 

1)「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」という規定を、どう理解する?

 →憲法が上位で法律が下位という法理構造の関係でいえば、何だか変な感じがする。

憲法は、憲法が対象とする「国民」とは何者なのかを、規定せず法律にまかせる。ところが憲法前文は、「日本国民は」という主語ではじまる。第11条以降は、「国民の権利と義務」を定める。第98条は、「憲法の条規に反する法律は、効力を有しない」という。

では、「日本国民たる要件」を憲法が規定しないのであれば、法律でどのようにでも定めていいのだろうか?

たとえば、大日本帝国時代の明治憲法に郷愁をもつ勢力が国会の多数をしめて、日本国民の要件として、「天皇に忠誠を誓うものだけを日本国籍を有する国民とする」とか「公益及び公の秩序に反しない日本人だけを国民とする」などと国籍法を改正してもよいのか?

憲法が効力を発揮できる国家主権は、地理的には日本列島周辺の「領土、領海、領空、地下」および日本国籍の船舶と航空機に限定される。

その日本国内で1億数千万人の人間*個人が、自らの自由と安全と幸福を追求して生活する。そこには、日本国民でない個人も住む。

しかし、憲法は「国民という個人に限定して、第三章「国民の権利と義務」を定める。

では憲法は、国内で生活する「日本国民でない」個人→「非国民」の「権利と義務」を、どのように想定するのか?

憲法は、日本社会で生活する1億数千万人の個人と将来の子孫たちを、日本人「国民」と外国人「非国民」に区別する理念、その差異思想を明示すべきではないか。

法律にまかせず憲法の条文で、「日本国民たる要件」の基本的な規定を宣言すべきだ、とわたしはかんがえる。

 

2)「日本国民たる要件」の基本的な規定とは、どういうこと?

→「日本国民たる要件」は、「日本国」という国家の存在を大前提とする。

国家が先にあり、国家が一定の条件をもつ個人を「日本国民」とする。

国家は、国境に閉じた領土を保全し、国民の安全を保障する排他的権力機構である。

国家は、国境に閉じた社会の個人および集団活動を、憲法と法律により統治する。

国家は、領土内に住む人間たちの生活共同体を保護する政治的権力機構である。

自由な個人は、国境に全面的に縛られことなく、国家を横断して、仕事や文化活動などの社会生活を営む。国家の統治領域よりも、個人の社会生活の範囲がはるかに広い。

しかし、国境を横断できる個人の自由は、ヒト・カネ・モノの移動を政治的に管理する国家によって制限される。ヒトの入出国はパスポートやビザの提示によって。カネの通貨交換は為替によって。モノの輸出入は検疫と関税によって。

「日本国民たる要件」を規定するためには、「個人が社会生活において保障される自由」と「国家が国民を統治する権力」との関係性を、「思想」レベルで明確にする必要がある。

その理由は、ヒト・カネ・モノの移動を統制する「政治*国民国家主権」が、自由を普遍的価値とする「経済*世界資本主義」に翻弄され、「見えざる神の手」の不条理と不道徳が、幸福を追求する国民の社会生活を阻害しつつあるとおもうからである。

 

3)個人の自由と国民を統治する国家権力との関係は、戦前と戦後で逆転したね。

→そうだ。大日本帝国の明治憲法は、国権を人権のうえにおく国家思想を明確に宣言した。西欧列強帝国主義に対抗するために、独立国家としての国家主権の内実を明確にした。

その思想は、「国家あって臣民あり」、国家が日本社会を全面的に包摂して、個人生活を均一に統制する「国家(国民*社会)」という国家像であった。

その国家が、大東亜―太平洋戦争で連合国に負けた。そして国家体制が転覆した。

戦後の日本国憲法は、人権を国権のうえにおく「人類社会の崇高な理想」を宣言する。

その思想は、社会のなかに国家を位置づける「人類社会(個人(国民*国家))」という国家像のようにみえる。

この憲法思想は、「個人*社会」と「国民*国家」を媒介する「個人と国民」の関係性が、わたしにとっては明瞭でない。

共同「社会」と政治「国家」を弁別せず混然とする一体思想のようだ。理想とする社会思想はあっても、主権国家の思想が明らかではないとわたしにはおもえる。

憲法が対象とする「国民」とは何者なのかを規定せず、法律にまかせている原因は、憲法が「国家」を規定していないからではないか。

「基本的人権、国民主権、平和主義」を理念とする憲法は、「グローバル社会→日本社会→日本国」という枠組みにおいて、「日本国」と「日本社会」とを区別する主権国家思想が、明らかでない。政治と社会(経済・文化・生活)との関係性

安倍政権の「一億総活躍社会」政策は、戦前の「国家総動員→一億総玉砕」政策の国家観とおなじようにみえる。国家が社会を統制する明治国家思想の延長ではないか。

個人の集団である社会に生きる「個人」と権力機構である国家に生きる「国民」」とは、明らかに異なる存在構造であるのだ。「個人と国民」の関係性を明確にするよう憲法改正すべきだとかんがえる。

 

4)「個人と国民」の関係性とは、どういう問題なのか?

→これまで日本国の「国民たる要件」は、端的にいって「日本国籍の所有」である。国籍法は、「個人→日本人の血統→国籍の付与→日本国民」という形式で、地球上に住む約70数億人の個人を、「国民」と「非国民」に区別する。

国家は、個人情報を戸籍に登録することによって、国民の存在を一元的に認知する。戸籍に登録されていない個人は、国民ではない。

ここで、「個人→国籍→国民」の問題点を、①無国籍者の存在、②国籍法が定める国籍唯一の原理、多重国籍者の増加、などの視点からかんがえる。

その問題意識は、「個人*家族→ 市民社会→ 国民国家→ 地球世界」という近代思想の限界をこえて、「国家主権を相対化する」人間関係の世界像を構想することである。

その世界像は、「政治*国民国家主権」とグローバル社会の経済*世界資本主義」の対立的共存を中和する相互扶助の「共生社会」にほかならない。

 

5)無戸籍者について

憲法第三章「国民の権利及び義務」の各条文は、「国民」および「すべての国民」だけでなく、「何人も」の基本的人権についてまでも規定する。

「何人も」とは、どんな人間であれ、人間である限りだれでもかれでも、地球に住む個人、人道主義・ヒューマニズムの対象となる個人であると理解する。

第三章は、「国民の権利と義務」という表題なのに、国民でない「何人も」にまで言及する。このことをどう理解する?

→憲法第97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権」は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と述べて「人類」に言及する。

13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」という。

17条、第18条、第20条、第22条、第31条から第40条は、「何人も」の人権に言及する。

この憲法が強調する人権思想は、つぎの三段論法で理解できる。

a.人類の一員である個人は、生まれながらにして、何人も基本的人権を有する。

b.日本国の国民は、人類の一員であり、基本的人権を有する個人である。

c.よって日本国憲法は、国民の基本的人権を保障する。

 この論法でいう「国民」とは、A:憲法の効力がおよぶ日本列島社会で生活をいとなむすべての個人である、という解釈がなりたつ。この憲法のいう人権尊重は、人道主義とおなじだろう。

ところが、国籍法が定める「国民」は、日本国籍をもつ個人に限定される。

「日本国籍をもつ者だけが、個人として尊重される」ということならば、B:国籍をもたずに日本社会で生きる者は、「個人として尊重されない」という解釈もなりたつ。

この立場は、「国家あって個人あり」、「国家なかりせば、個人の人権をだれが保障する?」という意味で国家主義といえるだろう。

このような議論がなりたつ憲法解釈の人道主義と国家主義には、つぎの空白が発生する。

◆無戸籍者

日本人の親が、日本で生んだ子どもの出生届を役所に提出しなければ、その子は戸籍に登録されず、無戸籍者となる。国家が戸籍を管理できない個人は、日本人であっても無国籍者であり、日本国民として認知されない。

それでも、その個人は、自分の幸福を追求するひとりの人間である。パスポートは申請できず、出国できないけれども、日本社会において「国民の権利と義務」に関係なく、自由に生きていける。刑事犯罪人であっても、人道主義にもとづき個人の人権は保障される。

一般論として、人間は国家に関係なく、どこそこの「国民」の資格がなくても、「社会」で生きていける。もちろん、「国民の権利」を主張できず、教育や医療などたくさんの不便に遭遇するけれども。

では、日本国憲法は、日本社会で生きる「日本国籍を有しない個人」の基本的権利を、どのように保障するのか?

A:何人も→日本列島社会で生活をいとなむすべての個人の人権 ;人道主義

B:国民→国籍をもつ日本国民が個人として尊重される人権   ;国家主義

 「国民の権利と義務」だけでなく「何人もの人権」にまで言及する憲法は、「国民個人」と「非国民個人」を区別する理念、その思想を明示すべきではないか。

人道主義にもとづく「人類普遍の人権」を保障するという憲法は、その国家思想を、「個人*家族*社会←―→国民*国家*憲法」の関係性において明確にすべきだと、わたしはかんがえる。

   

6)国籍法は、いわゆる二重国籍をみとめない「国籍唯一」原理である。この思想をどうおもう?

 →国民は、均質な単一国籍者、「純粋日本人」であるべき、という国家思想だね。社員に副業を認めない「一社だけに所属する純潔社員」意識と同じだろう。

「国籍唯一」原理は、「忠誠心の衝突」をさける絶対君主制の国家思想や、「二君に仕えず」、「忠君愛国」、「一所懸命」、「君―臣―民」支配秩序などの国家思想と表裏一体である。

大日本帝国の明治憲法は、「修身―斉家―治国―平天下」という儒教思想をベースとして、国家の頂点に天皇を君臨させる中央集権の国家思想であった。

教育勅語は、「一君万民」、「臣民は天皇に忠誠をつくすべし」、「君主たる天皇は臣民を一元的に統制し保護すべし」、「神国日本は、単一民族社会なり」、「日本国―日本国民―日本社会は、天皇を家父長とする一大家族なり」などなど、「君→臣→民」の垂直統制国家イデオロギーであった。   

大日本帝国の国家権力は、その教育勅語の精神思想を、公民ならざる皇民・臣民・赤子に徹底的に教育した。「国家あって個人あり」、「国民は国家に尽くすべし」、国民の個人的な権利よりも、滅私奉公の「義務」が強調された。

ところが、戦後の日本は、天皇主権の君主制から国民主権の民主制にひっくり返った。

天皇の臣民である限りにおいて国民の人権を保障した明治憲法の国家思想が否定され、人類レベルの価値を標榜する日本国憲法が制定された。

日本国憲法は、基本的人権を尊重する「個人主義」思想を基本とする。

この人類次元の「個人主義」と国籍唯一原理の「国家主義」を両立させる憲法は、その国家思想が脆弱なのではないか。

その理由は、「個人主義」思想の土壌なき日本国民が、敗戦後の被占領状態において、あわただしく日本国憲法を受け入れるしかなかった憲法制定過程のドサクサにあるとおもう。

「何人も」の自由と基本的人権を保障する憲法理念からすれば、無国籍や二重国籍を認めない国籍法は、憲法違反だ、という解釈も成り立つのではないか、とわたしはおもう。

「個人と国家」の関係を問いなおし、国籍法を改正すべきだとかんがえる。

 

7)国籍法は成人になった国民の二重国籍を認めないが、日本人の多重国籍者は約80万人以上と推定される。この現実をどう理解する?

→個人は、いまや国境を気軽にこえて行動できる。個人は、グローバル社会において、国境に縛られず、経済、情報、学問、文化、スポーツ、旅行など自らの幸福を追求する。

外国との関係は、ますます緊密になるグローバル社会である。

多国籍企業で働く人は、どんどん増える。外国でくらす日本人は、減ることなく増え続ける。逆に日本国内で生活する「日本国籍をもたない」けれども、日本語を流暢にあやつる外国人も、減ることなく増え続けている。

多様な差異をもった人間たちが、共存している生きる現代社会である。

人間は、生理的個人であり、社会的動物であり、国家的国民である。個人の行動は、この3次元の領域を複雑に重層する。

a.生理的個人とは、社会や国家に関係なく、生理的な欲望や衝動でうごく生物である。
→憲法は、ひとりの個人、子ども、大人、老人の自由と基本的人権を保障する。

b.社会的動物とは、個人ひとりでは生命を維持できない集団的な生活者を意味する。
憲法は、家族・共同体・企業などの「相互扶助」社会集団に言及しない。

c.国家的国民とは、国家の法律の下で生きる個人および集団・法人の集合を意味する。

 →憲法は、理念的な法学理論にもとづく法治国家の権能として、国民を管理する。

国家と国民の関係は、個人の全人格的生活の限られた領域でしかない。

その個人は、いまや国境をこえて、地球世界の人類社会において自らの幸福を追求する。そういう個人にとって、国境―国家―国籍などの枠組みは、個人の幸福追求にとって、自由を制約する桎梏でしかない。

国境を横断して展開するグローバル社会と「国籍唯一」の原理で国民を統制する主権国家は、根本的な矛盾に直面している。

矛盾とは、「私・個人」と「公・国家」の両極思想にもとづく社会秩序の限界症状である。

唯一国籍の原則は、もはや時代に合わず、形骸化しつつある。1990年以降、おおくの国が二重国籍をみとめる立場にかじを切りだした。1997年欧州では、出生地で得た外国籍の保持を認める条約が採択された。

グローバル社会における「国家主権」と「国際関係」という次元から、「個人と国民」の関係を問いなおし、国籍法を改正すべきだとかんがえる。

 

8)憲法第10条をどのように改正したいの?

→他の条文の改正案と整合性をとる必要があるので、とりあえずの改正案条文。

憲法第十条 日本国民

 日本国民は、憲法と法律が定める権利を有し義務を負う者であって、日本政府が証明する日本国籍を有する個人及びその子孫とする。

日本国籍を有する個人の要件は、法律でこれを定める。➡国籍法の抜本的な改正

◆メモ

・日本領土で生活する個人の集まりが日本社会である。

・個人の社会生活は、経済、文化、学問、スポーツ、趣味など世界にひろがる。

・日本領土の自然環境と日本社会の安全を保全するために国家が存在する。

・国家は、日本社会で生活する者の権利と義務を、憲法と法律で定める。

・日本国民とは、憲法と法律を順守することを受け入れる個人である。

・「憲法と法律が定める権利と義務」に関与する生活は、個人の社会生活の一部である。

憲法と法律が定めない」行動は、個人の自由であり自己責任である。

・個人の社会生活は、国家に包摂されるのではなく、家族世帯と自治的共同体を形成する。

・個人の自由と基本的人権は、国家によってのみ保障されるものではない。

・個人の自由と基本的人権は、社会生活における「相互扶助」の人間関係においても保障される。

経済「個人の自由」資本主義と政治「国家の統制」民主主義を両極とする中間に、「社会の自治」共生主義の思想を位置づける世界像を展望する。

 

以上のような考えをもって、憲法第11条につづく条文の改正案を構想する。

 

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