2.3 公共私の視点から見た政治思想   改 2015年7月6

1)全体主義

2)自由主義 

3)民主主義

4)単一価値原理にもとづく一国一制度の限界

5)分裂「共生主義」にもとづく公共私三階建社会ビジョン

 

「公」とは、国家の秩序を維持する統治機構である。個人と企業等の活動を、正統性をもった権力で規制する。この意味で「公」は「官権・お上」と同義語となる。

統治権力の根拠は、主権在民という「私」個人の人権である。統治とは、国民の人権と自由の制約である。国民の自由は、国家権力の許す範囲内の自由である。

したがって、民主主義国家における国民の「自由」は、国民みずからの「自制」と一体となる。その自制機構が、権力への従属と反抗こもごものおりなす社会システムを構成する。

現代日本社会の統治権力は、立法議会と行政政府と司法裁判所に分立している。三権分立を学校で教わったけれども、公務員は国民の選挙で選ばれた代表者ではない。わたしは、公務員が専有する権限について、その正統性の根拠を疑問に思う。

その行政機構は、官僚制と呼ばれる。日本では、聖徳太子の憲法17条および701年の大宝律令を嚆矢とする制度である。この統治機構が、明治維新で復活し、現在まで引き継がれている「公」=国家システム、国家権力である。

以下に公・共・私の視点から見た政治思想の特徴を概観する。 

 

1)全体主義=国家主義

全体主義は、個人よりも国家を優先する。公が、共と私を統制する国家主義である。

戦前の「お国のため、滅私奉公」である。国民「みんな」の精神性を均質化するために、排外的な民族主義になりやすい。民族主義は、伝統文化を尊重する保守主義と相性がいい。

全体主義者は、自由主義や民主主義をきらう傾向が強い。民族の誇りや愛国心を強調して、共同体的な規律を好む。立法、行政、司法を分立せずに一元化して国内を統治し、外国と応接する。

国家は、個人の自由を規制する権限を共同体に分与する。個人の犯罪や秩序破壊は、共同体の連帯責任に課せられる。国家は共同体を通じて間接的に国民を支配できる。

全体主義国家は、必然的に中央集権である。国民を一枚岩的に総動員できる国家体制である。現代日本社会は、戦前の行政機構を温存した中央集権国家である。階層構造社会である。

だが逆は真ならず。現代日本社会は、中央集権国家ではあるが、全体主義国家ではない。立法、行政、司法の三権分立である。

しかし、立法議会よりも中央官庁行政の支配力が強い。だから全体主義国家の特性を宿している。

◆カオソフード多重システム論でいえば、「ハード」システムを基盤とする。

 

2)自由主義=個人主義 

個人の自由を至上の価値原理とする。滅私奉公の逆の「尊私忘公」である。アナーキー、夜警国家、小さな政府、自己責任などの思想性である。

自由主義は、国家の統制を最小限にとどめようとする個人主義につらなる。この自由主義思想が、科学技術の発達と資本主義の繁栄をもたらした。個人の能力を発揮する自由競争に社会秩序の「神の手」の原理を求める。資本主義を是とする思想性は、市場原理への信仰である。

現代日本社会は、自由な競争社会である。競争は、必然的に勝者と敗者を生み出す。自由主義国家における強者と弱者の格差は、社会秩序が維持される限りで許容される。格差は、弱者の差別や排除や抑圧になりやすい。

その弱者たちは、税と保険などの富の再配分機構で救済される。自由主義は、福祉社会と共存するというよりも社会保障制度のセーフティネットを必然とする。弱者が全滅すれば、強者も競争相手を失うからである。自由主義国家の福祉は、「生かさず殺さず」の最低ラインに設定される。

そもそも「自由」は、抑圧をきらう人の命の本性である。命の本質は、自律である。その自律性が、人間の自由と人権に価値を付与する根源であると考える。

 ◆カオソフード多重システム論でいえば、「カオス」システムを基盤とする。

 

3)民主主義=平等主義

人の命の「みんな」の同質性に価値をおく。平等とは、「みんな同じ」という価値観である。

個人尊重という「自分」の自由よりも「みんな」の平等を重視する。強者や勝者を嫌い、敗者や弱者の人権を主張する。「私」の平等性の保証と弱者や敗者の補償を、「公」、行政、国家に強くせまる。

この意味で、民主主義の平等思想には、「自分たち」の共存性は弱い。共助よりも公助に向かう心性である。同質性や均質化をもとめる全体主義に包摂されやすい。日独伊のファシズム体制である。多数決独裁体制により、よういに全体主義国家に転化する。

全体主義が、「公」から見た「私」の統治支配思想だとすれば、民主主義は、「私」からみた「みんな」による平等を装う多数派支配思想である。その「公」は、「私」の平等を保障しなければならない。そこに人権尊重にプラスした社会的権利思想がうまれる。

◎個人の自由を過度に主張する人権尊重は、アメリカ型自由民主主義国家である。

◎自由と平等のバランスを重視する人権尊重は、ヨーロッパ型の社会民主主義国家である。

◎自由を規制して国家が「みんな」を平等に統制すれば、人民共和国社会主義となる。

あくまでも究極の平等を追及する民主主義は、ユートピア(空想主義)かアナーキズム(無政府主義)か全体主義国家のいずれかであろう。

現代日本社会は、アメリカ的であり、西欧的であり、また北朝鮮的でもあると思う。さまざまな政治思想のごった煮状況にある。

◆カオソフード多重システム論でいえば、「ソフト」システムを基盤とする。

現在 ; お任せ民主主義、有識者専門家民主主義、行政権力民主主義

未来 ; カオソフードな「分裂共生」民主主義への思想構築

 

4)単一価値原理にもとづく一国一制度の限界 

情報技術の爆発的な革新により、現代社会は急速にグローバル化している。国境に閉じたナショナルの国家経営は、グローバルな金融資本主義市場のマネーに翻弄されている。どうじにローカルなネット社会のコミュニケーションが拡大している。

戦後日本の民主主義の国家経営は、戦前から続く官僚制の基盤のうえに、新憲法、民主的な選挙による代議制民主主義と自由な報道を許すマスコミによって担保されてきた。

今やその日本をナショナルとして統治する国家経営が、グローバルとローカルの両面から挟撃されている。(集団的自衛権、TPPおよび地方分権、ネットコミュニケーションなど)

グローバルでかつユビキタス情報化社会およびロボットと人造人間の登場は、人類の歴史にとって未曾有の状況の出現である。どうじに日本は、これまで経験したことのない長命高齢化社会でもある。少壮老の人生三毛作時代である。

地政学的領土に区分けされたナショナル=「国家」という全体性の概念が、その意味と機能をおおきくかわらざるをえない時代である。国民「みんな」をひとつの理念や価値観にもとづく一つの制度で運営する「国家経営システム」は、あまりにも複雑になってしまった。

自由と平等を理念とする民主主義の運営は、その理念に宿す内部矛盾が露呈しはじめた。「何も決められない」右往左往症候群もしくは単純明快に「多数決でおしきる」幼児性症候群の極端に陥りつつある。生命医学も原子力工学も、科学技術の希望ではなく、生きることへの不安をもたらす不信の対象になった。

単一価値原理にもとづく一国一制度の限界である。ハードな同質性・均質性・普遍性・合意協調をもとめる思想性の限界である。

その限界の克服は、ソフトな異質性・多様性・個別性・妥協諦観をもとめる思想性の創出である。その思想転回は、予定調和のコスモスな世界観=啓蒙思想ではなく、混沌分裂のカオスな潜在性を基盤にしなければならない。

◆カオス*ソフト*ハードが重層して複雑性の爆発を受容する思想構築

 

5)分裂「共生主義」にもとづく公共私三階建社会ビジョン

これまでの考察をまとめれば以下のような主張になる。

戦後の日本社会は、「自分たち」が生きる地域共同体を消滅させた。町内会などの「共」―「自分たち」社会は、国家の制度的な集団ではなくなった。自治会といっても「自治」の訓練はない。「共」は「公」に吸収されて「官」と「公」が一体化して、「公共」機関を公務員が独占することになった。「自分」と「みんな」だけの関係になった。

「公務員」とか「公共サービス」などいう言葉は、「官」である「公」の権力性、支配権力を柔和に隠蔽している。戦前の「公」は、むきだしの「官権・お上」であり、「私」なき「公・共」の二階建国家であった。戦後は、「共」なき「公・私」の二階建国家である。

現代日本社会は、民間企業がグローバル資本主義市場で自由に競争できる国家体制である。国民も個人としておおいに自由を謳歌する自由主義国家である。どうじに戦前の全体主義国家から引き継いだ中央集権国家でもある。中央政府が、日本の隅々まで縦割り支配体制で、公共の社会福祉を営む社会主義的民主主義国家である。

  しかし、戦後70年のいま、社会的病理現象を増殖しつつある。

往還思想は、その社会的病理現象を問題視して「共生原理」にもとづく社会の未来像をえがく。それは、現代の二階建社会構造に、国家権力支配から一定の距離をおく自治的なローカル・コミュニティの「共」層を差し込む社会ビジョンである。

ローカル・コミュニティに根を張らせる共生主義は、政治学でいう「コミュニタリアニズム」(共同体主義)と「保守主義」に近いだろう。

「共生主義国家」は、一国二制度に近い。それは仕事中心世代の「自由」民主主義体制と少年期と老人世代の「分裂」共生主義体制の共存国家である。

分裂「共生主義」は、夕飯の準備時にあわてて味噌、醤油、塩などをご近所に借りに走る「サザエさん」漫画や「ALWAYS夕日が丘三丁目」の映画のシーンにだぶる心情の、21世紀情報化社会の創造的なコミュニティ像である。

◆公共私三階建社会ビジョン

戦後憲法―→分裂「共生」の視点から憲法を改正する。国家主権の縮小へ。

-共・ローカル≪←公・国家・ナショナル→≫世界政府・グローバル

その本質は、個人の独立性・主体性を、他者との共存性・依存性へ一定程度、委任、分譲する原理である。どうじに、国家主権の独立性・主体性を、国際関係における共存性・依存性へ一定程度、委任、分譲する原理である。

その原理の基盤が、「カオス」な人道、天道、超越、自然、生命観にほかならない。

◆「生命/身心頭」の「心」の重視 <==「頭」理性偏重への反省

◆「少壮老」人生三毛作の「老」の重視 <==「壮」職業偏重への反省

◆「私共公」国家論の「共」の重視 <==「人権」と「国権」への反省

◆「Lローカル/Nナショナル/Gグローバル」のGの重視 <==N国益偏重への反省

◆価値基準、倫理基盤==>カオス;自然・天道・超越==>則天去私、敬天愛人

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