1.失われた「共」精神 ~マンション暮らしで思うこと  改20156

1.1 失われた「共」精神

1.2 マンション暮らしの奇妙な落ち着かなさ

1.3 マンション共有施設の管理と活用の現状

1.4 地域コミュニティ形成に立ちはだかる大きな壁

1.5 マンション団地コミュニティの理想像を求めて

 

新築マンション団地にうつり住み、20159月で満8年になる。横浜市臨港街区(以下、CH地区)に位置する団地には、21階から33階までの4棟(以下、A棟、B棟、C棟、D棟とよぶ)で2000人近い人が住む。区分所有法で定める管理組合は、各棟共用施設それぞれの管理と団地共用施設の管理のために5つある。

住民の考え方や生活スタイルは人それぞれである。

ともかく「安全、安心、整備、防犯、警備、清潔、美観、静穏などの物的な環境維持だけでよい、人間関係など余計なお世話だ」という考える住民もいる。いや「物的な環境維持だけでなく、もっと豊かな人間関係があったほうが幸せだろう」と考える人もいる。

それぞれの住民の生活状況や思想・価値観や志向性などはさまざま。それぞれの人生体験は、一様ではない。それぞれに考え方と選択肢がある。

以下、マンションで暮らすひとりの住民のきわめて個人的な心境を以下につぶやく。

 

1.1 失われた「共」精神

(1)マンション暮らしは「共有施設」を共用しなければ生活できないという発見

「共有」コモンとは、「私有」プライベートと「公有」パブリックにはさまれた中間領域である。公有が「公助」に、私有が「自助」に、共有が「互助」に対応する。

CH地区の財産は、私有財産・共有財産・公有財産(国・県・市)に分かれる。マンションに住むわたしは、自室の専有部分だけでなく、A棟の共有施設や団地全体の共有施設を共同利用して生活せざるをえない。

一戸建の住まいをやめて、はじめてマンション暮らしを経験する自分にとっては、この点が大きな発見だった。「マンションは近所付き合いをしなくても快適に暮らせる」という常識・風説とは、真逆だと気付いた。 「共有」施設等を「共用・共同利用」しなければ生きていけないのだ、という自覚は新鮮なおどろきであった。

 

(2)仕事中心時代は地域には関心が向かなかった

CH地区自治会の理念がかかげる「自治会員一人ひとりが、集合住宅において、共同生活者であることを自覚し、思いやりに基づく相互扶助」という文言にもびっくりした。

自分は、そういう自覚をしているだろうか、思いやりとか相互扶助などできるのだろうか、という新鮮な問題意識に気付いた。

引っ越す前の地域でも町内会はあった。市役所からの広報などを回覧板でまわし、当番制でごみ出し場所を掃除し、盆踊りや老人会などのイベントを開催しているのは知っていた。しかし、それらは家事をまかなう妻の仕事であった。わたしには関係がなかった。なぜなら、わたしの生活は仕事を中心にまわっていたからである。自分が住む家と家族のことは気にしても、地域の隣人関係はほとんどなかった。会って軽く会釈する程度であった。隣人と何かを「共用」しているという意識はなかった。

 

(3)マンション暮らしのキーワード;プライバシー、規約中心、金銭決済

ところが、引っ越した直後から仕事を少しづつ減らす状況になった。そうすれば、自宅で過ごすことがおおくなった。時間に余裕もでてきた。そして、引っ越す前にはほとんど見もしなかった団地管理規約や重要事項説明書をあらためて読んだ。

そうしたらプライベートでもなくパブリックでもないコミュニティとは?、「私」でもない「公」でもない「共」とは?、自治会の理念がいう「あたたかい人間的なコミュニティの形成」などとは、どういうことなのだろうか、という問題が気になりだした。

結論からいえば、この問題意識は逆につぎのことを明確に再確認する契機にもなった。

 

①マンション団地の生活環境は、直接的な人間関係を遮断する構造になっている

②住民どうしの相互関係は、団地管理規約をまもることによる間接的で形式的な関係である

③団地管理規約にもとづく生活環境を維持するのに管理費を払って管理会社に委託している

 

 「①プライバシー重視」、「②規約中心」、「③金銭決済」をキーワードするマンション団地において、「相互扶助」とか「協力関係」とか「あたたかい人間関係」など、どうすれば実現できるのだろうか?

そもそも、自治会の理念をどれほどの住民が、「ほんとうにそうだ」と納得しているのだろうか?

 今や家族関係、夫婦関係ですら個人の自由を尊重する時代である。人間関係はまことにむずかしい。ましてやアカの他人との隣人関係においておや。 

 戦後教育において、わたしたちは、「共」精神の教育も訓練も受けてこなかったことをあらためて自覚した。

 

1.2 マンション暮らしの奇妙な落ち着かなさ

(1)共有の共同利用は何かと厄介だ

仲間内で資金を出し合って共有名義でクルーザーや別荘などを購入するケースがある。最初は何事もなく楽しくても、次第に厄介なことが出てくるのだそうだ。共同で運用管理する人間関係の成熟度の度合いが、トラブルの対処と結末に影響するとのこと。そして、やはり無理してでも自分だけの自己所有のほうがいいな、ということで共同所有をやめるという結末になるケースも多い。ここに<私>と<共>の違いが見える。<共>のむずかしさを物語る。

このはなしは、マンションと一戸建にも通じる。

わたしは、A棟の共有施設を各戸所有者たちと持分に応じて共有している。団地共有施設を各棟各戸所有者たちと共有する。

<共有する>といっても、他の所有者とは仲間内でもなく、氏素性も顔も知らないひとがほとんど。生活の場であるマンションの共有施設を、素性の分からない思想信条さまざま人たちと「共用」しなければならない、ということはあらためて考えれば、何だか奇妙に穏やかなならざることだなあと気付く。

団地周辺の市道は、横浜市が管理する<公>施設である。その維持管理は、役所の仕事。そのために市民は、法律を守り、税金を払う。役所が、道路事業者に維持修繕を発注する。

マンションの共有施設を維持管理するために、各棟各戸所有者は、管理費を払う。管理組合の理事会が、マンション管理会社に業務を委託する。<公>と<共>の対比をつぎの組み合わせで示すことができる。その抽象的な社会構造は、まったく相似形である。

・<公>施設の管理   <===> <共>施設の管理

・役所 /施設管理部署 <===> 管理組合/理事会
公務員;賃金労働   <===> 役員;無償役務提供

・法律            <===> 団地管理規約

・市民            <===> 区分所有者

・税金            <===> 管理費

・道路管理事業者    <===> マンション管理専門会社

・行政裁量の公共事業 <===> 資本主義市場経済取引

      

(2)マンションの区分所有者と住民との関係

一般的にマンションにはつぎの三つの人種がいる。

A: 区分所有者であり、住民でない

B: 区分所有者でない、住民である

C: 区分所有者であり、かつ住民である

A: 区分所有者であり、住民でない

投資用マンションの新聞広告をよく目にする。自分はそこで住まないで、賃貸にだして家賃収入を得ようとする投資目的の人が購入する。その人は、自分がそこに住まないけれども、マンション関連の法律が規定する区分所有者である。区分所有者どうしは、会ったこともない、まったく無関係の他人どうし。

しかし、玄関ホールやエレベータなどの共有施設は、見知らぬ他人との共同所有になる。共有施設の資産価値を共同して維持管理する責任を果たすために、団地管理組合の自然設立が法律で強制される。法律の定める区分所有者が、管理組合の組合員。

ところが自分がそこに住まない投資者たる区分所有者の関心事は、安定した家賃収入だけである。だから、共有資産の管理業務は、管理会社に全面的に委託する。総会などの運営もほとんど書面でなされる。それらの管理業務の委託費用を管理経費として払う。

所有者としての「管理責任」は、ビジネスの商品となる。責任の証券化とでもいえる。<私的>資本主義市場原理において、「管理責任」をカネで決済する。つまり、<共同責任>を<私的取引>に移管、委譲することを意味する。管理会社との契約履行に齟齬があった場合は、最終的には<公>の審級機関に処置判断を委ねることになる。そこでも訴訟費用や損害賠償請求金額などのカネが重要事項となる。要は、カネ、金銭、貨幣だけが通用する世界である。

 

B: 区分所有者でない、住民である

いっぽうそのマンションに住む賃貸住民は、エレベータなどの共有施設の管理責任はない。自分の私有物の管理だけの自己責任となる。風呂やトイレなどの施設が故障したときは、貸主である区分所有者に修理等を要求する。

しかし、一戸建てとはちがってマンションという集合住宅に住む住民である。役所の回覧板の配布や住民どうしの連絡等が必要になる。そこで何らかの近隣周辺の自治会とか・町内会に加入する。もちろん、加入しないひともいる。強制力はない。それは本人の自由である。自治会活動への参加も自由である。やりたい人がやればいい。

 

C: 区分所有者であり、かつ住民である

Bのケースは、区分所有者と住民が別人の場合だが、マンションを購入してそこに住むわたしは、区分所有者であり、かつまた住民でもある。そして住民組織である自治会の会員であると同時に区分所有者として管理組合の組合員でもある。CH団地の場合、圧倒的にこのケースに該当する。

 

(3)マンション共有施設管理の「持分責任」を自分はどのように果たせばよいのか?

投資用マンションの所有者は、「賃貸収入だけ」に関心があるので持分管理責任の執行は、必然的に管理会社に委託する。だから団地管理組合と管理会社がほとんど一体化しているのが世間の実情である。

ところが実は、投資用マンションだけではなく住居目的のマンションでも同じようなことになっている。マンション購入のほとんどの区分所有者が、自らの義務・責任は、管理費や修繕積立金を払うだけでおしまい。「自分がそこで住むことだけ」に関心がある人にとっては、持分所有者の管理責任などについては煩わしい。管理組合に丸投げ。その管理組合の理事の仕事は無償、忙しい。管理会社に管理業務を丸投げ。管理会社は、マンション建築販売会社の子会社の場合が多い。積立金などの管理費の横領事件が新聞にでたりする。

大多数は、御身大切、もし何か自分に不都合なことがあったら、そのときに管理組合の役員や管理会社に文句をいえばよい。それで埒があかなければお役所=お上=<公>に訴える。

今あらためて「重要事項説明書」などを読み直してみれば、あれこれの思いが募ってくる。アカの他人といやおうも無く「共有」せざるをえないということ、その共有施設の「持分管理責任」をどう果たすのかということ、などが気になりはじめた。

 

(4)マンションに住む奇妙な気分

マンションの共有施設を管理する責任は、「団地管理組合」である。その法的な人格表現が、「管理者」である。通常は、管理組合の理事長が管理者になり、対外的に「区分所有者の総意」の代表者となる。この「総意」なる言葉がくせものだ。

生活のために必須である共有施設の管理責任、管理組合という組織、管理者に体現される「総意」、これらのことが意味することを、いまさらながら考えれば、とても奇妙に落ち着かない気分になる。マンションに住むということは、本当はやっかいで大変なことだなあ、という気分。

それは、自由な<私>的個人主義社会という現実と集合住宅における共同生活つまり<共>的コミュニティ暮らしの間のギャップというか裂け目を感じる気分である。

端的にいえば、<私>的な自由主義の偏重が<共>の不在を越えていきなり<公>組織である管理組合へのお任せ主義になり、そして金銭決済で片付けてしまう<コミュニティのあり方>に関する問題意識である。

これから何度も記すように①個人主義=自由主義フリー、②規約主義ルール、③金銭主義マネーの現代日本社会で、いかなるコミュニティ形成が可能なのか?

 

1.3 マンション共有施設の管理と活用の現状

(1)マンション共有施設管理の「持分責任」のはたし方

団地管理組合の組合員は「持分責任」をどのように果たしているのだろうか、という問題について個々の区分所有者・組合員のふるまい方は、概念的に次のように分類できるようだ。

  管理組合の役員の人たち 
ⅰ)リーダー、啓蒙家、社会貢献家など自薦または他薦の積極的な役員
ⅱ)輪番制、抽選制など積極性とは関係なく規則に応じて役員になった人

  関与者 ・・・役員ではないが関心をもって理事会を応援する人たち

  権利主張者 ・・・自分にとって不都合なことが発生したときだけ権利を主張する人たち

  無関心者  ・・・・管理費を払うだけで管理組合活動に一切かかわりたくない人たち

  無責任者  ・・・・管理費も払わない完全に利己的な部外者意識の持ち主

 

 「共有施設の管理」という面からみれば、この現状に何か特別な問題もなく運営されている。しかし、意識の面からみれば、「共同で所有する財産の持分を果たしている」というよりも「共有施設を利用しているから管理費をはらっている」という意味がおおきい。

エレベータなど共同利用する施設について、分譲型マンションでは区分所有という「財産権」であり、賃貸マンションでは「利用権」となる。この権利形態と権利責任は、法的にみればおおいにちがう。

「持分責任」の果たし方という問題意識は、区分所有法という法律が区分所有者に求める「管理責任」は、妥当な要請なのだろうか、という疑問に根ざす。区分所有法を、2000人近い住民が住む大型団地に適用するのは、無理があるのではないか、という気持ちである。納得できないのである。 

 

(2)マンション共有施設の管理と活用

具体的な共有施設として、各棟のエントランスと掲示板、およびB棟のフィットネスルーム、A棟のパーティールーム、C棟のマリーナビュールームを考えてみる。

持分責任とは、「管理すること」と「活用すること」の両面から構成すると考えるならば、現状は、管理偏重なような気がする。

「管理すること」の責任は、ボランティアとして役員の方々がご尽力されている。しかし、共有施設を管理しているわけではない。管理会社と管理契約を締結して、管理会社を「管理」しているのが実態である。

いっぽう「活用すること」の責任は、C棟の図書室やミュージックルームなど一部の方々の献身的なボランティア活動や自治会のサークル活動に依存することによって、その「活用責任」を果たしている。

しかし、自治会がかげる「自治会員一人ひとりが、集合住宅において、共同生活者であることを自覚し、思いやりに基づく相互扶助によって、あたたかい人間的なコミュニティの形成」という基本理念の実践として、共用施設を積極的に創造的に活用しようという取り組みは活発とはいえないと思う。

管理規約の共用施設使用細則の一部を引用する。

団地管理規約の共用施設使用細則

使用目的 第4条 2 抜粋

(1)居住者等の親睦、教養の向上等を目的として会合等に使用するとき 

禁止事項 第5条   抜粋

 (1)特定の政治、思想、宗教活動を目的とするとき

 (2)個人または法人の営利を目的とするとき

 (3)以下省略

・・・・・・・・・・・・

各棟のエントランス、B棟のフィットネスルーム、C棟のマリーナビュールームなどの施設は、たしかに閑散として清潔ではある。しかし、集合住宅における住民どうしの共同性・共感性・共鳴性・相互扶助・協力関係を醸成する仕組みはない。安心・安全・静寂・清潔な物的環維持だけの管理思考が突出している。

「老若男女が共同生活する人間的なコミュニティ形成」への参加意識を助成し支援する意匠設計や設備設計の思想性が欠如しているのではないか。2千人近い住民を宿す高層マンション団地の設計思想は、「コミュニティ形成」という視点からみれば貧困すぎるのではないか。

人間関係不在の高級ホテルライクマンション。そういう静かで冷たい高層マンションの雰囲気がもてはやされる時代は、まもなく終わるのじゃないかと思う。建築専門家たちの意見を聞いてみたい。

 

1.4 地域コミュニティ形成に立ちはだかる大きな壁

(1)三つの壁

「相互扶助の精神で話し合い、また協力しあって、地域社会の発展を目指す」という自治会がかかげる理念は、日本国憲法の前文とおなじくまことに崇高である。

しかし、この取り組みは簡単でも単純でもない。ここには人権尊重の自由主義社会、高度文明の合理主義社会、グローバル競争の資本主義社会という大きな壁がある。

1)フリー

「個人の自由、個人の権利尊重」至上の壁

・共同体の束縛を拒否する。プライバシーを尊重する。個人情報保護法が存在する。

・冠婚葬祭の社会性が縮小または家族関係だけへの限定。共同体的人間関係を拒絶する。

   ・他者と共感、共鳴しあう共働作業体験の喪失、多様な人間関係の機会と訓練の不在。

2)ルール

「効率化、標準化、非属人化、規則化、組織化、管理化、合理化」尊重の壁

・分業、役割分担による効率化

人間の能力の一面化、全体性の喪失、生産(仕事)と消費(生活)の分離

自由主義の到達点が管理社会の閉塞状況をもたらす籠の鳥・動物園化

便利さの極限状態が不便利さをもたらす(電気が止まればトイレもできない

・規則、制度、組織による形式的判断に委ねる効率化

問題発生ごとの都度の状況に個別的に対応して調整する手間をおしむ。

属人性を排除して組織や規則や公的機関や機械に依存する「お任せ主義」。

3)マネー

「金銭万能」資本主義の壁

・全身を動かして衣食住の必要を獲得する能力が劣化した、「不耕貪食」。

金がなければ生きていけない、何でも金で始末できる。

金で買えない豊かさを体験できる人間関係と自然環境が少なくなった。

 

(2) 隣人関係を分断するマンション構造の壁

上述した現代社会の壁は、都市型生活スタイルのマンション団地に典型的である。

玄関の鍵ひとつで、私的な占有・専有空間と外部の共用社会空間を遮断できる。ホテルライクなマンションが高級とされる。多様な人間関係と雑多な聖俗が混交した共同生活の楽しみと、それらを豊かに支える施設や空間および汗水たらして共働作業をおこなう機会などは、まことに貧弱である。

効率的な高密度の集合住宅ではあっても、共同生活の「共生原理」を育み、伸ばす思想性は、西洋長屋のマンション設計には見られない。

むしろ個人どうしの個を分断するプライバシー尊重が優先される。そこでは隣人といえども冠婚葬祭の近所付き合いすら遠慮される。「隣の人はなにする人ぞ」の関心は、個人情報保護をたてに拒否される。

 

「心の通い合うコミュニティ」などといっても自らの自由意思により「煩わしい人間関係」として拒絶できる。「それを望むひとだけがどうぞお好きに、わたしはイヤ」ということも個人の自由である。

その個人主義、自由主義のもとで共同生活環境の秩序(安心・安全・静寂・清潔)を維持するためには、共同生活環境の管理規則が必須となる。共用施設や空間を自由に使用できない。管理組合の使用規則にしたがわねばならない。モラルよりもルールである。ルールありてモラル&マナーすたる。

そしてその規則を運営し秩序を維持する日常業務は、民間企業の管理会社に委託される。住民らは、その費用として管理費を払うだけ。自分たちの生活環境の秩序を金で買う。

金をはらい、規約にしたがう個人の自由行動は、専有空間内の家族関係に閉じられる。平常時の生活を営む上で、隣人関係の必要性や大事さの比重はきわめて小さい。日常生活上の「相互扶助、協力しあう」必要性は見あたらない。

 

その日常生活の場に姿がみえる住民とは、専業主婦、子育てのママと幼児、ペットと散歩する高齢者たち、老人夫婦などが主である。小中高大の生徒・学生たちは学校で、仕事中心世代は職場で、それぞれの生活時間のほとんどを過ごす。住民の人間関係の大半は、家族関係にプラスした学校関係もしくは仕事関係である。近代社会生活に特有の職住分離である。

 

管理された安心・安全・静寂・清潔などの生活環境ではあっても、それ以上の生活の豊かさを実感できる雰囲気はない。猥雑さの欠如。静かな閉塞感。生き生きワクワクする自由で創造的活動の抑制。日本社会の縮図と符号する。

2千人近い住民が住む高層マンション団地の設計思想は、集合住宅における共同性・共感性・共鳴性・相互扶助・協力関係を醸成する哲学が、貧困すぎると思う。このような「人間性不在」の高級ホテルライクマンションは、いずれ評判が悪くなるかもしれない。将来においては資産価値がおおいに下落するかもしれない。

今後の資産価値は、管理された安心・安全・静寂・清潔な物的な環境だけでなく、「ほどよい人間関係・絆・自由に生き生きワクワクする環境」を重視する時代に向かうと思うからである。

 

都市型生活環境の特徴は、個人の自由尊重、個人主義の近代文明社会のひとつの現象である。この生活スタイルは、農業を中心とした村社会の村落共同体における江戸時代の人間関係とは、決定的に異なる。

だからといって、昔はよかった/今はわるい、田舎はよい/都会はだめ、などと嘆いているわけではない。個人を束縛する村落共同体からの「人間開放」・「個人の主体性」が、近代化のスローガンであった。日本も明治維新以降、ひたすら脱亜入欧をめざし欧米の生活スタイルを追って近代化路線を突き進んだ。その仕上げが、世界にも冠たる自由あふれる個人尊重の現代日本社会である。人間社会の不可逆的なひとつの歴史的な自己運動として認めざるをえない。

では、どうするか?

 

1.5 マンション団地コミュニティの理想像を求めて

起: たとえば、介護認定申請を本人/家族ができないときは、どうしたらいいか?

承: 「個人情報保護」偏重が、「行政サービス」の過剰負担を求めるのではないか?

転: CH団地の65歳以上の高齢者割合は、約130人/2100人=6%

結: 「互助・共助」の将来モデルとしてのあらたなコミュニティスタイルの理想像を求めて

 

(1)起 ;介護認定申請を本人/家族ができないときは、どうしたらいいか?

数年前に介護保険制度が導入された。65歳以上の高齢者は全員、年間64,700円を基準額として前年所得の8段階に応じた割合の介護保険料が、年金から天引きされる。(例外規定あり)

介護保険料を納めたら、介護が必要な状態になったときに生活支援として「予防給付」または「介護給付」を必要なレベルに応じて受けることができる。

その給付を受けるためには、「認定申請書と添付資料」を「本人または家族」が区役所に提出して、介護が必要なレベルを判定し、認定してもらうことになる。

こんな事態になったときに、本人自らが申請書類を作って、区役所に出向くなどのことは想定できない。家族に頼るしかない。

では、家族が誰もいないときは、どうするのだろうか?

家族がいても遠くに離れて住んでいるときは、どうするのだろうか?

家族がいてもその家族も不自由な生活をしているときはどうするのだろうか?

法律や条例や民生委員制など、たぶんきめこまかく規定されているだろう。

 

(2)承 ;「個人情報保護」偏重が「行政サービス」の過剰負担を求めるのではないか?

上の「介護保険」の例は、高齢者世帯のはなしだが、若い世代の世帯にも夫婦間や親子間の「家庭内暴力」とか「引きこもり」や「登校拒否」などが新聞にでる。家庭内の問題だけでなく、「少旅行に出掛けるのでペットの世話ができない」などの家庭事情もある。玄関の鍵を忘れて困る場合もある。

個人や家族の問題は、表に出すことなく、家庭内で解決対処することが基本になっている。法律が「個人や家族のことには立ち入らない」というよりも、「家族の問題を他人や世間に知られたくない」、「他人を煩わしたくない、他人の世話は受けたくない」という心情のほうが、今の日本社会では自然だからだろう。

自己責任意識、自分のことは自分で始末する、他人に頼らない、自分でがんばるしかないという「自助」原則だけでは、どうしようもなくなって死ぬしかない、という事態に至る事件が頻繁に新聞テレビで報道される。孤族、無縁社会。

それを防ぐ仕組みとして社会的な安全網(セーフティネット)と呼ばれる諸制度を人間は、むかしから工夫してきた。「お上」に頼らず「互助」・「共助」と呼ばれる「結・講・座」などの各種制度や慣習・文化・伝統が共同体にあった。

ところが、個人尊重、高度技術、経済成長、競争社会、国際化などなどの「進歩」にともなって、「互助」・「共助」の社会的基盤が急速に失われている。その代わりを「公助」つまり「官」・「お上」による「行政サービス、住民サービス」に求め、その負担が限りなく重くなり、増税につながる。

その「官」による「公助」とは、法律・規則に基づく執行である。「規約」の制定とその形式的で公正な運用の厚生が、その特徴である。「公」的形式の規約中心主義は、顔の見える地域住民どうしの合意による「互助・共助」の精神性とは著しく違う。

 「個人情報保護法」という法律が、住民どうしの創意と工夫と知恵にもとづく「互助・共助」の壁となっている。それが、役所主導の「公助」偏重の傾向をますます後押ししている。老人福祉予算が、毎年1千兆円の増加!

ガチガチな規約などに基づかなくとも身の回りの生活の安心と安全をもたらしてくれるはずの「互助」・「共助」が機能する地域生活共同体は、時代遅れの幻想なのだろうか、あるいは見果てぬユートピアの理想郷なのだろうか。

 

(3)転; CH団地の65歳以上の高齢者割合は、約130人/2100人=6%

CH団地は、若い世代の世帯が中心。小学校の児童生徒は約80人ぐらいだそうだ。ここには未来の可能性に満ちた子どもたちの歓声が響いている。少子高齢化の老朽団地ではない。また既存の街中にあるマンションとちがって、マンション棟の住民だけから構成される新しい都市型集落である。

この集落が、どのような街に育っていくのか、成長していくのか。時代の転換期における21世紀初頭の大きな可能性に満ちた社会的・歴史的な実験場じゃないかと思う。

子どもたちにとっては、CH地区が数十年後の「ふるさと」である。どのような伝統と歴史を刻む「ふるさと」を創造していくのだろうか。

それまでの住まいから引っ越してきた老人たちにとっては、ここが終の棲家になるのだろうか?

 

(4)結 ;「互助・共助」の将来モデルとしてのCHコミュニティの理想像を求めて
①現代は、「個人情報」を営利目的に悪用するやからが跋扈する資本主義社会である。
   だから、個人情報保護法という法律ができた。

②「個人の自由」尊重重視によって、「社会性の軽視・欠如」の振舞いを抑制する規範がない。
携帯電話やインターネットの匿名性が、「間接型人間関係性」を増長させている。

③お互いの良識に基づく「共」の付き合いよりも、手早く「規則・規約」に解決を求める。
   「私・個」と「公・官」の二階建て社会の中で、「互助・共助」の知恵を失ってきた。

 ④「家庭内」の問題を地域コミュニティで「共有」し、「互助・共助」の取り組みで解決する仕組みがない。

 

2011311日、東日本大震災という未曾有の天災人災が起こった。その復興過程で、物質的な豊かさを追求してきた幸福感のその先に、人間関係=絆の豊かさに価値を求める風潮がでてきた。

その風潮も「災害ユートピア」による連帯時期がすぎ、「エリートパニック」にもとづく「公」的行政機能が復活するにつれ、共的連帯は、それぞれの「私」に解体されていく。

こういう必然的な流れに思想的にあらがいながら、日本社会の現状に小さな穴をあける一灯照隅として、CHコミュニティの理想像、「夢」を描けないか。

自治会員のひとりである自分は、「集合住宅において、共同生活者であることを自覚し、思いやりに基づく相互扶助によって、あたたかい人間的なコミュニティの形成」という自治会の方針に、どのように参加すればいいのだろうか?                                

以上  2.1へ