第7稿「癌と共に~癌患者の治療雑感~」 201418

1.      SP療法3クールを終えて

2.      高齢者夫婦の実情と今後の生計について

3.      ソーシャルワーカーの役割、仕事について

4.      北大病院のボランティアについて

5.      日本人の武士道~立ち振る舞い~

6.      アルゼンチン人の日本に対する想い

7.      国連と日本国

 

1.      SP療法3クールを終えて

1)3クール目治療スケジュール

⑰⑱⑲⑳㉑㉒㉓/㉔㉕㉖㉗㉘㉙㉚/㉛①②③④⑤⑥/⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬/⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳

○○○○○○○ ○○○○○○○ ○○○○○○○ ××××××× ×××××××

         入

         退

⑰~⑥:TS=1朝夕各50㎎(1100㎎)服用  ×:休薬 

入:25日入院  退:29日退院

 2)治療経過

  入院の準備をして午前8時に大雪で視界50mの国道36号線を家内の運転で北大病院に向かった。雪だけでなく、世間はクリスマス、師走、更に五・十・日(ゴトビは商売人が忙しい日)、給料日と重なり、渋滞に巻き込まれ、いつもの倍の時間を要したが、午前10時の入院に、ぎりぎり間に合った。障害者手帳を利用して病院の正面玄関の駐車場を利用出来た事も幸いした。入院までの自宅療養のアンケートを事務担当者に聞かれ、下痢を数回経験したと答えると、面談者が看護師に代わり、より詳細に事情聴取された。回腸側の上行結腸からストーマを造設しているので、食事との兼ね合いで泥状便は日常的で特別な事はないと説明すると、納得してくれ、その後、病棟のナースセンターに直行した。病室はホテル並みの個室が準備されていた。病衣に着替え、渡辺看護師に血圧測定、採血され、身長・体重を測定した。採血結果について原田担当医より、腎機能低下、白血球低値の為、数日待って再度判定すると言う事を聞かされ、どうすべきか相談されたので、原田担当医と以下の様に取り決めた。

27日に再度採血し、治療開始を判断し、治療続行可能ならば282930日でハイドレーションし、同時に経口的に毎日3ℓの水を飲み、治療を早期に終了させ30日に退院する。

・シスプラチンの点滴靜注は、3クール目ではスキップし、年明けの123日より4クール目に入る。

といった話し合いとなり、年末年始を自宅で過ごしても、特にシスプラチンをスキップしても、全身状態は特に問題ないと言う事で、後者を選択する事に決めた。原田医師との約束で自宅では毎日水2リットル飲む事を指示された。シスプラチンの影響を排除する目的での飲用であるが、途中2リットル飲用が困難であれば腎機能の更なる機能低下が考えられるので、電話連絡するように指示された。そうなるとTS-1の服用も減量しなければならないと言う事であった。順調にいけば次回の入院は、16日に小松主治医との外来診療時に決める事になるが、128日が予定される。

 その間、16日に採血、小松医師の外来診断、16日にCTでの画像診断、23日に採血、小松主治医の外来診断を受ける事になる。更に6日には消化器外科外来でストーマの診断も受ける事になった。以上の経緯でSP療法3クール目は変則な形で終了する事になった。

 

2.高齢者夫婦の実情と今後の生計について

 一昨年(平成23年)末から昨年(平成24年)初冬に福岡県筑紫野市に住む兄夫婦宅に3回出掛けた。高齢化に伴い今迄の生活を維持していく事が難しい年齢になってきた様である。連日新聞やテレビで認知症の老老介護、高齢者間の殺人事件、高齢者の山での遭難、交通事故死等、高齢化社会の実態が報道されている。義姉が入院し、兄一人の生活になると町内会長や民生委員、ケアマネージャー等が何かと心配し、世話を焼く様である。その結果、弟である私が立ち会って今後の生活をどうするかといったミーティングに同席させられるのである。義姉が元通り元気になって掃除、洗濯、炊事をする事は、パーキンソン病や癌の再発を考えると、兄の負担が倍加することは間違いないと思われる。兄は腰痛を抱え、歩行は不自由であるが、車での移動は何とかなる様で、日常の買い物等は今の所どうにかこなしている様である。しかしお互いが年々歳を取っていき、今より良くなる事は考えられないので根本的な解決策を考えておく必要がありそうである。私も再発癌を抱えた身であり、今後簡単には福岡に行ける状態ではないので、身近に身寄りのない二人にとっては、地方自治体や民間の施設を活用して生計を維持してもらうしかない様に思われる。筑紫野市役所の介護保険課にケースワーカーと出向いて、パーキンソン病で入院・通院していた島本医院の診断書や、二日市済生会病院での治療内容を説明し、義姉の要支援区分の変更を交渉した。その後、自宅にポータブルトイレ・ベッドのリース、生活に必要な室内、庭に手摺を設置し、玄関までの植込みの移動、舗装もした。生活を維持出来なくなった次のステップでは医療ソーシャルワーカーやケアマネージャーの力を借りて何とか道を開いてあげたいと思っている。

 

3.ソーシャルワーカーの役割、仕事について

KKR札幌医療センターや北大病院の1階フロアーに医療相談支援センターを標榜するプレートが掲げられていた。聞くと医療相談室と地域連携室を統合した部署という事である。健康で病院に縁のない人にとっては感知しない部署と言える。

私は福岡の兄夫婦を支援する中で、ケアマネージャーやらソーシャルワーカーやヘルパーと言う人達と会っているので、大雑把には彼女達の業務を理解していた。本年人工肛門を造設した後、看護師、装具メーカーの社員等と行政手続・装具の使用方法についてのミーティングを行った際、同席していた女性が、院内に所属する地域連携室の医療ソーシャルワーカーと言う職員であった。この時の縁がセカンドオピニオン制度を利用する際の相談のきっかけとなった。社会福祉士(ソーシャルワーカーと言ってもいいのではと思うが?)の仕事は、行政、高齢者福祉、保健・医療、障害者福祉、児童・家庭福祉、福祉サービス、民間企業と、行政から民間企業まで幅広い業務内容であり、社会福祉業務に携わる人の国家資格である。最近は、医療に対する相談が患者やその家族から寄せられ、それに応えてKKR医療センターや北大病院等の地域の基幹病院では医療相談支援センター(医療相談室・地域連携室)を設けた。ここでは、これまで行って来た社会資源の利用や医療負担相談等の一般的な医療相談に加えて、新たに癌や肝疾患について相談を受けている。地域連携室職員の対象は、地域の病院や診療所等の医療施設の医師・看護師及び職員が所属するKKR札幌医療センターや北大病院内の医師・看護師である。地域の医師からの患者の紹介や検査の予約、現在治療中・入院中の病院から他院への受診、入院患者の退院や転院の調整及び登録医や地域医療センターとしての研修の管理等を業務としている。ただ、ソーシャルワーカーは勤務するための資格はないそうであるが、社会福祉士であることが条件になっている様である。医療ソーシャルワーカーの仕事は、更に具体的に述べると、保健医療分野におけるソーシャルワーカーであり、主に病院において疾病を有する患者等が、地域や家庭において自立した生活を送る事が出来る様、社会福祉の立場から患者や家族の抱える心理的・社会的な問題の解決の為、調整援助し、社会復帰の促進を図る専門職である。例えば、病気で入院する事によって収入がなくなり、入院費を払う事が出来ない、又、治療に対しての不安、家事や育児の心配など、様々な問題を持つ患者に対して相談に乗り、問題解決するよう援助する仕事である。主に社会福祉サービスを利用して問題解決するが、退院時のサポートが特に重要で、転院の必要な患者や社会復帰に向けてのリハビリテーションが必要な患者にはそれぞれの状況に合った施設を紹介する。種々高齢者へ高度医療を提供する病院は、福祉行政との関わりが必要となる事が多く、そこで病院内のソーシャルワーカーが患者家族等と相談し、地域の行政窓口や包括支援センターケアマネージャー等の各福祉の窓口に、継続医療の必要な患者に対しては療養型医療施設やかかりつけ医につなげている。基幹病院は、これらの仕事領域の拡大に対応して、医療ソーシャルワーカー(MSW:メディカルソーシャルワーカー)を1~3名増員し、看護師1名を配置し業務に当たらせている。一方、診療所や小規模の病院・医院では、人材不足もさることながら、現状では医療保険上の診療報酬扱いにならないため人件費の補償がなく、ソーシャルワーカーを配置できないのが実情である。

 

主な業務内容を簡単にまとめると

  経済問題の解決

  療養中の心理的、社会的問題の解決・調整援助

  受診、受領援助

  退院(社会復帰)援助

  地域活動

となる。

 2)ソーシャルワーカーの仕事の実態

   高齢や病気、あるいは障害等の為に日常生活が不自由になり、福祉施設に入ったり,又は通ったりする事がある、こうした人達をサポートする仕事に従事している人を総称してソーシャルワーカー又は社会福祉士という。ソーシャルワークとは、精神的・肉体的なハンディキャップ等により、社会の中で孤立し、日常生活を送るのが困難な人達に対し、本人がそれぞれの課題を解決し、より良い生活が実現出来る様に専門知識と技術を持った社会福祉専門職が援助していく活動の事である。

(1)        直接的援助技術

  アセスメント

問題の状況確認、情報の収集、課題分析、援助の方法の選択と計画を含む。利用者と共に行う事に意義がある。

  ケースワーク

ソーシャルワークの基本的技法で生活問題を抱えている人を個別に援助して問題の解決を援助する技術

  グループワーク

グループの持っている力を活用してグループメンバーの持っている問題を解決しようとする技術

(2)        間接的援助技術

    ①コミュニティワーク

     地域社会レベルで発生する生活問題や福祉的課題の解決とそれを実現するための共同体制作りを実践する技法

    ②ソーシャル・プランニング

     社会福祉サービスの計画を立案する技術

  ソーシャルワーク・リサーチ

地域のニーズを把握するために行う調査

  ソーシャルアクション

利用者の立場に立って利用者のニーズに即した社会福祉を含む生活関連の社会制度の創設や福祉資源の拡充、運営の改善等を目指す組織活動。

  アドミニストレーション

社会福祉行政や社会福祉施設の運営方法の事。事業計画や予算を編成したり、事業や予算を執行したり、職員を管理したりする方法。

 

現在、こうした施設で最もソーシャルワーカーの多いのは老人ホームとなっている。例えば寝たきりの病弱な老人を対象とする特別養護老人ホームでは、食事、着替え、入浴、排泄、全てにわたって本人の手足の代わりとなる介助が必要になり、これらに多くの時間があてられている。障害者施設でも、それぞれの障害に応じて必要な介護、介助の種類は違ってくる。障害者達が必要な時、手を貸し、同時に自分で出来る事は少しでも自分で出来るようにと、自立のための技能訓練、作業訓練を行う。その他、児童自立支援も大切な仕事である。

・民間の施設と公立の施設があり、公立の場合は公務員となる。介護を必要とする人達が入所している施設であるから交代制勤務や夜勤もある。

・施設への入所者の障害の程度や内容が多様になってきており、より高度な知識や技術が必要になってきている。

3)問題点

  現在、医療ソーシャルワーカーは量的・質的問題を抱えている。

  量的問題点

  人材不足があり、現在医療ソーシャルワーカーは全国に1万一千人おり、100床に0.5人、診療所一件当たり0人という割合である。現状では医療保険上の診療報酬扱いにならないため人件費の補償がなく、意識の高い医療機関にしか雇用がない。以上の理由で、全国各地に医療ソーシャルワーカーを配置出来ないのである。

  質的疑問点

養成環境が整っていないため、かなりのばらつきが出ているという事である。

 

4.北大病院のボランティアについて

入院、外来診療日に診療券を受付機に入れようとして、少しでももたもたするとピンクっぽい制服を着た高齢者が声を掛けてきた。「どうしました?お手伝いしましょうか?」と言う。聞くとボランティア活動だそうである。仕事内容は、

 ・診療申込書の代筆及び書き方説明

 ・院内の案内

 ・身体の不自由な方に対する必要時の移動の介助

 ・自動再来受付機や精算機の操作案内

であり、日当も支給されない、交通費も支給されない全くの無償ボランティアである。

 

5.日本人の武士道~立ち振る舞い~

  新渡戸稲造は「武士道」を世界に広め、第一次世界大戦では国際連盟事務次長として国際社会で名をはせた人物である。そして以下に述べる日本人二人の国際舞台での光と影を考えてみた。

1)    二人の日本人

いずれも三年前の春頃の新聞報道とテレビニュースを見て、感動し落胆?した事例である。

  村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチ

私はかなりの読書家であるが、村上氏の小説はノルウェーの森を読んだのみで、それほど彼の小説には関心は無かった。村上春樹氏は、文学賞「エルサレム賞」の受賞の為、イスラエルに単身乗り込み、肝の据わった実に勇気あるスピーチを行った。彼は常に弱い者の側に立つ事を分かり易く表現し、正義がどちら側にあるかは別にして、「高い壁」とそれにぶつかって割れる「卵」に例えて、いつも彼は「卵」の側につくと言い切った。つまり、爆弾犯や戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁であり、卵は被害を受ける人々である事を暗示し、イスラエルやパレスチナ武装組織を非難したのである。昨今、これほど自分の考えを堂々と述べた日本人がいただろうか。明治以降の日本人の精神的拠り所は、日本の精神的土壌に発現した現象をその根本から探り当て、普遍的心理を導こうとする武士道にあったと思っている。戦前戦後、国際社会のリーダーに「武士道」は広く読まれ、理解されていたと思うが、彼は日本人として凛としたメッセージを世界中に発信してくれたのである。

  中川財務/金融大臣の記者会見

村上氏の受賞の翌日、中川財務/金融大臣は、ローマで開催されたG7の記者会見の席で、眠そうな表情で、呂律もまわらず、しどろもどろで、なかなか言葉も発せられず、ちぐはぐなやりとりの様子を全世界に映像で流されてしまった。その醜態を見た多くの日本人は唖然とさせられたと思う。質問した記者を見付けられず苛立ち、白川日銀総裁の前にあるコップを横から手を伸ばして奪い取る不作法な映像も見るに堪えない一幕であった。仮にこの失態が酒や薬によるものであるとしても、一国を代表する政治家としてはあってはならない事である。中川氏は北海道選出の政治家で故中川一郎氏の息子であり、北海道在住の私として敢えて彼の弁護をするとすれば、何故、誰が見ても異常な状態にあった中川氏を同行の外務官僚や白川日銀総裁が体調不良で退席させるとか、あるいは質問を白川総裁が引き受けるとか臨機応変の判断が出来なかったのであろうか。どうも不作為の作為としか思えない対応に終始していた様にしか思えなかった。日本人として、とても残念な光景であった。企業人の私でさえ同行の上司や担当役員が会社の利益にならない話題になり始めたら横から口を挟んでいたのだから。

どうも高級官僚という頭のいい人種は、人に、ましてや国を代表して会議に出ている大臣に恥をかかせてはいけないと言う気持ちに欠けているように思われるし、それとも上司の話には横やりを入れてはいけないと暗黙のルールでもあるというのだろうか。更に帰国後の大臣辞任までの国会でのやり取りも、質問する側、答弁する側のいずれも聞くに堪えないものであった。国を代表する人は、今回の事件を他山に石以て玉を攻むべしとし、もっとまじめに勉強して「武士道」が何故国際社会のリーダーに理解されたのかを学び、領土、日米安保、拉致問題、国際貢献の在り方等、こと国益に関わる重要案件に対しては主権者たる国民に失望を与える事無く、目の前のなすべき事を真摯な態度で取り組んでもらいたいものである。

 

6.アルゼンチン人の日本に対する想い

平成2086日の朝日新聞に、「アルゼンチン帆船リベルタ号来航」の写真・記事が掲載され、「アルゼンチンから友情のメッセージを届けにきました」という興味ある一文が目にとまった。又、北京オリンピックでのアルゼンチンサッカーチームの2連覇も引き金となり、是非とも、サッカーとタンゴだけではない、私の知っているアルゼンチンを多くの人に紹介しようと1年間月2回地元の朝日新聞のミニコミ紙に掲載した。

 

 若い頃からブエノス在住の友人にそのうち必ず渡亜すると約束していたが、現役時代は遠過ぎて踏ん切りがつかず、ある時、彼が奥さんを伴い、残雪の札幌に訪ねて来た事がきっかけとなり、その年の11月、家内と成田、ヒューストン経由でブエノスアイレスに勇躍飛び立った。アルゼンチンの国土は、日本の7.3倍の広さで、人口は僅か3,700万人、人種構成は、イタリア系が35.5%とスペイン系の28.5%より多い共和国である。ヨーロッパ系の民族(仏、独、等)を加えると97%、先住民や白人と先住民の混血が3%なので今や欧米では見ることの無い白人社会といえる。日系人は二世、三世および在留邦人全体

3万人おり、アルゼンチン人は、日系人の勤勉さや誠実さをとても尊敬している。

アルゼンチン人が親日家になった経緯については、私なりに5つの事例で紹介したいと思う。

1)歴史の観点―日露戦争と聖徳太子制定の憲法十七条―

亜国を最も理解し易い事例の一つとして、日露戦争時の日本海大海戦について紹介する。当時の日本陸軍は、ソ連との開戦は不利と考えおり、海軍は、亜国がイタリアで建造中の新鋭巡洋艦2隻を買い付けるために、同盟国のイギリスに仲介してもらい、直ちに戦争準備に入った。19031230日に巡洋艦2隻をアルゼンチン海軍から購入し、翌年2月に「日進」及び「春日」と命名し、日本海軍に組み入れた。                                                 

帆船「リベルタ号」は、日亜修好通商条約の110周年を記念する日本訪問であった。親日の大きな理由としては、日本では、604年に聖徳太子の「十七条の憲法」が定められ、国が治められていた事や、当時アジアで憲法をもつ唯一の国であった事、道徳によって国民の生活が平和に保たれていた事を評価しての事であった。日露戦争の大勝利についても、戦力の差だけではなく、人間の質の差をあげているくらいである。日露両国民の精神は十世紀も十五世紀もかけて培われたのであり、その結果として人口4,500万人の日本が1億3,500万人のロシアを打ち破ったというのである。さらに亜国が日本に深い理解を示していた事実は、14年前に初めて明らかにされたことであるが、「日進」に亜国のガルシア大佐が観戦武官として戦いの様子を観察し、勉強するために乗っていたというのである。この乗船は中立の立場をとるという約束で、国際法で認められていた。しかし、砲術の専門家だったガルシア大佐は、倒れた砲術長に代わって、砲撃の指揮をしてしまった。国際法に違反してまで、「日進」の砲撃を指揮したのは、砲撃しないと自分が乗っている船が撃沈されるという理由もあったかと思われるが、日本とロシアの戦いは、どう考えても「日本に正義がある」と、ガルシア大佐が確信していたという。ガルシア大佐の孫のホラシオ氏は、「祖父は日本を知り、この戦争の意味を知っていたからこそ、信念を持って協力に踏み切りました。」と言っている。
当時、日本はガルシア大佐に対して公に御礼をする事は国際法違反の理由から出来なかったので、後日、密かに明治天皇より御礼の品と感謝の言葉が届けられており、それは百年経った今でも亜国で大切に保管されている。当時の亜国の新聞「ナシオン」の記事に日露戦争に勝利した理由を日本国と日本人全体の質の高さが勝利の源であったと評している。

2)ピアノの返還

心温まるエピソードとして…。日本海海戦で大活躍をした東郷元帥率いる連合艦隊の主力艦隊に属していた、巡洋艦「春日」の士官室に置かれていたピアノの事である。春日は海戦史上に残る有名な「T字型戦法」で、一時は先頭から二番目に位置していた為、バルチック艦隊の猛烈な砲撃にさらされ、大きな被害を受けた。そうした中でもピアノは、榴弾砲の砲弾が至近距離で炸裂したにもかかわらず、奇跡的に無事であった。購入した2隻の巡洋艦は、引き渡される際には必要な調度品は全部揃っており、春日の士官室に置かれたピアノもその調度品の一つに数えられていた。後日、日本海軍は、日露戦争終了後にこのピアノを亜国まで返還に行ったのである。このピアノは現在も水辺の別荘地であるティグレの海軍博物館に陳列されており、日本人観光客を熱い気持ちにさせている。このような歴史的背景が亜国を親日国としている訳である。

3)海戦国日本への援助

  亜国は、第二次世界大戦時に連合国の一員だったが、日本への宣戦布告を躊躇っていた。米国に対する思惑から、終戦の前になって漸く宣戦布告に踏み切ったという親日感情のなせる事実もあった。さらに戦後の食糧難時代には、大量の小麦等を日本に援助してくれた。勿論、亜国は白人系の国であるので国民一人一人の感情には有色人種に対する差別感は多少あると思われるが、私も経験し実感した事であるが、日本人に対しては白人と同じような意識をもって接してくれている。彼等には中国人、韓国人、北朝鮮人の区別はつかない様であるが、日本人とわかれば、途端ににこやかになってくれる。これは100年を越す日本人移民の誠実さと勤勉性によるものと思うし、かつ彼等の亜国社会への貢献等もあって、亜国人への信用が絶大であるということである。

4)日本名の通り

 亜国の街路名は、概ね英雄、将軍の名前やラテンアメリカの国名、都市名、亜国の州名、州の都市名および記念する月日が付けられている。大勢の日本人の住むブエノスには以前ハポン通りがあり、現在ではTokio(東京)、Osaka(大阪)通りと変わっている。通りと言っても僅か1ブロック(100m)程度の小さな道で、標識も門の家の壁に貼り付けただけのもので、意識して探さないと、つい見過ごしてしまう。とは言え、地球の裏側に、他の東洋の地名は皆無にもかかわらず、東京や大阪が通りとして命名されていることは何とも誇らしく、嬉しいものである。

5)      ブエノスを日本の地下鉄が走る

 地下鉄はメトロとかサブウェイと言うが、ブエノスの地下鉄はスブテと呼ばれ、現在5路線(A~E線)あり、A線は1913年に既に開通した。当時、東京にも地下鉄の計画があり、日本からブエノスアイレスに視察団が派遣され、それから14年後にA線をモデルとして銀座線(1927年)が完成した。さらに面白いのはB線の地下鉄は、1995年に丸の内線の旧車両を買い取って運行している。その車両には、漢字で「乗務員室」、「禁煙」の日本語表示がそのまま残されている。さらに1998年には名古屋市営地下鉄東山線250形車両の黄電と呼ばれていた旧型車両を買い入れC線、D線で運行している。しかし、日本で見られる広告等は一切無く、車内の雰囲気は全く違うものの、日本の地下鉄の旧車両がここ亜国で何の手も加えられないままで使われているのである。なんとおおらかな国なのであろう。国外で、乗り慣れた日本製の地下鉄に揺られている不思議さと、それにも増して、この国に対する親しみが更に自然に湧き上がってくる。人の気持ちはそういうものなのだろう。ちなみに乗車料金は全線一律で130円~40円くらいである。

 

7.国連と日本国

1)国連加盟国である事の意義はあるのか

以前、ジュネーブのWHOを訪問した時、戦後70年も経った今でも国連憲章には日本は連合国の敵国とされている事を聞かされた。国連への分担金も米国に次いで2番目に負担しているのに、WHOに派遣されている日本人は30名程度であり、常任理事国5ケ国の母国語とアラビア語が公用語になっており、日本語は蚊帳の外に置かれている。この事がベースになって、現状のままでやみくもに国連に貢献する事がそれほど重要で有るのか疑問を持ち、以下のように考えてみた。

第二次世界大戦終結間近の1945626日にサンフランシスコにて国連憲章(以下、憲章)に連合国が署名して、国際連合(以下、国連)という国際機関が設けられた。憲章は、国連の憲法として英・ロ・中・米が作ったもので、仏を加えた5ヶ国の戦後の優位性を保障し制定されたものといえる。国連は戦後処理機関としての役割もあったはずであるが、常任理事国5カ国は、自国の利益を優先し、核実験を競い合い、戦争・紛争の当事者となり、公然と武器輸出を行い、海外領土も維持し続けている。常任理事国は一時代の戦争における単なる戦勝国の代表国に過ぎないと思うが、戦後70数年が過ぎ、国際社会も大きく様変わりしている今日、未だに自国の利益を守るだけの拒否権を温存していることは何とも理解し難い。

国連の役割は、平和と安全の維持、各国間の友好関係の促進、経済上・社会上・文化上・人道上の問題について国際協力を達成することにあるとしている。国連は、192カ国の加盟国が出資して創り上げた一種の理想国家と思うが、しかし、その実行者である事務総長の権限は、各地の戦争・紛争や人権問題にも常任理事国の干渉・身勝手な国益誘導によって無力な立場に置かれている。これまでも事務総長は分担金の少ない国から選ばれている感があり、考えるに権限を行使できないのはやむを得ないと思っている。

日本は、戦後12年目に国連に加盟し、その後も奇跡の経済発展を遂げ、発展途上国への援助において先進国6か国中で最大の援助国となった。特に中国への円借款、無償資金協力、技術協力等、今日の中国経済発展の基礎を作ったと言える。にもかかわらず日本は戦後70数年を経た現在も憲章53条,107条の敵国条例に翻弄され続けている。特に中・ロは、この条例を自国の国益そのものと考え、対日本との領土問題には無関心を装い、好き勝手に振舞っているのが実情である。憲章上は、常任理事国である中・ロは、この時代にあっても、日本に落ち度があることをでっち上げるだけで、国連決議を必要とせずに敵国条例の下に、日本へ攻撃出来るという権限を有しているのである。

2)常任理事国になる事への未練

中国の国連への分担金は2013年時でやっと日本の半分程度であり、ロシアに至っては10位にも入っていない。日本バッシングを続けている韓国は事務総長を送り込んでいるが、日本の四分の一程度しか分担していないのである。他の常任理事国英国、仏国ですら日本の半分程度の分担金である。常任理事国への道を閉ざされている現状で、ルールに従った分担金であるとは言え、国益につながらないばかりか、湾岸戦争やイラク、アフガニスタンの戦争にも戦費を支払ったり、無理な法解釈で自衛隊を現地に派遣したりすることが、国益に叶っているというのであろうか。外交に活用するでもなく、国連内で発言力が増す訳でもなく、ただただ、お人好しにも度が過ぎると言いたい。

小泉政権時にG4(日本,インド,ドイツ、ブラジル)と協調し、安保理常任理事国の拡大と理事国への加入を主張し、積極的に常任理事国入りを目指したが、期待していたアフリカ連合との協同案作成が出来ず、常任理事国に選出されなかった。この時、日本の常任理事国入りを阻止するため中国政府は、人民を扇動し、現地の日本企業を襲撃させたこと等、今でも忘れる事は出来ない。このような状況を認識していながら、なお、日本政府は常任理事国入りを目指しているようだが、先ずは憲章の敵国条例を削除させることが先決と思う。反面、日本は憲法上不戦の国であり、かつ自衛隊は軍隊に有らずとしており、法的には国連へ加盟する資格を有していないと思うが、国連加盟国に止まらざるを得ないのであれば、独自の国際貢献のあり方を考えてもいいのではないか。例えば、自衛隊を他国の戦争や紛争へ派兵することを止め、今後は人道的見地から戦争被災者、自然災害国への援助、国を選ぶ事の出来ない子供達に夢を与えられるような援助にシフトした国際貢献を考えるべきである。日本は、米、アイスランド、ドバイの経済破綻の影響を受け、産業活動の停滞もあって税収減を余儀なくされ、政治の混乱や経済的に逼迫した状況下にもかかわらず、未だ米に次いで2億7,610万ドルを分担し、さらに国際援助も再考することなく続けている。

3)国連からの国内へ

結論を言うならば最早、国連は日本にとっては有益な機関とは言い難く、今後は、国連至上主義から一歩退いて、分担金の拠出も常任理事国5か国を見習ってほどほどの額で済ませる事を考えるべきだと思う。先ずは国内の産業を活性化し雇用を促進するなど、国内の立て直しを最優先すべきである。次世代が希望を持てる社会を創ることが最も重要な課題と私は考える。皆さんはどう思われるだろうか?

以上   No.6  No.8  はじめにへ