7.4.7 憲法第25条の改正私案~生存権と政治システム 201761

 

 20175月、国会審議のメインテーマは組織的犯罪処罰法改正案である。国家権力による統制秩序を重視する賛成派は、「テロ等防止罪」とよぶ。個人の自由と人権を侵害する法案だという反対派は、「共謀罪」とよぶ。

両者の抗争関係を単純に割り切れば、次のような意味での国家主義と個人主義の思想対立として理解できる。

 賛成派は、「組織的犯罪予防のために、警察官が効率よく捜査できるようにするのは当然だ」と考える人たちだろう。個人と国家の関係でいえば、「国家あって個人あり」という国家主義―国家が国民の生命と安全を守る→国家の統治権を個人の人権よりも尊重する→→ウヨク、ナショナリストに共感する人たち。

反対派は、「警察官の捜査権力の強化は、個人の自由と基本的人権を侵害することにつながる」と考える人たちだろう。個人と国家の関係でいえば、「個人あって国家あり」という個人主義→自分の生命と安全は自分で守る個人の人権を国家権力よりも尊重する→→サヨク、リベラリストに共感する人たち。

 個人と国家の関係構造という視点から見れば、日本国憲法は、国家権力の規定が曖昧で、個人の自由と基本的人権を強く尊重する。そういう意味で、憲法は国家主義よりも個人主義寄りの思想であると理解してよいだろう。

だから個人よりも国家を重視するウヨクと自民党の支持者たちは、国家権力を強化する憲法改正をめざす。国家権力を敵対視して個人主義を尊重するサヨクと野党支持者たちは、憲法改正反対、護憲だけを叫ぶ。

わたしは、次の中間派の立場である。

共生主義―「私」人権と「共」民権と「公」国権の「三権分立」社会思想

「自由な個人は社会集団を形成して国家を必要とする」→ナカヨク、エコロジスト

もちつ、もたれつ、たがいによらにゃ、人という字は立ちはせね~ 

 「お互いさまの相互扶助」の視点から、「私」個人主義の人権→「共」共生主義の民権←「公」国家主義の「三権分立」社会思想によって、社会と国家を分離して、国家権力の強化または敵視というウヨク・サヨクの極端を相対化する。

 

この共生主義の立場から、新聞やテレビが伝える国会審議と閣僚・高級官僚たちの言葉と表情があらわにする品性を眺めれば、次のような根本的な疑問が生まれる。

①現実の国会は、「国権の最高機関である」といえるか? 

②現実の国会は、「国の唯一の立法機関」の機能を果たしているか?

現実の政党政治は、多様な国民の意見を代表しているといえるか?

 国民を代表するはずの国会の議論は、法案審議というよりも、政権与党と反対野党の不毛な対立=空しい言葉の応酬だけのようにみえる。

重要法案が、数十時間の国会審議をして多数決で決まる現実は、まっとうな立法プロセスといえるのか。

 学者や評論家やジャーナリストや有識者や専門家たちだけでなく普通の人たちも、政治的テーマについて様々な発言をする。だがその声が、国会審議や政党支持に直接的に反映されるわけではない。

ネット社会にもかかわらず現実の政治システムは、あまりにも時代錯誤ではないか。

社会生活と政治の間には、どうしようもない大きな距離と溝と壁がある。個人それぞれの生活に大なり小なり、直接または間接に影響をおよぼす政治が、遠くの世界の絵空事なように疎ましく、ばかばかしいと感じる。

 

◆主権在民を理念とする現実の政治システム→立法府の形骸化→内閣府への忖度・迎合・自己保身・ご都合主義→行政権力の突出→主権在民の形骸化!!

隠居老人のわたしの関心は、新憲法のもとで戦後70年過ぎた今、主権在民―民主主義―政治システムの理念と現実の根本的なギャップに向かう。

その問題意識は、「個人の基本的人権―共同体の自治的民権―国家の強制的国権―自然の倫理的天道」をバランスさせる政治システムの設計である。

その政治システムを実現するためには、個人―社会―国家―自然の関係性を明確に表明する抜本的な憲法改正が必要である。

そのような立場から、これまで憲法第三章「国民の権利及び義務」に関する改正案を検討してきた。以下では憲法第25条の改正案を考える。

 

■憲法第二十五条 

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

   ↓

わたしは、わたしのすべての生活部面」に国家権力=公務員が関与することを拒否する。

   ↓

■第25条改正私案 

何人も、健康で文化的な最低限度の生活を営む欲望を有することを、お互いに承認する。

 国は、その生活を実現するために、国民の相互扶助を増進する義務を負う。

 

1)憲法第25条を生存権とみなす専門家たちの解釈

憲法第25条「国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は、国家からの自由権とは性質が異なる生存権=国家への社会権といわれる。

この条文の解釈には、法律専門家たちの用語で、a.プログラム規定説、b.抽象的権利説、c.具体的権利説の三つの考え方があるようだ。

a.プログラム規定説

25条は、国の政策的目標を規定しただけのものである。国民が、国家にむかって「具体的に何らかの請求をする」権利をもつものではない。

b.抽象的権利説

25条は、国家政策の努力目標だけでなく、政策を実現するための立法措置を国家に義務付ける。国民は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができるように、国家にむかって、年金や生活保護などの具体的な法律を制定することを請求する権利をもつ。

c.具体的権利説

25条は、国民は国家に対して、具体的な法律のあるなしに関係なく、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができるように、具体的な給付を国家に請求できる権利を規定する。貧乏人は、国家に向かって「自分の生活を保障しないのは、憲法違反だあ!」などと、どんどん主張してもよいという学説。

 

憲法制定時の解釈は、a.プログラム規定説であった。だが、戦後70年の高度経済成長による豊かな社会になる一方、さまざまな格差や不平等などが顕在化し、人権尊重と社会福祉政策の充実を求めて、憲法第25条を根拠として「弱者による権利のための裁判闘争」が頻発した。

そのような変化をふまえて、今ではa.プログラム規定説からb.抽象的権利説へ解釈変更がなされてきているようだ。

この状況は、「個人主義が利己主義になり、その利己主義にもとづいて国家へ救済を強く求め、その要求が国家権力をますます強化する」という事態のように思える。

◆個人主義の不徹底→自己保身の利己主義→秩序への順応→国家依存→国家主義者の復権→国家権力を強化する自民党の憲法改正草案→憲法改正の発議??

何だかおかしいのではないか。

 

2)戦後憲法の欠陥 ~社会と国家を一体化する「公共」思想

 憲法第25条は、国家が「国民のすべての生活部面」に関与することを許す。憲法の思想は、国家主義者が信奉する家父長道徳(パターナリズム)にもとづく「大きなお世話」思想と同類だとわたしは考える。

 おおくの人の日常の生活部面は、個人生活と社会生活と国民生活の合成である。

 個人生活―自分と家族だけの生活

社会生活―他人との人間関係にもとづく学校、職場、地域、仲間などの集団生活、

国民生活―法律の権利と義務にもとづいて公務員=官憲と関係する制度的な生活

この枠組みにおいて、個人生活と社会生活は、国家から自由である。

国家がわたしの生活に関与する部面は、「すべて」ではなくて「国民生活」部面に限定すべきである。

 

私―自分の個人生活、共―自分たちの社会生活、公―国民全員の国民生活という三層構造から見れば、憲法の人間像は、―自分たちと―国民全員を同じとみなす思想である。社会生活と国民生活を区別しない。

その国家像は、社会と国家を分離せず、「私」と「公共」が共存する私公二階建国家像である。

私―自分―個人主義―人権思想   ←個人生活

◆共―自分たちー共生主義―民権思想 ←社会生活

◆公―国民全員―国家主義―国権思想 ←国民生活

 

この「私―共―公」の枠組みからみれば、日本国憲法の権利思想は、個人の人権思想と国民国家の国権思想に偏重して、共同体の自治精神にもとづく民権思想が欠如している。

戦後憲法の欠陥は、「共」と「公」を一体化する思想であり、自治的民権思想の不在であるとわたしは解釈する。

憲法の「公共」一体概念を、「公・国家」と「共・共同体」に分離すべきだ。

憲法改正私案は、「私」人権―「共」民権―「公」国権がバランスする私共公階建国家像をめざす。

 

3)第13条「個人の幸福追求権」と第25条「国家による社会的生存権」の矛盾

そもそも「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、抽象的な相対的概念である。時代により、個人により、社会状況により、一律に定義できるものではない。

国家による国民の「健康で文化的な最低限度の生活」の保障は、善意をもつ者の寄付による慈善事業ではない。

社会保障は、公務員による公共事業の一種であり、その財源は税金と社会保険料である。財源は、無尽蔵の青天井ではなく一定の限度がある。

また「健康で文化的な最低限度の生活」を阻害する要因は、①個人的努力や能力、②自分ではどうすることもできない出生条件や社会的人間関係、国家の制度と政策と予算配分の政治、④それを執行する公務員の志操と職務能力、⑤自然災害や不慮の事故の偶然性など多岐にわたる。最悪の事態が、⑥国内統治の崩壊・内乱と⑦外国からの侵略と戦争である。

これらのあらゆる阻害要因の対応を、国家に要求するのか?

憲法第25条の社会保障思想では、国家による「公助」→福祉国家の社会保障制度のあり方→公共事業と公務員制度だけが、阻害要因への対応策のようにみえる。

その現実は、権力者である公務員という身分の為政者が、「国民生活の何が健康で文化的な最低限度の生活であるかを判断する広い裁量権をもつ。

この現実は、おかしいのではないか。

 

問題は、すべての国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を実現するための①政策立案=制度設計と②政策を実現する立法と法律を実行する予算措置と④行政府による政策実施と⑤実施した政策の効果評価の仕組みである。

この仕組みを政治システムという。

 憲法が想定する政治システムは、選挙制度にもとづく立法府・国会と公務員制度にもとづく行政府・役所の国家機構だけである。

政治システムが、選挙制度と政党政治と公務員制度に矮小化され過ぎている。

憲法には、個人生活と社会生活における相互扶助を理念にかかげる地域の町内会・自治会の位置づけがない。個人と国家を媒介する中間層の社会思想が不在である。

社会保障の枠組みを「自助―互助―公助」で考えるとすれば、憲法には「自助」と「互助」の思想がない。

憲法の社会保障思想は、家父長による保護善導思想を基礎として、行政権力を肥大化させる国家主義の強化に容易につながる。

 

国家が国民の「すべての生活部面」に介入することを許す憲法第25条の規定にわたしは反対する。

国家がすべて国民のすべての生活部面について関与する」という国家思想は、国家主権の絶対化=国家権力主義=国家社会主義=独裁的民主主義体制に直結する。

「社会と国家」を一体化する日本国憲法の思想は、第13条の「個人主義」と第25条の「国家主義」の矛盾を潜在的に有している。

13条:国家による介入を拒否する「自由権」→個人主義

25条:国家に生存保障を要求する「社会権」→国家主義

戦後70年を経て、国内外の政治状況の変化により、憲法理念の矛盾が顕在化してきている。

ウヨク・自民党政権は、安保法制や共謀罪や憲法改正草案など、国家権力の強化をめざす。

リベラル・サヨクの野党は、個人主義を踏まえたうえで国家権力を行使する国家思想を国民に提示しているようには思われない。

 

4)「個人主義←→共生思想←→国家主義」~社会保障制度改革の設計思想

人間は、だれでも個人として、国籍に関係なく子ども→大人→老人という世代を経ながら社会で生きて死ぬ。個人は、それぞれの幸福を追求しながら個人生活と社会生活をおくる。

その個人生活と社会生活において、国民という資格が関係する「国民生活」は、法律が定める権利と義務に限定された特殊な領域である。

国民生活の領域は、政治システムによって統制される。

その政治システムにおいて、個人の生存権を主張する「個人主義」は、国家権力を強化する「国家主義」の国権膨張につながる。

その証明が、1千兆円を超える国家財政の赤字であり、破たん寸前の社会保障制度である。

わたしは、国民と公務員の関係を規定する政治システムの視点から、「個人主義←→共生思想←→国家主義」の図式をもって、共生思想の「相互扶助」を国家の政治システムに組み込む憲法改正を提案する。

 

ここで「私―共―公―天」の遠近法の枠組みで社会保障制度改革を考える。

私;自助 自立思想 自己責任、他人には頼らない/頼られたくない ←個人生活

共;共助 共生思想 共に生きるお互いさま、助けたり/助けられたり ←社会生活

公;公助 権利思想 基本的人権→福祉国家→法律にもとづく制度  ←国民生活

天;天命 天道思想 自然の摂理への畏敬→諦観→敬天愛人    ←(隠居生活)

 

わたしが「健康で文化的な生活」を実現するために国家に要求することは、自助と共助の努力だけでは達成できない領域と局面における公助の仕組みである。

その仕組みの具体的な課題は、公助をへらして共助をふやための少子高齢化社会における「私:自助―共:互助―公助」をバランスする社会保障の制度設計である。

 公助は、国家の公共事業。税金と社会保険料を財源とする公務員の独占事業である。

共助は、地域住民どうしの疑似家族的な相互扶助、江戸時代の結・講・座の現代版である。

共助をふやす課題を、「権利なき社団」である地域自治会を、統治機構の行政組織に組み込むことに設定する。

地域自治会が、住民税の一部を執行する権限をもつこと。

住民の基礎的個人情報を管理する権限をもつこと。

地域の防犯と清潔と安全を維持する自警機能の権限をもつこと。

住民の民権自治の名にはじない非政府組織(NGO)的思想を理念とすること。

 

個人が、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利は、自助=人権と共助=民権と公助=国権のバランスにおいて実現されるべきである。 

 自助は、自分の身心頭の欲望を訓練する自立への自己責任であり、天命への諦観である。

共助は、血縁―地縁―志縁にもとづく集団生活における相互扶助への努力である。

公助は、国家の社会保障制度にもとづく自助と共助の支援と補完である。

◆個人―社会―国家―自然の関係性を明確に表明する抜本的な憲法改正が必要である。

 

 

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