3.4 「私」個人主義と「公」国家主義の「国家論」を問いなおす 2015824

A:「私」自分は、国民として全面的に「公」国家の中でしか生きられないのか?

B:「私」自分は、「半分国民」+「半分非国民」として生きられないか?

 

1)「国家論」をかたるべき時代になった

文部科学省は、小・中・高校の学習指導要領について、平成28年度に全面改定を目指す。下村文科相が、高校の必須科目として「公共」科目の新設を提言した。

それは、規範意識や社会制度について学び、若者の自立心を育むのが狙い。家族制度、就労、納税、消費行動、社会保障、政治参加などについて、ディベートや体験学習を通じて実践的に学ぶ教科となるらしい。

この発表に対してさっそく、新聞の読者投稿欄につぎの意見があった。

◆「公共」という科目に違和感 (東京都、男性、83歳、無職)

憲法にある「公共の福祉」は往々にして個人の権利を抑えるために使われてきた。「公共」科目の新設は、ますます公共の利益が個人の権利よりも優先される懸念が生じる。「公共」を拡大解釈し国家利益優先になる危険性もある。(後略)

この83歳の男性の意見は、戦後の民主教育をうけた国民のひとつの典型的思考だとわたしはおもう。

その思考とは、国家権力に対抗する野党的思考つまり、かっての「左右:保革」対立時代において、社会党や共産党を支持する進歩的知識人とよばれる左翼思想の学者、文化人、弁護士などの主張である。

72歳をむかえる老生は、上の意見に賛成しない。なぜか?

 

◆「公共」科目が、高校の必須科目となることを歓迎する

前節で文系の知性の対象を、Ⅰ類;政治(権力関係)、Ⅱ類;経済(損得関係)、Ⅲ類;文化(美醜関係)として、社会思想にかかわるその知性水準をなげいた。

上の意見に賛成しない理由は、とくに政治(権力関係)の文系知性を根拠にする。わたしは、進歩的知識人とよばれる人たちの「知性のあり方」を一面的だと考える。理念的すぎるのである。理想は必要である。しかし理想論だけでは、現実の政治(権力関係)においては、つねに負け犬にならざるをえない。

朝日新聞や岩波書店に代表される知識人の思想は、基本的人権尊重の「私」個人主義一辺倒である。まことに種々雑多な国民から構成される「公」国家権力の在り方、国家統制の在り方に関する国家論がない。だから、国民よりも国家を優先する国家主義者の主張に実践的に対抗し、国家権力を奪取して執行できないのである。

単に反対するだけで自己満足し、ブレーキ役でしかないみずからの機能を過大評価する。

「権力を監視する」という野党的精神に安住して、「私」個人の権利を主張するだけである。企業経営でいえば、学者や知識人たちは、権力を執行する社長にはなりたくないのである。被雇用者根性である。企業経営の責任をとりたくないのである。

左翼政党の野党は、みずからが「公」国家権力を行使する国家理論の構築とその思想啓蒙とその実践的訓練をしてこなかった。いまでもしているとはおもえない。しているとすれば、時代錯誤のマルクス主義的な労働運動やリベラルな市民運動だけではないのか。

「護憲平和」だけをふりかざして、みずからは権力行使をめざさなかった万年野党の社会党は、自滅寸前である。「沖縄基地の最低でも県外移転」を主張した民主党政権が、あまりにもだらしなく自滅瓦解したのは、あまりにも国家権力行使の準備不足、訓練不足だったからではないのか。

わたしは、「公共」科目が、高校の必須科目となることを歓迎する。国民の政治参加と「国家論」を問いなおすかっこうの機会となるからである。

国家論をかたる時代がきた。パン;経済(損得関係)とサーカス:文化(美醜関係)に偏重した文系知性のバランスをとりもどすべく、分裂共存:政治(権力関係)の知性の復興を期待する。

 

◆「私→公」国家論を解体して「私→共←公」国家論への夢

わたしは、現代社会を「私公」二階建構造とみなす。その思想性は、「私」個人主義思想と「公」国家主義思想の対立併存である。

この現代社会思想を「私共公/天」の枠組みから評価すれば、「共:隣人関係の地域コミュニティ」と「天:お天道様を畏怖する道義心」が欠如している。だから、「共」と「天」を包摂しえない文系知性をなげくのである。

国家の借金が1千兆円をこえる事態をゆるしている日本国民の精神性は、かぎりなく「私→公」という利己的で国家依存の権利思想だとおもう。

だが、個人主義は、もともと独立・自立・自治精神のはずである。

そこで、少壮老の往還思想の人生論をベースにして、「共」と「天」の復権をめざす「共生思想」を妄想する。その気持ちの表現が、国家との遠近法を意識する「私→共←公」という図式である。

「共」において、地域通貨、マイクロファイナンスや自治体の条例制定や地域自治会の規約制定などの訓練をめざす。

この夢が、「とりあえず、まあ廃案」という学生デモの延長として、地域コミュニティにおける少/学業期と老/終業期の世代間連帯のコミュニティビジネスである。

2015年の夏、国家論を考えるかっこうのテーマがある。それは、自衛隊の活動範囲を拡大する安保法制の議論である。

 

2) 「国家存立の危機」というけれど・・・・・・・・・

 安保法制に賛成する識者が、「日本は今、大きな変化に見舞われている。この変化に対応しなければ我が国の存立が危ういという危機感がある。」という。どうじに、安保法制に反対する声がおおくきなって、賛成者がふえないことに「危機感」をもっているようだ。

だが、隠居老人であるわたしの身辺には、幸いなことに国際社会の脅威とか、日本国の存立危機を実感させる現象はない。まあ、世の中のことの90%は、傍観者の気分である。危機感などなく、のっぺりと日々是好日である。

職業期を卒業して無為にすごす老生の世の中をながめる枠組は、システム論的遠近法である。それは、「{私;自分}*{縁・遠近}*{他者、共、公;国家、世界}/天=自然」という図式である。この図式では、自分の外側の国内および国際関係などの「縁」=関係性は、まことに遠くて浅くて薄い。遠浅薄である。

毎日、日々ぼうだいな世界の出来事が、つぎからつぎに起きて、歴史として過去に堆積されていく。それらのほとんどの事象について、わたしは専門的な知識や事実認識も解釈能力も、ほとんどもたない。自分は、「縁」をとうして関係する外側の世の中について、無知蒙昧にちかいと素直におもう。ほとんど何も知らない。

だから、新聞やテレビをながめながら、人様の報告、意見、卓見、愚論などをとうして間接的に判断するだけである。「国家存立の危機だから安保法制が必要だ」いう政治テーマへの判断も、隠居老人の間接的な遠浅薄レベルにならざるをえない。

安保法制の早期成立をねがう数少ない学者連中のひとりの大学教授は、「安保関連法案を違憲とする主張者は、国際情勢に疎い人たちが低い次元で問題を論じている」という。 

それに共鳴する若者が、「国会前で反対運動に参加する若者は、もう少し勉強した方がいい。未熟な人たちだ」という。その若者は、自分の良識にもとづく理性的な主張こそが「正論」であるとさけび、いっぽうでは感情を爆発させて、安保法制反対者にネットで罵声をあびせているようにみえる。

週刊誌の記事のみだしには、憎悪感あふれる攻撃的な活字がおどる。

安保法制が必要だという安倍政権やその支持者や識者たちにとって、かれらに危機感をもたらす国際情勢とは、いったい何を意味するのだろうか。

彼らが、「国際情勢に疎い未熟」な国民に教えたがる国際社会の脅威とは、何を意味するのだろうか。それは、つぎのようなことのようだ。

 

◆「国際社会の脅威」とは

 ①2014年九月、アメリカ大統領が『米国はもはや世界の警察ではない』と宣言した。 

中国は、軍事力を膨張させ、海洋進出を拡大し、世界秩序の再編成をめざす。

*冷戦時の米ソ対立のパワーバランスからあらたな米中関係へ

北朝鮮は核兵器を開発し、ミサイル基地は日本列島を照準にする

ロシアによる北方領土の占領、黒海進出基地のクリミア併合など

イスラエルとパレスチナの果てしない領土紛争

中近東およびアフリカにおける民族対立、独裁政治、難民の群れ

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の政教一致原理にもとづく紛争

過激派組織「イスラム国」(IS)の挑戦、国境をこえるテロ集団

その他、国家と民族の自衛と自由と欲望にもとづく敵対憎悪関係

 

◆国家の存立危機とは

 国家の存立危機は、1)巨大隕石落下や甚大な自然災害、2)外国の侵略と植民地支配、サイバー攻撃、防諜、挑発など、3)治安崩壊、内戦、下剋上、革命、4)原発事故による日本列島放射能汚染、そして5)独裁、腐敗、権力者利権の隠ぺい、パンとサーカスの狂乱などの自滅崩壊、などが考えられる。

老生の郷里である鹿児島市に位置する桜島が、活発に活動している。日本列島では、7000年に1回ぐらい巨大噴火が起きてきた。最後の巨大噴火は、7300年前の鹿児島の南方沖数十キロにある鬼界カルデラ。この大噴火で南九州の初期縄文人は全滅したという。

巨大噴火は、何千、何万年に一度と確率は低いが、いつか必ず起きる。九州の阿蘇、加久藤、姶良など超巨大カルデラ噴火が起きたら、日本の存続は危ういだろう。

東京直下型地震、東南海トラフ巨大地震、巨大津波が、近い将来かならず発生すると予測されている。その発生は、国家存立の危機となるであろう。

フクシマ原発事故の放射線汚染と同様の事態が、数ケ所で発生すれば、それこそ日本の存続は危ういだろう。

 安保法制が必要だという人たちは、今後まだまだ大国に成長するであろう隣国の中国を「仮想敵国」とみなす。

かれらは、戦前の大日本帝国軍隊が満州を植民地支配したその反転行動として、中国が怨念晴らしとして、その報復と復讐として、日本を侵略するという事態を想定するのだろうか。隣国の成長発展を目の当たりにして、不信と猜疑心と嫌悪感をつよくし、その脅威と恐怖におびえて「日本の存立危機」をさけぶのだろうか。

そして、中国経済の崩壊を願い、中国政治の権力闘争の混乱をのぞんでいるようにおもえる。そうなれば、これまでとうり日本国家の安泰を維持できるというのだろう。

 

問題意識 ~「私」個人主義と「公」国家主義の「国家論」を問いなおす

 地球という自然環境で生きる人間社会など、その存立基盤はまことに危ういものである。その天変地異を体験できる風土に生きてきた日本人は、畏怖すべき「お天道様」=八百万の神々の観想=縄文アイヌの基層文化をそだててきた。

天然、自然こそを、人間社会の歴史をうごかす原動力=天道とみなす心性が、日本人の深奥に宿るとわたしはおもう。

すでに早くも600年代には、聖徳太子が、神仏儒を混淆ごたまぜにした「和をもって尊しとなす」とする憲法17条を制定した。日本人の伝統的な精神性=文化(美醜関係)は、世界にむかって誇ってもよいとおもう。(==>自ずと育ち成る、諦観、水に流すソフト思考、「つぎつぎになりゆくいきほひ」)

ところが、ユダヤ教―キリスト教―イスラム教を育てた西欧人種は、自然に君臨する唯一絶対の一身人格神を捏造し、人間の精神、理性こそを人間社会の存立基盤としてきた。超自然的な哲学=形而上学をうみだした人間中心の価値観である。神―人間―生物、地球、物質という価値序列である。(==>超自然的世界観、イデア、純粋形相、理性、絶対精神、能動的作為、意図的に作るハード思考)

その価値観を絶対的な善として、自然を制御し征服できるとする科学技術の知性は、核兵器を製造し、DNAを操作し、人造人間ロボットを生み出し、人間の脳をこえる人工知能の技術特異点にいたる。

そうなれば、国家存立の危機などではなく、人間像、人間観、国民という概念、国民国家という国家概念そのものが激変するであろう。この予測は、脱人間中主義と国家廃絶への積極的な希望にもなりうるだろう。個人主義と国家主義に二極化した「私公二階建社会」を克服する契機になるだろう。

いまや、グローバル社会である。経済(企業活動)および文化(旅行、各種交流など)は、「公」国家の統制をこえて、自由に展開している。それこそが、平和の基礎であり、平和活動そのものであり、平和の果実である。

この状況を、「公」国家を横断する「共」集団コミュニティの歴史的な興隆とみなす。

いまや、国家の外交関係と武力紛争の政治的テーマは、国際的な権力関係をになう一部の政治家、外交官、自衛隊などの「公」的国家機能のひとつの領域でしかない。

国際関係は、多元的かつ多重なカオス*ソフト*ハードな複雑系である。世界の平和と国内の安全を維持する機能は、「公」国家が独占的に担うわけではない。

国家から一定の距離をおいた個人同士の「共」的交流連帯こそが、平和の基盤である。そのビジョンが、{私→共←公}/天を枠組みとする「「私共公三階建社会」にほかならない。

こういう近未来社会を妄想するとき、「積極的平和主義」といいながら「戦争を抑止するために軍事力を増強する」という安保関連法案にかんする賛否両論の思想性は、なんとも「浮足立った」もうひとつの妄想のような気がする。

「私」と「公」をテーマにする老生の問題意識は、つぎの選択である。

A:「私」たる自分は、国民として全面的に「公」国家の中でしか生きられないのか?

B:「私」たる自分は、「半分国民」+「半分地球人」として生きられないのか?

その選択は、私=人権と公=国家権力の関係性とは、国家の必要性とは、なぜ戦争を止められないのか、条約―憲法―法律の制定プロセスなどなど戦後70年の日本人の「私」個人主義と「公」国家主義をささえる国家論への問いなおしである。

高校の必須科目となる「公共」科目の主題は、行政機関=官僚機構が独占する「公共」事業を、「公」と「共」に解体する実践思想でなければならない。

以上   No.3.3   No.3.5