7.4.3 憲法第12条 基本的人権を保持する国民の努力と責任に関する改正案

 

◆問題 基本的人権を保持する国民の努力と責任についてかんがえる。

 この問題意識は、サヨクといわれるリベラル派が、憲法擁護いってんばりで国家権力にむきあう個人主義思想は、けっきょくウヨクといわれる国家主義思想に回収されてしまう現実への批判と対案である。

基本的人権の保障は、憲法と法律だけでは不十分である。「共生思想」にもとづく家族、学校、地縁、職場やNPO(非営利法人)およびNGO(非政府法人)などの経済的および文化的共同体へ言及する国家論を探求する

 

現行憲法 第12条 自由及び権利の保持義務と公共の福祉

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

 

■憲法第12条の疑問点  

 ①不断の努力とは、どういうことか?

 ②濫用してはならないとは、どういうことか?

 公共の福祉のために利用する責任とは、どういうことか?

 

改正案12条  社会生活の相互扶助  

何人も、社会生活において、他者の基本的人権を侵害する自由と権利を有しない。

国家は、基本的人権を行使する国民の相互扶助を支援する義務を負う。

      

1)「この憲法が国民に保障する」ものを第11条では「基本的人権」とするが、第12条で「自由及び権利」に書き換えている。これには、何か深い理由があるのだろうか?

 →自由、権利、基本的人権は、それぞれ文字の表記が違うのだから、その指示する意味内容=概念がちがうのは当然だろう。言語は、差異の体系なのだから。

なぜ第11条の「基本的人権」の代わりに第12条で「自由及び権利」としたのか、憲法学も法学にも門外漢の素人のわたしには、その理由がわからない。理解できない。

17条は、国家賠償請求権、第40条は、刑事補償請求権をさだめる。それらをふくめて第12条の自由及び権利は、基本的人権にふくまれると理解しておく。

わたしは、基本的人権をつぎのように定義する。

◆自由は、個人に潜在する身心頭の欲求、本能、自律性、内発的自主性

◆権利は、社会生活を営む個人の資格、社会的契約にもとづく主張、相手に義務を要求

◆基本的人権は、何人も生まれながらにして生命の維持、自由、安全、幸福を追求する個人の生理能力の社会的相互承認をいう」

 

2)12条の文章をどう解釈する?

 →この文章の動詞には、努力する、保持する、濫用する、利用する、責任を負うがある。これらの動詞の主語は、国民である。

 この文章を常識的に読めば、憲法から国民への「為すべき」積極的な作為義務と「為してはならない」ことを自制する不作為義務の命令文だと解釈できる。

 「憲法とは国家権力者に対する命令です。国民に対する命令ではありません。」という憲法学者もいるようだが、それは極端というか偏狭な思想だろう。

国民は、社会生活において、自分の基本的人権を、公共の福祉のために利用する責任を負い、濫用してはならない責任を負う。

その責任を負うために、国民は絶え間なく努力をつづけなければならない。この「不断の努力」によって、国民は基本的人権を保持することになる。

 憲法は、国民に基本的人権を保障するが、国民が不断の努力をしなければ基本的人権は「保持」できないと釘をさす。

◎不断の努力→ 人権の保持→ 人権の行使→ 公共の福祉

◎不断の努力をしない→ 人権を保持できない→ 人権の放棄? 人権の抑圧?

わたしは、不断の努力をしているかと自問すれば、そんな意識はないと自答するしかなく、自由と権利を常に公共の福祉のために利用している自覚もない。「公共の福祉」と自分の関係も具体的にイメージできない。

濫用してはならないということならば、社会生活において人様に迷惑をかけない、国民として法律を侵さないという意味で、自分勝手な人権濫用などしていないとおもう。表現の自由があるといっても、感情にまかせて他人を侮辱したり、プライバシーを無視したりすることは、自分の良心がとがめる。

こういう次第であるから、わたしは第12条の意味をすっきりと解釈できない。

 

3)「不断の努力により保持しなければならない」という「不断の努力」をどう理解するか?

→具体的にはイメージできないので思弁的に理解するしかない。第11条の享有と第12条の保持を対比させながら「不断の努力」の意味をかんがえてみよう。

享有:生まれながら→ 生命の維持、自由、安全、幸福の追求 →個人の幸福

保持:不断の努力 → 社会生活における他者との人間関係 →公共の福祉

11条で規定する享有は、生来の内在的属性である。万民に平等の生命の自律性であり、自然の生理能力、本能であるので、意識的な不断の努力とは無関係である。

12条のいう保持は、社会的に承認される国民の資格能力、つまり権利義務に関係すると解釈する。権利―義務関係は、わたしと他者との相互承認である。

わたしの権利を、あなたは承認する義務を負う。あなたの権利を、わたしは承認する義務を負う。

権利と義務の意識は、身体性をこえた高度な理性的判断である。この判断能力を保持するためには、自覚的な努力を要する。幼児や赤ちゃんには、権利と義務の意識などない。

したがって「不断の努力」とは、社会生活における権利と義務の相互承認を理解しあう努力といえる。この相互承認の不断の努力が、個人の身心頭の欲求を、社会的な権利と義務に現実化するという因果である。

憲法第12条が国民にもとめる不断の努力とは、社会生活において基本的人権を濫用しない努力と公共の福祉のために利用する努力である。

社会生活において、自分の権利を主張しなければ、その権利は認められず、他人や社会や国家により無視され、侵害され、抑圧されるということだろう。「どんどん権利を主張せよ」ということなのか?

人間は、自然のままの個人から社会的な個人に成長する。子どもから大人へ、「在る→為す→成る」の論理である。

幸福を追求する個人の本能的な潜在性は、社会生活における不断の努力によってのみ可能性と実現性に転化する。「潜在性→可能性→実現性」という論理である。

この論理には、享有という個人的な身体性から→保持という社会的な理知性へのおおきな飛躍があることに留意しよう。

さらに、人間関係という単なる社会生活から、法律にもとづく権利と義務という国民生活への飛躍がある。

国民生活は、単なる個人ではなくて領土内に限定された国民として、国家権力を共有する政治的共同体の領域であることに留意しよう。

リベラル派や人権擁護の弁護士などは、不断の努力を「私」個人と「公」国家の関係性で説明する傾向がつよい。

~人権は、歴史的に見れば人類の普遍的な価値ではない。人類が過去幾多の試練の中から勝ち取り、拡大し続けてきたものだ。国家権力を持つものに対して人権を主張し続けなければ、人権など消えてしまう。日々の生活の中で主張し続け、実践し続けることによってやっと維持できるものなのだ。

国民は、国家にむかって「どんどん権利を主張せよ」ということのようだ。

だが憲法第12条の規定は、社会{個人の集合}と国家{国民の集合}の関係性が明確ではない。

 

4)「国民は、基本的人権を濫用してはならない」という表現もわかりにくい。基本的人権を制限する意図を、もっとわかりやすい文章に改正したほうがいいのではないか?

「他人の人権を侵害してはいけません」といえばわかりやすい。社会生活の大前提は、自分とはちがう他者の存在を承認することであり、その他者もわたしとおなじく「生命の維持、自由、安全、幸福」を追求する個人であると了解することである。

その基本的人権の享有は万民平等である。「天は人の上に人をつくらず。人の下に人を作らず」。

親子、夫婦、男女、年齢、先生生徒、上司部下、社長社員、職業、貧富、血筋、人種、性格、能力、性癖、健康、障害、容姿などなどいっさいの属性に関係なく、生きている人間である限り、何人も基本的人権を侵害されてはならない。

濫用の常識的な意味は、人権行使がもたらす結果の影響判断であり、結果的に他者の基本的人権を無視し、侵害し、抑圧することである。人権の正当な使用からの逸脱であり、違法であり、正義を判断する倫理性の欠如であり、公共の福祉の相互承認への拒否である。

だから「濫用してはならない」という不作為義務を、つぎのように明文化したほうが、すっきりするとかんがえる。

◆「何人も、社会生活において、他者の基本的人権を侵害する自由と権利を有しない。

 

5)「国民は、常に公共の福祉のために基本的人権を利用する責任を負ふ」へという規定の「公共の福祉」をどう理解する?

→この言葉は、13条、22条、29条にもでてくる。法律家にとっては、12条・13条の「公共の福祉」と22条・29条の「公共の福祉」の意味は違うそうだ。

素人のわたしにとっては、「公共の福祉」の意味は理解しにくい。わたしは、自分の人生の幸福追求において、「常に公共の福祉のために基本的人権を利用する」責任を自覚したことはない。公共の福祉など日常生活では意識しない。

立法・行政・司法の国家権力に従事する公務員ならば、「常に公共の福祉」を意識する責任と義務があるだろうが、わたしは公務員ではない。

publicは、peopleと同じ語源をもつ人々を意味する。公共publicは、私privateを要素とする集合概念である。

わたしは、公共を「公」と「共」の合成概念とする。公共概念を、「公」と「共」に分離解体する。

その理由は、社会{個人の集合}と国家{国民の集合}の関係性を明確にするためである。

公=国家{国民集合}は、領土を共有する政治的共同体である。地縁が基本。

共=社会{個人集合}は、人間関係を共有する生活的共生体である。血縁が基本。

社会{個人集合}には、国境という概念はない。ローカルからグローバルにひろがる。

日本列島には、日本国が形成される以前から縄文人社会が存在し、数千年にわたり豊かな生活的共生体=血縁的共同体を営んできた。

国家なくとも人間は生きていける。ここがポイントである。

 

国家{国民集合)は、歴史的に形成された国家権力を前提として、空間的には国境内に限定された社会{個人集合}であり、機能的には政治制度を共有する社会{個人集合}であり、歴史的には王道と覇道の権力闘争を常とする社会{個人集合}である。

政治とは、①統治者・為政者が民にほどこす施策であり、②国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動であり、③対立する利害関係の調整である。

政治は、国家という特殊な社会に限定されて適用される権能である。政治は、国民の権利と義務を規定する権力機構である。国家論なき政治論は、無意味というか非現実的である。

公共を「公」と「共」に分離する意義は、社会{個人}と国家{国民)の関係性を、「私―共―公―天」の枠組みで明確にすることにある。

個人は、生物的個人、社会的個人、国民的個人の次元の属性で定義される。

生物的個人は、自然の掟の下で生きる。→天道思想(人生毛作の往還思想

社会的個人は、人として人類社会規範の下で生きる。→共生思想

国民的個人は、国民として国家権力の下で生きる。→国家思想

この関係性を、つぎのように図式化する。

 

:自然→←   生物的個人    自律的生命体 生(少→壮→老)死

      ↓↑   幸福の追求 基本的人権 ←保障←憲法

       ↓↑   相互扶助   

人類社会→← 社会的個人    生活的共生体 家族、学校、地域、職場

    ↓↑  安全・安心な秩序 ←基本的人権の制約 ←憲法

日本領土 ↓↑  権利と義務 

日本社会→← 国民的個人  政治的共同体 権力:立法・行政・司法憲法

 

憲法第12条の「公共の福祉」概念は、わたしにとっては意味不明である。

社会{個人}の規範は、生活的共生体における相互扶助にもとづく依存関係である。

国家{国民)の規範は、政治的共同体における法律にもとづく権利義務関係である。

この思想にもとづいて憲法第12条をつぎのように改正することを提案する。

◆国家は、基本的人権を行使する国民の相互扶助を支援する義務を負う。

 

改正のポイントは、国民にたいする国家の義務を憲法で規定すること、「公共の福祉」を削除して「相互扶助」を明記することである。

 この改正案は、第11条の改正案の「社会的相互承認」をひきついで「相互扶助」を重要な概念として、「公共の福祉」をおきかえる。

憲法第11条 改正案

この憲法は、基本的人権を抑圧してきた国家体制の歴史を反省し、国家がすべての国民の基本的人権を尊重することを憲法によって保障する。

基本的人権とは、何人も生まれながらにして生命の維持、自由、安全、幸福を追求する個人の生理能力の社会的相互承認をいう。

 

6)自民党の憲法改正案をどうおもう?   

自由民主党の憲法改正案12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければな   らない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 

 憲法を改正する理由をつぎのように説明する。

人権規定は、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることが必要。西欧の天賦人権説に基づいて規定されている現行憲法の規定は改める必要がある。
「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにする。

 

自由民主党の憲法改正草案は、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」におきかえる。

憲派は、この改正案を「基本的人権よりも国家権力を優先」するものだと、もうれつに反発する。

自民党の憲法改正草案は、「個人―社会―国家―世界」の関係性を議論するよい機会だとわたしは歓迎する。

社会{個人の集合}と国家{国民の集合}の関係性を明確にするために、護憲派の人権尊重・個人主義と改憲派の国権尊重・国家主義を両端とする思想性を、第13条の改正案においてかんがえる。

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