7.4.4 憲法第13条改正案 個人から社会的関係性へ 2017125

 

◆問題 個人主義→共生思想←国家主義

ゲノム、生殖医療、人工知能、物どうしのインターネット、ナノテク技術などの第4次産業革命により、人類社会は、主権国家の国境をこえて、グローバルな生存環境に劇的に変化しつつある。

2016年、イギリス国民の多数がEU離脱を選択し、国家主権の強化をめざす。2017年に誕生したアメリカ合衆国トランプ大統領は、明白に国益第一主義をかかげる。

国家主義、人種主義、国粋主義、排外主義など、ナショナルの国境に閉じた国民国家の民主主義政治体制とグローバルに開かれた資本主義経済市場との亀裂が、おおきくひろがる世情である。

科学技術知性と人文社会科学知性と道義倫理知性とのぬきさしならぬ「人類の英知」の統合失調が、世界にひろがる反知性・反エリート・反既得権益層などの心情と言動を暴発させている。

多くの識者が指摘するように、いまだ「近代の超克」の途上である。あらためて「個人主義―自由主義―資本主義」と「国民主権―民主主義―国家主義」と「世界―人類社会―自然環境」との関係性を、根本から問いなおすべきエキサイティングな時代である。

根本とは、4次産業革のグローバル社会における、個人主義の人権尊重と国家主義の主権尊重との関係性である。

その問いなおしが、憲法改正の必要性にいたる。憲法改正の基本思想を、個人主義と国家主義の両端を中和する共生思想とする。

その図式が、「個人主義→共生思想←国家主義」である。

 

■現行憲法 第13条 〔個人の尊重と公共の福祉〕

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

●自民党の改正案 第13条(人としての尊重等)
 全て国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 

◎私案 第13条 社会的関係性の尊重と基本的人権の制限 

何人も、人類社会の一員として生きる社会的関係性として尊重される。

社会生活における国民の基本的人権は、法律にもとづいてのみ制限される。

 

憲法第13条を改正する理由 

個人の自由と権利=私権を尊重する立場をサヨク・個人主義とする。立法と国政=国権を尊重する立場をウヨク派・国家主義とする。

個人主義と国家主義は、私権と国権の対立をもたらす。その対立を調整する原理が、「公共の福祉」のはずである。

ところが憲法は「公共の福祉」の意味を明確に定義しているとはおもえない。

最高法規である憲法が、私権と国権の対立を調整する原理を明確にしない事態は、主権国家の憲法として欠陥ではないか。

この問題意識が、憲法第13条を改正する理由である。

 

1)「すべて国民は、個人として尊重される」とはどういうことか?

 憲法の人権思想は、国家よりも個人を尊重する個人主義、個人中心思想である。

憲法のいう「国民」は「日本国籍をもつ個人である」ので、第13条は「日本国籍をもつすべての個人は、個人として尊重される」という意味のない文章になってしまう。

けれどもわたしごとき素人が、おそれおおくも憲法の規定を「意味のない文章」などというほうが意味ないことだろう。

では、「個人として尊重される」という規定を、どのように理解すればいいのか。

 

すべて国民は、xxとして尊重される」という規定のXXは、人、動物に君臨する人間、理性あるもの、生活者、個性的な人格者、人徳を積む人、天皇の臣民、国家に忠誠をつくす者、社会の一員、世界平和を希求する人類の一員、かけがえのない命をもつ個人、集団に帰属しない単独者、無規定の即自的な存在者、などなどがありうる。

憲法は、XXを「個人」とする。その個人とは、いかなる存在者なのか。

人の一生は、だれでも生→(老)→死をたどる。その生活空間は、身辺と周辺から遠方までの「私―共―公―天」の遠近法で図式化できる。

この図式は、個人→{家族→社会→国家}→世界→宇宙という常識的な思考枠である。儒教の修身→斉家→治国→平天下と形式的にはおなじである。

この枠組みにおいて人の意味は、①生物的個人、②社会的個人、国民的個人の次元の属性空間で定義できる。

生物的個人は、人として、天下=自然の下で生きて死ぬ。私生活→自然思想

社会的個人は、員として、集団の社会規範の下で生きる。社会生活→共生思想

国民的個人は、民として、国家機構の下で生きる。国民生活→国家思想

 

日本国憲法は、西欧の人権思想をひきつぐ。その憲法が尊重する「個人」は、キリスト教の「神」が創造した人間を意味すると解釈できる。➡アメリカ独立宣言をみよ。

その個人は、唯一絶対的な創造主との関係において存立する者であるから、社会や国家に先行する単独者=即自的存在=自然の摂理にもとづく生物的個人とみなされる。

その人権概念は、生物的個人が享有する自然権思想にもとづく普遍性、十人十色の個別的人間の固有性、社会規範や国家権力からの不可侵性を原理とする。

以上の考察から、憲法第13条の前段は「すべての国民は、社会や国家に先行して即自的に存在する生物的個人として尊重される」という解釈にいたる。

その人間像は、社会や国家における身分や役割などに関係なく、個人の存在それ自体を尊重するという思想である。近代思想の要素還元論や原理尊重主義につうじる。

人間の存在自体を「尊重」する思想は、「生命の尊厳」と「個人の尊重」を区別しない。この思想には、「人間として尊重する/尊重される」という社会的関係性を修練する倫理道徳の道義性が、欠如しているのではないか。

 

その道義性の欠如こそが、日本国憲法の根本的な欠陥であるとわたしはみなす。

西欧の人権思想をひきつぐ日本国憲法の「個人として尊重される」思想は、キリスト教の神様=創造主を信じない日本人のわたしにとって、直観的に「そうだよね!」という気持ちにはならない。

わたしは、キリスト教信者ではない。神―人間―動物―植物―自然を序列化する「人間中心主義」の創造神話を信仰しない。だから欧米流の神授人権説には同意しない。

わたしは、「生命の尊厳」と「個人の尊重」を区別すべきだとかんがえる。

そもそも生存,自由そして幸福の追求を「権利」とみなす西洋思想に違和感をもつ。自然権、人権の普遍性・不可侵性・固有性などという法学理論にはなじめない。

生命、生存、自由そして幸福の追求は、生物としての生理的な欲求衝動=生理能力であるとすれば、その能力を「与える/与えられる」権利関係とみなすことへの違和感である。

生命力という生得の身体的な生理能力は、権利関係とは次元がことなる自然の摂理である。それぞれの生命力は、本能的に自律した身心頭の欲望と能力をもつ。その健常と障害は程度問題であり、「生きようとする」人知をこえる生命力への畏敬の念が、「生命の尊厳」という意識をもたらす。その意識は、かならずしも「個人の尊重」と同じ次元ではない。

人権という権利関係は、理性的な人間が承認する社会的な契約関係である。その関係性は、限定された領土内における政治的共同体である国家が、憲法の下で法律によって人為的にさだめる規則である。その関係規定は、国家の統治機構の変化によって歴史的に変化する。

「生命の尊厳」が非歴史的で直観的な事実認識だとすれば、「個人の尊重」は歴史的に相対的に変化してきた社会的価値観の理性的認識である。

天賦人権説には、個人:「身体的な生理能力」から国家:「理性的な権利義務関係」への異次元の飛躍があることを強調しなければならない。

生物としての「生命の尊厳」と社会的動物としての「人間の尊重」を区別すべきなのだ。

西欧思想つまり日本国憲法の個人尊重思想は、自然の生態系を前提にしないゴーマンな「人間中心主義」であり、個人の独立性・主体性を強調しすぎる「ご立派な強い人間像」であるので、わたしは共鳴しがたい。(参照→拙稿「往還思想、天道思想、共生思想」)

 

2)自民党の改正案は、その「個人」から「個」をとって「人」とする。これをどう理解する?

 個人尊重、個人主義、個人中心思想に反感をもって嫌悪し、日本国憲法の思想に反対する心情というか信条の表明だろう。

自民党の改憲派とその支持者たちの思想は、個人よりも国家を尊重する。私権私益よりも国権国益を優先する。個人主義の対極に位置する国家主義である。

国家主義の主張:

国家は、家族関係の延長にある地縁共同体である。家族に、家を支配する家父長が存在するように、国家のリーダーが天下国家の社会秩序を統治する。国家あって国民あり。

国家とは、国家主権を行使できる権力機構である。国家は、領土を保全し外国の侵略に反撃する。国境を管理して国民を守る。国家あって憲法あり。

国家は、日本国籍をもつかどうかを基準にして、個人を日本国民と外人に区別する。国民は、自分の国を愛し、国民としての誇りをもち、国家に貢献することを崇高なる価値とする。

日本国憲法は、日本国民の基本的人権を保障する。その権利は、公益及び公の秩序の範囲内に限定される。国民は、個人の安心と安全を国家にもとめる。

 

◆個人と国家に関する主義・思想は、生物的個人―人、社会的個人―員、国民的個人―国民の枠組みに照らして、つぎのように対比できる。

:個人主義 個人あって国家あり。個人は国家に人権保障と安全保障を要求する。

:共生思想 個人は社会的動物である。個人は領土を閉じる国境を横断して生きる。

公:国家主義 国家あって個人あり。個人は国家の一員である。国家が個人を統治する。

 

3)第11条の「基本的人権」、第12条の「自由及び権利」について、第13条では「「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とする。これをどう理解するか?

 この条文は、幸福追求権といわれる。幸福の自己決定権とも解釈されるが、この権利は、基本的人権に含まれるのではないか。だから冗長な文言なのではないかとおもう。

 第11条から第14条までは、人権の包括規定のはずである。第13条の規定は、冗長な文言というよりも、個別的な権利をここで規定するのはおかしいのではないか。

生活環境の変化にともなって、プライバシー権だの肖像権だの環境権だの嫌煙権までも、ぞろぞろといくらでも個別的な権利を主張できるのだから。

では憲法が、第11条から第13条まで「基本的人権」、「自由及び権利」、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」などとすこしずれて重ねるのは、なぜなのか。

その理由は、憲法がどこにも「基本的人権」の意味を定義していないからだとわたしはおもう。基本的人権を「天賦の自然権」とみなす人権神授説だから、定義しないというよりも、定義できなかったからだろう。

定義できなかった理由は、憲法制定時の日本において、日本国民に「人権思想」の歴史的な素地がなかったからだ。「基本的人権」の意味を明確に定義するように、憲法を改正すべきだとわたしはかんがえる。

 

4)自由民主党の憲法改正草案は、基本的人権を制約する「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」におきかえる。リベラル護憲派は、「基本的人権よりも国家権力を優先する反動思想である」と主張して反対する。この主張をどうおもう?

ウヨク国家主義とサヨク個人主義の思想対立である。

わたしは、自民党の国権尊重・国家主義と護憲派の人権尊重・個人主義の両方を極端なイデオロギーとみなす。過ぎたるは及ばざるがごとし。

わたしが提案する憲法改正の基本思想は、私権―民権―国権のバランスをとる「個人主義→共生思想←国家主義」で図式化できる。

個人主義=私権尊重、市民意識→サヨク、市民、インターナショナル

共生思想=民権尊重、庶民感情→ナカヨク、町民・村民、ローカル

国家主義=国権尊重、民族精神→ウヨク、国士、官憲、ナショナル

 

ウヨクとよばれる国家主義者は、自主憲法制定とか憲法改正を主張する。リベラルとかサヨクとか称される戦後知識人は、憲法擁護をさけぶ。

憲法改正に反対する護憲派は、自民党の「国賦人権説」では、国によっていつでも人権が剥奪されることになると批判する。個人の人権と国家権力を対抗関係とみなす。

戦前の大日本帝国憲法は、国家絶対思想であり、国民の自由と人権と民権を抑圧し、国民を滅私奉公にはげむ天皇の臣民赤子とした。人権主張者は、治安維持法によって弾圧され、投獄された。

戦後の日本国憲法は、基本的人権を侵害してきた全体主義思想を反省し、国家がすべての国民の基本的人権を尊重することを基本原理とする。

・人権は、国王などの独裁者に対抗して、過去幾多の試練の中から勝ち取ったものなのです。心優しい君主が、国民の自由と人権を保障してくれることなどありえません。

・国民が国家権力に対して人権を主張し続けなければ、人権など消えてしまいます。日々の生活の中で主張し続け、実践し続けることによってやっと維持できるものです。

・人権は、社会から束縛されない自由と国家権力から抑圧されない自由です。国民は国家権力から自らを防衛しなければなりません。

 

憲法は、国民が行使できる基本的人権を「公共の福祉」の範囲内に限定する。個人主義者のリベラル護憲派も人権尊重の弁護士も、基本的人権が「公共の福祉」の範囲内に制約されることはうけいれる。

福祉とは、「社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福と辞書にある。護憲派が承認する「公共の福祉」を、国民全体の福利だと解釈してみよう。

護憲派は、憲法が保障する基本的人権を根拠にして、個人が幸福を追求する社会制度と予算配分を、国家に強く要求する。

日本国は、国民を主権者とする民主主義政体である。国民全体の福利は、国民の多数決できまる定めである。護憲派もことさらに民主主義を擁護する。

民主主義とは、基本的人権を享有する国民が「立法その他の国政」において、国民全体の福利つまり「公共の福祉」を実現するしくみではないか。「立法その他の国政」とは、まさに国家権力ではないのか。

日本国憲法とその護憲派は、人権と国権を対立させているようにみえるが、その内実は国権に依存しているといえる。その心情は、おおいなる国家依存症といってもいいのではないか。

たしかにサヨクとか社会主義者の思想が、国家権力の掌握をめざす「国家社会主義」であることは、現実に歴史が証明している。

キリスト教の神を信じる者は、神の名において利己主義・自分中心主義を否定する。だが日本国憲法とその護憲派の個人尊重思想は、個人主義と利己主義・自分中心主義とのちがいを説明しているとはおもえない。

護憲派が、社会{個人の集合}と国家{国民の集合}の関係性を、どのように説明しているかわたしは理解できない。

護憲派が承認する「公共の福祉」を国民全体の福利だとすれば、護憲派の「公共」概念は、いともかんたんに国家主義思想に回収されてしまう。

国家論なき個人主義思想は、産業革命により生みだされた社会矛盾の克服を、「国家の廃絶」にもとめる空想的社会主義から科学的社会主義にいたる史的唯物論という歴史観の残骸ではないかとわたしはおもう。

だから国家論があやふやな憲法9条は、ふつうの国家としての国家主権を放棄している、などと国家主義者から批判される余地がある。

憲法9条の改正をめざす自民党の改憲派は、「公共の福祉」の意味内容があいまいだという。だから公共の福祉から「共」を削除して、「公」だけをのこして、国家権力が「公益及び公の秩序」を統制するのだ、と自らの国家主義思想を明確にする。

日本国憲法と護憲派の「公共」概念は、思想的にあいまいだとわたしもおもう。護憲いってんばりで、改憲派の国家主義に対抗できるとはおもえない。

あいまいな「公共の福祉」によって基本的人権を制約するという規定の解釈は、あいまいにならざるをえない。

憲法学者や政治学者たちは、基本的人権を制約する根拠を探求して諸学説を述べる。一元的外在制約説、二元的内在外在制約説、一元的内在制約説、その他。

学者たちは、人権規制の限界画定に関する基準を個別権利ごとに具体的に明らかにすることに主眼をおいてきた。「公共の福祉」の原理そのものの意味については、必ずしも深く考察してこなかったといわれている。

素人かんがえのわたしは、あいまいな「公共」をもちださないで「基本的人権は、法律にもとづいてのみ制限される」と定めればよいとおもう。その制限が正当かどうかは、違憲立法審査にゆだねればよい。

 

5)そもそも日本国憲法の「公共の福祉」とはどういう思想なのか?

西欧近代思想をうけつぐ日本国憲法の基本的人権は、享有つまり生まれながらの自然権という法理において天賦人権説といわれる

この基本的人権説は、キリスト教のいう創造主=全知全能の神=自然=天が、人間に権利を賦与するという神と人間との契約関係である。人権神授説である。

戦後の日本国憲法は、占領軍のアメリカ人司令官の信条がつよく反映されていると理解してもよいだろう。

7767月、アメリカの13州は合衆国として、イギリスの植民地から独立を宣言した。

アメリカ独立宣言~すべての人間は、創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ

 この宣言が、先住者である原住民やアフリカから連れてこられた奴隷たちの「生存,自由そして幸福を追求する権利」を除外していることは記憶しておこう。

この宣言を、私―共―公―天の枠組みに照らせば、すべての人間が「私」、政府という機関が「公」、創造主が「天」に対応する。

この宣言には、「共」への言及はない。ひとつひとつの州が、白人たちの共同体だとみなされて、あえて「共」へ言及する必要がなかったのだろうとわたしは解釈する。

第二次世界大戦のあと、194812月、「あらゆる人と国が達成しなければならない共通の基準」として世界人権宣言が発せられた。

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

この宣言の「同胞の精神」ということばに着目する。これを「共」精神と解釈しても無理はなかろう。

この宣言は、アメリカ独立宣言にある「政府という機関」の「公」に言及しない。二度の世界大戦をひきおこした主権国家への懐疑心が強いからだとわたしは解釈する。

アメリカ独立宣言が「共」同胞に言及せず、世界人権宣言が「公」政府に言及しない。ここに着目すれば、戦後の日本国憲法は、アメリカ独立宣言と世界人権宣言の「共」と「公」の不在を補完しあって合体させ、「公共」としたと解釈できるのではないか。

 

個人主義を基調とする日本国憲法は、共概念=共同体論と公概念=国家政府論を欠落したまま「公共の福祉」をかかげる。

その「公共」が、「私」の基本的人権を制約するという。

では「公共の福祉」と「公」である国家権力との関係性を、憲法はどのように定めているか。

憲法第15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、・・・公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定める。

国権を行使する公務員が、憲法と法律にしたがって、国民から税金を徴収し、公共事業を独占的に執行する。

全体の奉仕を、公共の福祉への奉仕だとすれば、つぎの図式がなりたつ。

◆個人→憲法が国民の基本的人権を保障する→国民が国家の主権者である→国民が国家権力を行使する公務員を選ぶ→公務員が国民に奉仕する→国民の福利=公共の福祉→国家の秩序→基本的人権の保障、というつながりである。

わたしは、このつながりにおいて、日本国憲法が、社会{個人の集合}と国家{国民の集合}の関係性をどのように説明するか、その私権私益と国権国益の関係性を理解できない。

日本国憲法の「公共」概念は、思想的にあいまいだとおもう。

 

6)自民党は、憲法改正の理由を 憲法の人権規定は、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることが必要。西欧の天賦人権説に基づいて規定されている現行憲法の規定は改める必要がある」と説明する。「我が国の歴史、文化、伝統」とは、何を意味するのか?

 自民党の憲法改正草案は、「日本国憲法はアメリカ占領軍から押しつけられたものだ。日本は独立した主権国家にふさわしい自主憲法を制定すべきだ」という信念にもとづく。

その思想は、戦前の大日本帝国を郷愁し、教育勅語を信奉する中央集権の国家主義への回帰願望のようにみえる。自民党のいう「我が国の歴史、文化、伝統」とは、戦前の天皇制をささえた皇国史観を意味するとわたしは理解する。

その皇国史観こそが、縄文時代から江戸時代まで日本列島社会で営まれてきた共同体の「歴史、文化、伝統」を破壊したとわたしはかんがえる。

江戸時代までの日本人の精神性は、神と仏は習合していた。神社と寺院が共存していた。

幕末の明治維新の前夜、英仏蘭露米の西欧列強がひんぱんに鎖国日本の海岸におしよせてきた。

自尊感情と国防意識をささえる国学が興った。御三家の水戸藩があと押しした。神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮が強くなった。

明治新政府は、神仏分離令(神仏判然令)、大教宣布を発し、神道を国教にする政策を打ち出した。廃仏毀釈の打ちこわし運動が日本中に湧きおこった。地域差はあったが。

明治政府は、廃藩置県による地方自治の中心を神社とした。勅令によって1町村1社を原則とする神社合祀政策が進められた。全国で約20万社あった神社の約7万社が取り壊された。

廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼったという。廃仏毀釈は、国家神道を国家統合の基幹にすえる契機であった。

神仏習合の日本人の伝統精神は、明治政府の廃仏毀釈と神社合祀によって伏流し潜在化した。氏神様を祀る小集落ごとの小さな祠や鎮守の森が破壊された。

壊滅的なまでのダメージをうけた紀伊熊野のエコロジスト博学者の南方熊樟は、合祀反対運動をおこした。その理由をつぎのようにいう。

合祀は、①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い人情を薄くし風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅する。

 

わたしは、自民党の中央集権の国家主義思想を支持しない。わたしは、縄文人の精神をうけつぐ日本伝統主義者を自認するが、皇国史観にもとづく国家主義者ではない。ウヨクでもサヨクでもなく、中途半端なナカヨク主義者である。

20171月現在、日本国の政治状況は、自由民主党の一強体制である。自由主義と民主主義が、「あたりまえの思想」として、国民の大多数から支持されている。

わたしは、自由と人権と民主主義を絶対的に普遍的価値とみなす現代政治思想を根本から問いなおす。

個人の自由には、社会規範の「自制」倫理を対置する。人権には、地縁自治共同体の「民権」を対置する。民主主義には、相互扶助の「共生思想」を対置する。

古希すぎた隠居老人のわたしは、自由民主党に対抗できる「自制共生党」を標榜する政治勢力の登場に、未来の日本社会の希望を託す。(参照→拙稿「個人的諦観と社会的希望」

自制共生党を略せば「自共党」になるが、自民党と共産党の合併を意味するものではない。

 

7) 「国境なき自治的共同体」をめざす共生思想 「私共公」国家像

現代社会は、①個人の人権尊重と②国家の主権尊重と人類社会の平和希求との亀裂を、構造的にますますひろげながら、農業革命→工業革命→情報革命につぐ第4次産業革命の渦中にある。

これまでの仕事・職業が、人工知能を内蔵したロボット、アンドロイド、サイボーグ、人造人間などによって代替される。人間を介在させずに物どうしがデータを処理する。

仕事中心の価値観が、根本的に変化せざるをえない社会をむかえる。人間とは、いかなる生物なのか。人間は、どのように幸福を追求するのか。その人間像をあらためて根本から問いなおすべき時代がきた。

科学技術知性と人文社会科学知性と道義倫理知性のありかた、つまり人類の知性レベルを根本から問いなおすべきではないか。

グローバル社会における「個人主義―自由主義―資本主義」と「国民主権―民主主義―国家主義」と「世界―人類社会―自然環境」との関係性を、根本から問いなおすべきではないか。

この問いなおしが、憲法改正の必要性にいたる。

憲法改正の基本思想を、個人の人権尊重過剰と国家の主権尊重過剰を相対化する共生思想とする。

共生思想は、日本人の伝統的精神性にやどる八百万の神を観想し、お天道さまへの畏怖と畏敬を基礎とする天道思想にもとづく。キリスト教の創造主を、神=全知全能=自然=天とはみなさない。

共生思想は、西欧人の天賦人権説をうけいれない。人間の生命だけに天賦の権利をみとめない。基本的人権を「何人も生まれながらにして生命の維持、自由、安全、幸福を追求する個人の生理能力の社会的相互承認」と定義する。

生理能力とは、生命力が少→壮→老で変化する身心頭の欲望である

社会的承認とは、それぞれの個人がもつ差異の多様な身心頭の欲望を「お互いさま」とみとめあうことである。社会的に生きる営みに「個人の尊重」の道義心をみとめる。

そこから生じる権利と義務の関係性の根本価値を、「けなげでちっぽけな弱い人間」どうしが共にいきる相互扶助とする。

自治的な地縁共同体において、相互扶助の社会的規範を共有することが、共生思想にほかならない。

個人主義者が自分の「私」権だけを主張し、国家主義者が公共の福祉から「共」を削除して国権による「公益及び公の秩序」とするのに対抗して、共生思想は公共の福祉から「共」をとりだして民権による「共益および共同体の秩序」をもって対抗する。

共生思想は、民権自治思想である。国境なきグローカル「共益および共同体の秩序」と国境内のナショナル「公益及び公の秩序」を分離させながら共存する社会・国家システムを理想とする。私共公の三階建国家像である。

日本国憲法が一体化している「公共」の概念を「公」と「共」に解体すべきである。公務員が独占する公共事業を、「公」事業と「共」事業に解体しなければならない。

共生思想は、思想的にあいまいだとおもう日本国憲法の「公共」概念にたいする対案である。

 

◆第11条 改正案 社会的相互承認

この憲法は、基本的人権を抑圧してきた国家体制の歴史を反省し、国家がすべての国民の基本的人権を尊重することを憲法によって保障する。

基本的人権とは、何人も生まれながらにして生命の維持、自由、安全、幸福を追求する個人の生理能力の社会的相互承認をいう。

 

◆第12条 改正案 社会生活の相互扶助  

何人も、社会生活において、他者の基本的人権を侵害する自由と権利を有しない。

国家は、基本的人権を行使する国民の相互扶助を支援する義務を負う。

 

◆第13条 改正案 基本的人権の制限 

何人も、人類社会の一員として生きる社会的関係性として尊重される。

社会生活における国民の基本的人権は、法律にもとづいてのみ制限される。

 

:自然→←   生物的個人    個人主義 生(少→壮→老)死

      ↓↑   幸福の追求 基本的人権の保障 ←憲法

       ↓↑   相互扶助   

人類社会→← 社会的個人    共生思想 家族、学校、地域、職場

    ↓↑  公共の福祉 基本的人権の制約 ←憲法

日本領土 ↓↑  権利と義務 

日本社会→← 国民的個人  国家主義 権力:立法・行政・司法憲法

 

 

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