16稿 癌と共に~国家の常識と見識~」 2014413

目 次

1.自宅でのティーエスワンの服用

2.北方領土を改めて考える

3.隣国の中国・韓国に一言

4.国際社会での日本の立ち位置

 

1.   自宅でのティーエスワンの服用

5クールが蓄積毒性により骨髄抑制が改善されず中途半端な状態で治療はペンディングとなり、318日より330日まで13日間休薬となった事は前報15稿で報告した。休薬になってから4~5日はお腹(消化管上部?)がムカムカして倦怠状態が続いたが、1週間後くらいには心身ともにすっきりした状態になった。休薬中に白血球/好中球が復活(改善)したので331日より410日までティーエスワンを朝・夕100㎎/日服用した。2日目より体がだるくなり、食事になると一口、二口で吐気・嘔吐が生じ、休み休み食事をしながら途中でティーエスワンを服用し、少し休んでから完食する日が続いた。ティーエスワンの服用についてはSP療法という観点からすると変則的ではあったが、間に休薬13日間を挟んで何とか5クールを終了した。411日より再び休薬となり、気分的な面によると思うが、食事も比較的スムースに食べられる様になった。服用期間中は、「本当に薬の副作用によるものであろうか」、「もしかしたら別の理由があるのだろうか」という疑念も生じたが、もう一人の自分は「毎朝夕、犬と散歩に出かける元気もあるし、曲がりなりにも毎回、食事も完食出来ているのだから、薬の副作用以外に考えられないじゃないか」と言う。まだまだ冷静なもう一人の私が心のバランスを保ってくれている様である。16日のCT画像の評価、21日の血液検査の結果により、今後の治療が決まると思うが、期待と不安が半々、今、渦巻いている。そして、どこかで達観している自分も居る。

 

2.北方領土を改めて考える。

日本の北方領土については幕末期の田沼意次によって北辺探検隊が作られた事に始まったと思う。「大なり北海アイヌモシリ」白秋の詩の一節であるが、アイヌモシリ(人間の大地)とは、蝦夷が島の事であって北海道、樺太(サハリン)、千島、即ち今日的表現でいえば北方領土である。この北方領土開発に着目したのが田沼意次である。当時日本は鎖国しており、欧米の列強国はアジアに植民地を設け、富を奪取しており、ロシアは南下政策を取っている時代であった。田沼意次が何故北方領土の開発構想を持ったかと言えば、一つは徳川幕府の構造的な封建的体制が農本主義から重商主義へと移行する段階で、もはや維持する事が出来なくなっていた事にある。幕府は、武士に論功によって支給すべき土地を手当て出来なくなっていた。それまで徳川家は、外様大名の取り潰しや改易等でコントロールしていたが、それも限界となり、新天地の開発に乗り出さざるを得なくなったという背景があった。しかし当時の地図は不明なものが多く、領土、国家の境界というものが、認識されていなかった。1771年、ポーランドのベニョフスキーによって、ロシアの南下政策さらには日本への侵略が報じられた。1782年、オランダ情報によるとリュス(オロシャのこと、オロシャはロシアの異称)国が、日本に陰謀を企むとある。オランダは当時のロシアの国勢がカムチャッカからクリール列島を経て蝦夷が島(北海道)に至るであろう事を予測していたものと思われる。当時ロシアはピヨートル一世(在位16821725)以来、国是として南下する方針をとり、その通路を模索していた。それはクロテンや黒キツネ、ラッコ等の動物の毛皮を求める為であった。クリール列島はカムチャッカから数珠を連ねた様に並び、全島23島から成っており、国後、択捉島及び歯舞、色丹はご承知の様に戦後より現在に至り、日本が領有を主張している。ロシアはなんとか日本への通路を探ろうとし、シベリア、アラスカで動物の狩猟とその皮革の販売を取り扱う「露米会社」の本社をイルクーツクにおき、この都市にはロシアの北方探題ともいえる政庁を置いた。ピョートル一世はロシア全土に、もし日本人の漂流者があれば国に通告するように布告して、この地に日本語学校を創設し、日本人に関する一切の面倒は政府が見ていた。最初にこうした国家の保護を受けたのは大阪出身の伝兵衛でピョートル一世に拝謁し、日本語学校の教師となった。田沼時代は進んで鎖国体制を打破し、蝦夷地を開発し、対ロシアと交渉をしようとの発想のもとに工藤平助(文化人として知名度の高い人)の「赤蝦夷風説考」(今日でも北方領土問題では貴重な資料)という資料を基に~大政策~いうなれば“日本列島改造論”に着目した。しかし1786年、10代将軍家治が急逝し、1787年田沼に変わり松平定信が「寛政の改革」と称される政策の下に緊縮政策を取り、田沼を始めその一統たる松本伊豆守、土谷宗次郎等を弾圧し、田沼政権は崩壊した。しかし田沼の政策は、北方領土の開発に目を向けその道を探求した事で後世への課題と開国に向かっての展望を開いたものとして評価されるべきものであった。最上徳内は北方の探検家としては、第一級の人物であるが、世間一般では、近藤重蔵、間宮林蔵、高田屋嘉兵衛が知られている。近藤重蔵は択捉に日本領の標木を立て、間宮林蔵は樺太と山丹の海峡を発見して横断し、高田屋嘉兵衛は国後の沖でロシアの軍艦に乗船、拿捕されて平然自若として応対したと言う知識にとどまっている。ロシアの冒険家達は日本の漂流民を案内役としてコサック隊やカムチャッカ土人を指揮しながら、次第に南下を続けた。日本語学校は首都ペテルブルグからイルクーツクに移され、樺太や千島列島、更には北海道の情報の蒐集の中心とし、それを基礎に本格的な長期にわたる探検隊の計画が立てられた。1739年に一隊は千島22島を確認するに至った。かくて18世紀半ばにはロシア人の南下は千島列島の北半部に及び、島名を改め、アイヌ人をキリスト教に改宗させ、ロシア国籍に編入し、獣皮を年貢として徴収すると言う支配体制にまで入った。ロシア人の進出の目的の一つは、北太平洋の毛皮業であり、そのために海獣猟及び土人との交易を目的とする数多くのロシア人の小企業団体が起こった。1784年、幕府勘定奉行松本秀持が蝦夷地調査の必要性について意見書を提出し、1785年調査団が出発、1786年隊員最上徳内が択捉島に渡ってロシア人に接触し、大石逸平は樺太にまで至った。徳内は山口鉄五郎らと厚岸(アッケシ)の酋長イコトイの手船で310日国後島に渡った。57日、徳内は択捉島のロシア人漂流者3人に向かって、日本は国法により鎖国している事、この島は日本の領土であり、カムチャッカに立ち去るように命じた。徳内はわが国最初の北方探検家であり、蝦夷地へ、更に国後、択捉、得撫(ウルップ)の南千島へ最初に足を踏み入れた日本人である。更にわが国歴史上最初にロシア人に接触した人物でもある。林子平が1791年「海国兵談」を出版して世に問う。子平は松平定信とはお互い直情径行の性格で気が合わない。子平は武人としての主張が強く海防には大砲が不可欠と主張し、ロシアの東方経略を説き、その勢いはカムチャッカから千島に及んでいることを指摘し、蝦夷地侵略の危険を警告した。友人である「赤蝦夷風説考」を著した工藤平助は、開拓と交易を主として、ロシアの侵略等、一笑に付した。ラックスマンの根室、江戸への来航目的はイルクーツク提督の指令書にある通り領土的野心はなく通商交渉を目的にしたものである。この時代、外国との交渉は長崎のみであった。蝦夷地の夜明けと言われる1754年、国後島は松前藩の支配下にあり、1795年、ロシアは千島の第3島得撫島に強固な植民地を建設し、第2島の択捉島をめぐって極めて接近するに至った。180496日、ロシア使節特命全権大使レザノフ(侍従で元老院第一局長の地位を占め露米紹介の代表)が2隻の軍艦を率い、この時も漂流民を乗せ、長崎の港外野母岬に停泊し、皇帝アレクサンドル一世の将軍宛親書を拝呈して通商を求めた。幕府の返答は、わが国は外国と外交、通商関係は新しく結ばない。外国船が松前と日本諸港への来航を禁ずるという日本政府の決定は既にラックスマンに伝えてある。その為、わが信牌(しんぱい、長崎来航の中国船にあらかじめ交付された貿易許可書)を与えたのであるが、彼らは法律、習慣が異なるため、この警告を理解出来なかった。しかし、今後ロシア領にて遭難した日本人についてはオランダ船で送還してもらいたい。ロシア人には、食糧、薪水を受け取り次第退去し、再び日本沿岸に近づいてはならないと日本側の意志を伝えた。日本と外交通商関係を開く為の長い準備と航海、そして長崎における不自由な滞在生活に耐えてきたレザノフにとって全く予期しない回答であった。180536日禍根を残した幕府の外交折衝は、ロシアとの通商を拒否、贈物も受け取らず、以後再航まかりならぬという厳しいものであった。食糧、薪水は供給したものの、長崎奉行は必要以上に取り締まり、遠来の客を白眼視してはばからなかった。当時、長崎に駐在していたオランダ商館長ヘンドリックドウーフは「強大なる皇帝の使節として派遣せられたる者をして、6カ月間も回答を待たしむるは実に不都合というべし」と回想録に書いている。使節レザノフは失意の底に沈み、日本に復讐する計画を立てた。そのため露米会社勤務のN・Aフヴォトフ海軍大尉とG・Iダヴィドフ見習士官を樺太、千島探検隊の指揮官に任命した。1806年、フヴォストフは部下と共にフリゲート艦で突如樺太南部アニワ湾の日本部落を急襲した。1807年、春、フヴォストフとダヴィドフが2隻の軍艦で択捉や内浦(ナイホ)、紗那(シヤナ)、留多加(ルウタカ)の各地で略奪を行い、礼文島沖では松前の商船宜幸丸、藩船貞祥丸を襲って積み荷を奪い、武器を奪い、さらに利尻島沖でも官船万春丸、商船誠竜丸を焼打ちにかけるという暴挙に出た。惨憺たる択捉島事件、大村治五平は密かに真実を後世の子孫に伝える「私残記」を残した。1808年、アレクサンドル一世の命令でフヴォストフは首都ペテルスブルグに着いた。12月チチヤゴフ海軍大臣の名において海軍省は二人が日本人に不法行為を働いた事を有罪とした。1811年、松前藩によるゴローニン逮捕事件があり、日本はロシアの南下政策(侵略)に戦々恐々としていた。ゴローニンの本来の目的は極東北辺の海域探検の命を受け、特に南千島列島の調査にあたっていたもので松輪島より列島を南下し、計吐夷(ケイト島)と、羅処和島、武魯頓島、知理保以島、新知島、得撫島、国後島、色丹島、国後島の順に測量して従来の地理学上の誤りを正す事にあり、洋上5年に及ぶ歳月を艦上で過ごして地理学上の功績を上げた。しかし、この航海で頻繁に襲う濃霧と逆風に災いされて時間を費やした為、飲料水や食料に不足を生じたので補給の為、余儀無く国後島の南端の湾に入り、捕虜として縛られ松前で23カ月間監禁された。高田屋嘉兵衛は、露戦艦に国後島泊湾で捕らわれカムチャッカに連行された。1855年(安政元年12月)、伊豆下田で、ロシア全権使節プチャーチンと幕府全権筒井政憲・川路聖謨(としあき)との間に締結・調印された条約で、ロシア船の下田・箱館寄港、薪水食糧購入を決めたほか、千島では択捉・得撫(ウルップ)間を国境とし、樺太では国境を決めず、既成事実の尊重を確認した。これが日露和親条約、下田条約である。その内容は、一、千島列島を南北に分け、得撫島(ウルップ)以北はロシア、択捉島以南は日本領土とする。 二、樺太は日本とロシアの間で境界を定めず、日本人もロシア人も自由に活動できる「雑居の地とする」と言うものであった。1858年(安政5年)日露修好通商条約は江戸で、ロシア全権委員プチャーチンと外国奉行永井尚志以下5名の幕府全権との間で締結・調印された条約である。内容は日米修好通商条約と同様で、公使・領事の交換、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、貿易の自由、領事裁判権などを決めたが、関税自主権が無い等、わが国に不利な点が多かった。

1875年(明治8年)5月、榎本武揚が特使となって調印したロシアとの国境画定条約。両国雑居とされていた樺太をロシア領、千島列島のうち得撫島(ウルップ島)以北の島々を日本領と規定した。日本としては明治政府が出来たばかりで樺太に資本投入する力が無かった為、北千島を含む全千島の領有と引き換えに樺太をロシアに引き渡した。これが世に言う樺太千島交換条約である。日露協商(日露協約)は1907年(明治40年)から1916年にかけ、4次にわたって締結された協商で、相互の勢力範囲・権益を定め、その尊重、共同防衛・相互援助を約束している。この協約はロシア革命(1,917年)により消滅した。

日露戦争(1904年~1905年、明治37年~明治38年)は、満州・朝鮮の制覇を争った戦争で、19042月国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、19053月の奉天大会戦、同年5月の日本海海戦等で日本の勝利を経て同年9月アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋により1905年のポーツマスにおいて講和条約が成立した。この条約を出発点として今日の日本、ロシアの領土問題を解決すべきと言う意見もある。この様な歴史的背景があるにも関わらず、終戦後に北方領土は不法侵入状態が続き、何の進展もなく今日に至っているのである。

 

3.隣国の中国・韓国に一言

ODAにおいては、1993年から8年間、わが国は発展途上国への援助において先進国6か国中で最大の援助国となった。特に中国への円借款、無償資金協力、技術協力等、民間の援助額を含めると6兆円以上となり、今日の中国経済発展の基礎を作ったと言える。

中国は何故か日本を未だ敵国として反日教育を続けているが、第二次世界大戦を今日冷静に考えると、欧米列強国の帝国主義や植民地主義が行き詰った事で勃発した戦争である事を認識すべきである。もし、日本という国が極東になかったら、アジア諸国は北米や中米、南米、アフリカのように列強国の植民地となり、それぞれ固有の文化も形を変える事になったかもしれない。19世紀よりイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシアの植民地支配を受けていたアジア諸国は、黄色人種の日本がシンガポールの戦いで連合国、特にイギリスに勝利した事で、白人に対する劣等感を払拭出来たことは紛れもない事実であった。この戦争で列強国の帝国主義と植民地戦争時代が終結し、日本、タイを除くアジア各国の独立を結果的に早めたことを忘れてはならない。中国、韓国にもこの無形の恩恵を受けたと感じてもらいたいものである。一方、日本は満州に王道楽土の国家をつくり、正義、自愛、寛容さをもって統治する事を掲げたが、実際、政治は不正を極め、反道徳的で、中国、韓国人への差別、虐待は日常的で、日本国(人)という権力者の一方的な施策だけであった事は大いに反省すべきである。さらに満蒙への領土拡大は、明らかに関東軍の陰謀による中国に対する侵略戦争であり、イギリスのリットン調査団の報告でも明らかにされている事を日本人は認識して欲しい。中国の人々は、欧米列強の国々が、タイを除くアジア各国を日本以上に自国の国益の為に長きにわたり植民地化していた事を認識し、忘れて欲しくない。

現在、中国の国連での分担金はGNP増により増額されたとは云え、日本の25%(67.4百万ドル、2010外務省資料)に過ぎず、それでも常任理事国として拒否権を行使できる一方で,日本は戦後68年を平和に過ごしてきたにもかかわらず、未だに連合国の敵国として国連憲章53条,107条の敵国条例に翻弄され続けているのである。

戦後、韓国は、日本の国家賠償や都市基盤整備の援助及び技術援助で、数年前からは国連の費用の2.26%を分担するまで発展してきた。中国同様に日本人が植民地主義の白人に立ち向かい、一時的とはいえ連合国に勝利した事が韓国の存立・独立に無形の恩恵を受けていると感じて欲しい。一方で日本の国土を侵略者から守るため朝鮮国を強引に橋頭保とした事実を日本人は忘れてはならない。今日、国連に事務総長を送り込んだとはいえ国際社会・国連の主要国としての義務である分担金に対する拠出金は一番少なく、まだまだ国際社会では二等国である。日本に併合された怨念が半世紀過ぎた今でも反日洗脳教育を続けさせている。国民性なのか、国内の政治状況の不安定さを保つ為の政治的判断なのか判らないが、何とか共通の歴史認識を作り上げて東アジアの主要国として政治・経済・文化面での相互発展を望みたいものである。

 

4.国際社会での日本の立ち位置

日本が国連で常任理事国を目指し、アフリカ連合の理解を得られず挫折した事は第7稿の「7.国連と日本国、2」常任理事国になる事への未練」で述べた通りである。

1)WHOでの日本の処遇

WHOが世界保健事業の国際基準策定といった幅広い任務を行っている事は知っている。数年前のパンデミックインフルエンザ警報がWHOのインフルエンザセンター長である田代眞人氏よりTVニュースでフェーズⅢをⅣに、あるいはⅤに繰り上げたとの情報提供が度々報道された事はその一例である。こだわりが過ぎるかもしれないが、送り込む人数云々よりも分担金に見合った扱いが受けられていない事に疑問を感じるのである。それが出来ない原因は、日本国の政治力の無さにあると思われるが、実は、ここでも第二次世界大戦時に連合国の敵国であった事が、今日に至っても未だに暗い影を落としているのである。WHOでは、今日までただ一度だけ、中島 宏氏が第4代事務局長に選ばれ、10年間その職にあったが、政府が力を入れていた2006年、12月のWHO事務局長選では尾身 茂氏が中国のマーガレット・チャン氏に敗れている。

2)非常任理事国退任の持つ意味

日本は2009年から10度目の安保理の非常任理事国を務めたが、その任期は2年で、2010年に切れた。安保理メンバーから外れる事は情報の量や質・スピードだけではない。一例をあげると、2006年、2009年に北朝鮮が核実験をした時、日本が制裁措置を盛った安保理決議に関わる事が出来たのは、直接脅威を感じる当事者だったからではなく、日本がその時期にたまたま非常任理事国を務めていたに過ぎなかったからである。これまでの様に国連情報を得られない状況になっても、日本は過分すぎる分担金を払い続けなければならないのか、否である。常任理事国の各国は拒否権を自国の専権と思っており、国際社会にも拒否権を持つ常任理事国への権限集中に不満を持つ国は多く、何とか早いうちに、国際社会の後押しを取り付けて、将来再度常任理事国入りを目指してもらいたいものである。それにはまず敵国条例を削除させ、国内環境を整える事である。

3)海外援助の見直し

日本は、既に借金1000兆円超の今日、先ず、借金を抱える国家を再生する為に、予算の見直し、歳出を徹底的に吟味する事である。既に高齢化は急加速し、少子化も進んでいる現状で、税収の先細りは火を見るより明らかであり、増えつづける借金の返済は不可能と思える程の金額であり、国家破綻へのシナリオを危惧せざるを得ない昨今の状況である。それでも国際社会から離脱して鎖国する訳にもいかないので、先ず、分担金に縛られずにロシア・中国並の拠出金にし、ODA事業も見直し、精査の上で国益に繋がらない援助等は排除していくべきである。さらに、他国の戦争や紛争への加担を止め、人的或は自然災害国への援助、国を選ぶ事の出来ない子供達に夢を与えられる様な援助にシフトした国際貢献を考えるべきである。

短期的には、国内に目を向け、政府の仕分け作業の中で、国連もアメリカ軍基地もODAも例外であってはならない。今後国際社会で信頼される日本を目指すのであれば無意味な無償援助を見直し、円借款・技術援助にて相互に発展する方向を模索していくべきではないだろうか。アメリカのリーマン・ブラザーズやアイスランドの最大手銀行の債務不履行が国民を苦しめたという事実を冷静に分析し、日本としての新たな金融秩序を構築し、国民が二度と不利益を蒙る事の無いようにしなければならない。

4)国連加盟の資格と常任理国のアメリカの基地

国連加盟国は全て軍隊を有している独立国家であり、にもかかわらずわが国は、自衛隊を法律上軍隊ではないという問題を内包している。故に自衛隊の海外派兵についても、常に法的判断に苦悩し、外圧に配慮し、資金供出をするだけでは国際社会で自立した国家とは言えない現実がある。戦後68年を迎えた今になって改めて自衛隊を軍隊に格上げしてアメリカとの同盟関係を集団的自衛権でより強固なものにし、一方で隣国との領土問題解決の為の外交上の決め手にしようと画策している様であるが、決して残された唯一・最善の策とも思えず、もっと知恵を出して、憲法の第9条を軸にして、真の独立国家を目指し、日本国民もいい加減な民主主義を考え直しても良い国内状況にあるのではないかと思う。軍事力や経済力が背景になく、領土問題を解決する事は難しい外交交渉であり、何かしら相手国に対して何らかの抑止力がないと、同じ土俵での交渉にならない事は明らかであるので、戦後68年、一度足りも戦争で死亡した日本国民はいない平和な国であることを盾にし、国際社会の協力・賛同を得るといった策は考えられないのであろうか。昨日(411日、朝日夕刊)、9条がノーベル賞候補に登録された記事があった。受賞候補者は日本国民という事である。もし受賞されれば、この憲法を与えたアメリカに感謝すると同時に、いろんな局面で外交上の大きなカード(メリット)にもなり得るのではないかと妄想が広がっていった。アメリカは自国の論理だけで行動し、国連への不満を莫大な滞納金でしか表現できない国であり、安保という大義名分で68年に渡り、我が国に基地を置き、無償で居座り、思いやり予算という名目の年貢まで取り立てている。政府が基地問題をどのように解決したいのか見極めにくいが、今まさに喧喧諤諤の議論の最中であることは確かであるので、安部政権となった今こそ機を逸することなく在日アメリカ軍の存在意義を議論すべ時である。政治家や評論家の大多数は日米安保によって日本の安全は守られ、今後も継続すべき最重要事項であると言っている。日本の将来を次の世代に引き継ぐ事を考えれば、いつまでもアメリカの弟分的な国家に甘受していないで、真の独立国家を目指す為に、日米安保を解消し、再出発すべきである。借金という負の遺産を次世代に遺すのではなく、国際社会に信頼、尊敬される国を創出する為に、まさに政権交代の今、政治家は、私利私欲に走ることなく、国民・国家のために粉骨砕身働くべきである。

 

5)今、考えられる事

 国連は、今やわが国が国際社会の一員として貢献できる場では無く、少し距離を置いてもいいのではないかと思わざるを得ない。大きな理由としては国連憲章で敵国とされている国、特に前述(2.国連憲章の敵国条例)の7か国の常任理事国入り、事務総長選出は過去に例がないという実情を考えると、非常任理事国に選出されることが我が国にとっては精一杯のポジションと言える。敵国とされている日本やドイツ、イタリアは経済・文化・技術面での国際的貢献は大きく、G8での国際貢献という実績もありながら、国連憲章という法律を盾に、未来永劫常任理事国にはなれず、非常任理事国になれても僅か2年の任期で、常任理事国の拒否権に影響されて、引続いて再選される資格すら無いのである。今後、わが国は、安保理の決定事項に唯々諾々と従い、多額の分担金を納め、発言権を有する事もない単なる便利な国になるのを避けなければならない。非常任理事国の任期切れを吉として、経済的困窮者が増加している今日、日米安保を再考することで真の独立国家のあるべき姿を議論し、国際貢献というばら撒きも見直し、国内の産業を活性化し雇用を促進するなど、先ず、国内の立て直しを最優先すべきである。近隣の常任理事国であるロシア、中国との関係を改善することは甚だ困難であるが、長期的な外交戦略・努力で国益を守っていくしかない状況である。最後に、国内的には、少子化、高齢化対策を短期に成し遂げ、国民が安心して生活できる環境を創出する事である。次世代が希望を持てる社会を創ることが自民党政権の最も重要な課題と考える。

安部内閣への期待と提言をするならば、国内的には、民主党が注力しようとしていた幼稚園及び保育園の待機児童及び高齢化社会に備えて特別養護老人ホームの待機者を一気に収容する敷地、施設、要員を確保、推進して欲しい。現在、厚労省の調査によると特養の入所待機者数は約42万人と増え、在宅の人は20万人、また在宅ではないが、他の介護施設に入所している約22万人もおり、真に深刻な状況に陥っている。老老介護による悲惨な事件はこの状況が背景にあると考えられ、急速な高齢化を思うと、国の対応が遅れれば遅れるほど深刻な状況になることは明々白々である。

土地や介護人材の手当てについては、少子化や高齢化を逆手にとって、学校校舎や空家の再利用、山里や過疎地の有効利用等、ありとあらゆる事を考え、机上の空論に終始し、時を稼ぐことなく、政治的英断を発揮して欲しい。幼稚園・保育園問題も同様で、少子化問題や児童手当、学費の無償化等を差し置いてでも、先ず保育園の待機児童200万人の受け入れを優先・実現することである。早期実現の一策として厚労省、文科省の縦割り行政を緩和し、幼稚園、保育園を一体化させた施設を用意することである。幼稚園と保育園が連携する施設は1,000施設程あり、厚労省も幼稚園と保育園機能を持つ「認定こども園」を推進しているが、スピード感に欠ける事は否めない。認可外保育園を組み込んだ再構築を一日も早く超党派で、国が積極的に指導し、実現して欲しいと思っている。

以上 2014413日  15.へ 17.へ