1.自己紹介 20131112日 

私の名前は、鵜木一任(うのき かずと)と申します。鵜木の名前のルーツは地名に因んで起こったもので、一つは、筑前国朝倉郡鵜木、一つは、武蔵国荏原郡鵜木であります。

・筑前国朝倉郡(現在の福岡)に鵜木の地があり、この鵜木は鎌倉時代の初めに豊後国に移った大友氏より分家しています。この大友系図の中に、我が家の始祖と考えられる鵜木四郎親矩が記されております。

・武蔵国荏原郡鵜木邑の地に武蔵七党の江戸氏より分かれた鵜木があります。更に遡ると秩父党の江戸氏、即ち鵜木の本姓は桓武平氏で、秩父党は坂東平氏の棟梁という名家で、鎌倉幕府の御家人として高名でした。鵜の木の地(現在の大田区)に光明寺があり、そこに江戸氏の菩提所があり、米谷文書に江戸氏の一族として六郷、鵜木、丸子、鎌田、原の五家があり、鵜木は江戸太郎重長の直系の子孫であることが確認されています。

 

鵜木家家系

先祖が鎌倉時代に西へ下った事は間違いなく、同時に、薩摩の島津も京都に居て守護に任命され薩摩に下向したとされています。

私の感覚ですが、昭和38年春に上京した折、池上線に「鵜の木」駅があり、大変懐かしく思ったことがあります。根拠は無いものの、まさにデジャ・ビュ(既視体験)であり、私の先祖は関東より九州に下ったことは間違いないと確信しました。鵜木姓を先祖とした子孫は、秋田、福岡、東京に現存しており、その証拠として現在も以下の地名及び遺跡等が残されています。

1.秋田県男鹿市鵜木字松木沢境90番地、鵜木小学校

2.福岡県朝倉郡杷木町、鵜木城

3.福岡県、鵜木村 重要文化財、鵜木祭り

4.宮崎県高岡町、町指定有形文化財「鵜木橋」(石橋)

5.東京、雪谷大塚町14-13、都指定文化財、鵜木大塚古墳

6.東京、大田区鵜の木、鵜木祭り

 

薩摩国(鹿児島)への移住の折はかなり高い地位にあったと思われます。鵜木一族は国分に居を定め、明治維新まで島津家に組み込まれました。身分については定かでありませんが、唯一、第二次大戦後までは戸籍に氏族と記されていました。残念ながら第二次大戦で我が家は焼失し、全てが灰となり証拠と言われるものは何もありません。ただ、我が家にある大西郷物語の書籍の中に明治維新の下士官で鵜木昌記と言う名があるくらいで、今となっては私の曽祖父と思われますが、真実は詳らかでありません。父、昌冶(明治30年―昭和44年)は国分市向花に生まれており、現、鹿児島商業高校を出て英語教師として数年奉職し、その後、燃料業に転進し戦前には一時代を築いています。鹿児島市市議会議長の職にもあり、市の発展に大いに貢献したと聞いています。

昨今は自分のルーツに無関心な人が増えていますが、人としての一番の使命は、子孫に命を繋いでいく事ですので、皆様にも是非一度、先祖・祖先のことを大切に考えて頂ければと思います。これで自己紹介が終わった訳ではありません。皆様にとっては私の自己紹介など他人事で関心は無いと思いますが、本論に入るまでにもう少し私の独り言にお付き合い下さい。

 

私は、昭和19919日、鹿児島市山下町で出生。生まれて間もなく霧島の田口に疎開し、昭和20年11月に出水に引っ越し、4年間過ごし、昭和24年の暮れに鹿児島に戻りました。生家の山下町ではなく中心地から離れた甲突川河口近くで、薩英戦争時に砲台を設けられた天保山公園の近くでした。

小学校には、兄・姉と同じ鹿児島大学教育学部付属小学校に行かせたかったようでしたが、籤運悪く入学出来ず、昭和26年鹿児島市立八幡小学校に入学しました。幼稚園を出ていませんでしたので、自分の名前も書けず字も読めませんでした。勉強に関心を示さない子でしたが5年生になると、現在ブエノスアイレスにいる友人の影響を受けてか、成績は上の方になり、NHKの劇団の試験には受かるし、相撲も強くなりました。6年生になって柔道を始め、それまで引っ込み思案な子であった私が、精神的にも肉体的にも自信をつけ、徐々に大人としてめざめ始めました。

中学は、家の近くの天保山中学校に進みました。柔道優勝、相撲大会優勝、生徒会活動、混成合唱団で全国第3位、成績優秀、卒業時には県よりスポーツ功労賞の表彰を受ける等々、華々しい時代でありました。

高校は兄二人(一中、鶴丸)が通った鹿児島県立鶴丸高校に進学しました。

一高女の校舎だっただけに石造りの年代物で3年生時の教室は3階で、戦前、昭和天皇が宿泊されており、壁・天井・窓ガラス等、宮殿のような装飾が施されていました。質実剛健、自得敬愛、好学愛知を目標とし、行動規範は「鶴丸は勉強するところである」、「For Others」だったそうです。受験期になると商船大学を目指しましたが、父に商船は将来性がないと猛反対され、3年生の9月になってクラスメートの医学部志向に便乗して、突然医学部に志望を変更しました。担任に今の実力では医学部は無理と言われ、どうしても受けると言うなら、次の公開模擬試験の成績次第だと言われ、何とか結果を出し、受験を許されました。

高校3年時のクラスは53名で、理系大学に48名、内訳は、医学部は国立大15名、私大1名、薬学部5名(私大3名)、工学・農学系に27名で、文系に5名進学したクラスでした。

私は落ちこぼれで、結局一浪後に、東京薬科大学に入学しました。薬専門の大学に進学したことで、ごく自然に、就職は製薬企業に繋がっていきました。大学時代は殆ど勉強せず、再度浪人して医学部に挑戦すべく、意を決して父に相談しましたが、経済的に無理と言われ断念しました。

 

私の人生の基礎が出来たと言っても過言でない転換期は、昭和40年4月の大学2年時に文京区向ヶ丘、東大農学部の近くにある鹿児島奨学会同学舎に入舎した事でした。大半が東大生で、ここで3年過ごし、多くの先輩方の影響を受けて、じっくり考える習慣が付いたことは間違いありません。

同学舎の歴史は、既に110年ほど経っており、薩摩藩第29代藩主島津忠義は、明治維新の戊申戦争に貢献したことで明治政府より下賜された報奨金を育英資金の原資とし、明治39年に文京区向ヶ丘に800坪余を購入し同学舎の歴史が始まりました。寮生は東大生がほとんどで官僚志望の学生が多く、高文(現在の上級公務員試験甲種)合格者を多数輩出していました。私は、昭和40年の入舎で、この頃は老朽化の目立つ木造の北・中・南寮の取り壊し反対で、寮生は理事会側ともめていました。ここに3年半暮らし、多くの先輩の影響を受け、いろんなことを身に付けたと思っています。

 

就職は、寮生の多くが上級公務員試験を受ける環境にありましたので、私も公務員上級試験甲種を受けることにしました。難関であった一次試験に受かったものの、普通はあり得ない事らしいですが、専門科目で落ちてしまいました。就職は、4年時に中外製薬、塩野義製薬、協和発酵に内定を貰っていましたので、中外、塩野義は、研究所の大半は大学院卒であると聞き、協和発酵に入ることにしました。留年したにもかかわらず、9月からの出社でもいいと言われましたが、既に新人の社内研修は始まっていましたので気が進まず断念し、2か月間ほどブラブラしていました。見かねた父に新橋のヤクルトに面接に行くように指示されました。既に入社は決まっており、11月から子会社の日本クロレラに勤務することになっていました。仕事の内容はクロレラのタンクでの連続大量培養、クロレラのカロチノイドを利用した錦鯉の餌の開発、クロレラのクロロフィルを利用したワサビの色付け等であり、私の考えで自由にやらせてもらいました。数年後、ヤクルト本社で薬の開発を始めたいという事になり、薬学出身の私がピックアップされ、近畿ヤクルト製造()の西宮工場に出向させられ、私のライフワークともいえる医薬品開発の仕事が、この日から始まりました。

 

乳酸菌の医薬化、大学時代の友人が持ち込んだ喜樹(植物アルカロイド)の抗癌剤の可能性調査、医薬品の再評価対応等、忙しい毎日でした。医薬品部での業績の主なものを時系列に示しますと

・昭和48年;近畿ヤクルト製造()西宮工場開発研究室にて、乳酸菌飲料の過大広告に対する東大生協の質問状に対する資料作りと対応、乳酸菌の医薬化申請書類の作成

・昭和50年~59年;処方箋薬の乳糖分解酵素製剤、一般薬のヤクルト整腸薬の申請と許可、治験薬の乳酸菌(LC9018)、抗癌剤CPT-11の特許調査、導入品の企画・折衝

・昭和58年;乳酸菌製剤及び消化酵素製剤の医薬品再評価対応資料の作成

・昭和61年~63年;経口・経管流動食の開発、後にカロリアンの商品名で発売。

・平成2年;会社の強い要請で免疫療法抗癌剤LC9018「レモナール注」申請

・平成4年~9年;札幌へ初代所長として事務所開設、CPT-11の研究会運営、北海道内のカンプト市場の構築、発売時の市場開拓、併売会社第一製薬との折衝、BL整腸薬発売

・平成9年;本店勤務、富士薬品よりボルビックス注、ボルビサール注を導入発売、AFT導入、シスプラチンマルコ注を名古屋のマルコ製薬より導入

・平成11年;薬制情報部部門長で異動、抗癌剤の市販後調査、GCP監査、厚生省対応、社内IBR委員会会長

・平成12年~169月末;医薬品開発、松本製薬よりアロエ錠MYを導入発売、抗癌剤フルタミドの導入検討

・海外出張:米国ロサンゼルスでの学会、独逸ミュンヘンでの学会、現地の企業でプレゼン、上海での市場調査

 

業績の中で特に感慨深かったのは、抗癌剤「カンプト注」の開発に携わり、新薬として国内、海外に発売出来たことでした。この時、将来まさか私が関与した抗癌剤「カンプト注」およびライセンス担当として導入した「シスプラチンマルコ注」に癌患者として会いまみえるとは夢にも思いませんでした。特に、カンプト注は日本初の正真正銘の新薬(我々製薬業界人はピカ新と呼んでいます)を少し自慢方々紹介させて下さい。

喜樹に含有されるカンプトテシンは細胞毒性を有する植物アルカロイドで、強い抗癌作用があることは以前から知られていました。1960年代に米国を中心に抗癌剤として研究開発され、その毒性と出血性膀胱炎の強い副作用のため開発は成功しませんでした。国内では塩野義製薬が同様の理由で、スクーリニング段階でドロップアウトさせていました。塩酸イリノテカンの作用機序はDNA合成に関わる酵素でトポイソメラーゼⅠを阻害することにあり、癌細胞の増殖を抑制するというものです。1991年に厚生省に製造承認申請し、1994年に許可され商品名「カンプト注」として、全世界に供給することが出来ました。米国、国内大手の企業が出来なかったことを製薬企業としては新参者のヤクルトがピカ新として上市出来たのです。

許可された時、胸が熱くなったことを今でも忘れられません。このことでサラリーマンとしては燃え尽きた感があり、60歳定年時の退職はゆるぎないものになりました。

発売後故郷の新聞社のインタビューを受けて以下の内容で新聞記事になりましたが、読まれた方もおられることと思いますが紹介させて頂きます。

 

「ヤクルト本社医薬品部開発担当責任者の鵜木一任さん(57)=鹿児島出身=は“病院を回り医師の話を聞くたびに、早く癌に効く薬を世に出さなければと思う”と話す。現在30数人のスタッフと抗癌剤などの開発にいそしんでいる。「20世紀最後の新薬」と言われる抗癌剤を早期に申請するために第一製薬と組み、1994年に承認を得た。卵巣がんなど4種類に効くとされたが、当初、国内ではあまり評価されなかった。現在は胃癌などを含む9種類の癌に効用があるとされ、日本で30億円、アメリカとフランスで会わせて数百億円を売り上げる。「乳酸菌メーカーから抗癌剤を上市出来たことは我々の誇り。年商の1%にも満たなかった医薬品部門が10%まで伸びて社を支える存在になった」と同部門の成長にリーダーとして嬉しそうだ。八幡小学校、天保山中、鶴丸高から東京薬科大に進んだ。同大卒業後、1968年に入社。医薬品開発、札幌営業所初代所長、薬制情報部長など歴任し、2001年から現職。小金井市に妻、三男、四男と4人暮らし。

 

この記事を見た患者さんよりの問い合わせ。

鹿児島県串木野市出身、61歳、今夏胃癌手術を受けて来春2月の術後、半年検査、以降半年検査継続の予定です。グループに財団コンフォート病院(ガン免疫ドック)を持ち私の勤務先でも有料老人ホーム内に診療所開設経営中ですので高齢者のガン手術後、または手術回避で抗癌剤投与や健康食品利用の人のことを見聞き致します。

再度の問い合わせ。

鵜木さんのメールをプリントアウトして11月22日弊社のグループ財団法人コンフォート病院理事長(医師)に見せます。鵜木さんのご説明は私素人には難し過ぎますので解説と案内を頼むつもりです。理由は主治医の教授と理事長が私の胃癌手術後再発可能性を封じるために術5年後100%確保を狙いおだやかな抗癌剤服用検討中と聞いておりまして来春2月の術後6カ月検査前後にトライするか、トライするとすれば如何なる抗癌剤か、個人差含む副作用最少対応など相談する旨予めの案内を受けておりますので鵜木さんのインターネット記事を拝見して送信した次第です。重ねてご多用中敏速ご返事に感謝しますとともに、今後主治医教授、理事長の説明、案内で貴社、第一製薬タイアップの薬に世話になりそうかご返事もうします。

 

私の回答。

一般名を塩酸イリノテカン(ヤクルト:カンプト注、第一製薬:トポテシン注)と申します。効能としましては胃癌、肺癌等の9癌腫の許可を取得しております。平成6年の発売で、東海大学伊勢原病院には第一製薬の「トポテシン注」が納品されております。本来両社の約束事では大兄の問い合わせにつきましては第一製薬が対応・回答することになっておりますが、郷土の先輩ですので小職よりお答えいたします。どのような内容をお知りになりたいのか文面では分かりませんが…基本的には主治医あるいは薬剤部にお聞きになるのが宜しいかと思います。大兄の胃癌は薬物療法ということではなく、切除出来たという事ですので、経過は良いのではないかと推察します。併用化学療法としましては、従来はマイトマイシン+テガフール、MFC療法、MTX+5FU交代療法、イリノテカン+シスプラチン、ティエスワンの単独、5FUの持続点滴靜注が試みられており、いずれ近いうちにどの療法が一番胃癌に効くか、きちんとした評価が発表されると思っています。

札幌勤務の頃、市場導入において、医師には効果よりも副作用を重点にしてプレゼンしたので「ヤクルトは病院にカンプト注を導入し使ってもらいたいと思っているのか?」言われ、とても苦労しましたが、結局この素人の真摯な気持ちが功を奏して全国で癌治療できる病院に採用され使われるようになりました。

北海道でのカンプト注の市場開拓では第一製薬との併売、他抗癌剤メーカーとの競争でとても忙しい思いをしました。社員を教育する一方で、カンプト注の市場導入は、癌領域担当者と医薬情報担当者(MR)と隈なく各地を回り、会えない医師にはあらかじめ手紙を出し、道内の国公市立病院の全ての院長に会いに行きました。とても忙しく充実した頃であり、ラブレターも沢山出しました。代表的な2例を紹介します。

 

手紙1.道内の癌治療専門医にカンプト注の更なる普及をはかるため領域別に研究会を発足させるべくレターを送りました。

拝啓 昨今の暑さは殊の外でございますが、先生におかれましてはますますご清栄のことと慎んでお喜び申し上げます。ヤクルト創薬のカンプト注はお蔭様を持ちまして発売2年を経過致しました。又、この間にカンプト注をお使い頂いた先生方には市販後調査にもご協力頂きまして誠に有難うございました。一方、海外におきましてもフランス、アメリカで認可され、いよいよグローバルな抗癌剤として発展していくものと私自身大いに期待しております。これも一重に先生方のお力添えあっての事と心より感謝致しております。さて、CPT-11(塩酸イリノテカン)発売にあたりましては偏向したマスコミ報道にも係らず腫瘍グループの先生方のご理解・ご支援を頂きまして、道内での投与症例数は現在400症例を数えるに至りました。施設数としましては50施設でご使用頂いておりますので恐らく200名余の先生方がCPT-11に関与されているものと思っております。ちなみにCPT-11は全国で890施設、3300症例数となっております。当社のカンプト注は現在、道内30施設でご使用頂いておりますが発売当初、懸念致しておりました副作用対策も多くの先生方の研究成果の中で解決の方向にあります。その結果、奏効例も数多く報告されるようになり、先般の北海道CPT-11FORUM開催に繋げることが出来ました。しかしながら未だレジメンの確立までには至っておりませんので、道内におきましても早急に領域別研究会を発足させたいと心より願っております。今後とも先生方のお力をお借り致しまして北海道の癌治療の発展に微力ではございますがメーカーとして貢献できればと願っておりますので、折に触れてご教授のほどお願い致します。つきましては当社のMRおよび癌領域担当の者を引き続き先生の元に伺わせ、情報提供させて頂きたいと思いますので、その折は是非ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。簡単ではございますがこれまでのお礼とご報告、お願いまで。末筆になりましたが、先生の益々のご発展を衷心よりお祈り申し上げます。 敬具

 

手紙2.第一製薬と市場開拓争いをしていた平成64月に旭川医大の産婦人科教授宛に出したレターである。臨時購入という第一の常套手段を潰すため購入権限のある教授に直訴し、公正な購入手続きで採用をお願いした。その結果教授が動いてくれ、第一100mgバイアル、ヤクルト40mgバイアルの採用となった事例である。

春の訪れで街路樹や野山の木々も力強く芽吹き始め日毎に緑化が進んでおります。5か月間の雪景色をモノクロとしますと春はカラーという感じで、3年目の札幌在住となりましたが公私共に飽きることがありません。先日は先生には大変お忙しい中、カンプト注に関しまして多々貴重なご意見を賜り、有難うございました。先生とのお話の中で近い内にヤクルト・第一の開発の者がお邪魔すると申しましたが、社に戻りまして本社に確認致しました所、婦人科領域の治験につきましては近畿大学の○○先生を代表世話人とし、慈恵医大の○○先生、東北大の○○先生、名大の○○先生、帝京大の○○先生、久留米大の○○先生を世話人として全国規模で実施の見込みの様です。治験内容につきましては第Ⅰ相又は第Ⅱ相より実施の様で中旬までには概略決まると聞いています。私と致しましては道内を一つのエリアとしまして世話人を決めて頂いて、三大学に参加頂ければと期待しておりましたが、先生のお話にもありましたように三つが纏まるのは難しいとお聞きしましたので苦慮致しております。会社として考えが纏まりましたら、又、伺わせて頂きたいと思います。CPT-11は私個人にとりましても非常に因縁浅からぬ、かつ思い入れの深い薬剤でございまして、20年前に大学時代の友人が中国産の喜樹に含有される抗腫瘍性植物アルカロイドのカンプトテシンを紹介したいということで取り上げたのが医薬化の始まりでした。先ず物質についてのリサーチを国内、国外まで広げて行いましたが、当時より高い抗腫瘍活性を有することは発見されておりましたが、出血性膀胱炎、骨髄抑制等の強い副作用の為、開発が断念されていることを確認致しました。NCI、塩野義製薬が手掛けて完成に至らなかったものを食品会社である当社が医薬化を目指すことになり、その時の気持ちの高揚を今でも忘れることが出来ません。毒性を減弱し有効性の高い誘導体の合成を目指し、昭和大学薬品合成の○○教授のご指導および私どもの中央研究所の努力により、CPT-11を完成させ、臨床の先生方の評価も頂きまして平成33月に申請し、約3年の年月を要しましたが、本年1月に無事承認に至りました。薬学の道を志し、ヤクルトという食品会社にあって大変不自由な20年でしたが、やっとの思いで世界中が注目している抗癌剤を世の中に提供できる名誉に欲することが出来ました。この商品は前臨床の後半より第一製薬の参加も頂いておりますので商品は併売となりますことは先日申し上げた通りです。両社の市場導入の考え方といたしましては大学を中心にレジメンを確立し、道内に普及させていくことで一致しております。この考えは緊急時に十分に措置出来る医療施設および癌化学療法に十分な経験を持つ医師のもとで行うことを厚生省と約束していることにほかなりません。私自身は札幌に赴任しての2年間は創薬メーカーの責任を十分果たすべく社員には十分な教育を施し、決して医療関係者に情報伝達ミスで迷惑をかけないように心がけ実践して参りました。また、本年4月よりPMS対応を考え旭川にも2名駐在させ、マンパワーも質・量共に確保致しております。採用ルールのあることは十分承知しておりますが、ヤクルトとして旭川エリアの将来を考えた時、創薬メーカーとして旭川医大に口座が開けないようでは初年度から百年の計も頓挫することをご理解頂きまして何卒、先生のお力をもちましてヤクルトのカンプト注の採用のご検討を心からお願い致します。

 

私は、20年余の歳月をかけてカンプト注を上市出来た最大の要因は、鹿児島の19年先輩で、同学舎の先輩でもあった古江先生のお蔭と思っています。

昭和48年に私が医薬品の開発研究及び医薬品製造承認申請を担当した頃、当時厚生省の中央薬事審議会のメンバーであった古江先生に会い、医薬化についてのサジェッションを頂いたのが縁でありました。その当時は丸山ワクチンが話題になっていた頃で古江先生もその渦中にありました。丸山ワクチンは東大傘下の日本医科大学の丸山先生が結核患者には癌が少ないことに気付き開発したもので、昭和39年より投与が始まりました。昭和5612月より円山ワクチンは有償治療薬というそれまでに聞いたことも無い名称で例外的に投与が認められた世界で最も有名な癌治療薬でした。この薬が抗癌剤として承認にならなかったのは阪大や東大の有力な医師ら及び大手抗癌剤メーカーの反対による政治的なものでした。古江先生は当時丸山ワクチンの承認反対派の急先鋒と言われていましたが、それは決して真実ではありません。マスコミは薬の認可がどの様な約束事になっているか調べもせずに興味本位で記事にすると、この時私は認識しました。

先生は政治的陰謀に組するような人ではなく、先生曰く「要は抗癌剤開発に素人のゼリア新薬が、丸山先生が経験的に癌に効くと言っていることを化学的証拠に基づいて資料を集積して申請しなかった事が承認できなかった理由である」とおっしゃっていました。私が社内IBRの会長をしていた頃、臨床試験実施のための審査について適当なところで議論を打ち切り臨床レベルに進めようとしたとき、「鵜木さんもっと真剣に議論しましょう」とたしなめられたことがありました。このことが先生の医薬品に対する公正さを示していると思います。しかし丸山ワクチンはその後昭和51年から3年にわたって計3回厚生省薬務局から追加資料の提出を求められたものの、56年に新基準に合致しない申請内容とされ不認可となっています。そして同時期に申請された円山ワクチンと同系統の免疫療法剤ピシバニールや(中外製薬)やクレスチン(呉羽化学ー三共)は申請から2年という異例のスピードで認可されています。それぞれ東大、阪大の免疫学の第一人者と言われる有力医師の後押しがあってのことで円山ワクチンが東大や阪大のかかわりで申請されていれば第三番目の免疫療法剤として承認されていたことは間違いなかったと今でも言われています。ただ、幸いというべきか丸山ワクチンは平成3年に抗癌剤ではなく放射線治療時の白血球減少抑制剤として認可されています。一方で昭和57年から62年にかけて年間売上で900億円という桁違いの売り上げにあったクレスチンは効かないといううわさが広がり平成元年12月の再評価結果にて効果なしと判定され、その後単独での使用は出来なくなり、現在は化学療法剤との併用に限定され、かろうじて処方箋薬として残っています。そのような時代背景の中で古江先生は弱小メーカーであった我が社の為にいろいろ治験の進め方、申請ノウハウ等々、実に丁寧に指導してくださり、カンプト注の医薬化に約20年の歳月を要しましたが平成33月に申請し、平成61月に承認となりました。抗癌剤カンプト注は世界中が注目する日本で開発された正真正銘の新薬として世に送り出すことが出来ました。これもひとえに先生のお蔭でした。残念ながら先生は平成2591日に前立腺癌で亡くなられました。大変ショックでしたが、私の師として、郷土の大先輩として心よりご冥福をお祈り致します。

 

他者から見た私の性格は、従来の常識、枠組みにとらわれない自由な発想を好み、独自の価値観を持っている。興味および知識の幅は広いが、面倒なようで敢えて他人に説明しようとしない。対象と自分の間に距離を置いて物事をみる冷静さをもち、一つのことに熱狂的になったり感情におぼれたりすることは少ない。事態の変化には比較的柔軟に対処していく方であるが、内面的には周囲に左右されることなく、むしろ独立的といえる。こまごました実務的な仕事や決まりきった定型的な作業はあまり好まず、むしろ新しいことを考えたり、自由な発想を必要とするような仕事に関心を示す。対人面では消極的で打ち解けにくいところがあるため、他人から理解されにくく多少変わった印象を与える恐れがある。独自な工夫をすることも重要であるが、従来の方法に従って着実に処理していこうとする堅実な態度も必要である。

 

私の経験を通してサラリーマンとしての心得を申し述べると・・・

「働き盛りは30歳から45歳…」30歳までは研修、学会、自学自習に没頭する。品性にこだわる。識見を磨く。洞察力の必要性。上司に頼るな、自分の方が知識はあると思え。それでも上司の理解を取り付けないと、自分の仕事は前に進まないことを、日頃から考える。 仕事と家庭が両立できるとは思えない。

「今、世間では…」 大手の社長はみっともない、行政が悪い、人のせい、イラクのせいという。

明治維新の創業者は偉い! 戦争後の経営者は偉い! 二代目以降は賢いが判断力に乏しい、責任を取れない、経営の失敗を自分のせいと思っていない。

・失業率 5% ・一日約100人の自殺者 ・50歳前後でリストラあるいは給与カット、ボーナス減額 ・会社には頼れない

「会社での処し方…」 ・常にキャリアアップを心がける ・会社の仕組みを知る(昇任、異動、転属、評価…) ・手続きに精通する ・社内の登用試験は一回でクリアーする ・上司に頻繁に企画をぶつける ・コミュニケーションの徹底(ほうれん草;報告、連携、相談)

 

サラリーマン時代は、昭和43年入社時からの人との出会いは、大学病院の医師・薬剤師・栄養士、大学農学部、国公市立病院、共同研究開発、ライセンシングで会った企業、アベンティス、ファルマシア等の海外製薬企業、包装材料や資材、原料関係企業、厚生省及び都道府県の役所、ヤクルトの販売会社等、多岐にわたり、恐らく3,000人を超える人達と会い、仕事を進めてきました。これほど多くの人に会ったサラリーマンはいないだろうなと今更ながら感心しています。

 

私は、60歳過ぎてまで組織に従属したくなかった、仕事も満足のいく成果が出せた、家内が更年期を患い、転地療養を必要と感じた、北広島に持ち家があった等を理由に9月末で円満退職し、平成16年10月に移住ました。

親が子供達の住む関東圏から北海道に移住した特殊な例と周りには映ったかもしれません。会社でもラインアウト後にドイツや中国に出張していましたので、皆には残ると思われていた様で、社長との最後の昼食会で「何故、北海道に行くんだ。残ることになっていたのではないのか」と言われましたが、本心は言えずに、人事担当の常務が「奥さんの転地療養で…」と助け船を出してくれ、何とか9月末で円満退社出来ました。

家は人に8年間貸していましたので、あちこち汚れが目立ち、庭は様変わりしていました。元の状態にするのに2か月かかりました。

移住1年半後の平成18年春に夢プラザで初心者の陶芸教室に参加し、6月から参加者30名のうち15名で陶芸サークル「陶樹」を私が初代会長として発足させました。その後7年間会長を続け、3年目より作品の展示会も始め今年で4年目の展示となりました。その間地域のFM局より出演依頼を受けたり、不登校児童に陶芸を指導したり充実した7年間でした。

平成23年6月末のことです。忘れもしない胃癌の告知。平成256月に胃癌が再発したことで都合7年続けてきた会長を辞任しました。

 

とても長い自己紹介になりましたが、今後は癌告知から再発に至った経緯を縷々述べていきたいと思います。お断りしておきますが自己紹介同様、とりとめのない駄文をあちこち寄り道しながら書き続けていくことをご容赦下さい。

 

以上  2.序論へ  はじめにへ