3.2 身心頭と四つの関係性のバランス失調   改2015年7月30日 

1)隠居老人にとって「公」と「私」の関係の問題意識

2)「私」が生きる「縁」の四つの関係性

3)四つの関係性のバランス失調

4)直接性の喪失、間接性の肥大

5)身心頭の全的人格性の復興

 

20157月、日本の暑い夏、集団的自衛権を行使できるように、自衛隊の活動領域をひろげる法制整備が、暑い政治テーマになっている。

「国民の平和と安全なくらしを守る政治家の責任」というフレーズを安倍首相や菅官房長官が、なんどもなんども発するすがたをテレビでみるたびに、「私」自分と「公」国家の関係を、かんがえないわけにはいかない。

わたしは、安倍さんや菅さんを通して、自衛隊に、自分の平和と安全なくらしを守ってもらっているのだろうか?

無為にすごす隠居老人の「私」的個人生活感覚と国家防衛政策の「公」的立法過程とは、とてつもなく隔たっており、「主権在民」という意識にむすびつかない。

国防の現状と軍事衝突以外の緊密な国際関係の現状と将来をかんがえたとき、安保法制のテーマは、自衛隊員ではないわたしにとって、直接的な緊急マターとして感じることができない。

「国家存立の危機」、「国民の平和と安全なくらしを守る」などというおどろおどろした言葉だけが舞い上がっているようである。

安保法制のテーマは、米中関係のパワー変化にともなう日米同盟関係のあり方が、本質論だとおもう。しかし、そのような本質的な問題が、ていねいに説明されているとはおもえない。説明というよりも、「軽いことば」を連発しまくるごまかしのような気がする。

安倍首相が強調する「責任ある政治」とは、本質論は有識者、専門家にまかせる。国民への「ていねいな説明」は、幼児的なたとえばなしでごまかす。反対する者も「そのうち忘れる」とうそぶくことのようだ。

 

1)隠居老人にとって「公」と「私」の関係の問題意識

◆国防の現実

北方領土は、ロシアに占領されている。竹島は、韓国に占領されている。尖閣諸島には、日本人も上陸できない。沖縄の一部地主は、アメリカ軍基地として強制的に接収されている。

お互いに領有権を主張し合う境界領域における海底、海中、海水面を「入会地」として、共同で活用するという「戦争抑止力」のための大きな方針と取り組みは見えない。

 

◆軍事力を膨張させ続ける中国が、尖閣諸島に上陸し占領したら、日本国の存立危機なのだろうか?

中国は、何を目的にして日本を攻撃し、日本に侵略しようとしているのだろうか?

中国は、日本を植民地にして、冊封体制の朝貢を求めたいのだろうか?

米軍は、日本を守るために中国と正面から戦うだろうか?

 

◆戦争の抑止力

中国が、日本に戦争状態を引き起こそうとするならば、わたしは中国の人たちにむかって、「戦争などやめましょうや」と叫びたい。戦争に反対する日本人と中国人とその他の国の人たちと「共に」連帯して、さまざまな友好平和交流活動に協力したい。

先行きみじかい隠居老人としては、「自分が生きるために侵略者を殺す」国家思想に加担するよりも、「道義なき侵略者に殺されても仕方ない」と覚悟したい。

少/学業期の青少年にむかっては、「国家権力は、安易に信用しないほうがよい」と伝えたい。

もし、「世のため、国のため」という大義をかかげる職業軍人と武力崇拝の政治家を志向する若者あらば、国家権力の行使者として、徹底的に歴史の勉強と倫理道徳を体得する豊富な生活体験をすべし、「修己治人」の鍛練修業の人格陶冶こそを要求したい。

 

 道義のためには国が亡んでもかまわないか?

海音寺潮五郎という鹿児島出身の作家が、西郷隆盛伝を書いている。そこで「西郷は、もっとも進歩的な理想主義者であり、永久革命家だった」と述べ、西郷隆盛につぎのように発言させる。

「わしは欧米諸国は野蛮国じゃと思っている。国が富み、兵が強く、汽車が陸を走り、汽船が海を渡り、電信が一瞬にして数百里の外に信を伝えようと、何がそれが文明国なものか。彼らは道ならずして人の国を奪うではないか。

真の文明国とは、外には道義をもって立ち、内には道義の行われる国を言うのだ。国は道義をもって立ち、道義のためには国が亡んでもかまわないというほどの強い勇気を持つべきものだ。でなければ、決して存立もできないものである」

西郷は、明治維新政府におけるただひとりの陸軍大将であった。稀代の軍事戦略家でもあった。その西郷どんが、「道義」を強調する。

わたしは、この「道義」を「則天去私、敬天愛人」の「天」=お天道様と解釈する

 

日本国憲法の掟よりも、日米安保条約にもとづくアメリカ軍の要請に従う安倍政権

「世界の警察官」としてのアメリカのパワーが、相対的によわくなった。中露は、帝国主義的膨張政策をとって、国際関係を緊張させる。

核爆弾保有国は、ミサイル兵器を手ばなさない。紛争解決をめざす武力衝突は、世界各地でたえまない。お互いの「正義」を突き合わせるが、そこに「道義」はみえない。

安倍政権の支持者たちは、「国際的な積極的平和主義」の名のもとで、「中国の軍事力の拡大」=「日本の存立危機」=「戦争勃発の抑止力」増強が必要という「ことばの操り」論理で、自衛隊の活動領域を拡張する法律整備=日米安保同盟の強化=自衛隊による米軍の肩代わり=軍事力国防予算の拡大をめざす。

安倍首相の補佐官のひとりは、「安保法制で考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない」と語る。「憲法まもって、国がほろぶ」という人もいる。

日本国憲法の基準よりも、日米安保条約にもとづくアメリカ軍の要請を上位においているようにおもえる。高度に熟練した大人がかんがえる「道義」の議論は、いっさいない。

 (==>「アメリカ従属の戦後レジームからの脱却、美しい日本をとりもどせ、自主憲法改正」をとなえる安倍首相がいだく国家思想と根本的に矛盾しているのではないか?)

 

◆「国民の生命と財産をまもる」という美辞麗句 ~「ことば」が解けて流れて浮遊する

戦争は、つねに「平和、正義、悪者をやつける、国民の生命と財産をまもる」という「美辞麗句」の大義の旗をかかげる。「国のために命をささげる」軍人思想を美化する。

自衛=自己防衛=自分の命をまもる、自衛のためなら何でも許される。我こそに正当防衛の正義あり、個別的であろうが、集団的であろうが、周辺地域であろうが、地球の裏側であろうが、核兵器装備までも、「必要最小限度」の自衛力として、「憲法の範囲内である」という解釈は、いくらでも可能となる。

「ことば」あそび。「ことば」がおどる。国家間の問題と個人間の問題とをおなじ「ことば」で語る安倍首相のたとえばなしは、「ていねいで、わかりやすい」説明なのか。

自分のため、明日の生活のため、家族のため、国家存続のため、そのためならばその欲望を抑制する原理は、「言葉」をあやつるテクニックとして美辞麗句をまきちらし、いくらでもごまかしがきく。

だから、使用済み燃料の放射能処分もままならぬというのに、原子力発電を止められない。

借金1千兆円の赤字たれながしながらも、オリンピックというナショナリズム高揚=国家主義的な憲法改正へ誘導するための祭典に、2兆円ちかい経費を見込む。

また、ノーベル賞を最大限にほめそやす科学技術の研究開発も聖域である。かぎりなく人間にちかづく人造ロボット技術の進展。逆に、人間のロボット化症候群。

我が子をもちたい、親になりたい、人並の幸福を実現したい欲望のためには、なりふり構わぬ生殖医療技術。

そして、きわめつきは、死生観なき延命医療技術と看護介護介助による、廃人同様の寝たきり老人の増加=老人思想なき超高齢化社会の社会保障制度。

これらは全部、「命を大事にしましょう、平和と安全、個人の幸福追求」という必要性のためならば何しても許される、という「道義なき」戦後民主主義の公:国家的現象ではないか。

(==>生命の欲望を自制する道義心の問題 ~人生論と国家論)

 

◆私=個人の生き方の精神病理症状

隠居老人にとって、もっとも身近な国家的現象は、毎年1兆円の増加が見込まれる老人福祉=医療と介護の経費増である。

{個人}**{環境}というシステム図式で考えれば、世の中は、個人にとって環境であり、その環境条件症状=国家的現象は、個人の精神性と無関係ではない。

次世代に1千兆円をこえる借金をのこすというモラルハザードな公=国家的精神病理症状は、私=現代日本人の精神性=思想性と無関係であるはずがない。

「公」の精神病理症状をながめる自分は、「私」自分自身にむかっても「根本的な精神病理症状」を感じるのである。その感じは、私=個人の生き方の精神病理症状として、自分の生き方の「不自然さ」である。

つまり、生命/「身・心・頭」のはたらきが、不自然である、と痛感するのである。

自分をふくめて現代日本人の精神状況が、生命/「身・心・頭」の欲望追求という視点において、自然なバランスを逸して、統合失調症を呈しているとおもうのである。

統合失調とは、生物である人間の「生→成長→安定→老化→死」という人生プロセスが、不自然でいびつに作為的すぎる状態であるという意味である。

(==>少壮老/人生三毛作、往還思想、老人思想)

 

{自分の身心頭}**{世界=私共公/天}

以上の問題意識は、「私」の生き方と「公」のあり方の関係性である。個人の意思決定=人生論と国家の意思決定=国家論との関係性である。

わが人生論は、少壮老の人生三毛作=往還思想である。これは、自分勝手な思想でよかろう。だが、問題は、国家論である。

「公」と「私」の関係性こそが、社会思想の骨格である。「公」の国家的現象は、自由で多様な差異の「私」という国民の集団的意思決定の結果である。

この関係性のテーマは、とてつもなく巨大である。

隠居老人として、このテーマにむかう「了解自己」=安心立命は、「私→共←公」という「共生思想」の探究である。私:個人主義と公:国家主義の中間にいちづける共:「共人主義」=則天去私、敬天愛人の思想探究である。

 

その「共生思想」のイメージは、多様な差異が分裂=対立協調しながら共存できる社会システムである。たとえば、平和主義者(=外務省)と軍国主義者(=防衛省)が、役割分担しながら共存できる社会思想である。

どんなレベルの対立や紛争も、武力だけでは解決できない。言葉や論理だけでも解決できない。唯我独尊、我の主張が全部ただしい、他の主張は全部おかしい、という「唯一」思想こそが、対立や紛争を拡大させる。

一神教的または予定調和の合理的な「唯一」思想とはことなる分裂「共生思想」を探求したい。人の世は、善悪清濁も不条理もあわせのむ「天網恢恢」なるカオスを基本とするのだから。

この世のできごとには、無限の組合せの潜在性がある。個人および国家は、それぞれの時間と空間と役割におうじて歴史をきざみ、可能性を蓄積していく。そして、自分の制御できない外部環境の偶然性に適応しながら、可能性を実現性に転化させる。

個人も国家も、{潜在性→可能性→実現性}という軌跡を生きる。

この思想をかたる枠組みが、{自分の身心頭}**{世界=私共公/天}という「内*縁*外」のシステム図式である。

「縁」を介在して、「私」は、他者である「共」と「公」と関係しあいながら人生をすごす。こういう世界像を、私共公/天の枠組みでえがく「カオス*ソフト*ハード多重社会システム」とする。

以下では、「私」自分の一生をとりまくを、4つの関係性から考察し、私=個人の生き方の精神病理症状の根本原因をかんがえる。

 

2)「私」が生きる「縁」の四つの関係性

 人は、生きる幸せをどこにもとめるか?

それは、命が動かす身心頭の統合、平衡、安心立命である。幸せは、命が命じる身心頭それぞれの欲求を満足させることにある。「了解自己」の納得感である。

人は、真善美、安全、安心、快適を求め、偽悪醜、危険、苦痛、不快を避ける欲求をもつ。その欲求は、自分と外界との関係性で実現したり抑圧されたりする。

人がこの世で生きるとき、身心頭が外界にむかう欲求の関係性=「縁」は、重なり合いながらつぎの4つの次元に写像できる。

4つの関係性 

社会環境・・・・・・・・・・・人間関係、私*共*公、権利と義務、制度、マネーなど

人工物環境・・・・・・・・衣食住と通信交通などの生活基盤、道具、機械、施設など

記号情報環境・・・・・・ニュース、記録、歴史、知識、文化、芸術、学問、思想など

自然環境・・・・・・・・・・・・植物、動物、地下、土地、海川、山林、空、地球、自然現象、天道 

 

3)四つの関係性のバランス失調

現代の日本社会の特徴をひとことでいえば、「過ぎたるは及ばざるが如し」である。今の世には、過剰と欠乏の両極端がある。「もっともっと」の欲望が肥大化し、「ほどほど」の中庸精神を忘却している。思想的には、カオスな「私」個人主義とハードな「公」国家主義の両極端である。

わたし自身の生き方も、つぎのように身心頭のバランスを失調している。

・人と人が、直接つながる人格的「我―汝」関係性の社会的な訓練不足

・直接的な心身の表現を伴わない技術的な通信手段による記号関係の増大

・物質にかかわる科学技術の進歩により人工物に囲まれた都市型生活

・人が自然環境と直接ふれあう原体験の関係性の喪失

医薬と人工的運動に過剰に依存し、衣食住をまかなう自然な身体運動が欠乏している。

自然科学と工学への過剰な知性偏重、人間と社会に向かう人文社会科学の知性が劣化。

仮想の虚構世界に過剰に耽溺し、直接的な体験がもたらす自然な感動が貧困である。

 

◆このバランス失調の四つの関係性は、つぎのように表現できる。

社会的関係性を生きる共存性の満足感が欠乏。

自然的関係性を原体験する満足感が欠乏。

人工的な道具的関係性が過剰。

記号的情報関係性が過剰。

 

4)直接性の喪失、間接性の肥大

人間の禍福にかかわる四つの外部世界=環境との関係性は、一定不変ではない。歴史的に変化してきた。

その変化の原動力は、科学的研究および工学技術の知性=目的→手段選択の合理性である。その合理性の過剰がもたらす現代社会の病理症状は、4つの関係性の視点から、つぎのようにいいかえることができる。

①社会的関係性

・個人主義、自由主義、基本的人権尊重、自由競争、ミーイズム

・自己防衛本能と他者責任追及、不寛容 

近隣関係のもめごと解決能力の劣化、見て見ぬふり、相互扶助の知恵の喪失

・わずらわしい人間関係よりもペット愛玩動物への擬人的な愛情

行政機構の肥大化、おまかせ民主主義

②自然との関係性

  ・衣食住のための自然環境を利用する知恵、畏怖、敬虔、感謝の原体験不足

  ・耕作放棄地、空家、荒廃山林、遊休地、勤勉さの喪失 

・環境破壊、防災および自然と共生する知恵の喪失

③道具的関係性

・電化製品、機械、コンクリート構造物の洪水、身の回りの道具制作能力の劣化  

・生活環境の動物園化、人工物依存、エネルギー多消費、ゴミの増大

  ・工学的な管理社会とルール至上主義、生活基盤のブラックボックス化

④記号的関係性

・直接的人間関係の訓練不足、人間関係の間接化、虚構化、ゲーム化、軽薄さ 

・マスコミの権力化、表層を煽る世論調査、民主主義の形骸化、少数意見の先鋭化

・消化能力を超えたインターネットによる情報の洪水、あさましい表現の氾濫

・直接的体験と間接的な知識との圧倒的な非対称

・思考停止の一般論、美辞麗句、ことばの戯れ

 

直接性の喪失、間接性の肥大

科学技術がもたらした人類の生活環境の変化を、幸福感の面からいえば、つぎの2点が決定的な変化だと考える。

直接的な人間関係の喪失-→記号情報環境の隆盛=インターネット

直接的な人間関係が、記号情報環境において、間接的な人間関係に変化した。

記号情報環境がもたらす人間関係は、浮遊感、フワフワ感、仮想化、根なし草である。

◆直接的な自然環境の喪失-→人工物環境の席巻=都市型生活、高層マンション 

直接的な自然環境が、科学技術の発達によって、人工物環境に変化した。

人工物環境が要請する合理的なハードシステム思考が、閉塞感、抑圧感をもたらす。

 

5)身心頭の全的人格性の復興  

では、四つの関係性の不自然さを、どのように「変革」して、「身・心・頭」の自然なバランス統合を鍛えるのか?

そのポイントは、直接的な人間関係体験と直接的な自然環境体験の再生である。

この考察は、下記を参照。

◆往還思想

 3.3 幸福感をもたらす四つの関係性とその疎外状況

1)現代社会を生きる合理性(頭)と倫理性(心)のギャップと閉塞感

2)幸福をめざす往還思想と共生思想の展開予定 

3)幸福感をもたらす四つの関係性

4)「心の底から満足」できない現代社会の根本を問う

5)顔の見える人間関係の劣化、人間関係の間接化 

6)西欧近代思想の理念的な人間像が幸福感の障壁

7)多様な幸福感の人間の差異、多様性―→中庸の倫理

8)国家が「公共」の秩序機能を独占する間接的な人間関係―→「公共」の解体 

9)まとめ ~直接的な人間関係体験と直接的な自然環境体験の再生へ

以上  3.1へ  3.3へ