23稿 「癌と共に~ささやかで満ち足りた生活~」 2014923

目 次

1.   wPTX療法2コース3投目終了後の考察

2.  癌患者の気持ちと現実

3.崖上のわが家のアラカルト

1)日常生活

2)食生活

4.家内への感謝~海外旅行~

 

1wPTX療法2コース3投目終了後の考察

 94日、3投目のパクリタキセル点滴を実施するのに自宅を7:40出発、北大に9:05着。採血室には既に100数十名の患者が採血を済ませ、私は130番目の採血順であった。9:15に採血は終わり、10:00の外来診察で主治医の小松医師にヘモグロビン値が6.4Lg/dまで下がり、輸血を薦められた。輸血の際に起こりうる副作用の説明を受け、承諾書にサインした。我が身内の癌もパクリタキセルの効果に対抗しようと必死になっており、ヘモグロビン値を下げてしまうのであろう。白血球/好中球数は4900/1303と基準値を満たしていた。小松医師の指示で輸血する際の事前検査(私の血液と輸血との適合性、血液型の確認等)する為にNsに採血してもらい、輸血の為の注射口を右手肘下に留置した。血液外来治療センターに出向き11:45よりパクリタキセルの副作用防止の予防薬として、アレルギー予防・吐き気止めにデカドロン13.2㎎+ファモチジン20㎎+クロールトルメリン10㎎+グラニセトロンバック3㎎を30分点滴靜注し、引き続き12:15より13:15までパクリタキセルを点滴靜注した。何の問題も無く終了し、13:30より15:30まで消化器内科外来治療室で、右手肘下の注射口より生食を注入し血管内に流れる事を確認し、RhA型の血液240mを最初はゆっくりと点滴し、数分毎に体温・血圧・脈拍を測定し、アレルギーショックや発疹、その他の副作用発現の無い事を確認した上で毎分80滴の速度で2時間かけて輸血(点滴靜注)した。輸血中に家内が本日の支払いを済ませ時間短縮してくれたので、16:30には帰宅出来た。長い一日であった。これでwPTX療法の2コース3投目が終わり、1週間の休薬に入り、918日の3コース1投目まで自宅療養となる。自宅での2週間は、庭掃除や溜まった手紙や写真の処分、陶芸作品の整理、ブログの原稿書き、知人宅訪問、「フォーラムがんと生きる」を聴講…、知人の見舞い、友人との細やかな宴等、そして何よりも美味しい食事の連続で、とても楽しい14日間であった。若干の副作用はあったが、戸井Dr,花摘Nsのケアもあり、十分休養にもなった。パクリタキセルの抗癌効果については、X線やCTで画像確認しないでもイレウス管が取れて経口的に食事が取れている事から必要ないとの小松医師の意見であった。患者にとって費用も掛かり単に安心の為だけであれば無駄な事だなと得心した。要は食事が出来る期間が長ければ長いほど私にとってはハッピーである。主治医はパクリタキセルの効果がある限りは使い続け、無くなれば新たに胃癌の適応追加となったオキサリプラチン(エルプラット)や近々承認予定の分子標的薬のラムチブマブにつなげる事を考えている。数年後の生存には疑問もあるが…それはそれで叶うなら楽しい事ではある。

2.癌患者の気持ちと現実

 既報に、癌患者の90%が病院の管理下で死んでいる事、それに対する家族の看病の在り方、そして昨今の日本人の心の変化に疑問を感じた事を少しだけ書いた。その後も気になり、患者は医師とのIC(インフォームド・コンセント)をどう受け止め、どの程度理解し、それでも不安を払拭出来ない理由を最近の朝日新聞の記事の6人のケースを材料にして、記事内容をリライトし私見を書き加えた。1)~4)のケースは家で逝きたいが家族への遠慮・気遣い、家族と過ごしたい、夫を自宅で最期まで面倒見たい、主婦・母親の役目を全う出来ない葛藤・先行きの不明な状況下で、家族の理解、社会支援を活用して自宅で過ごしたケースである。自宅で逝く事は確かに簡単な事ではないが、在宅療養支援制度を活用し、家族の理解、受け入れる気持ちがあれば癌患者の最後の希望を叶えられるのではないかと思える。5)のケースは自分や家族の治療がどのようなレベルなのか、診断された病名はどんなものか、同病の他の患者に対する薬の効果やどのような副作用があるのか、医師や自分自身の治療から病状を知るばかりではなく、広く情報を集め不安を解消したいというケースである。

1)  製薬会社定年退職の横浜市の田原松雄さん(72歳)のケース(朝日の記事をリライト)

平成245月、横浜周辺の大学病院で腹部に癌を発見されたものの、原発癌が特定出来ないくらい広がっており、摘出は出来なかった。それから5か月程変わりない生活であったが、平成2511月、腰が激しく痛み、癌が悪化し、入院中20回の放射線治療を受けた。医師に「もう治療は難しいので自宅に帰るか、転院するか、家族に相談を」と宣告された。田原さんは自宅に戻るのを諦めていた。その理由は、7年前に妻サツエさん(70歳)は脳梗塞で倒れ、手に麻痺が残りサツエさんには点滴交換の作業は難しく、自宅に戻れば迷惑をかけると思っていたからである。妻が「家に帰ろう」「お父さんは家に居るだけでいいから」と言ってくれた。妻は自宅から2時間かけて病院に通い、見舞いの合間に点滴交換の練習をしていたのである。その事を初めて知った田原さんは妻に「病気はもう治らないかもしれない。少しでも家で過ごしたい」、今は横浜市の瀬谷区の自宅で過ごし、訪問看護ステーションの看護師、訪問診療医のサポートを受けながら、落ち着いた生活をしている。入院中、病院の地域連携室に教えてもらい、要介護3の認定を受け、買い物や食事の支度はヘルパーに頼んでいる。点滴交換は訪問看護師がしてくれているが、妻は四六時中ベッド脇に寄り添い夜中のトイレも支えてくれる。一カ月前、訪問診療医に勧められ、言葉を書き取ってもらい家族宛に手紙を書いた。「朝、お母さんと一緒にもう一回、もう一度歩きたい」「今更だけど妻の事を愛しています」妻は、はにかみ両手で顔を隠した。

この記事でも分かる様に田原さん自身は自宅で過ごしたかったのである。多くの患者も同じ気持であるが、それぞれの事情が自宅療養を阻んでいるのである。

この事例は私の経過ととても近似している事例であり、違うのは私の方が、病院スタッフに恵まれており、家内は健康で、即、賛同してもらえた事である。

2)千葉県松戸市の渋川桂子さん(86歳)のケース

 200810月に間質性肺炎で入院。その後も何度も呼吸困難に陥り救急車を呼んだ。今年1月にも救急搬送され命は取り留めたが、医師に「家に帰るのは無理かな、他の病院を紹介します」と転院を薦められた。「治らない病気なら、病院より家で逝きたい」と日頃言っていた事を夫の淑夫さんが気に留めてくれており、2月中旬には家に帰れた。今は月45回あおぞら診療所の医師が来てくれ、退院当初はかなり厳しい状態だったが、何とか症状は改善した。要介護4で掃除はヘルパーに頼むが、自分で出来る事も増えてきた。すき焼きを作って夫と向かい合わせに鍋をつつき、長男夫婦や孫と外食も出来る様になった。「こんなに生きられるなんてね」と言ってにっこり笑った。渋川さんの自宅で逝きたいという望みをかなえてくれた夫、病院に入院していたら恐らく今の幸せは無かっただろう。

このケースでも医療の限界を見た様な気がする。90%の癌患者が病院死している現状を考えさせられる。

3)兵庫県西宮市の西村早苗さん(72歳)のケース

 2005年早苗さんは、59歳時に直腸癌が見つかり3度の手術の末、人工肛門となる。夫の進一さん(74歳)は、旅行会社を経営していたが51歳の時に脳出血で倒れ右半身に麻痺が残り、54歳の時に阪神大震災で家は半壊し、リハビリ病院に入院中、再出血し車いすが手放せなくなった。自宅再建後から22年に亘り自宅での早苗さんの過酷な介護が始まり、苛立ちは同居する二人の息子にも向き、「あんたらなんかおらん方がよっぽど楽や」「出て行け」と言ってしまった。その後、息子聡さん(44歳)は、聡さんなりに休日は父親を風呂に入れる等手伝っていたが「甘えていた部分あった」と反省して会社を後進に任せ、いつでも駆けつけられる様に市内に家を借りた。夫は元来几帳面な性格でリモコンの置き方、服を着る順序にもこだわりを持っていた。計4回の脳出血、脳梗塞も起こした後遺症もあるのか、こだわりは強くなった。老健施設や、その後利用した施設でも迷惑がられ早苗さんはその都度謝り続けてきた。今は要介護4。週1の訪問リハビリと週3のデイサービスを利用し、ショートステイは月に計9泊程のパターンに夫も馴染んできている。家では早苗さんが付き添い介護しているが70歳を超えた身での限界を感じ、特別養護老人ホーム等の見学もしたが、入院中の老健施設で、夫のおしりは良く汚れていた。「介護を受ける人が気持ち良く生活し、時間がかかっても、残った能力を生かせるケアを望むのは家族の欲でしょうか」今入所させて後悔したくない、葛藤の上、本年8月中旬高校野球を観ていた夫に「家がいいねんな」夫はうなずいた。「もうちょっとお母ちゃんが優しかったらいいけどな」と早苗さんが続けると夫はハッハと笑った。秋には夫をショートステイに預けて介護仲間と沖縄旅行を計画している。「年から年中、大変を背負って、けなげになんて生きてられへんからね」今日一日を乗り切ろう。23年目。先の事は考えない。

癌患者の早苗さんが夫の介護をし、息子も会社を他人に任せて家族が協力出来たまれなケースである。

4)2005年、熊本市内の理科の非常勤講師堀田めぐみさん(54歳)のケース

 日頃より階段登り、バトミントンで激しい息切れを感じ、数年前より貧血症状もあり鉄剤を服用していた。近医で検診を受け、著しく赤血球が減少している事から、熊本市民病院の血液・腫瘍内科に検査入院を薦められ、急性リンパ性白血病と告知された。抗癌剤治療には半年の入院期間が必要で、その間の学齢期の4人の子供達の面倒や、病名を子供達、両親にどう伝えるべきか等混乱した。治療は6クールの化療で完全完解したが、更に治療は継続する必要があり、退院後の副作用の倦怠感、発熱、光や音の刺激も辛く、テレビは付けられず、ブラインドを締め切って部屋を薄暗くする生活になった。髪も抜け始め、手足や舌のしびれもあった。娘は家族の弁当を作り、夫は仕事をしながら家事をこなし毎日見舞いにも来てくれ、ベッドサイドで疲れて寝入っている事もあった。市内に住む両親も見舞いに来て家事を手伝ってくれた。母親として役割を果たせていない。家族に迷惑をかけている。たまらない気持ちになった。家に帰れる日を夢見て、ただ時間が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。「そんな日が来るのだろうか?」「重い感染症にかかったら、生きていられないかもしれない」そんな不安に駆られる事もあった。200511月抗癌剤治療は予定通り進み、退院する事が出来た。鐘が鳴り響くような喜び…。しかし、現実はそうではなかった。

この後の事は不明であるが、一時的には平穏な日々であったと思われる。一時的な平穏が患者にとっては自分を知る、覚悟するという時間として何より大切であったと思っている。

4)大学院卒の男性、現役大学教授のケース

120094月、東京都の男性(37歳)のケース

 多発性硬化症で日本医科大学病院に入院。眩暈が酷くて歩けず、ステロイドの点滴を数日続け、入院後10日が過ぎた頃右側頭部をバットで打たれ続けているかの様な激しい痛みがあった。ステロイドの副作用で、眼圧が急激に上昇する急性緑内障が原因であると主治医の坂巻雅典氏より聞かされた。この病気は再発と症状のでない寛解を繰り返し、根治薬は無く、治療は再発を抑える方法が中心である。20124月、フィンゴリモド塩酸塩(イムセラ)を11錠飲み始めた。免疫細胞の一種リンパ球を減らし再発を防ぐ薬であるが、男性の場合、リンパ球値が下がり過ぎた。1日おきの服用に変えたが値はほぼゼロになってしまい、感染症にかかる危険性が高まる。別の患者からの情報で、イムセラを週1錠に減らす方法を患者向け講演会で聞いた事を坂巻氏に提案し採用してもらった。この様に治療法に決定打が無いのである。これをきっかけに多発性硬化症はどんな病気かを知ろうと男性は大学院時代に海外から日本に留学していた友人らに連絡をとり多発性硬化症の治療法について、「海外の新薬の動きや判明した副作用がもっと知りたい」と海外のサイトを探す様になった。その中で難病患者が集まるソーシャル・ネットワーキング・サービス(Patients Like Me私のような患者たち=PLM)に,2012年から男性が参加し、情報を集めるようになって2年半近くになった。「ネットの普及で患者同士がつながり、積極的に治療に関わる時代になった。その輪を広げたい」とPLMの様な新たな交流サービスの設立を考えている。

2)聖路加国際大学の看護情報学、中山和弘教授のケース

 家族が癌と診断され、主治医が抗癌剤治療を薦めた。「つらい思いをするのでは」と家族。教授は国立がんセンターのサイトで、その抗癌剤に一定の効果があるというエビデンスを確認した。それでも迷った。「他の人はどうだったのだろう」。同じ薬を使った患者や家族の体験談をネットで読み、胸のつかえが下りた。信頼のおける情報「先進国では国立医学図書館があり、市民向けに分かり易く解説した総合情報サイトを運営しているが日本にはまだない」インターネットの情報の受け止め方は利用者の自己責任。「健康情報を理解し、質の良し悪しを見分け、活用する力も不可欠」と中山教授はネットで医療情報を探す際の注意点を挙げる。情報の根拠となる論文や引用元の文献が明示されているかも確かめたい。一つの情報だけを鵜呑みにせずに別のサイトや文献などで裏をとるのも大事だ。医療情報は日々変わる。情報の更新日もチェックしよう。

中山氏は、確かに医師から説明はあり、何となく理解出来た様な気はするが、同様の疾患を持つ他の患者の情報も参考にして、予後の結果も知り安心して家族に治療を受けさせたかったのである。医師はマニュアル通りの説明ではなく患者とまっすぐ向き合って理解出来ているかどうか確認しながら、更に患者の想いを聞き出すくらいの根気強さも必要と思われる。患者が自分自身の癌を知る一番の近道は国立がんセンターの相談支援センターにアクセスすれば、癌に関する質問や相談に答えてくれる。癌の診断や治療についても、もっと知りたい時、不安でたまらない時一緒に考え、情報も探してくれるそうなので、しかも無料と言う事で是非活用してもらいたい。冊子も沢山出しており、内容も平易に書かれており、とても理解しやすいので是非取り寄せて読んで欲しい。知識があれば主治医とのICにしり込みする事も無く、疑問点や不安な事も冷静に素直に聞けるのではないかと思う。そこで更に不安になる様であれば同病の患者との情報交換もいいのではないだろうか。とにかく前向きに自分自身の癌を知り、心の不安を取り除く事である。

5)在宅診療を推進する国の政策

 2025年には団塊の世代も75歳以上になる事を踏まえ、病院から在宅へ、お金のかかる施設介護から在宅への患者を支援すべく、医師が自宅に来てくれる訪問診療に力を入れる「在宅療養支援診療所」を2006年に制度化し、厚生労働省によると2012年現在全国に23,758ヶ所あり、24時間対応している。訪問看護を提供する「訪問看護ステーション」の事業所は平成20142月現在全国に8,691ヶ所ある。介護保険による利用者が35万人、末期癌や難病など医療保険による利用者が10万人いる。ただ、在宅医や訪問看護師を探すのに苦労する地域もあり、担い手は十分ではない。国も在宅の裾野を広げ様としているが、未だ発展途上段階である。しかし、高齢化は急速に進み、我が家もそうであるが、介護をする方もされる方も65歳以上という老々介護が同居家族の半分となり、家族の介護力が先細りする中、家で暮らし続ける事が出来るのかといった現実的な問題も抱えている。コンビニ「ローソン」も介護を必要とする高齢者を支援すべく店内に常駐するケアマネジャーが、デイサービスや有料老人ホームを紹介し、介護生活の相談にものり、店内に高齢者の為のサロンスペースを設け、介護に関する講習会を開く事も検討している。在宅治療を願い、家庭の事情が足枷になって、家から逝きたいと願う多くの患者達の細やかな願いが、国のバックアップで叶う様になった事は朗報である。まさに私は今、その恩恵に浴していると言える。

 

3.  崖上のわが家のアラカルト

 東側の10m以上はある崖上に我が家はある。崖下の道路を挟んだ崖上には「よつば乳業」の研究所がある。夏場は、鬱蒼とした木々に埋もれて建屋は見えない。わが家は里山の一角にある静かな住まいでレストランやコーヒー店を開業しても流行りそうな立地条件に在る。ただ、崖面の植生が熊笹の浸食で私の思う景色が損なわれてきたので、手入れをしたいが、無理のきかない体で今の所、手の打ち様が無く残念である。

胃癌摘出後、妙に草木花に興味を持つ様になり、家内には内緒でどんどん植えた。庭を植物で飾りたてたかったのである。その成果をこの目で見られるかどうかも分からないのに…である。深層心理的には明日の事も分からない身の上、何かしたかったのか、今になって思うと単にこの世に対する未練からくる衝動であったのかも知れない。

崖トップには、数年後に家族が果実を笑顔で収穫する姿を思い描きながら、サクランボの木、木苺、ブドウの苗木(キャンベル、巨砲)、ソルダムプラムを植えた。北側の陶芸室の道路際は家内専用の花壇を作り、春先何を植えるか悩みながらも楽しんでくれている。白ペンキの板塀側には白樺、イヌエンジュと黒百合、えんれい草、茗荷、ウルイ、こごみ、赤茎こごみ、芝桜、水仙等々、密生して多種類を雑然と植えている。居間の南側の畑をパッチ‐1と命名し、芍薬、百合、色とりどりのチューリップ等、トマト、ナス、キューリ、キャベツ、ピーマン、ゴーヤ、カリフラワー、ブロッコリー、ズッキーニ、獅子唐、セロリ、焼き肉用のサンチュ、リーフレタス等の葉物を植え、更に家内のミントやレモングラス等のハーブが5~6種類植えられている。崖上に沿ったパッチ‐2には大蒜、アスパラ、じゃがいもと大根、畑の端一列には、ヒヤシンスやチューリップを敷き詰める様に植えている。炊事場・風呂場側のパッチ-3にはラッキョウ、大根を植えた。

ニラ、ミツバ、ネギ、シソ、独活、山わさび、行者大蒜は特に手入れはしていないが、毎年自生し我が家の自給率アップを手助けしている。家内と領土争いをしながら楽しんでいる。雪が融けはじめ、最初の植物は蕗の薹(春一番のてんぷらになる)、二番目がこごみ、スノーフレーク、クロッカス、ヒヤシンス、水仙、鈴蘭、ノウゴウいちご、タイム、ミント、ルピナス、ムスカリ、ナスタチーム、マリーゴールド、ひまわり、バラ、ドウダンツツジ、アネモネ、コスモス等約束した様に律儀に咲き、楽しませてくれる。

庭木も蝦夷山桜、イチイ、トドマツ、ドウダンツツジ、エゾヤナギ、イヌエンジュ、白樺、ブルーベリー等も風避けや果実としても楽しませてくれている。

1)日常生活

 希望ヶ丘団地(海抜80mくらい?)は国道36号線に沿った立地に在り、車さえあれば便利な所である。高速道路もあり、10km圏にJRの駅も2か所、郊外には国道274号線(札夕線)、国道12号線もあり、交通網は整備されている。しかし、北広島市としての交通機関は無く、中央バスが朝夕の通勤・通学時に乗り入れているだけで、それ以外の時間帯は2時間間隔でしか利用できない不便さである。市には40年前からJR駅やショッピングセンター、市役所等、主要な市域にアクセスする為の循環バス(マイクロバス)を要求し続けているが、いまだ実現に至っていない。理由はマイカーの普及が進んでいる為、利用者がいないと判断している様である。近所を見ると、一人1台マイカーを所有している様だし、必要性が無いのかも知れないが、年寄りが一人で自由に出歩けないのも事実の様である。わが家から一番近い店は1km先のセイコーマート(コンビニ)、郵便局は1.5km、食品を1週間分買い込む時は、8km圏内の生協、大曲の三井住友アウトレット、ジョイフルのホームセンター、札幌市清田区の西友やジャスコを利用している。中元・歳暮は25km先の札幌三越を利用している。客が来た時は北広島市内には気の利いたレストランは無いので札幌まで出かけていたが、今は自宅療養中の身なので、家内の手料理でおもてなししている。足は燃費の良いアクアの役割で、運転は専ら家内に頼っている。月に一度は二人で札幌に出かけ、都市銀行を訪ねるついでに主にグランドホテルでランチしている。趣味は、自宅の陶芸室で気が向けば作陶し、月に6日は夢プラザ(北広島市の障害学習センター)で作陶し、34か月ごとに作品として窯から出てくる。自画自賛であるが私らしいテゲテゲな個性ある作品に成りつつある。でもまだ人様に差し上げる自信はない。プレゼントの約束はしているが気に入ったものが出来なくて多くの人には口約束になっているので生きているうちに贈呈出来る様に頑張りたい、これも生き甲斐の一つになっている。

暇に任せ、新聞は隅々まで読み、読みたい本は購入し、市の図書館を利用し、インターネットで検索する等していろいろ文章を書きためている。まだ役には立っていないが、死ぬまでに小説を書き上げたいと妄想している。70歳で直木賞だったか芥川賞だったか定かでないが、受賞したご婦人(早大卒…)に刺激された妄想であるが、これも癌患者としての私の生き甲斐である。今一番楽しい事は口から食事が出来ている事と友人らと会話する事である。月23回の木ノ下庵主のホームページへの寄稿は、私の心の引き出しに未整理で集積されている諸々の知識を整理して寄稿出来るので、ボケ防止にもなっており、22稿まで来ると、引き出しから滝の様に溢れ出て来る感じで、木ノ下庵主に断わられない限り、書き続けられる妙な自信が出てきている。更に、書き続けてきた事で70歳の年齢になって、お酒の席でなく素面で初対面の人とも饒舌に話せる様になってきた。しかも、寡黙と言われてきた私がおしゃべりする事を楽しく思える様になってきた。末期癌ではあるが、ほんの少しだけ生きていく自信が湧いて来た様に感じ始めている。木ノ下庵主に感謝!

2)食生活

 今回、家内が私の看病に専念すると言って学童の先生を辞めて以来、以前は私自身で昼食、たまには夕食も準備していたが、今は全て家内の手料理に委ねている。とは言え本年626日からは、HPNのみの食事で家内の手料理にはお目にかかっていない。やっと先月27日より、家内の手作りのヨーグルトケーキ、重湯、35分粥を食べる事が出来た。涙が出る程美味しかった。現在は、より多くの食事も可能となり、もうすぐエビチリや酢豚にもお目にかかれそうである。抗癌剤の効果持続を祈りながら、身内の癌細胞にも少し分け前をやりつつ、このまま静かにしてもらう様にお願いしている。門田君が定期的に送ってくれる焼酎(二人の間では流動食と言っている)は、見舞客が来るとロックで1合くらいは飲んでいるし、何か嬉しい事、楽しい事がある時も一人で飲んでいる。ワイン、ビールは、100ml位は付き合える。いずれは、月一度くらい家内とグランドホテルの月替わりの和食を食べられる位には回復したいものである。

 

4.家内への感謝~海外旅行~

 現役時代は、サラリーマンの仕事と家庭を両立する事は困難であると実感(確信)していたので、家内には随分苦労を掛けた。退職後には、ゆっくり二人で旅行して、その労に報いたいと決めていた。世間の多くの男達も同じ事を考えて定年を迎へ、「いざ行かん!」という段階になって、奥さんには別の人生(考え)があって、離婚したり、病気になったりして思い通りに行かない事も多い様である。幸い私は平穏に家内との旅行を実行出来た。

1)旅の思い出―モンマルトルのシャンソン酒場―

セーヌ川沿いを散策後、夏目漱石も度々訪れたと言う天井のフレスコ画で有名なリオン 駅のレストランで、少し早めの夕食を取った。午後9時頃に家内の希望でモンマルトルまでタクシーを飛ばし、シャンソンを聞きに行った。古ぼけた山小屋風の酒場の一角に1012人が座れる程度の粗末な木製のテーブルはあるものの、どこにも舞台らしき場所は見出せなかった。開演となり、ぞろぞろと普段着の若い男女が入ってきて、テーブルに着席するや唐突に歌いだした。場末の飲み屋で世間話をしている様な歌のやり取りで、徐々に酔いが回るという演出なのか、歌手同士のボルテージもあがり、観客もその陽気な雰囲気に取り込まれた様な恰好となった。有名な「オーシャンゼリーゼ」は、日本の歌声喫茶的な雰囲気の中で皆が一体になって歌った。国籍の異なる客も歌手もみんな笑顔で、家内のお蔭で思いがけず幸せな時間を共有する事が出来た。心和む、楽しいパリの一夜であった。

そうそう、思い出した、確か、ラパンアジルという名の酒場で坂道の中腹にあった。

2)旅の醍醐味~未知の人との交流

  友人に会う為にチューリッヒより列車でスイスの山々の景色を見ながらジュネーブに行こうと計画していたが、家内のたっての希望により、先ずパリで二日間を過ごす事にした。セーヌ川を中心とした世界遺産の街並みや風景は誰もがイメージ出来ると思う。パリの素晴らしさは今更云うまでもないが、私はむしろ人間に興味を覚えた。何処でも誰もが必ず「ボンジュール」、「ボンソワール」、「メルシー」と挨拶する。ホテル、飲食店のスタッフ、タクシードライバー、犬と散歩中のパリ市民等の対応は丁寧かつ親切で、その時の年配のご婦人だったが、笑顔がまた素晴らしい。昔は日本人も誰もが普通に挨拶し、他人にもとても親切であった。

パリからTGV(新幹線)に乗り、イスラム系仏人の家族や二人連れのご婦人、一歳五ヶ月の男児を連れた若い母親等と一緒になったが、ちょっと話し掛けると、それぞれが、少しはにかみながらも、なんともいえない笑顔で我々と楽しい時間を共有してくれ、旅の楽しさを倍加してくれた。レマン湖畔でさりげなく写真を撮ってくれる人、券売機で切符の買い方を教えてくれる老婦人、ポストを探していると丁寧に教えてくれる喫煙中のマダム、レマン湖岸に小さな小島があり、そこに偶然、ルソーの銅像があり、家内はとても感動する等々、二人旅ならではのサプライズであった。更に歩いていると沖合に噴水があがり、これはジュネーブのシンボルと言えるジェット噴水(ジェドー)で、ここでも通りがかりの人が写真を撮ってくれた。10分くらい歩くとセラミックセンターがあり、入ってみると中国や日本の陶磁器が展示されており、手に取って鑑賞していると受付の大柄の女性に注意された。いろんな出会いがあり、やはり旅の醍醐味は未知の人々との出会いや楽しい交流にある。心に残る良い旅であった。WHO(世界保健機関)の屋上から見たレマン湖の対岸にそびえる夕暮れのモンブランも忘れられない風景であった。

3)ローザンヌ・トワリの朝市

 ジュネーブ駅で往復乗車券を買って特急電車に乗り、60km位の距離を約40分かけてローザンヌに行った。車窓から見える景色は2月とは思えない暖かさで、車窓左手にブドウ畑、右手は陽光で水面がキラキラ光るレマン湖であった。ローザンヌはレマン湖北岸に位置し、大きく3地区に分かれていた。我々は先ず中央駅を背にして丘の上の旧市街に向かって急な坂道を登って行った。商店街を過ぎると丘の上に聳える12世紀頃に建造されたと言うノートルダム大聖堂が見え、立ち寄る事にした。スイス屈指のゴシック建築の傑作といわれ、建物の中には直径9mのステンドグラスのバラの窓はとても印象的であった。虎の門のサントリーホールで初めて見たパイプオルガンに似た年代物も印象的であった。ただ、観光シーズンではないのか、室内は薄暗く全体が古びた印象であった。外に出ると市内を展望できる展望台があり、眼下には下の方から聖堂まで続く石段があり、登り口にマルシェという看板があった。現在市場として機能しているかどうかは判断出来なかった。中央駅と大聖堂の間はフロン界隈と言い、夜は若者で賑わうエリアの様である。更に坂を上り、官庁街の様な落ち着いた雰囲気の平地をぶらぶらして、坂を下り、駅に戻る途中に中華料理店を見付けたので、ラーメンを食べた。帰国後調べると、この中華料理店はスイス一美味しい中華を食べさせる店という説明があったが…? 帰りの時間まで駅の反対側、レマン湖畔ウシー界隈のホテル街、住宅街、湖畔の公園を散策して、ケーキ店で買い物をしてジュネーブ行きの電車に乗った。何の予備知識も無かったので、ただローザンヌを歩いたと言うだけの事であったが、結構のんびり出来た。

ジュネーブからバスに乗りフランス領のトワリ村に向かった。乗車券は自動販売機で購入するタイプでスイスフランが必要であったが、持ち合わせがなくてユーロを交換して、バスに乗り、国境でフランスのバスに乗り換えるため、日本でいう道の駅で待ち時間2時間以上過ごした事で、乗車券が無効になったが、何とか運転手は笑顔で、旅行者という事で受け取ってくれた。友人宅への最寄りのバス停で降り、夕暮れ時の無人の道路をのんびり歩いて帰った。食事は現地の赤ワイン、焼きチーズでもてなしてもらった。翌朝、近くの朝市を案内してもらい、タッパ容器入りの臭いチーズを土産に購入した。トワリはホテルが1件、スーパーが1件あるくらいで、とても静かな村と思っていたが、朝市やスパーマーケットの人の賑わいにはびっくりさせられた。国境の村で、スイスよりフランスの方がかなり物価は安いという事で、ジュネーブ側からの買い物客が多いと言う事であった。友人宅の裏側にある1500mのジュラ山脈は登頂したかったな~。

4)イタリア旅行

  初めてのJALパックで、ミラノ、ヴェローナ、ヴェネチア、フィレンチェ、ローマへの団体旅行であった。我々の旅はミラノ観光から始まった。この町はB.C.4世紀前後にアルプスを越えて来たガリア人(現在のフランス人?)によって作られたと考えられている。現在イタリア発展のエンジンの役割をミラノは担っている。もともとの繊維業の伝統に加えて現代的なデザインセンスが加わりミラノの発信するファッションは世界をリードしている。ACミランが世界を熱狂させているのも、この町の経済力を背景にしての事である。ホテルの近くでBarに入り、トイレを借りエスプレッソを飲んだ。イタリア人は、カプチーノは女、子供の飲み物と決めつけていると聞いていたので郷に入らば…という事でちょっと気取ってみた。一泊してヴェローナではロミオとジュリエットの建物を見て、途中、道の駅の様な土産店で珍しい形のパスタを買い、ベイサイドの近代的なホテルに一泊し、翌日、渡船に乗りヴェネチアに行った。船着き場から見えるサンジョルジョ・マジョーレ教会は、先年小泉首相が出席したサミット会場で、とても荘厳で美しい建物であった。ヴェネチアは海底に松材を基礎材として打ち込み、その上に造られた都市という事で、よく地盤沈下しないものだと感心した。記念に定番のゴンドラに乗り、いかにもイタリア人といった若い船頭がカンツォーネを歌ってくれた。運河を一周して、その後、ツアー客らとレストランで昼食をとり、家内とサンマルコ広場の喫茶店で寛いだ。サンマルコ寺院は、外は工事中であったが、商業を通じて東方との関係が深かった事もあり、全体の雰囲気は東方を思わせるヴェネチアならではの寺院であった。土産は張り込んでヴェネチアのワイングラス2個とハンカチを買った。

フィレンチェでは「最後の晩餐」のフレスコ画を見た。修道院の壁に遠近法で描かれており、私には絵心はないが、小さな写真しか見た事が無かったので大画面に結構感動して、記念に本を買った。室内は製薬工場並みに湿度、温度管理がなされ、外気の影響を受けない様に工夫がしてあった。雨が降ったので傘を買ったが一回差すと仕舞えない代物で、これがイタリアではごく普通のインスタント傘であった。真偽の程は分からないがイタリア人は傘をさす習慣はないそうである。ここでも喫茶店に入った。翌日私達は家内の希望で現在のイタリア語の発祥の地であるシエナに行った。列車の発着については電光掲示板だけが唯一の情報で、構内放送は一切なく喫茶店で時間を潰していると鳩が飛び込んできて客の食い物を掻っ攫っていった。日本ではまず見られない光景であった。列車に乗るとガラガラでイタリア人の若いカップルを一組確認出来ただけであった。車内放送は一切なく駅に停車する度にシエナの文字を確認し続けた。シエナ駅に着くと時間もあったので市街地まで歩いて行く事にした。坂道が続き、どうにか城壁に辿り着き城内に入り、家内がJALの機内誌で興味を持った元JALCAが経営する喫茶店を探し歩いた。本来あるべき住所に喫茶店は無く、諦めてカンポ広場や市街地をぶらぶらしているうちに陽も落ち雨も降りだしたのでタクシーでシエナ駅まで行こうと思ったが、タクシーは電話での予約制で、イタリア語に不自由な私達は途方に暮れた。結局、地元の人にバス停の場所を尋ねて、どうにか辿り着いた。Barでトイレを借りようと思ったが、閉店だと言われ、近くのホテルで用を足した。フィレンチェ行のバス停で待っていたが、所定の位置ではなく隣にバスが止まったので念のために行先を確認したところ、フィレンチェ行の最終だと言う。危なく路頭に迷う所であった。2時間程バスに揺られ、フィレンチェ駅に着いた時は既に10時を回っており、クタクタで、タクシーでシェラトンホテルまで帰った。

ローマのホテルは中央駅近くの便利な場所にあって、この旅行で一番料理も美味しかった。バチカン市国は観光客で溢れていた。特にシスチーナ美術館は芋の子を洗う混雑ぶりで、ただ天井を見上げながら進行方向へ押し出されるという状態でゆっくり絵画を鑑賞する事は出来なかった。絵画は当時の絵物語で文盲の人にも理解出来る様に描かれており、キリスト教が国家の侵略によるだけでなく、荘厳な建造物やあの世を美しく描いた絵画力(どの絵も人を引き付ける名画?或いは虚仮威し?)によって言語も文化も異なった様々な地域に広がっていった事が納得できた。異教徒である私には日本の社寺仏閣の方が心穏やかになれると再認識できた。驚いたのは、絵画の修復に日本のテレビ局が協力していると聞き不思議な感じがした。市国広場の片隅にある土産物売り場に日本人のシスターがおり、家内が話しかけると、以前、小金井市の桜町病院に居たという事で、話が盛り上がっていた。夜は日本人経営の居酒屋(京子さんという女主人がいた)で少しビールを飲み、翌日は家内とホテルから徒歩でトレビの泉まで行き、コインを投げ込み、ジェラードを食べ、スペイン広場の階段を上り閑散とした公園を散策した。よく整備された公園で騎馬警官がのんびり巡視していた。ホテルまで坂道を下り、途中カメラ店でコンパクトディスクを買い、中華料理店でラーメンと餃子を食べた。ローマは石畳と坂ばかりで歩き疲れた。翌日は朝食後、家内の希望でローマの休日でのロケ地を見たいと言うので…、さっさと歩いて後ろを振り向くと家内が転んで、イタリアの年寄りに抱き起されていた。さすがイタリア人である。帰りに衣料品店で家内のオーバーコートを買った。午後、昼食は、皆で市内のレストランでピザを食べた。本来、ローマのピザ店は、午後の休み(シエスタ)が終わって町が活気を取り戻す頃やっと店を開けるそうだ。ピザ店は昼休みを挟んで営業する事はないそうで、その理由は、本格的なピザ店にはタイルで囲んだ大きな窯があり、一度火を入れたらそのまま火を落とす事なくずっと営業し続けるからだそうである。だから夜中まで営業するピザ店は夕方になってやっと腰を上げるそうである。そんな事は関係なく美味しかった。ローマは是非もう一度訪れたい都市であった。

上記は家内との二人旅であった。息子がそれぞれ中学2年生になった1223日から4泊5日で長男はソウル、次男は台北、3男は上海、4男は北京、大連に連れて行った。子供それぞれとの最初で最後の海外旅行であった。子供達には旅行先は戦前の日本の領土だった事、日本が侵略し、迷惑をかけた国である事を事前にレクチャーして連れて行き、小遣いを持たせ単独行動させた。親としては心配でドキドキしたが、子供達は逆カルチャーショックを数多く経験した様でその後の成長に良い影響があった様に思う。それに留守の兄弟、祖母等にお土産買っていたのには何故か我が子ながら優しい子に成長したなと感心させられた。親も楽しめた隣国の旅だった。韓国や台湾では親しく日本語で語りかけてくる人にも会い、戦前の日本領土であった頃を懐かしんでいる様にさえ私には思えた。中国でも旅行者だった事もあるのかもしれないが何処に行っても親切だった。国民同士は仲良くて、政治家、マスコミが歴史認識等と深く勉強もしないで、事を大きくして我欲を満たしているのだろうか。国のリーダーとして国民を守り、豊かな国造りが出来ずに、過去のしかも100年以上前の戦争を持ち出して間違った反日、抗日教育をやっている様な国では未来に向かっての隣人関係を築き上げる事は難しいだろうな。もっとテーブルを囲む機会を増やしてそれぞれが主張する歴史のどの部分に問題があるのか冷静に話し合えば何処がずれているのか理解しあえるのではないだろうか。事実ではない感情的な所でいつも争っている様で仕方がない。ちょっと主題とずれてしまった様だ。

 元に戻す。元気になったら、家内とロンドンと再度パリ、ロサンゼルスとサンフランシスコに行ければと思っている。何とか実現したいな~。私の最後の望みを叶えるには、主治医が期待している分子標的薬のラムシムマブに頑張ってもらうしかない。

以上 2014923日    No22へ     No.24へ